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時は待たない。緩やかに、それとは気付かせない速度で、だが確実に過ぎていく。変わらないものはない。さびれた巌戸台駅の自転車置場も、美しく舗装されたポートアイランド駅も、僕らの学校も、永遠に変化することなどないと思っていた僕自身の心も、みんな平等に変わっていく。 僕は変わった。この一年足らずの間に、僕はいろいろなものを無くしたり、昔無くした忘れ物を見つけたりした。それらはすごく重要なものだったり、些細なものだったりした。 機械みたいになっていた僕の心は、この激動の一年間(ほんとにそんな感じだった)を転げ回っているうちに、いつのまにか解れて、擦り減り、丸くなっていた。 それがいいことばかりかと言えば、そうでもない。辛くて逃げ出したいという気持ちも思い出してしまったから、僕は何度かすごく苦しんだ。 死に向かうということは、死ぬことそのものよりも随分大変なのだ。綾時が全部忘れろと言った意味もちょっと分かる気がする。 でも僕は僕の人生の幕を終える最期の時間を、この街で過ごすことができて、本当に良かったと思う。巌戸台分寮の仲間たちやクラスメイトたち、先輩後輩、先生たち、ちょっと変わったところがある街の人たち、彼らに出会うことができて、僕はすごく幸せだ。もう会えなくなるのが嫌で、僕自身のちっぽけな生命を惜しんでしまうくらい。 僕は毎日、寮に戻ってきてからタルタロスへ出撃するまでの僅かな時間、こっそり机に向かって手紙を書く。僕は自分の気持ちを素直に表すことがすごく苦手だ。それは言葉でも文章でも変わりない。 何度か気恥ずかしくなって止めようかとも思ったけど、僕はそうやって諦めてベッドにダイブしてしまっても、しばらくすると、またのろのろ起き上がって机のライトを点け、ボールペンを握る。 頭を抱えながら、頑張って考える。時計が零時を指すまでの時間、僕はそうして過ごす。 『何度も突っ掛かられて、俺何もしてないのに何だこいつマジむかつくと何度も思ったし、指示は聞かないし、授業中も都合の良い時だけ下手に出るとことかうざいし、ろくでもないことを仕出かしてばかりで、その度に巻き込まれてすごく迷惑でした。屋久島と修学旅行の露天風呂の件、俺は今でも忘れていません。呪います。』 そこまで書いて、僕はああ駄目だと溜息を吐く。順平への手紙なんて、悪口と愚痴しか出て来ない。これじゃ呪いの手紙だ。そうじゃない、順平の中にちゃんと僕がいつまでも残っていればいいなと思うことや、大分不器用だけど面倒を見てくれてありがとうとか言うことを書きたかったのだ。 僕は残された時間の間、何度も何度も推敲を重ねる。一番苦手な分野だから、人より大分苦労してしまう。 『初めて話し掛けてもらえた時、俺はすごく嬉しかったです。第一印象は軽い奴だなって思ってたけど、わりと面倒見が良いし、頭悪いけど頑張るところはちゃんと頑張っていて、何よりすごくいい奴だってことを、今までちゃんと見ていたから俺は知っています。 チドリに会ったら、順平は今、前よりすごく格好良い奴になってると伝えておきます。チドリはいつも順平のそばにいるから、知ってるって馬鹿にされるかもしれないけど。 大人になっても順平は順平でいてくれるように祈っています。お前は笑ってるほうが、周りが和むし、何より僕はすごくほっとするので、いいと思う。チドリがお前のことを好きになったのも、すごく分かる気がします。友達になれて嬉しかった。遊んでくれてありがとう。 またいつか、お前が耳が遠くなって、いつも大声出してるうるさいじいさんになった頃に会いたいです。すげー皺くちゃだって笑ってやる。それじゃ、さよなら。またな。 P.S:お前は馬鹿にするけど、サンタさんは本当にいるんだからな。順平は夢が無さ過ぎる。』 僕はふうっと溜息を吐いて、ようやく書き終えた順平への手紙を折り畳んで、ジャアクフロストのワンポイントが付いた封筒に入れ、封をする。まったく、順平への手紙ってのはすごく難しいと思う。面と向かっては絶対言えないことばっかりだ。 机の引出しを開け、先日学校の帰りに買ってきたレターケースを引っ張り出し、手紙を放り込む。そこには書き終えたいくつかの手紙が、既に並んでいる。フロスト、ランタン兄弟の絵柄が覗いている。ファンシーなレターセットを購入するのは、正直ちょっと恥ずかしかった。 『十七にもなって親のことばっかりって気にしてたけど、俺だってすごくお父さんが好きだから、別に気にすることないと思う。たぶん普通。お母さんと幸せに暮らせるといいな。あと俺はべつに幽霊とかになって化けて出たりはしないと思うから、安心して下さい。怖くないから。』 これは岳羽への手紙だ。 『いつもありがとう。俺のことちゃんと心配してくれるの、前は家族以外じゃ山岸だけだったから、すごく嬉しかった。料理する時は手を切らないように気をつけて、無理するなよ。山岸は綾時並にあんまり器用じゃないから心配です。あと誰かに苛められたらすぐ俺に言えよ。呪ってやるから。』 これは山岸への手紙だ。 『一年足らずですが、お世話になりました。せっかくリーダーに選んでもらえたのに、迷惑掛けてばかりで、頼りにならなくてすみません。以前は傷を治してくれてありがとうございました。