ラウンジで寝転がってうとうとしていると、ゲームショップを覗きに行っていた順平が帰ってきた。
「ただーい……まあああああ?!」
 がたん、とすごい大きな物音がして、僕はのろのろ身体を起こす。記帳台にもたれかかるようにして、順平が顔を真っ青にしてぶるぶる震えている。
「どうした?」
「どうした? じゃねえええよ! おまっ、なにソレ?! なんでペルソナに抱っこされて寝てんだよ! 寮生以外もココ一応出入り自由な訳でして!」
「ん……自分の部屋、行くの、だるくて。……りょうじー、運んでくれー」
『お母さん、僕はタナトスです』
 僕を上に乗せてくれていたタナトスが控えめに訂正してくる。
 でも結局は命令に従って、僕を軽々と抱き上げてくれる。
 僕は僕のペルソナの王だ。彼らは何だって僕の言うことを聞いてくれる。忠実で従順なのだ。
「部屋……運んで、ベッドまで。それまで頑張って起きてる」
「こんなペルソナの使い方聞いたことねえええええ!!」
 順平が騒がしい。僕を抱いてひょこひょこ歩いていくタナトスに出くわして、真田先輩が「うおおお!」と悲鳴を上げ、危うく階段から落っこちそうになっていた。なんでそんなにみんなびっくりするんだろう。みんなだって僕とおんなじペルソナ使いなのだ。
「間違っている! お前のペルソナの使い方は間違っているッ!!」
「ッスよね!!」
 順平と真田先輩が何か言っていたが、僕の知ったことじゃない。





◇◆◇◆◇





 ここ数日、僕は奇妙にもやもやした気持ちを持て余していた。僕はもうやるべきことを決めていた。タルタロスに潜り、登って、朝起きればどこかしらに遊びに行く。新年の街はすごく静かで、冷たく空気が澄んでいて、気持ちが良い。良く見掛けるカルトの話題と影人間たちを除いて。
 僕は一言で言ってしまうと欲求不満だった。昨晩も走ったり転んだり武器を振り回したりペルソナを召喚したり、身体はもう充分過ぎるくらいに動かしていた。でも身体の芯のあたりで熱が篭ったようになっていて、微妙に気分が重い。
 今日は結局そんな体調のせいで、昼過ぎには寮に戻ってきて、僕は自室のベッドで寝転がっていた。部屋着に着替える途中で力尽きて倒れ込んだせいで、妙に半端な格好だ。脚が寒い。パジャマのズボンくらいきちんと履けば良かった。
 部屋も廊下もラウンジも、しんとしていて人気がなかった。みんなそれぞれ、限られた時間を思い思いに過ごしているんだろう。
 岳羽とはさっきポロニアンモールで偶然会った。クラスでも良く彼女といるところを見掛ける女子たちと一緒に、買い物に来ていたみたいだ。正月の大バーゲンと福袋が目当てだったらしい。「こいつをゲットしなきゃ滅びても滅びきれない!」とか言っていた。女子の買い物に掛ける熱意はすごい。この間もセール日以外に買い溜めはするなと叱られた。
 ぼんやりいろんなことを考えていても、やっぱりまず身体が熱っぽい。熱でもあるのかもしれない。風邪かなと僕は考えて、頭を振る。なんだか違う気がする。
 僕は溜息を吐いて寝返りを打つ。寝転がると、僕の頭の上にいつのまにかタナトスがいる。じっと僕を見つめている。僕はのろのろタナトスを呼んで、膝によじ登る。こうしていると、いつかすごく小さい頃に戻ってしまったような気がしてくる。僕がまだほんの子供で、綾時に簡単に抱き上げられてしまうくらいに幼かった時分に。今はもう僕の身体は大きくて、綾時に抱き上げてもらうことは――いや、そうでもないのかもしれない。綾時はああ見えて大分力持ちなのだ。細いくせに、この間は僕をお姫様抱っこなんてしてくれた。
「喚んじゃったっけ」
 タナトスは答えない。僕は「ああ」と頷いて、「心配してくれたのか」と言った。そいつは大きな腕を伸ばして僕の頭に触った。僕は「ありがとう」と微笑む。
「俺は大丈夫だよ。相変わらず心配性だな」
