そして約束の日はやってくる。
 僕と僕の仲間たちは、久し振りにみんな揃ってラウンジのソファに座っている。昨日やっと帰ってきたアイギスも一緒だ。
 みんなの顔には、選択を突き付けられたあの日のような、混乱と絶望はもう無かった。やるべきことを見付けた顔をしている。たぶん、僕もそうだと思う。生きたいとか死にたいとか、考えるまでもない。僕は今生きている。だから僕自身の終わりの日まで、僕は精一杯足掻き続けたいと思う。
 過去からも未来からも目を逸らして今だけを生きるんじゃない。僕はちゃんと未来を向いて生きたい。そこに光がなくても、僕はたぶん先には楽しいことがあると信じて歩いて行きたいと思う。
 そして、それには僕が僕自身であるという条件が絶対に不可欠なのだ。僕は僕が過ごしたどんな些細な出来事も忘れずに大事に持って行きたい。






 そして約束の通り、綾時がやってくる。
――やあ、こんばんは。もう、いいのかな」
 気後れしたふうに少し微笑み、「じゃ、彼の部屋で待ってるよ」と言う。綾時が二階へ消えると、みんなは僕の背中を叩き、「行ってこい」と言った。
「答えはもう決まりきっているだろう」
 真田先輩が言う。僕はちょっと笑って、「はい」と頷く。
「ちゃんと言えるか? んん? オレっちもついてってやろーか?」
「ほだされちゃダメよ?」
「泣き付かれても、ちゃんとイヤなのはイヤだって言うんですよ」
「ま、まあまあ、リーダー困っちゃってますよ」
「……子供じゃないから」
 順平と岳羽と天田がまたなんだか失礼なことを言う。だから僕は小さい子供じゃない。高校二年生の十七歳の男なのだ。
「今日の零時を迎えると、しばらくまた会えなくなるだろう。いい機会だと思え。少しの間だが、親子水入らずで過ごすといい」
「……すみません」
 桐条先輩も少し前に父親を亡くしたばかりだ。僕ばかりがまた好きな人と出会えて、なんだか申し訳なくなってきた。僕は謝る。先輩は笑って僕の頭を撫でた。――この人もだ。まったく、僕を何だと思っているんだろう。
 足を踏み出し掛けたところで、僕はアイギスにぎゅっと抱き締められた。「ごめんなさい」と彼女は言う。
「あなたばかり、こんな辛い目に遭わせて、もともとは全部わたしのせいなのに、」
「そんなことはない。君には感謝してる。俺が今ここにいられるのも、また綾時と会えたのも、きっと全部君のおかげなんだ。だから、ありがとう」
 僕は微笑む。「行くよ」と言う。
――きっと、まだもう少し付き合ってもらうことになるけど」
「……! はい、あなたは、わたしが守りますから」
「うん」
 僕はみんなに軽く手を振り、「じゃあ行ってきます」と言う。そして綾時が待つ僕の部屋へ静かに歩いていく。






◇◆◇◆◇





 僕のベッドに座っている綾時は、いつもと同じ顔だった。穏やかで、少し微笑んでいる。
 僕が知っている綾時はいつもそんなふうに幸せそうな顔をしていて、僕は長い間それが少し羨ましかった。綾時の世界は綺麗なものばかりでできていて、嬉しいことばかりで、辛いことなんかなんにもなくて、だからきっといつもそんなふうに、世界中がすごく愛しいものでできているみたいに笑えるんだと。
 でも当たり前だけど本当は綾時にだって苦しいことや痛いことがたくさんあって、泣きたい時や、怒りたい時や、誰かに八つ当たりをしてみたい時も、ちゃんとあるのだ。