先輩はきっと忘れてると思いますけど、俺はちゃんと憶えてます。あの時はお礼を言えなくてすみませんでした。みんなのこと頼みます。』 これは桐条先輩への手紙だ。なんだか良く怒られていたせいか、謝ってばかりになってしまう。 『お世話になりました。影時間が消えて、先輩が卒業した後のことが、俺はちょっと心配です。牛丼とプロテインの生活も卒業して欲しいもんです。ちゃんとバランスの取れた食生活を送ってくれないと、俺と荒垣先輩はすごく心配です。ほんとになんとかしてください。』 これは真田先輩への手紙だ。 『君は成長期だから、多分すぐに背が伸びて、大きくなって、大人になるんだと思う。大きくなった天田が見られないのは残念だけど、君の未来に光があることを祈っています。あと悪戯はほどほどにして下さい。この間のガム爆弾は、ほんとにちょっと泣いてしまいました。 コロマルのこと頼みます。これからも散歩に連れてってやって下さい。あいつは天田と一番仲が良いみたいだから。』 これは天田への手紙だ。 僕はちょっとにやっと笑う。なんとなく世界からどこか浮いているようにずっと感じていたのに、今になってやっと、僕というピースがぴたっと嵌まる場所を見付けたような気がする。僕は僕の中にある、何かを伝えたいという気持ちを向ける人間が、意外にたくさんいたことを知って、ちょっとくすぐったくなる。 「できた」 椅子を回し、振り返り、僕は笑って報告する。 「終わったよ。待たせてごめん」 「……何を書いていらしたんですか?」 僕が大分苦戦しながら格闘していた作業が気になるようで、アイギスが立ちんぼうのまま、不思議そうに首を傾げてこちらを見つめている。 「手紙」 「手紙ですか」 「うん」 僕は引き出しを閉め、鍵を掛ける。チープな鍵だ。きっとアイギスじゃなくても簡単にピッキングできるだろう。 僕は鍵をアイギスに差し出す。 「鍵は君に持ってて欲しい」 「はい、了解しました。ですが、ふたつ、ですか」 「うん。上から一番目と、二番目の鍵だ。引き出しの」 アイギスは何か言いたそうだ。僕は微笑み、特別なものなんだよと言った。 「大切な友達に、手紙を書いたんだ。俺のこと忘れないで欲しいなって。それがこれ、二番目の引き出しの鍵。それとはべつに、一番はじめに手紙をふたつ書いたんだ。俺の家族への手紙。それ入れた鍵が、こっち。一番上」 「家族……ですか」 「うん。綾時と、アイギス。俺の大事な家族」 「――わたし」 「すごく頑張って書いたんだ。期末試験でもこんなに悩まなかった。春になって、進級して、三年生になった時に読んでくれないかな。ちょっと手間になるけど、みんなにも届けてくれるとすごく嬉しい。こんなことを頼めるのは君だけだから」 「……嫌です」 嫌だとか言われてしまった。僕は困ってしまって、「駄目かな」と言った。アイギスは顔を歪めて、すごく泣きそうな顔をしている。でもその目から涙は零れない。彼女はロボットなのだ。 「あなたのいない世界なんて、嫌です。わたしは手紙を読みたくありません。それ、何て言うのか知ってます。『遺書』です」 「……うん。できればでいいんだ。駄目なら忘れてくれても」 「それも嫌です。……あなたがいなくなって、みんなに忘れられてしまって、そんなのわたし、」 「……アイギス」 「……すみません、わからないんです。あなたのことになると、いつも変なんです。わたしは機械でできているのに、考えること、伝えたいことがすごくぼんやりしてしまうんです。衝動的で、突発的で、理由付けが上手くできない。わからない……」 僕はすごく痛そうな顔をしているアイギスの手を、ぎゅっと握った。そして彼女を安心させられるように、できるだけ幸せな顔に見えるように微笑んだ。 「――俺たちは、ずーっと友達だよ。長い冬が終わって、春が来て、俺たちがまた出会った時みたいに夏が来て、秋になって、季節が何度も何度も巡って、それでもずっとずっと俺は君の隣にいる。例え見えなくなっても、思い出と心があればずっと一緒にいられるんだ。君が俺を忘れても忘れなくても、いつも傍で君を守るよ」 「……わたしがあなたを守ります。絶対に忘れたりしない。だから、行かないで。消えないで下さい、嫌です……」 「うん。ごめんな」 僕は、僕の手をすごく大事なものみたいに両手で包んでくれるアイギスに微笑む。彼女の頭を撫でて、「俺を大事にしてくれてありがとう」と言う。僕は、ほんとにすごく嬉しいのだ。 「……そろそろ、約束の時間だ。行こうか。綾時が待ってる」 「――はい」 アイギスが頷く。もう夜が忍び寄ってきている。窓の外は薄い青に染まり、僕らは沈んでいく太陽を見送る。もしかするとこれが最後になるかもしれない、綺麗な生命の光だ。 でも、僕は僕の精一杯で足掻くだけだ。諦めはしない。 部屋の扉を開けしなに、僕はちょっと迷ってから、彼女に切り出した。 「……あのさ」 「はい」 「ニュクスを倒してまたここへ帰って来た時に、一回だけで、いいんだ。……お母さんって、呼んでいいかな」 僕の顔はたぶん赤くなっていたと思う。アイギスは驚いたようだった。 それで僕は余計に恥ずかしくなってしまったが、彼女はすぐにすごく穏やかににっこり笑ってくれた。 僕はその時素直に、アイギスはとても綺麗だなと思った。 |