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ドアがノックされて、僕ははっとして起き上がる。そして、いつのまにか朝になっていたことに気付く。窓からうっすらと冬の午前の透明なひかりが、柔らかに射し込んできている。 「……あれ?」 僕はきょろきょろ辺りを見回して、のろのろ布団から這い出す。身体がひどく重く、ぐったりしている。疲労が続いている。自分の身体を見下ろすと、昨晩あれだけぐちゃぐちゃになっていたのに、今は綺麗なものだった。黒と白の横ストライプのパジャマを着ている。脱ぎ散らかしていた服は壁に吊られていた。綾時がやってくれたんだろうか? ベッドから降り、立ち上がろうとして、僕は背筋がぞわっとした。腹のなかでごぼっと泡立つような感触があって、どろっとした温かいものが滴ってくるのを感じる。僕は顔を赤くした。綾時が僕のなかに注いだ精液が零れ出てきているのだ。 「おーい、起きてっか? 生きてっか?」 「あ、え?」 ドアの外から呼び掛けられる。順平だ。僕は慌てて立ち上がろうとして、下腹部にひどい鈍痛を覚えて、へなへなと床の上に蹲った。 「なんだ起きてんじゃん。もう平気か?」 「え」 ちょっと気遣うふうな声を掛けられる。僕は徐々に顔を赤くして、絶望的なくらい真っ赤になる。なんだか昨晩すごいことをやってしまったような気がする。 綾時のを舐めて、腹に跨って腰を振って、何度も何度も好きだ好きだって言って、『気持ちいい』だとか『なかをいっぱいにして』だとかAV女優みたいな台詞を素で吐いたり、なんだかもうすごいことばっかりだ。死にたい。 だけど、一番大きな問題はそこじゃない。朝の光を浴びて大分浄化されて、僕の頭は冷静になっていた。僕は順平の声を聞く。『平気か?』と彼は言う。ちょっと心配そうだ。つまり、 「じゅ、じゅんぺ……き、きのうの、ことっ」 まさか、バレているのか。綾時が部屋を出て行った時には僕は、もうほとんど気絶するみたいにして眠り込んでいたから、下で「あいつはどうした」って話題になりやしなかったろうか。綾時のことだから僕が嫌がるようなことは言わないだろうけど、彼は大分嘘が下手なのだ。 どうしようと僕は考える。こんなの誰かに知られたら、僕はもう恥ずかしくて部屋から一歩も外に出られない。ニュクス討伐なんてやってる場合じゃない。 薄いドア一枚隔てた向こうの順平はちょっと笑ったみたいだった。 「ハハ、ンだよ、恥ずかしがってんのか? 大したことねーだろ、ンなモン」 「え」 あれは大したことないことなんだろうか? なんだか今も腹の中が綾時の精液でどろどろで、腰が立たなくて、抱かれてた時のことをちょっと思い出すだけですごくドキドキしているんだけど、これは何でもないことなんだろうか。 僕の順平を見る目が少し変わった。モテない男代表だと思っていたが、彼は僕が知らないだけで、もしかするとすごいのかもしれない。大人だ。 「そ、そうかな」 「気にすんなよ。みんなだってそーいうの一度は経験済みっての? お前はたぶん、ちょっと人より遅かったってだけじゃねーの? 良くわかんねーけど」 僕は混乱する。みんなって、みんなそうなんだろうか。血の繋がった親と寝て、大分激しくて、自分が自分じゃなくなるかもしれないってすごく不安になって、でも気持ちが良くて、僕はたぶんみんなとはちょっと違うんだろうなと思っていたんだが、そんなことはなかったんだろうか。 初めてのひとが、大好きなお父さんだって言うのは、 「いやー、それにしてもお前かっわいいとこあるじゃんなぁ、パパパパ、行かないでーって泣き疲れて寝ちゃうなんてよ。ホンット、お前ガキだわ」 僕は床に突っ伏してしまった。 ――なんだ、ものすごくびっくりしたじゃないか。 「……こ、こどもじゃ、ないから……」 「ん? ハハ、わりー。目ェ腫れてねーか? 景気付けに初詣に行こうぜって話になってんだけどさ、お前も行くだろ。 みんな着物だぜ、着物着物。お前知ってるかあれ、下パンツ履かねえんだぞ」 「え」 それは困る。履かないで出歩いたら、多分中から溢れてくるから大変なことになる。 「ま、女子だけだから。ん? お前も着たかったのか? 