 ただ僕には見えないだけだ。僕はどんなに辛い時にも綾時のことを考えたらいい気持ちになってしまう。綾時もきっとそうなのだと思う。そう言えばこの間順平と喧嘩をしているところを見た。綾時だって声を荒げる時はあるし、誰かに不親切な時もある。綾時はヒーローだけど、人間だからだ。
「……みんなは、僕を生かすつもりらしいね」
「うん」
 僕は頷き、「僕もね」と言う。綾時は少し悲しそうな顔をする。
「もし僕を殺すことに抵抗があるんなら、少し考え方を変えて欲しいんだ。僕はシャドウだ。人間じゃない。この姿だって、幻かなにかだと思ってくれていい。どのみち僕は今夜消える運命なんだよ。影時間に融けて広がっていく。人としての僕の死と考えてくれて構わない。――僕は、僕自身が望んでいるのは、人でいられるうちに君に殺されることなんだ。最後の我侭ってやつなのかな。もし、君が僕を愛してくれてるなら……父親として、子供として僕を好きでいてくれるなら、君の手で、……ああ駄目だな、こんな言い方」
 綾時がベッドから立ち上がり、僕の頬に触れ、じっと目を覗き込んでくる。彼の身体が変わりはじめる。僕が良く知っている姿がまるで幻みたいにふっと消え、僕よりも随分大きな、貌のないシャドウが姿を現す。
『ごらん、僕は人間じゃない』
「うん、知ってる」
 僕は頷き、「そういうことじゃないんだ」と言った。
「ちゃんと決めたんだ。僕は滅びと向かい合うよりも、僕が生きてきた影時間の記憶を失うほうが怖い。怖いこととか痛いこととか、嫌なこととかばかりだったけど――ああごめん。でもそれも全部僕の思い出だ。大事なものなんだ。ほんとは、綾時の望みを叶えてあげたい。たぶん僕が死んで綾時の怖い記憶が消えるなら、それにほんのちょっとでも長く生きられるなら、僕は喜んで綾時に殺されたいと思う。少し前までそれを考えてたんだ。僕は先のない未来なんかいらないし、もうみんなが怖い思いをしなくて済むなら、綾時を殺して僕も死のうかって。でも僕は、今はここで生きたいって思うんだ。たとえ何が相手だって、僕はちゃんと自分で向かい合うよ。こんなに何かをやりたいって強く思うの、きっと初めてのことだと思うんだ。だから僕は何も消さない」
 僕は静かに、「我侭言ってごめん綾時」と謝る。綾時はたぶん僕らのことをこのまま放っておくのはすごく心配だろうと思う。不安でたまらないだろう。きっと苦しんで死んでいくことを知った上で、目の届かないところへ放り出さなければならないのだ。
 綾時は大きな手を僕に伸ばす。そして僕を人形を摘むように持ち上げ、首にそっと指を押し当てる。
『……今の僕でも、きっと簡単に君を殺せる』
「うん」
『それでも抗うのかい』
「うん。もう決めたんだ。自分が選んだことにはちゃんと責任を持つ。これ口癖だったろ、綾時の」
『……そう。もう言ったって聞かないね。君は頑固なところがあるから』
 そして僕は大事にベッドの上に降ろされた。異形の姿は消え、いつもの綾時が還ってくる。僕と意見を違えた時の、ちょっと困ったふうな、途方に暮れたふうな顔だった。でも彼は結局最後にはいつも折れて、僕の言うことを何だって聞いてくれるのだ。綾時はちょっと僕に甘過ぎると思う。
「わかったよ。じゃ、ニュクスに会う方法を教えよう。降りようか。みんなのところへ……」
「綾時」
 僕は綾時を呼び止める。じっと綾時を見つめる。もうしばらく――きっと僕が寿命を終える春まで見られないだろう姿だ。僕は妙に緊張してきて、かなり恥ずかしくて、でも息を吸って、綾時に言った。
「……僕を、抱いてください」
 綾時の反応は特に無かった。「下へ降りようか」と言った顔のままだ。
