辺りは蛍光色の闇に染まっていて、いたるところに巨大な棺桶が直立している。遠くにうっすらと滅びの塔の異形の姿が見えた。湿り気を帯びた異質な大気のなかを、僕らは三人で歩いていく。
 今はもう、怖いものなんか何もない。すごく静かな心地で、僕はきっとこうなることを望んでいたのだと思う。心なんか無ければいい。僕は誰かに望まれるままに生きていく。そうすれば恐怖も痛みも感じやしない。滅びの時までを安らかに過ごせるのだ。
――地獄の騎士」
「『し』……神話のギガス」
「『す』だれあたま」
「『ま』……まるハゲ、」
「『げ』っこうかんん!!」
 僕とタカヤのしりとりは、勝手に仲間に入ってきたジンに邪魔されて終わってしまった。
 彼はまったくいつもながらにうるさい奴だ。喋りたくて仕方がないという顔をしている。僕は顔を顰めて文句を言ってやった。
「なんだ、邪魔をするな」
「何だかんだ言って、やはりジンも仲間に入れて欲しかったんでしょう」
「仕方のない奴だな。寂しがり屋さんかよ」
「ちゃうわい! もーなんでもエエから静かにしとってや! 頼むで?!」
 邪魔されたと思ったら、怒られてしまった。何だって言うんだ。僕は大分機嫌を損ねながら、路の脇に落ちていたスポーツ飲料の空き缶を蹴った。
 僕らは棲んでいるアパートから少し離れた、薄汚い広場までやってきていた。ポートアイランド駅裏のはずれだ。相変わらずろくでもない人種の人間が溜まっていたようで、植え込みに腰掛けるように、いくつも象徴化の棺が立っている。
 棺の横には飲み掛けの缶ビールや、食べ掛けのスナック菓子が置かれたままで、なんだか奇妙な光景だった。棺桶がものを飲み食いしているみたいな構図なのだ。
 立ち並ぶ棺桶の間に動くものがある。どうやら誰かいるみたいだ。覗いてやると、僕と同じくらいの年頃の少年だった。影時間の光景と人間の象徴化にひどく戸惑っているようで、植え込みのなかで頭を抱えて蹲っていた。
 タカヤが僕らよりも一歩前に出て、彼に声を掛けた。
――こんばんは。いい夜ですね」
 僕らに気付いたその少年の反応は、可哀想なくらいだった。ものすごく取り乱している。彼はぶるぶる震えながら、「これあんたたちがやったのかよ」と言った。
 僕らには影時間を創り出すような力はないが、親切に説明してやる義理もないので黙ったままでおく。どのみち知ったって知らなくたって、先はないのだ。
「我々がやってきた理由、理解していますね」
「し、知らない。ほんとだ。俺はなんにも」
「……『復讐代行』?」
「コイツはちゃうちゃう。なんやわしらとニュクスの名前勝手に使って色々やってくれたさかい、面倒臭いことになっとんねや」
「ふうん」
 僕は適当に相槌を打った。別に誰が何をして死のうが、僕には関係ないことだ。どうでもいい。
 見たことがない顔だったが、どうやら相手は僕に見覚えがあるらしい。こちらの顔を見て、すごく驚いたようだった。
「お前……二年の……F組の、学年トップの有名人?! まさかこいつらの仲間だったのか?」
「カオナシ、知り合いか?」
「ぜんぜん知らない。誰こいつ」
 僕がそっけなく突き放してやっても、少年は往生際悪く助けを求めてきた。
「そ、そんなこと言うなよ、おんなじ月光館じゃねえか……なあ、頼むよ、助けてくれよ! ここで見たことは誰にも言わない、あんたの奴隷になるよ、言うことだって何でも聞く、絶対だ!」
「まったく、見苦しい」
 タカヤが銃のトリガーを引いた。召喚器のものじゃない。本物の拳銃だ。放たれた銃弾は正確に、僕に手を伸ばしてきている少年の頭を撃ち抜いていた。
 ことが終わったあとで、ジンが呆れたように僕を見て頷いている。
「ホンマやで。命乞いしたかて、カオナシが助けてくれるわけあらへんやろが――て、何しとるんあんた」