七五三のやつみたいな」 「……着ないでいい。子供じゃないから」 順平は集合の時間を言い置いて、ドアを開けることなく、僕の部屋の前を去った。僕がきっとひどい顔をしてるんだろうと悟って、気遣ってくれたんだろうか。素直にありがたい。今の僕は真っ赤で半泣きで、すごく情けない顔をしているだろう。 最近、みんなは前より僕に随分優しくしてくれるようになったと思う。なんだかくすぐったいが、ちょっと嬉しい。やっと僕も、本当に彼らの仲間になれたような気がする。 僕はそれからようよう立ち上がり、窓を開け、朝の空気を吸い込む。今日が新しい年のはじまりだ。シャワーを浴びて、服を着替えて、みんなと一緒に初詣に行って、僕は今日も精一杯に生きる。綾時はもうこの世界にはいないけど、僕のなかにちゃんと息づいているのだ。 僕はそっと下腹に手のひらを触れさせる。かつて綾時が十年を過ごした僕の胎内は、今は彼のたくさんの子供で満たされている。僕は男だけど、なんだか今年はありえないことでも本当に起こりそうな気がしてきた。すごく予想外のことでも、例えば綾時と僕の子供ができたり、そんな。 「そしたら綾時はおじいちゃんになるじゃん」と僕は一瞬真剣に考えてしまって、なんだかおかしくなってきて、ひとりでくすくす笑いながら窓を閉めた。 さあ、もう行かなきゃならない。 ◇◆◇◆◇ 「わ」 僕は正直驚いてしまって、息を飲んだ。女子っていうものはほんとにすごいものだと思う。着る服ひとつで、全然別の人間みたいに変身してしまう。僕みたいにペルソナをクルクル付け替えることができるよりも、よっぽどすごい能力だと思う。 「あけまして、おめでとうございます」 そう言って着物姿の彼女たちはぺこっと頭を下げた。いつも見慣れている顔ぶれなのに、僕はなんだか変にどぎまぎしてしまった。 見ると順平はもちろん、真田先輩までぽおっとしている。 僕らは長鳴神社に初詣に来ている。あちこちに出店も出ていて、賑やかな雰囲気だ。 「はー、すげえ、なー……」 「……ああ」 「うん。みんな、すごく綺麗だ」 僕は微笑んで正直に感想を言う。すると、なんだかびっくりしたような、呆れたような微妙な反応が返ってきた。全員分だ。 「リョージだ……リョージがここにいる」 「声もそのものだったな……」 「さすが親子ですね。遺伝、って、ホントにすごいですね……」 「ちょっと、お父さんが大好きなのは分かるけど、君はあんなふうに女の子に誰彼構わずいい顔するような子にならないでよ?」 「――顔が熱いです。頭部、オーバーヒート……? あれ、どうしてでしょう……」 「え……アイギス? 真っ赤だよ。あの桐条先輩、ロボットでも、照れちゃうと顔赤くなるんですか……?」 「いや、知らないぞ。聞いたことがない」 「……俺、綾時に似てたのか?」 「あー、うん。すっげえ」 僕は「ふうん」と頷いて、淡いピンクの着物姿のアイギスの手を取って、「お賽銭入れよう」と引っ張って連れていく。 「お賽銭とは何ですか?」 「うん、ほら、五円。これを賽銭箱に入れて、それから――」 何も知らないアイギスに一生懸命教えてやっていると、なんだか生温い視線を感じた。見るとまたみんながぬるい目を僕に向けている。これは本当に何なんだろう。僕は何かしただろうか。 「……なに?」 「いや、行動がまんま小学生――」 「とか言いませんよね。小学生を舐めないで下さい、順平さん」 「あっすんません」 順平と天田がじゃれているけど、僕は構わないことにして、「願いごとをするんだ」とアイギスに教えてあげた。 「願いごと、ですか?」 「うん。今年一番アイギスが欲しいものとか、叶えばいいなと思うこととか、やりたいことが上手くいけばいいなってことを願えばいいと思う」 「わたしの願いは、あなたのそばであなたを守ることです」 「うん。じゃ、それを願えばいいんじゃないか。一緒にいられますようにって」 「一緒に……」 「うん。俺たち、トモダチだろ」 「トモダチ……」 アイギスがすごく嬉しそうな顔で「はい」とにっこり笑った。僕は素直に「可愛いな」と思う。今のアイギスはどこからどう見ても人間だ。すごくあたたかい表情をしている。 