 でもしばらくすると口をぽかんと開けて、『なにか変なことが聞こえたけど空耳だったかな』という顔をした。そして僕のことをじいっと凝視して、だんだん顔を赤らめる。やがて、耳まで真っ赤になる。
 ちょっと反応が遅すぎる。
「え……えっ? え? えええええ?!」
「……駄目かな」
「いやあの、駄目とかそんなじゃ、あの、みんな待ってるよ? 下で……いや、駄目とかじゃそんなぜんぜん、僕はむしろ大歓迎だけど、あの、いいの? あ、いやその、僕ら親子だし、この間のことは君の心の傷になってたらどうしようってすごく悩んだりしたし、いや僕はすごく嬉しかったんだけど、というか君まだエッチな本も読んじゃダメって歳だし多感な時期で、いや僕は正直すごく嬉しいんだけど、ここは父親の僕がしっかりしなきゃならないとこで……!」
 綾時ははっきり見て取れるくらい慌てていて、良く分からないことをすごい勢いで喋っている。言っていることはばらばらだ。このくらい分かり易い葛藤ってものを初めて見た気がする。
 僕まですごく恥ずかしくなってくる。頬が熱くなってくる。綾時は大人なんだから、もう少ししっかりして欲しい。
「……桐条先輩が、親子水入らずで過ごしてこいって。だから僕、綾時ともっと一緒にいたいって思って、……あ、急いでるんなら、僕はべつに大丈夫だから」
 僕は宣告者って仕事がどんなものなのか、まだ上手く理解することができていない。もし人のかたちを作るのも一苦労で、ここへもすごく無理をしてやって来ているなら、僕がここで引き止めたら綾時は辛いだけだろう。
 子供の頃に『綾時はお仕事だから仕方ない』と自分を納得させた時と同じあの気持ちで、僕はぐっと堪えた。僕はもう十七歳の男なのだ。子供じゃない。我慢するのは得意なのだ。
「……変なこと言ってごめん、綾時。なんでもないよ」
 僕は微笑んで何でもなかったことにする。
 僕は初めて綾時に抱かれたあの時、綾時にまるで初恋の女の子に触るみたいに扱われたことが、すごく気持ち良かったんだと思う。僕らはお互いがお互いのことを忘れても、どんなかたちでもちゃんと惹かれ合っていた。そのことが僕はすごく嬉しいと思う。
 僕はいつのまにか、お父さんで僕の子供っていう誰よりも近しい綾時に恋をしていた。綾時がちゃんと僕を好きでいてくれることも理解している。
 今触れ合わなくたって、綾時は僕には過ぎたものを、もうちゃんと僕に与えてくれているのだ。
「……男として、失格だね」
「え?」
「こういう時は、黙って君を食べちゃうべきだったね。ごめん」
 綾時は溜息を吐いて僕を抱き締め、僕の耳元で「僕はほんとダメだあ」と情けない声で言っている。僕はなんだかすごく居心地が悪くなってしまって、変なこと言わなきゃ良かったと後悔した。綾時は無理してるんじゃないだろうか。
「でも、辛くないのか? 無理してないか? 綾時が苦しいのは僕は嫌だ」
「人間としての本能のほうが辛いです。ごめんね、君がそういうこと言うと思わなくて、びっくりしちゃったんだ。その、君こそ僕のために無理してないよね? ちゃんと、君自身が望んでいることだよね」
「ん……僕、こんなこと考えていいのかわかんないけど、僕のなか、綾時でいっぱいにして欲しいって、」
 綾時が僕を抱く力を強くして、「ああああ」とうめいた。
「うわああん、も、君にそんなふうに言われると僕、たまんないよ……! ドキドキし過ぎて死んじゃうよ!」
「りょ、綾時?」
「僕、ほんとにほんとに君のことが好きなんだから。お父さんで、君の子供で、でも頭が変になりそうなくらい君に恋をしてるんだ」