「いや、財布もらっとこうと思って」
「悪魔やこいつ……」
 死骸を靴の先で蹴飛ばして、僕は注意深く少年を観察した。
 『月光館』というキーワードは、僕の中のなにかに触れていた。僕は確かに最近数ヶ月の間をそこで過ごしていたのだ。子供の頃もそこで過ごしたことがある。
 今となっては、それはすごく遠い思い出のように感じられた。まるで白昼夢のようにぼんやりした、うつろいやすい残像だ。
 自分がただの学生だと信じられていた間は、僕はたぶんそれなりに年齢相応の幸せというものを感じることができていたのだと思う。それなりに充実していて、それなりに気だるくて、それなりに楽しかった。僕は僕の心というものを、疑いなく信じることができていた。僕にもみんなと同じように、きちんと心というものが存在していることを。
 すごく良い夢を見ていたような気がする。でももう目は覚めてしまった。
 ぼくは名無しの貌無しだ。ドクターの遺志のままに動く、心のない作られたものだ。
――?」
 ふいに、空気を切る音を聞いて、僕はふっと身体を傾けた。腹のすぐ隣を細い棒のようなものが通り抜けていく。矢だ。
 僕は、ゆっくり顔を上げる。少し離れたところに、見慣れた顔を見つける。どろっとした薄明かりの下に、岳羽が立っている。彼女はまっすぐに弓を構えている。
 彼女の傍には、僕も良く知っている人たちがいる。順平。真田先輩に、桐条先輩。山岸と天田。コロマルもいる。――アイギスは、いない。
「ひでえ……死んでるのか?!」
「『復讐代行人』――か。ようやく見付けたぞストレガ。彼はどこだ」
 僕は歩き出す。暗がりから足を踏み出し、仲間たちの隣に並ぶ。薄気味悪いひかりの下へ身体を晒した僕を見て、彼らは息を呑んだようだった。
――こんばんは」
 僕はぺこっと頭を下げた。そして彼らの中にいるサポート役の山岸を見て、首を傾げた。
「山岸、どうして僕らに気付いたんだ? 新しい能力でも得たのか」
 撹乱は完璧だったと思う。現に、今夜まで彼らは僕たちを上手く見付けることができなかったのだ。今だって僕の肩の上に、サポート用のペルソナが常駐している。ちゃんと問題なく稼動しているのに、どういうことだろう。ちょっと落ち込む。
「……リーダー? どうして」
「ちょっと、どうしちゃったって言うのよ?! なんでそんな奴らの隣にいるのよ! 一体何をされたの?!」
「そ、そうだぜ。そのエロい格好は何よ? いくら無理矢理つったって、リョージが見たら泣くぞ!」
 僕のほうへ足を踏み出し掛けた順平を、真田先輩が掴んで止めた。
「馬鹿、近付くんじゃない! こいつ目が普通じゃないぞ!」
「失礼ですね、先輩。僕はいたって普通ですけど」
 そう、僕はこれが普通なのだ。彼らと一緒にいた頃にいつもあった、漠然と頭を覆っているもやのようなものは今はない。すごくクリアで、僕は僕自身をこの上なく正確に認識することができている。僕には希望も救いも心もないのだ。
――お前ら、こいつに何をした!」
 真田先輩が、タカヤとジンを睨んで吼えている。ふたりはすごく意外そうな顔つきをして、ちらっと僕のほうを見た。
「心外ですね。我々はただ、彼のなかの緩んでいたネジを巻いて差上げただけですよ。むしろ感謝してくれているんじゃないかと思いますが」
「おいなんか言うたれやー。わしらのせいにされとるやん、なんか」
 僕は頷き、「そういうことです」と言った。
「これが僕に与えられた役目。望まれるなら、僕はまだ生きていられる」
「……は? 頭大丈夫かよ、お前……」
「順平うるさい。ドクターの遺志が望むままに、僕は僕の新しい役割を果たすだけだ。彼が望む範囲の自律は、多分誉めてもらえるでしょう」