 そして腕を伸ばして首に抱き付いて、貌を覆っている白い仮面の歯の部分を舐める。キスはこれで良かったはずだ。たぶん。
「……あれ?」
 僕は首を傾げる。タナトスに抱き付いた途端に、さっきまで感じていた熱っぽい気だるい感触が、ふっと別のものに変わったのだ。ぼんやりしていて良く分からないが、たぶん『嬉しい』とかそんなふうなものだと思う。
 そして僕はなんとなく気付いてしまった。欲求不満だ。たぶん、人肌が恋しいとか、そんなふうなものなのかもしれない。僕はこの間順平が崇拝していた未亡人の性生活を赤裸々に描いたとか言うアダルトDVDを思い出していた。なんとなく今なら理解できる気がする。未亡人の気持ちのほうを。――僕は男だが。
「うーん……」
 僕は困惑しながら、僕が肩から落っこちないように支えているタナトスの手を取って、舐めてみた。太い、僕の手首くらいある指を両手で包んで、口に含んでみる。感触はあるけど味はしない。
 そもそもペルソナに欲情するのってどうなんだろう。僕はべつにナルシストって訳じゃない。むしろ自己嫌悪に陥ることが多い。僕自身の人格に欲情するって、どうなのだ。
「でもなんか、お前って俺って気がしないんだよな……」
 僕は首を傾げて、疑わしげにじいっとタナトスを凝視する。どこからどう見ても綾時だ。左目の下にホクロもある。今にも「やあちびくん!」とか言い出しそうだ。この顔で彼が大好きな女の子を口説くのは随分大変そうだが。
 僕は仮面の目の辺りを舐めて、じっと様子を見る。
 反応はない。当たり前だが照れた様子もない。
 僕はちょっと悪戯心が沸いてきて、羽織っていたシャツをはだけてみた。下着を足首までずり下げて、脚を開いて見せる。僕はにやっと笑って言った。
「お前、俺が抱けって命令したら、言うことを聞いてくれるのか?」
 タナトスは顔を上げ、じっと僕を見て、ゆるやかに手を伸ばし、僕を胸に抱き締めた。確かに命令どおり、ちゃんと抱いてくれた。僕はなんだかおかしくなってきて、くすくす笑った。
「ごめんな。こんなの、変だよな」
 本当に変だ。でもちょっとほっとする。腹が減って苛々したり、眠くなってぼんやりしたりするのと同じふうに、こうやってむずむずしているのも僕の身体が求めていることなのだ。父親の遺体に欲情するなんて、十七歳の男としては大分問題があるように思うが。
 でも別に特別に男が好きだったり、そういう趣味じゃないのは確かだ。女の子のほうがいい。ただ綾時が好きなだけだ。
「トイレ行ってこよ……」
 僕は自分の何もない部屋を見回して、ちょっと虚しくなる。アダルトグッズコレクターの順平を見習いたい訳じゃないが(部屋があれでは死んでも死にきれない)、もうちょっと自分ってものを反映したものがあってもいいかもしれない。ベッドの下のエロ本とか。
 タナトスの腕から抜け出そうともぞもぞ動いたところで、尻にひやっとした感触が触れて、僕は驚いて硬直してしまった。背中がぞわっとする。
 次の瞬間、身体が破かれるみたいな痛みが生まれ、僕は悲鳴を上げていた。
 白い指が僕のなかへずるずる潜り込んで行くのが見える。僕はそいつの胸を叩いて、鎖を掴んで、「バカ!」と罵ってやった。
「やっ……っに、やっ、あ、あっ」
 『なにやってんだよ』と言おうとして、僕はそこで気付く。命令したのは僕なのだ。僕のペルソナは、「抱け」と命じたから、僕の言うことを聞いてくれているのだ。それはもう、とても従順に。
「……っまえの、ゆび、太いんだからっ……」
 僕は顔を赤くした。指の動きは何度か感じたものだった。繊細で優しく僕を融かす、僕の知っている大好きな人の指だ。
 僕はその指がすごく好きで、でも問題なのは、その異形の指の太さが僕の腕ほどもあることだった。今だって出し入れされているのが、まるで誰かの男性器を受け入れているみたいな感じだった。これでどうやら慣らしてくれているつもりらしい。