 僕は真っ赤になる。綾時は思ったことをすごくストレートに口にする。だからあまり人に好意を向けられることに慣れない僕は、すぐにやられてしまうのだ。綾時は卑怯だ。
「あ……僕、も、これ、綾時のことが好きって、そうだと思う」
「う、うん?」
「恋って。……うわ……」
 自分で言っておいて、恥ずかしくて死にそうになってしまった。でも恥ずかしがってる場合じゃない。僕らに残された時間は、もう残り少ないのだ。僕は、今ならきっと綾時の為になんでもできる気がする。
 僕は床に跪き、綾時のズボンのジッパーを下げる。
「あ、あの?」
「……な、舐めてあげるから」
 僕は綾時を見上げ、真っ赤になって言う。『恥ずかしい』とは死ぬ程感じている。ただそれよりも、綾時に強く僕を感じて欲しいと思う。忘れて欲しくない。僕も綾時のことを忘れるなんて嫌だ。
「い、いいの?」
「うん」
 性器を取り出して口に含むと、しょっぱくて少し苦かった。心臓の音と一緒に脈打っていて、僕はまだ綾時がちゃんと人間だということを感じる。
 もうすぐきっとこの身体は消えてしまうんだろう。僕とほとんど同じ体温も、影の中に融けてしまうのだ。
「ん……ん、」
 歯を立てたりしないように、痛くないように気を付けて舌を動かす。僕も男だから、どこが気持ち良いのかはなんとなく分かる。先端を吸う。
 舐めているそばからだんだん硬くなってくるから、綾時がちゃんと感じてくれてるんだと分かって、僕はそれがとても嬉しい。
「あ、」
「りょうじ、気持ち、いい?」
「ん、うん」
 「良かった」と僕は微笑む。綾時は僕の髪を指で梳いて、「ほんとに綺麗」と言う。綾時は相変わらず今も何もかもが綺麗な世界を見ているんだろう。僕なんかまで綺麗に見えるくらい。
「……ね、あのね、すごく、気持ちいいんだけど」
「はっ、ん、ふ」
「あ……飲んで、くれるの?」
 僕はぎゅっと目を閉じて頷く。今なら僕は綾時のために何でもできるのだ。最後だから、とかは考えない。また泣きたくなってしまう。
 やがて綾時が僕の口の中に精液を吐き出す。僕は躊躇いなく飲み下す。温かくてどろっとしていて、喉に絡まるし、生臭いし、相変わらずものすごく美味しくない。でも綾時のだと思うと、なんだか僕の身体の中に彼が広がって染み込んでいくような気がして、まあ悪くない。
「大丈夫?」
「……んっ」
「今日の君はすごく積極的だね。びっくりしちゃうよ」
「綾時、」
「うん?」
「綾時が、好きだ」
「……ほんとに、びっくりしちゃう。ドキドキするよ。なんでこんな、君、かわいいの」
 綾時がぽおっとなった顔で僕の背中を撫でて、「大好きだよ」と言う。僕は頷く。僕にももっと上手い言葉が見付けられれば良いのに、僕には「好きだ」と言うだけで精一杯だ。
「さ、こっちへおいで」
「ん……」
 綾時が僕の肩を叩く。
 ベッドの上でお互い向かい合うように座って、綾時は僕の服を器用に脱がしていく。
 僕はと言えば、外そうと思った綾時のマフラーを逆に締めてしまったり、綾時のシャツの無駄に多いボタンに苦戦したり、構造の良く分からないサスペンダーをもつれさせてしまったり、散々だ。僕ばかりが簡単に裸にされてしまって、「大丈夫?」とか心配されてしまって、ちょっと悔しくて泣きそうになってきた。
 これは僕が不器用な訳じゃなくて(不器用なのは綾時のほうなのだ)、綾時の服が面倒臭いのが悪いのだ。僕も面倒臭い服を着ていれば良かった。かなり悔しい。
「ほら、そこ、右のベルト外して」
「……これ?」
「うん。ほら、ね。外れた」