 僕は首を傾げて彼らを見た。みんなわけが分からなさそうな顔つきでいる。わけが分からないのは僕のほうだ。
――みんなもドクターが寄せ集めた兵隊だろう? 今更仲間割れなんかしてたってしょうがない。どのみち滅びはすぐそこにある。彼の悲願だ。なんでそんなに怖がってる?」
――これは駄目だ。話が通じる状態じゃない。仕方がない、少し痛い目に遭ってもらうしかないな」
「ッスね。ぶん殴って目ェ覚まさせてやんねえと! つか実は一回お前のこと鼻血出るまでボコボコのグチャグチャのベッコベコにしてみたかった! 親でも分かんねえくらい整形してやりたかった! ワクワクしてきた!」
「奇遇ですね、実は僕もです。今まで黙ってましたけど、あの綺麗な顔が苦痛に歪むところがぜひ見てみたかったんです」
「ワン!」
「はは、お前もかコロマル。あの人引き際を知らないから、毎晩へとへとになるまで走り回らされて実はすごく腹立ってたんだな」
「……あれ? なんか今すごく胸が痛くなった。涙で目の前が見えない」
「気のせいやカオナシ! わしらがついとるで! 泣かんでええ!」
「そうですよ、元気を出してください。あとで甘い物でも食べに行きましょう。ジンの奢りで」
「結局わしの奢りになるんかいな」
 僕は目を擦って抜き身の剣を彼らに向けた。僕が、普通の学生だったあの頃、仲間だった彼らに。
――反逆は破壊をもって沈黙させる。僕の行動を遮るなら、僕は命令のままに、君たちを排除する」
 躊躇いは無かった。僕にとっては、良くあることのひとつだった。一瞬前まで仲間だったものを殺処分するのは、彼らを統率する僕の役割だからだ。
 著しく無能である、もしくは反逆の意志がある、重大な失態を犯した、逃げ出そうとした。理由は山ほどある。僕はいつも何も考えずに召喚器を頭に突き付ける。躊躇えば僕は次の瞬間、僕の目の前で蹲って怯えたように見上げてくる彼らと同じものになる。
 命令が下れば、僕にはもう迷いはない。
 みんなはそれぞれの得物を構えている。彼らの殺気が、僕を落胆させる。彼らは抗う気なのだ。
「ほんとにやる気みたいですね。……タカヤ、ジン。これより戦闘を開始する。目標は自然覚醒のペルソナ使いが七体。はなから皆殺しにする気で行け」
『了解』
「リーダー! 止めて下さい!」
 山岸が泣きそうな顔で僕を見て叫んだ。
 でももうどうにもならない。彼らは僕たちと、あきらかに敵対してしまったのだ。
 サポートタイプのペルソナから、僕は仲間に敵の情報を送る。『S.E.E.S』のメンバーの強みも弱点も、僕は誰より知っている。しばらくの間彼らを統率していたのだ。
――『魔術師』は火炎が得意だ。ジン、弱点の疾風属性を突いていけ。『皇帝』は電撃に強いが氷結に弱い。タカヤ、頼んだ」
「……なんでタカヤにはお願い口調やのに、わしには命令形やねん」
「うるさい、口を閉じて働け。だからお前はいつまで経ってもジンだって言われるんだよ」
「おまっ、後で覚えとけやカオナシッ! 明日の朝まで一晩中『本当にあった怖い話百選』を枕元で朗読し続けたるからな!」
「ジン、やめておきなさい。それは我々が共倒れになる危険性があります」
 弱点属性を突けば、それほど怖い相手じゃない。彼らはただの人間なのだ。ペルソナの自然覚醒という特異な性質はあったが、ろくに訓練も受けていない。兵隊としては完璧じゃない。
――!」
 順平のトリスメギストスの空間殺法が、僕へ向かって飛んでくる。僕はカードを繰り、ルシファーを喚ぶ。
「お前は確かにオレらの弱点を把握してっけどなぁ……! オレらだってちゃんとお前の弱点を知ってんだよ!」
「……へえ」
 物理属性をブロックしたところで、間を置かず氷結攻撃が僕に向かって降ってくる。ちょっと予想外で、僕は体勢を崩してしまった。桐条先輩のアルテミシアだ。