「いたい、ばかっ、やめっろ、よっ……やめて、」
 僕は息を荒げながら懇願した。何度か感じたことだが、こういう時の僕の声は本当に命乞いしているみたいだ。もうやめてください、もうムリです、助けてください、そんな感じなのだ。すごく情けなくなってくる。
 僕が止めるとタナトスはあっさり言うことを聞いてくれた。僕の中から指を抜いて、ぐったりした僕を抱き、じっと見つめている。
 ペルソナは王の僕にすごく忠実だ。やれと言われれば何でもするし、やめろと言えば言うことを聞く。命令しなければ、僕が言わなければ、何にもやってくれないのだ。
「ばか……」
 僕は震えながら脚を開く。ものすごく恥ずかしくなってくる。
 僕が王なのに、触られて見られて、身体が熱くなってくる。タナトスは黙ったままだ。僕はすごく焦らされているような気分になってくる。
「……やめ……ないで」
 言葉が口から勝手に出てきた。僕の胸の中でも、おんなじような言葉がグルグル巡っている。『もっとやって』とか、そういうふうなものだ。何だこれは。
 僕は僕の記憶のなかから綾時の声を聞く。『ほらちびくん、言わなきゃわかんないよ。君は僕にどうして欲しいの?』――「違う違う」と僕は頭を振る。変な空想はするもんじゃない。綾時は僕にそんなことは言わない。彼は僕にすごく優しいのだ。意地悪なんてされたこともない。
 でもなんでこんなにドキドキしてるんだ。
 そして、僕は命令する。
「もっかい、やって。……やさしく、して」
 僕の命令はすぐに実行される。指の圧迫感に、僕は息を詰めて、ぎゅっと目を閉じる。太い指がすごく深いところまで僕を解していく。体温はなく、温かいとも冷たいとも感じない。奇妙な感触だった。身体が痙攣する。
「あ、手、かたほ……かして、っ」
 僕はタナトスの片手を取って、また指を口に含む。舌で舐めて、咥える。
「ん、んっ」
 指の動きが早くなってきて、僕は我慢できなくなってタナトスの指を噛んだ。
 でもさすがペルソナだけあって、僕の歯じゃ歯型も付かない。
「ん、あっ、りょーじっ……」
 名前を呼んで、僕は現実を思い知る。綾時はもういない。ここにあるのは綾時の身体だけだ。
 胸の奥がぎゅっと締まったようになって、僕はタナトスの腕に抱き付いた。
――指は、も、いいから。ちゃんと俺を、犯せ……」
 僕は命令する。命令は実行される。僕は熱にやられたみたいにぽおっとなって、中から白い指が引き抜かれていく光景を見ていた。
 胸がざわざわしていた。さっきからすごくドキドキしている。イキそうなところで寸止めになった不満と期待が混ざり合って、僕の中を巡っている。でもいくら太くても長くても、指でじゃ嫌だ。僕はちゃんと綾時とひとつになりたい。僕は、
「……いや、ないから」
 一瞬で青ざめた。
 うっすらと予想はしていたが、異形の性器は本当にとんでもなかった。
 太さなんか僕の脚くらいある。長さも僕の膝から下までくらい。
「それはないだろ」
 そんなものが、影が集まるように蠢きながら盛り上がってきたのだ。見ているのが僕じゃなきゃきっと卒倒している。
 心臓の音は聞こえなかったのに、一定のリズムで脈打っている。大きくなったり小さくなったり、歪んだり霞んだりしている。良く見れば、それは影なのだった。コールタールみたいにどろっとしていて、黒い手が、時折救いを求めるように伸びてくる。
「死ぬだろ」
 多分突かれた瞬間即死するんじゃないだろうか。僕はタナトスの両手の上に座り込んで、恐る恐る手を伸ばす。大体身体の大きさと言ったものが違い過ぎるのだ。僕は子供のころ読んだいくつかの童話のことを思い出していた。広げた両手のひらの上に普通に座れてしまう時点で、一寸法師だとか、親指姫だとか、ああいう感じだ。