「うん」
 綾時の言うとおりにすると、やっともつれたサスペンダーが解けた。なんだか難しいパズルが完成したような気分になって、ちょっと嬉しくなる。ほっとして、ぱっと顔を明るくする。
「……君、ほんとにかわいいね」
 頭を撫でられてしまった。
「りょう、」
 『子供じゃないから』と言い掛けたところで、キスされた。確かに小さい子供みたいに扱われてはいないなと僕は考える。
 押し倒されて、指で解されて、そして僕のなかに綾時が入ってくる。もうはじめてではないけど、やっぱりまだ少し怖い。
 僕がうめくと綾時は辛そうな顔をする。息ができなくて、苦しくて、でもなんとか震えるのを我慢して「大丈夫だから」と僕は言う。
――りょうじ、僕は、大丈夫。なんでも、できるから」
「……んっ」
「りょうじの為なら、なんでもできるから、」
 僕は綾時の痩せた背中に腕を回して、ぎゅうっと抱き付いて、「だから僕を忘れないで」と言う。影時間に融けて、僕のことを何でもなかった思い出にはしないで欲しい。
 僕は影に融けてしまうってことが、どういうことなのかは分からない。自分が空気のなかに広がっていく感触も。だから融けてしまった後の心がどうなるのかは分からない。
 僕はもしかしたらすごく難しいことを綾時にお願いしているのかもしれない。でも僕は、綾時に忘れられてしまったり、綾時を忘れてしまったりすることを考えると、寂しくて死んでしまいそうになる。
――わ」
 綾時が動いて、僕のなかを擦る。僕は綾時に縋りついて悲鳴を上げる。
「あっ、りょうじ、」
「行きたくない」
「りょうじっ」
「君を置いて、行きたくない」
 綾時は泣いている。子供みたいに顔を歪めて、駄々をこねている。僕は頷く。
「りょうじっ、だいじょ、ぶ。……あっ、また、」
 僕は綾時の頭を抱えて、「またいつか会えるから」と言う。これは確信だ。
「やく、そくっ」
「……んっ、そ、だよ、ねっ。約束、したもんね……」
 僕らは約束したのだ。人類と一緒に僕が滅びても、春まで生きて僕が僕自身の人生を静かにひとりきりで終えても、優しい死はきっと僕を迎えにやってくるだろう。また会える。
 きっとその時、世界中が綺麗なものばかりに見えている死神を僕は見る。その未来はすごく鮮明だ。綾時が笑って、僕の手を取り、引いて、歩いていく光景だ。どこまでもどこまでも遠くまで。
 急にぐるっと視界が回る。僕は抱えられたまま、綾時の上に乗る。僕の重みが掛かって、僕らは更に深くまで繋がる。
「あっ、りょ……」
「動いて」
「りょ、じ」
「もっといっぱい君を見せて」
 僕は頷いて、腰を動かす。綾時ので僕の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。身体が熱くてたまらなくなってきて、もう僕自身ではどうしようもない。僕は綾時に救いを求める。
「うぁ、あぁっ、りょおっ、僕、変……」
「きもちい、のっ?」
「んん、きもち、いい……っ、んっ、あぁ、こわい、」
 頭の中が真っ白で、僕が僕だってことまで忘れてしまいそうだ。僕は怖くなる。綾時の手が僕の怯えを散らそうとするように、僕の性器を掴んで、弄くる。僕はぞくぞくして、背中を仰け反らせてしまう。
――あぁっ! りょ……っ、だめっ、さわ……っあっ、あ、あ、」
「もっと僕を、感じて、お願いっ、忘れ、ないでっ」
 綾時が一生懸命僕に言う。僕は頷く。そしてすごく嬉しくなる。『記憶なんてそう大したものじゃない、影時間を忘れて穏やかに生きて』と言う綾時が、僕に『忘れないで』と言う。僕は、そのことがすごく嬉しい。