「そう、一人で突っ走ってしまいがちなところが、お前の弱みだ」
「最近じゃましになったかと思ったが、まだまだだな」
 三年生たちが、まるで子供を叱り付けるような顔で僕に言った。
「そやでぇカオナシ、しっかりしてやあ。せやからお前はカオナシ言われんねん」
 どさくさに紛れてジンに仕返しされた。なんだか腹が立つ。
「ふん……サタン、ルシファーを召喚。ミックスレイド『ハルマゲドン』を発動――
 僕は召喚器を頭に突き付ける。これで全部終わるはずだ。
 もう先輩に怒られることもないし、順平に文句を言われることもなくなる。岳羽に引っ叩かれることもない。天田の半分ただの嫌がらせみたいな悪戯に引っ掛かることもない。山岸とコロマルは可哀想だけど、仕方ない。
 僕はトリガーに掛けた指に力を込める。
 でも、動かない。あとほんの少し引けば良いだけなのに、僕の身体は石みたいになって動かない。





――やめなさい』





 すごく懐かしい声が聞こえる。僕の右腕に、透明な手が触れる感触が生まれる。
 僕は目を見開いて、息を呑む。
 すごく困ったように僕を窘める声がする。僕は怒られているのだ。





『大事な友達に、そんなことしないの』





 聞いているだけでひどく胸が痛む声だ。僕が大好きな声だ。
 僕は慌てて顔を上げて腕を見る。でも彼はそこにはいない。
「……綾時?」
 僕の声は、迷子の子供みたいになっていた。ひどく不安そうで、助けを求めるような、そんなふうに。
「綾時……なのか?」
 僕には、心なんかない。あの日、綾時がいなくなった時に、僕は『こんなものいらない』と棄ててしまったのだ。
 綾時がいなければ、僕には未来があったってなんにも楽しくない。生きていたって世界中の全部が辛いことばかりだ。誰かの言うことを行儀良く聞いて、やりたくもないことばかりやって、怖いことばかりで、大好きな人のいない世界にひとりきりでぽつんと存在する。僕はそんな未来はいらない。滅びればいい。
 でも僕は、もう一度綾時の声を聞いた途端にすごく胸が苦しくなる。僕のやっていることが綾時を悲しませているんだと考えると、僕は自分の身体を焼いてしまいたくなる。
「怒ってる……のか? なんで、」
「リーダー! 綾時くんが教えてくれたんです!」
 山岸が叫んだ。彼女は相変わらず泣きそうな顔だ。すごく悲しそうに僕を見ている。
「あなたを助けてあげてって。助けてって言ってるって。お願いです、もうやめて下さい。あなたがあなたじゃないと、綾時くんはすごく悲しんで――
――ストレガに、親は、いない」
 僕はそう言いながら、口のなかがからからに乾いていることを知る。
 僕らには親がいない。孤児だ。実験のために桐条グループに集められて、使い切られて死んでいく。
 それは、何度も何度も口にした言葉だった。『親はいない』ということを改めて口にすると、僕はいつでも背中がぞわっとしたものだった。でも過去の記憶は漠然としていたから、子供の頃の僕には何ともないことだったのだ。ただ少し気分がざわざわするだけだ。
 でも僕はすごく悲しそうな綾時の姿を見る。すぐそこにいて、泣きそうな顔で僕を見ている。僕が『未来なんかいらない』、『きっとはない』、『親なんかいない』、そんなふうなことを口にすると、すごく痛い目に遭ったような顔をする。
 僕は、綾時が僕に望んだ幸せな子供になれなかったことをひどく後悔する。
 きっと僕のせいなのだ。流れていく僕自身の人生のなかで、きっと僕は何度も答えを間違ってしまったのだ。
 僕は自分の身体というものを意識する。頭から足のつま先まで、いつのまにか大きくなってしまっていた僕の身体だ。たぶん、綾時が望んだ僕の幸せな姿とは、大分乖離しているんだろう。