 僕の手が触れると、性器らしい塊はどろっと融け出して、かたちを変えた。僕は大分疑わしい気持ちで、タナトスの白い仮面を見上げた。
「……溶けてるけど」
 返事はない。
「大丈夫、かな」
 応えはない。
「お前、どう思う?」
 答えはない。ペルソナは従順だ。無言なのは『どうとも思わない』って返事なのだろう。
 僕は大分迷って、「途中まででいいから」と言ってみた。我ながらすごい挑戦者だ。でもその一匹のシャドウみたいな異形の性器を両手で捏ねていると、身体がうずうずして、胸がざわめいてしまう。僕はきっと病気に違いない。自分でもおかしいと思う。
「挿れてみて。先だけでも、いいから。痛かったらやめろ。ちゃ、ちゃんと言うこと聞けよ。俺のこと殺すなよ。いいな」
 僕は大分往生際悪く、「これ、死なないよな」と言った。死ぬのはいいけど、いやあまり良くないが、こんな死に方はちょっと情けなさ過ぎる。発見された時にはどういうふうに扱われるんだろう。あまり考えたくない。
 相変わらずタナトスからの答えはない。また『どうとも思わない』だろうか。それはそれで不安だ。
 僕は大きな両手に、小さな女の子がビスクドールを抱えるみたいな具合に掴まれる。片手で頭と肩を支えられて、もう片方の手で腰と尻を支えられる。なんとなく分娩台に乗った妊婦というものは、こんなものなのかもしれないなと、僕は考えてみた。僕は男なのだが、すでに子供を一人孕んで産んでいるのだ。そいつの身体は僕の目の前にある。
「う……」
 触れた感触が温かくも冷たくもなくて、そのくせ蠢いていて、小さな手が太腿を掴んで、さすがに怖い。僕だって怖いと感じることはあるのだ。
「あ、」
 そして僕のなかにあの巨大な影の塊が入ってくる。僕はひどい衝撃を予想して、身体を引き攣らせた。
 でも意外にも、痛みはほとんど無かった。指を突っ込まれた時のほうがずっと痛かったと思う。
 ぬるぬるした感触が僕を深く深くまで犯していく。
「……え」
 半分くらい捻じ込まれたあたりで、僕はあっけに取られてぽかんとしてしまった。あの長くてすごく太いものが、どうやって僕の腹の中に入っているっていうんだ。
「え……あれ? ……ん、」
 勢いを付けて引寄せられ、僕は信じられないものを見た。
「うそ、だ……はいって、る……?」
 あんなもの、僕の身体全部が子宮でもなければ入りきらないはずなのに、確かに根本まで、もう見えなくなっている。どうなってるんだろう。今の僕の腹のなかは、一体どういう構造になってるんだ。
「んっ……あ、あ、」
 余計なことを考えている余裕はすぐになくなってしまった。ずるずる、中を擦って抜かれる感触があって、僕は痙攣した。ちょっと性急過ぎる気もする。
「う……もっと、ゆっくり、っ……あぁ」
 僕を抱く異形の体躯は身じろぎもしない。ただちょっと腕を動かすだけだ。そいつにとって、ほとんど小さな人形くらいでしかない大きさの僕の身体は、それだけの簡単な動作で貫かれ、また赦されて、ひどく震えて、喘いでしまう。
 そんなふうに簡単に扱われていると、僕は本当に自分が小さな人形になったような気分になってくる。
 僕は小さくて力もない。制御するべきペルソナに、今は逆に支配されている。玩具みたいに軽く扱われている。
 たぶん僕はそのことに悲しんだり、虚しいと感じたり、怒ったりするべきなんだろう。でも何でだか、そんなふうにはちっとも思うことができない。
 僕は嬉しいんだと思う。僕の身体中に溶け出した粘液の塊が広がって、染み込んでいくのが分かる。それが気持ち良くてたまらない。
 すごく圧倒的なものに、一方的に蹂躙されているんだと感じる。組み伏せられてひどくされると、僕の身体はどんどん熱くなってくる。僕は、こいつにもっと支配されたいと思う。
(あれ……僕、マゾ……?)
