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学校が異形の塔に変わっていくさまを、僕らは見る。もう何度も何度も見た。子供の頃からここは僕がすごく馴染んだ異界だった。 今日でこの塔へ足を踏み入れるのも最後なのかと思うと、奇妙な感慨が胸を打つ。僕はこの塔が好きではないけど、馴染んだ場所がなくなるのは、昔遊んだ遊園地が取り壊される時のように、やっぱり寂しいものなのだ。 「コレでタルタル最後になるんだなぁ」 順平も僕と同じことを考えていたらしい。なんだかちょっと腹が立つ。順平のくせに。 見慣れたエントランス、ベルベットルームの扉、巨大な階段、これらとも今日でお別れだ。僕はターミナルを点灯させる。そして空高く昇っていく。 ◇◆◇◆◇ まあ来てるとは思っていたが、僕はタルタロスの頂上付近で見慣れた顔を見付けた。ストレガのふたりだ。ジンが、僕らに気付くと片手を上げて「よお」と言った。 「カオナシやないか。奇遇やな」 「ほんとに、奇遇。何してんの?」 「ニュクスの来訪を待っているんですよ。あなたがたと共に滅びを迎えるのも、まあ悪くはない」 「お前は何をしとるんや?」 「待ち合わせ」 僕は言う。僕の仲間たちは、すごくぴりぴりしている。彼らは僕の仲間を殺したのだ。チドリも殺した。そういう感じ方をするのも無理はない。 「もう宣告は成された。今のあなたは、蝉の抜け殻程度の価値しかない。それでもあがくのですか」 「……うん。俺は生きたい。はじめて、自分で望んだんだ。滅びたくない。もう、誰もいなくなるのはいやだ。俺が守るよ」 「お前はホンマに昔からチドリそっくりやな」 ジンは呆れた顔だ。僕がチドリと同じように、彼らと別々の路を選んだことを言っているんだろう。僕は「心外だな」と言ってやる。僕は彼女みたいに人のパンツに蛇を入れるような真似はしない。 「――反応あり。月から、何かが……」 ニュクスの呼び声が聞こえる。シャドウがニュクスを呼ぶ声が聞こえる。アイギスが不安そうに僕の顔を見て言う。僕は頷く。 「ここは任せとけ。お前はリョージに会いに行け!」 順平に背中を押され、僕はそのまま駆け出す。一段飛ばしに階段を上り、上り、信じられないくらいに巨大な月をしっかり見つめながら僕は走る。子供の時分、待ち合わせの場所へ駆けていく時に感じていた、あの軽い焦りと、奇妙にふわふわした感覚が僕を支配していた。 最後の一段を蹴り上げた次の瞬間、僕は身体が空の真中に放り出されたような、心許無い浮遊感を覚えた。もう壁はどこにもない。僕のまわりにはただ夜空が広がっているだけだ。 タルタロスの最上階へ到達して、僕は強い風の中で顔を上げ、じっと月を見つめる。何かがやってくる。黒っぽい影が、どんどん僕のほうへ近付いてくる。 「……綾時?」 上空に佇んでいる異形には、僕が誰より良く知っている人間の面影がはっきりと見て取れた。僕はおずおず呼び掛ける。影時間に融けて人のかたちを無くしても、僕のことが分かるだろうか。憶えているだろうか。 『やあ、来たね』 「綾時、」 『こっちへおいで。――僕のかわいい、ちびくん』 息が詰まった。綾時の声は虚ろで、冷たくて、聞いているだけで背筋が寒くなってくるくらい、感情というものが感じられなかった。まるで機械で綾時の声を無理矢理作り出したふうだった。 でもそれはまぎれもなく綾時の声だった。胸を貫かれて心臓を鷲掴みにされている気分になった。僕がすごく聞きたかった、穏やかな口調だ。 僕はさっきから、なんだかひどい悪寒を感じていた。敵を前にした時の感覚だ。でも綾時の声が、僕から敵意を奪う。僕はゆっくり歩き出す。 『今までたくさん怖い目に遭わせてしまって、ごめんね。これからは、ふたりきりでずうっと一緒だよ』 「綾時、ほんとに、綾時なのか? 俺のこと分かるのか?」 『いつでも、どこまでも一緒にいよう。愛してるよ。全てが終わった後に、君が長い間僕を孕んでくれたように、』 綾時の手が伸びてくる。僕の腹に触れる。僕はどうしても、抗うことができない。 『滅びたあとの世界で、君の胎内で僕の子供たちを育んで。ひとつになろうよ』 「りょうじの、子供?」 僕は信じられなくて、その言葉を反芻した。胸がざわざわしてきた。綾時は全部わかっているふうに、僕の頭にそっと触れて言う。 『僕が欲しかったんだろう? 