 そう考えると僕は自分が本当に嫌になる。嫌で嫌でたまらなくなる。たぶん僕の身体は、綾時が望まないものばかりで構成されている。
 殺意が消えると、腕は動いた。僕は頭にもう一度召喚器を突き付ける。カードをばら撒いたまま、ただ何も考えずにトリガーを引く。





――ペルソナ。僕の、無数の仮面」





 僕の身体から、影みたいに真っ黒で、どろっとした巨大な塊のようなものが沸き出てくる。
 そいつはコールタールのような身体で、無数の仮面を付けている。でも貌がない。僕には、貌がない。心がない。
 僕は目も鼻も口も付いていない自分の顔面がひどく恥ずかしいように思える。だから僕は無数の仮面で顔を覆う。
 僕は貌のない僕自身に向き合って、たぶんすごく久し振りに、綾時がいなくなってから初めて、強く求める望みを口にした。





「僕の身体を焼いてくれ」





 そして望みは叶えられる。僕の身体は炎に包まれる。熱くて、痛い。でも僕はやっと報われたような気分になる。このまま僕は僕の恐怖ごと燃え尽きて、灰になってしまいたい。
「アホオ! やぶれかぶれはアカン言うてるやろ!?」
 ジンが怒っている。彼がモロスを召喚する姿が、揺れる炎の向こうに見えた。でも彼の氷結技能も僕を焼く炎には届かない。
「馬鹿野郎が、何やってんだよ?! お前嫌じゃねーのか! こんな所で終わって後悔しねえのかよ! 来年三年に上がって、高校卒業して、ハタチになったら成人式に出て――オレらで同窓会みたいなことやってよ、酒飲んで、騒いで、」
 順平が叫んでいる。彼の言う未来を想像して、僕はちょっといい気持ちになってしまった。僕は来年の四月に何事もなかったように進級するのだ。みんな一緒だ。もちろん、綾時も一緒だ。
 僕らは相変わらず一緒に寮で暮らしている。三年生の真田先輩と桐条先輩は出て行ってしまうだろうけど、たまに遊びに来る。手土産にチーズケーキでも持ってきてくれたら最高だ。ホールで。
 そしてやがて僕らも高校を卒業する。いつのまにか二十歳になった頃に、同窓会の誘いが来る。別々の大学に進学していた僕らは久し振りに集まって、順平が言うみたいに酒を呑んで騒いでいる。
 多分順平は変わらないだろう。今のとおり馬鹿だ。大学でいくつか単位を落とし掛けている。
 岳羽と山岸も相変わらずだろう。ちょっと大人っぽくなっていて、綺麗になっているかもしれない。それに関して多分順平が余計なことを言って、また冷たい目で睨まれているかもしれない。
 真田先輩は相変わらずボクシングばかりなんだろう。桐条先輩は妙に貫禄が出ていると面白いかもしれない。
 天田はきっとすごく背が伸びているだろう。でもまだ子供なので、ノンアルコールのシャンパンを飲んでいる。「子供じゃないんですよ」と不満そうに言う。コロマルは骨付き肉にすごく満足そうだ。尻尾をすごい勢いで振っている。
 ――そこで、僕はどうしているだろう。上手く思い浮かばない。
 僕は多分、子供のころの約束のとおりに綾時と一緒に暮らしているだろう。彼はすごく料理が下手なのだ。手先も不器用でどうしようもない。「お皿出して」と注文すれば必ず割るし、包丁なんか危なっかしくて任せられない。
 だからおとなしくテーブルに着かされている。アイギスがてきぱきグラスを出しているのを、羨ましそうに見つめている。
 「いい匂いだね」と彼は言う。僕が「もうすぐだから」と言うと、待ちきれなくなってフライパンを覗き込みに来る。そしてぱっと顔を明るくして笑う。「わ、僕オムレツ大好き!」と言う。子供の僕よりも子供みたいに。