 僕の記憶は僕のものだ。もう誰にも、何にも渡しはしない。僕が大事に持っている綾時の記憶は、たとえ僕が何度焼かれたって離しはしない。
 僕のなかで、なにかが弾ける。僕は震えて小さく悲鳴を上げる。どこまでもどこまでも落ちていく。僕の中に、綾時の精液が放たれたのを、確かに感じる。身体に力が入らなくなって、僕は綾時の上に倒れこむ。
「ふ、ぁ……りょう、りょうじぃ……」
「んっ、きれい、かわいい……だいすき」
 細い腕が僕を支えて抱き締める。綾時の匂いがする。僕は泣きたくなるくらい安心する。僕は綾時にこうして触られて、抱かれて、気持ち良くなって、どうにもならないくらいにぐだぐだになってしまうのが好きなんだと思う。綾時が影時間に融けて消えてしまうんなら、僕は今このまま融けて、綾時のなかで生きたいなとぼんやり考える。
 大好きな人に融けてひとつになれるなら、それはすごく幸せなことなんだと思う。
 でもまだそいつはお預けだ。滅びか、僕の死か、ほんの少し先の未来まで、まだ僕は僕自身を生きるのだ。







――綾時、ごめん」
 僕はすごく申し訳なくなって、布団に包まって綾時に謝った。
「……動けそうにない」
 綾時はいつもどおりの笑顔で、僕の頭を撫でて髪を梳いて、「気にしなくていいよ」と言ってくれた。
「無理をさせたのは僕のほうなんだから。ごめんね。君があんまり可愛くて、僕を喜ばせてくれるものだから」
 身体が重い。確実に疲労の状態だ。もうベッドから起き上がる元気もない。
「……もう行かなきゃ」
「……うん」
「ごめんね。また、君を置いてかなきゃ。僕はいつだって、肝心な時に君のそばにいてやれない。守れない。ダメなお父さんで、ほんとにごめんね」
「ううん」
 僕は緩く首を振って、「生きて、もう一度綾時に会えて嬉しかったよ」と言う。
「話せて良かった。ずーっと言いたいことがあったんだ。綾時は、僕を助けてくれたんだ。シャドウ抑制実験の日も、手術の日も、僕は綾時と一緒に過ごした日の、たくさんの楽しいことを考えてたら平気だったよ。……ちょっと怖かったけど。だから僕を守ってくれてありがとう、僕のヒーロー。僕は綾時にずっとこうやって、ありがとうって言いたかったんだ」
「……いいの、かな。僕、そんなこと言われて」
「だって言いたいんだ。僕はきっと、あなたに出会うために生まれてきたんだと思う。あなたの子供だってことが、僕はなによりすごく嬉しい」
 僕は微笑んで、毛布の中から手を出して、綾時に手を振った。
「……さよなら。僕は何にも忘れないよ。少しでも長く、生きていたいんだ。だから僕はまた綾時のところへ行くよ」
「……ん」
 綾時はまた泣いている。
 まったく綾時はいつまで経っても泣き虫だ。僕がついていなきゃどうしようもない。このまま行かせて、また泣いてばかりいるんじゃないかとすごく心配になってくる。
 僕は手を伸ばして綾時の頬に触って、涙を拭う。
「だから、もう泣かないで。またね。元気でね。僕はいつでも、綾時のそばにいるよ。寂しくないよ。だからいつもみたいに、ちゃんと笑っててよ」
 僕は綾時に微笑み掛ける。そうすると、やっと綾時も笑ってくれた。まったく本当に、最後まで手の掛かるお父さんだ。本当は僕だって大声を上げて泣き出したいのに。







 そして僕らはまた新しい約束をする。一月三一日に、その約束の日は訪れる。僕は僕として、その日避けようのない滅びと向かい合う。





戻る - 目次 - 次へ