寂しい思いをさせてしまって、ごめんね。僕はここにいるよ』 「……あ」 僕は顔を赤くした。綾時は多分、知っているのだ。僕が綾時に触ってもらえないとひどく身体が疼いて、綾時のかたちをしたペルソナを喚んで、僕自身に抱かれ、自慰に耽っていたことを。僕は心の底まで見透かされているようで、恥ずかしくてたまらなくなる。 『恥ずかしいことじゃあないよ。僕は嬉しいんだ。愛しい君が、こんなに僕を強く求めてくれていることが』 黒くて薄っぺらいシャドウの手が、僕の身体に纏わり付いてくる。気持ちの良いもんじゃない。僕はぎゅっと目を瞑る。僕の腹に触る綾時の手が、僕の皮膚に融け、緩やかに身体の中を掻き混ぜる。 「お、れ、……りょうじ? 怖いよ」 『怖くないよ。力を抜いて。すぐに気持ち良くしてあげるからね』 「りょ……や、だよ、なんか、違うよ……」 綾時に、影に、僕は融けていく。こんなのは違うと思う。僕が求めている未来とは、たぶん別のものだ。綾時もきっと望んでない。 胎内をなぞられて、僕は震えた。息が上がる。僕はつい自律を手放しそうになる。綾時に全部委ねてしまいそうになる。 でも今ここでやるべきことじゃない。僕にはまだ、やることが、 「――やめて」 耳元で透明な声が響いた。身体がふわっと浮いて、抱きすくめられる。 「この人に触らないで。あなたはダメです」 「アイギス」 僕は驚いて目を見開いて、それからひどい不安を感じ、僕を抱いている彼女の腕をぎゅっと掴んだ。 「大丈夫ですか?」 「……ん」 「あなたは、わたしが守りますから」 「うん」 「……あの人は、違います」 「りょー、じ」 「綾時さんではありません」 僕は顔を上げて、月を背に立つ異形を見る。どんな姿になっても、それは綾時だった。でも僕は、誰かにそれを言ってもらいたかったのかもしれない。ここにいるのは綾時じゃないと。だからいつまでも甘えてないで立ち上がれと。剣を取れと。 僕はアイギスに小さく「ごめん」と言って立ち上がる。そして剣を握り、召喚器を頭に当てる。 『――どうしたの? 僕が、嫌いになったかな……』 綾時が悲しそうに言う。でもその声には感情がなく、顔は笑っている。口が耳まで裂けていて、表情も硬質の仮面みたいだ。 僕は頭を振り、「そんな訳ないよ」と言う。 「大好きだよ、綾時。愛してる。心配しなくても俺もすぐにそばに行くから」 そして僕は微笑みながら引鉄を引く。 ◇◆◇◆◇ 『望月 綾時様へ こんにちは。手紙を書くのは何度目になるのかな。この前最後に書いたのは、遺書みたいだって怒られたっけ。 子供の頃、何度もメールしたり、電話したりする合間に、綾時が送ってくれた手紙がすごく好きでした。綾時が書いてくれた文字が、僕は好きです。 あんまり上手くないけど丁寧で、優しくて、たまに難しい漢字には読み方が書いてあったり、へたくそなフェザーマンの絵が頑張って描かれていたりすると(ごめん、でも綾時は本当に絵が下手だから)僕は本当にうれしくなって、何度も何度も読み返して大事にしていました。 僕の持ち物は全部取り上げられてしまったけど。 僕らの手紙ももう燃やされてしまったのかな。 残念だけど、僕は焼かれた後の灰が好きです。黒っぽい炭も白い砂みたいな骨も、僕にはなんだか恐怖を焼き尽くされて喜んでいるように見えます。 人の心が感じる怖いっていう気持ちは、ああまで焼かないと無くなってはくれないのかな。 だから僕が無くなったと思っていた心も、綾時が言ったとおりに、結局ずうっと僕の中にあったんだと思います。僕は両手で心を抱えたまま無い無いって探しまわってたんだと思う。なんだかちょっと馬鹿みたいだ。 最近友達がたくさんできました。綾時ももう良く知っている、巌戸台分寮の仲間たちです。 はじめはそうと気付かなかったけど、みんなすごくいいやつです。 僕はみんなが大好きです。 順平とは何度か仲が悪くなったこともあったけど(あいつ僕を苛めたんだぞ)、最近じゃ体は大丈夫かとか、ちゃんとメシ食えとかプリン食えとか(自分だってインスタントラーメンばっかり食ってる癖に)、いつも僕を気遣ってくれて、なんだか優しくてくすぐったい感じです。良く遊んでくれるし、僕は順平が好きです。 岳羽も、前に平手打ちされたり、復讐を果たしてやると言われて怖かったけど、最近は僕の面倒を良く見てくれて、優しいです。