 「アイギス、綾時邪魔。あっち連れてって」と僕は言う。アイギスは頷いて「おとなしくしてて下さい」と綾時の長いマフラーを引っ張って連れてく。僕らはすごく幸せで、未来には光がある。
 ほんの一瞬のうちにそんなことを考えていると、僕は楽しくなってきて、笑おうとした。
 ありえないことばっかりなのに、すごくいい気持ちになる光景だったのだ。でも僕の顔は笑いのかたちにはどうしても動かず、ただかわりに目から涙が零れてきた。
 きっと僕はおかしいんだと思う。楽しいのに泣くなんて普通じゃない。
――りょ、じ」
 目の前が白んできた。僕はこのままここで終わる。滅びまでの僅かな時間さえ、僕にはちょっと痛過ぎる。
「ごめ……なさ、」
 僕は綾時に謝った。綾時が愛してくれたのに、僕は彼になにも返せない。幸せな子供にもなれなかった。彼がまるですごく大事な宝石みたいにして、そっと手を握り、どこまでも連れて逃げようとしてくれていた価値は、今の僕のどこにもない。
 ふいに、強い風が吹いた。
 僕の目の前に、いつかどこかで見たことがある、黒装束の異形の剣士がふわっと現れた。緩やかに滞空している。
 いくつも棺桶が繋がれた鎖が擦れる音がする。そいつは異様に長いナイフみたいな細身の剣を振りかざして、僕が召喚した、ひどくいびつなぺルソナに襲い掛かった。
 僕を焼いているペルソナは、ろくな抵抗もできないうちに、貌のあたりに剣を突き立てられた。僕の額の同じ場所に激痛がはしった。
「……あ」
 ほんの僅かの間に、僕のペルソナは無残に引き千切られ、破壊される。痛みは僕自身へと還ってくる。炎が消えて、僕は自律を失い、倒れ込んだ。
 地面にぶつかる前に、ふっと身体が浮く。抱き上げられる感触がある。
 うっすら目を開くと、僕は僕のペルソナを破壊した異形の胸に抱かれていた。
 そいつは大きな身体をしていて、ひどく冷たいくせに、僕にとても大事そうに触っているのだった。すごく大事な宝石に触るみたいに。僕は、その大きな手のひらを知っていた。
――りょーじ」
 僕の咽はもう焼かれていて、ほとんど声が出ない。でもなんとか絞り出して、僕は『彼』に謝った。その人は、僕のピンチにはいつも駆け付けると約束してくれた。僕のヒーローなのだ。何度も何度も約束は破られたけど、ちゃんと来てくれたのだ。
「ごめ、……な。僕、幸せな子供に、なれなかった。あなたの子供、失格だよな……」
 綾時が悲しそうに僕を見つめている。その貌は白い仮面で覆われていたが、僕には分かった。綾時のちょっとした感情の変化でさえも、僕には分かるのだ。彼は子供っぽくて、大分悟りやすい性質をしている。
「ややこしいなあ……そろそろお開きかな。心配せんでええで。あんたにはまだやってもらいたいことがある。じきに迎えにいくわ」
 うすぼんやりした意識の中で、僕はいくつかの声を聞いた。でも判断力がひどく低下している。僕はたぶん、死に掛けているのだ。誰の声だか上手く判別がつかない。
「ではまた後ほど、カオナシ。あなたに未来などないことを、お忘れなきよう」
「ふざけんなよ! まだ滅びるとか言ってんなら、」
「なんや、知らんのかいな。そいつの寿命はデスの凍結解除後、持って一年やて聞いた。どんな薬も、延命処置も効果あらへん。人類が滅ぼうが滅ぶまいが、どのみちそいつには関係ないことなんや」
「四月……春に、やってきたってことは、」
「来年の春までってこと……? そんな」
 急に身体の周りの大気がゆるやかに動きはじめた。影時間が明け掛けているのだ。僕を抱いていた腕も、冷たくて大きな異形の腕から、細くて頼りないものへと変わった。それを認識した辺りで、僕は意識を手放した。深い闇が訪れた。







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