 ぼんやりと、僕は考える。なんだかすごく嫌なことが思い浮かんでしまった。いや、そうじゃない。僕はたぶん、小さい子供になりたいんだと思う。
 僕は昔から大体負け知らずだ。戦闘だって何だって、いつでもどこでも最後までぴんと立っていられる。でも今こうやって打ちのめされていると、自分がすごく非力な子供みたいに感じる。
 僕は「僕は子供だから」と言い訳がしてみたい。何をやっていたって、どこにいたって、僕は子供だからお父さんに守られていていい。お父さんとずっと一緒にいられる。綾時といられる。僕が弱かったら、綾時が心配して僕についててくれる。そばにいてくれる。
 でも僕はもう物心ついた頃には子供の振舞いを止めてしまっていた。誰より強くなって、何でもできて、だから綾時は心配しながらも笑って行ってしまった。
 僕は子供になりたい。強くなんかなくて良かった。綾時の庇護がなければ、綾時に支配されていなきゃ生きていけない子供に僕は、
――あ、っ」
 僕は喘ぎながら、ようように言葉を紡ぐ。
「あ、あい、してる……」
 僕はみんなが好きだ。仲間たちが、友達が、僕に関わってくれた人たちが大好きで、好きで好きでたまらない。
 その中で僕の『特別の好き』である綾時を、僕はきっと『あいしてる』んだと思う。
「りょーじ、っ、すき。あいしてる、すきだ、すきだよぉ……」
 熱に浮かされて、同じフレーズばかりをぐるぐるリピートする具合の悪いプレイヤーみたいに、僕は綾時の名前を呼び続ける。空気に融けた綾時の心は、僕の呼び声を聞いてくれるんだろうか。そばにいてくれるんだろうか。僕が、綾時がいなきゃほんとに駄目な子供だってことに気付いてくれるだろうか。
 がくがく揺さ振られて、僕はもう気持ち良いのか何なのかも分からなくなってくる。目の前にぱっと散発的にいくつも光が舞う。意識が白む。








 気が付くと、窓から射し込む光は赤みを帯びていた。夕焼け空が見える。どうやらしばらく気を失っていたらしい。
 僕は壊れた人形みたいな格好で、ベッドの上で仰向けに倒れていた。暖房のきいていない部屋の中で裸でいた。一月の冷たい冬の空気は、随分冷たくて寒い。僕はくしゃみをして、毛布に包まろうとして、げんなりしてしまった。毛布が僕の精液でぐちゃぐちゃに汚れてしまっている。
「……出て来いってば」
 僕はちょっと不機嫌な声でそいつを呼ぶ。意識がなければペルソナの制御は行えない。たぶん、僕のペルソナは僕が昏倒したと同時に消えてしまったのだ。
 僕の声に応えて、そいつは僕の枕もとにすうっと現れる。
「顔、近付けて」
 命令の通り、仮面が近くなる。僕はその口の部分の、歯の辺りに唇を付ける。
「……一緒に寝たあとはキスするんだよ。……う。なんか、腹のなかで動いてる……」
 僕はざわざわして、脚を開き、怖々さっきまで繋がっていたところを触ってみた。赤くなっているが、血は出ていない。それより気になるものがある。
「……これ、なに?」
 僕はタナトスを見上げる。
「……おたまじゃくし?」
 僕は中から零れてきたそれを掬い上げる。僕の指くらいの大きさで、真っ黒で、びちびち跳ねている。どう見たって元気なおたまじゃくしだ。ただしじっと凝視しても、目も口もない。
 タナトスがふるふる首を振った。僕はなんだか信じられないような心地だった。
「……精子?」
 タナトスがこくっと頷いた。僕はがくっと脱力した。おたまじゃくし、ではなくて精子たちは、空気に触れるさきからじゅっと融けてしまい、やがて消えていく。
 やっぱり僕らには様々な食違いがあるようだ。同じ魂を共有する人格なのに、身体とか心とか、そんな様々な面において。でもまあなんとか上手くはやっていけると思う。
「……毛布掛けて。押し入れに綺麗なのもう一枚あるから。寒い」
 僕はいろいろなことを諦めて、ベッドに寝転がった。タナトスは僕の命令に従う。そいつの手は、見掛けによらずすごく優しい。大きな異形がそっと僕に毛布を掛ける仕草は、なんだかちょっと微笑ましいかもしれない。
「……りょーじ、」
『僕はタナトスです、お母さん』
「でも綾時なんだろ。……俺のこと、好き?」
『はい。僕はあなたが、大好きです』
「……うん」
 僕はちょっとにやにやして、頷いた。「そばにいろよ」と命令して、膝を枕にしてやる。
「……たまにでいいから、子供扱いもしろよ」
 僕はちょっと照れながら言う。タナトスからの応えはない。もしかしてこいつは、こうやって僕にいろいろ恥ずかしいことを言わせようとしてるんじゃないかと勘ぐってしまいそうだ。ずるい。
 そして僕は溜息を吐いて、手足を投げ出し、ベッドの下のエロ本は特に必要がなさそうだなと考える。いつのまにか例の熱っぽさは取れていて、僕の頭はすごくクリアになっていた。





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