良くお菓子をくれるし、お父さんのことが大好きだって言っても馬鹿にしないで、僕の気持ちを良く分かってくれるので好きです。 僕らは同じクラスだから、良く一緒に登校します。アイギスも一緒です。 最近息をしていると、僕は人の繋がりの中にいるということを強く感じます。僕は世界に一人で立っているわけじゃなくて、絆の力が僕を支えて生かしてくれていると感じます。 最近やっと、寂しいっていう気持ちについて、落ち付いて考えることができるようになりました。子供のころ綾時と離れ離れになった時も感じていたと思うんだけど、あの時は良くわからなかった。無理に違う仮面を付けて、僕自身の顔もわからなかったせいだと思う。 僕は今、すぐそばに綾時がいなくてすごく寂しいです。会いたくてたまりません。 言いたいことが僕の中からどんどん湧いてきます。 でも綾時がいないので、言葉だけが僕の中をぐるぐる回っているような感じです。いつか約束のとおりに、また綾時に出会えた時には、全部聞いて欲しいです。こればっかりは自分の口で言います。綾時の顔を見て、ちゃんと言いたいです。 この間遺書みたいなのを書くなと怒られたので、もっと楽しいことを書こうと思います。もうすぐ進路指導があります。 僕にはもう未来はないけど、もしかして、何かの奇跡が起こって、僕が春を生き延びて、来年もずっとずっとみんなと一緒にいられた時のことを考えてみました。 僕は大人になったら何になりたいか、考えてみました。 まず成人式に出て、順平たちに会って騒いだりしたいなと思うのがひとつ、それからもうひとつ、僕と綾時とアイギスの三人でずっと一緒に暮らしたい。 綾時は一人でほっとくとかなり心配なので、ちゃんと僕が面倒を見てあげます。綾時とアイギスが好きなオムレツも上手く作れるように頑張るし、僕は家事が得意だし、家に帰って来たら、たとえ同じ大学で同じクラスでも、僕はちゃんと玄関で二人におかえりと言ってあげたいです。 僕はもう三人で過ごせるのなら(誰か一人が欠けても絶対に嫌だ)何もいらないと思うけど、もうちょっと欲張って自分のやりたいことを考えてみました。 僕は学校の先生になりたいかもしれない。僕が大好きな空間で生きたいと思います。僕は学校が好きです。先生はなんだか変な人ばっかりだけど。 綾時がたぶん昔みたいにラボで働いているのを、仕事が終わったら家でごはんを作って待っていようと思います。雨が降ったら迎えに行きます。休みの日は一緒に過ごしたいです。 アイギスは将来何になりたいのかな。前に聞いた時は僕のそばにいたいってことのほかは良くわからないって言ってたけど、帰ったらいろんな話をしながら、聞いてみようと思います。 なんだか未来のことを考えているとすごくいい気分です。ほんとにそうなったら、僕はどんなに幸せだろうな。 では、子供の頃の約束が守られることを祈って。 この手紙が帰ってきた綾時に読んでもらえることを、僕は強く願います。 その時綾時の隣に僕とアイギスがちゃんといますように。 ではまた。 あと、僕はもうちびじゃないです。』 ◇◆◇◆◇ 僕は引鉄を引く。僕のなかのペルソナが顕在化する。頭を撃つ。これは僕の自傷行為だ。何度も何度も手首を掻き切るように、僕は引鉄を引き続ける。 『――痛い』 綾時がすごく苦しそうな声で、僕を制止する。 『痛い、痛いよ、……どうして』 綾時は泣いている。僕は彼を泣かせる子供にだけはなりたくなかったのに、本当にもう全然駄目だ。胸が痛くて痛くてたまらなくなる。 「綾時、ごめん。ごめんな。俺は、すごく無力だ。ごめん――」 僕は泣いている。情けなくて、綾時にひどいことをしている自分が本当に嫌になる。涙があとからあとから流れてくる。僕の声は、いつのまにか嗚咽混じりの泣き声になっている。 「一撃で焼き尽くせなくて、本当にごめんな」 僕はまた、引鉄を引く。 「痛いのも苦しいのも、怖いのも、焼いてすぐに灰になるから」 僕の中の最強の力、最大火力で、僕は最愛の人を焼く。光が溢れる。ずっと耳鳴りが続いている。爆音のせいで耳が馬鹿になって、もう上手く音が聞こえない。 真っ白の光の中で、僕は一瞬だけ、僕が描いた未来の幻影を見る。 綾時が笑っている。アイギスも笑っている。僕もきっと、笑っている。 光の中で僕は独りで立ち尽くし、呆然と涙を流しながら、ふっと空を見上げた。 ――影時間の巨大な月が、目を開き、じっと僕を見つめている。 落ちて、くる。 |