みんなは僕らを見て、くすぐったいような、笑いを堪えているような顔をしている。順平なんかは我慢できずに吹き出している。失礼な話だ。何がおかしいって言うんだ。 「あなたは、何を願うのですか?」 「俺?」 「はい。願いごとです」 「うん。なんか、どうしようかな。いっぱいあり過ぎて困るけど、これから先、俺にもみんなにもたくさん楽しいことがありますように、とかかな」 「なんだ、ニュクスは眼中外か?」 「それはもう何とかなるって決まってることです。俺ちゃんと先輩たちの卒業式出ますから」 「……そうか。じゃ、ニュクスに関しては俺たちに任せておけ。お前の分まで願掛けしておいてやるさ。なぁ、美鶴」 「言われなくても、皆同じだ。そうだろう?」 「あいつが今年中にもうちょっと大人になってくれて、私に振り向いてくれますように!」 「あいつとチドリがうちの子に欲しいッス! あと綺麗な嫁サン!」 「あの人が、私に振り向いてくれますように……」 「あの人がお嫁さんに欲しいです。無理ならペットでもいいです」 「お、お前ら! 何をずるい願掛けしている!」 「落ち付け明彦。お前も「ずるい」とか本音が出ているぞ」 「あ、い、いや」 「……私も、是非彼が婿養子に欲しい」 「み、美鶴っ、お前まで……」 「問題ない。我々の分までお前が願掛けしてくれるんだろう?」 「…………」 なんだか良く分からないけど、真田先輩が貧乏籤を引いてしまったみたいだ。みんなはそれぞれ、誰か好きな人と仲良くなれるように願掛けしているらしい。僕も素直に綾時の子供が欲しいです、とか祈っておけば良かったかもしれない。神様に祈るくらいはタダなのだ。好きなことを言ってやれば良かった。 ふと僕は、僕を見つめる無数の視線を感じる。 顔を上げると、『そいつ』がいる。貌がなくて、それをすごく恥じていて、いつも無数の仮面を被っている。そいつは『カオナシ』というあだ名を付けられていて、誰かに望まれるままに、望まれることだけを行う。 無数の仮面が静かに僕を見下ろしてきている。 「――! おいっ、そいつ……!」 「薬を飲め! 早く!」 気付いた順平と真田先輩が、顔色を無くして僕を叱責した。『そいつ』は以前、僕を殺し掛けたことがあるのだ。 ポケットから薬を取り出し、僕はそいつと向かい合う。そして手のひらの上のカプセルを、ばらばらと土の上に落とす。なにやってる、と真田先輩が僕を叱る声を聞く。 「貌がないわけじゃない」 僕は静かに言う。 「心がないわけじゃない。僕は僕の心のままに人を好きになることができるし、何だってできるんだ。やりたいこともたくさんできたんだ」 答えはない。ただそいつは静かに滞空している。 「お前、僕なんだろ。僕のことが嫌いで嫌いで仕方ない僕自身だ。今更急に好きになったりするの、虫が良過ぎるかもしれないけど、でも僕ほんとに今になってやっと、お前のこと悪くないって思えるんだよ」 そして僕は手を伸ばす。 「……還ってこいよ。お前んち、ここだよ」 空に浮かぶ『そいつ』の、シャドウを寄集めたみたいな身体の真中が急に割れて、裂け目が生まれる。そうしてゆるやかに殻は割れる。 僕が抱き続けた卵が割れる。雛が孵る。 僕のペルソナには貌がない。考えてみれば、すごく当たり前のことだった。卵に貌なんてあるはずない。そいつはまだこの世に産まれてもいないのだ。 顔を出したものを見て、僕はちょっと驚いて、目を丸くする。 「――綾時?」 産まれたのは、僕が愛する異形の綾時だった。もう見慣れた大きな腕を広げ、僕を抱き締めるように包み込む。そして僕のなかへと融けて消えていく。 『産んでくれてありがとう、お母さん』 「あ……」 そして僕は気付く。 『僕はタナトス。あなたを、守る』 きっとこいつは、綾時が最期に僕に遺してくれた身体なのだ。 ずっとここにいたのだ。 僕はちょっと顔を顰め、泣きそうになるのを我慢して、「まったく心配性なんだから」と呟く。ほんとに綾時は、僕に甘過ぎる。 「――先輩、順平」 「……ん」 「おう」 僕は微笑んで、彼らに言う。 「もう、大丈夫みたいです。心配掛けてすみません」 彼らは「ああ」とか「おう」とか頷いて、「やっぱりお前のペルソナはちょっとおっかない」としみじみ言った。 |