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消毒薬の匂いがする。ガスコンロの上で湯が湧いて、ヤカンが湯気を立てる音がする。目を開いた僕がまず見たのは、金髪の綺麗な女の子だった。目の色が空より綺麗な淡いブルーで、日本人じゃないことはすぐに知れた。 彼女は目覚めた僕と目が合うと、ひどく動揺して、後ずさった。華奢な背中が可動式の棚にぶつかり、湯桶がひっくりかえって床に落っこちた。床が水浸しだ。 「――あ」 僕は空になった桶を拾おうと、寝かされていたベッドから起き上がろうとして、女の子が僕の手を大事そうにぎゅっと握っていることに気付いた。 彼女も僕の視線に釣られるようにして触れ合った手を見て、慌てたように「違うんです」と言った。訛りのない綺麗な日本語だった。 「あ、ちがうんです。わたし、どうしてこんな……すみません、びっくりしましたよね」 「あ、ううん」 僕は頭を振り、そこで我に返る。あんまり綺麗な子だったので、つい見惚れてしまっていたのだ。ちょっと気恥ずかしくて、ふっと目を逸らしてしまってから、そう言えば彼女は大丈夫だったのだろうかということに思い当たった。 「大丈夫?」 「え?」 「お湯、掛からなかったか。俺が片すよ。濡れてないか。制服は」 「あ……はい。大丈夫……です」 「上履きと靴下、無事? 外寒いから、濡れたらきっと風邪引く」 「はい」 身を乗り出して、僕は彼女が外靴のままだということに気が付いた。確か外国では、家に帰っても外靴を履いたままなのだ。文化の違いという奴にまだ慣れていないのかもしれない。 「あ――」 「お、お騒がせしました! ごめんなさい!」 女の子は僕がなにか言う前に、大慌てで保健室を出て行ってしまった。部屋には僕がひとりきりで残される。何だったんだろう。 綺麗な子だったなと僕は考える。優しそうな子だった。気の利いたことでも言えれば少しは彼女を安心させられたのだろうが、僕は口下手なので、どうやら彼女を警戒させてしまったらしい。保健室へ来るくらいだから、どこか具合が悪かったのかもしれないのに、悪いことをしてしまった。 僕はのろのろベッドから降り、シンクの横に干してある雑巾を取って、濡れてしまった床を拭き始めた。それにしても、僕はなんで保健室なんかで寝てたんだろう。記憶が曖昧だ。 「ちぃーっす……うおっ! なにやってんのお前!」 扉が開いて騒がしい声が聞こえた。僕は顔を上げる。同じクラスの順平だ。席も近いし寮も同じで、しかも部屋が隣同士だから、なにかと良くつるんでいる仲の良い友達だ。ちょっとうるさいのが面倒臭いけど。 「湯……零しちゃって、拭いてる」 僕はそのまま言った。順平は頭を押さえてはぁっと溜息を吐いて、「お前ホントどーしようもないのね」と言った。どうしようもない順平にそんなふうに言われるとなんだか腹が立ってくる。 順平は僕のそばへやってきて、雑巾を取り上げ、僕の両脇に腕を差し込んで軽々と持ち上げて、ベッドに上がらせた。 「オレっちがやっとくからよー。あ、あとでプリン奢れな。お前は寝てろって。ビョーニンなんだからさ」 「……俺、なんで保健室で寝てるんだっけ」 「覚えてねぇの? 移動教室ん時に廊下で倒れたんだわ。お前背負って運んでやったのオレなんだぞ」 「あ……悪い」 僕はばつが悪くなって、「ありがとう順平」とぼそぼそ礼を言う。順平は手をひらひら振って、「どってことねーよ」と返してくれた。こいつはこんなに面倒見が良い奴だったか。なんだかちょっと怖い。 「だいじょぶか? どっか苦しいとこねえ?」 「ん……。なあ順平、さっきの子、見た?」 「あん?」 「なんかすごく綺麗な……」 「おお。女子? カワイイ子?」 「うん。……なんか、起きたら目の前にいた。天使みたいな子。日本人じゃなかった」 僕が言うと、順平はふらっと起き上がって僕の肩を掴んで、「縁起でもねーこと言うなよ……!」と顔を強張らせて言った。 「お、お迎え見たとかじゃねーよな? なっ?」 「……なに言ってんの順平」 「お前ただでさえめちゃめちゃ身体弱ぇんだからさ……! ちょっと走るとすぐ吐くわ、授業中もグダグダんなってるわ、挙句教室移動だけでぶっ倒れるわ、あーもー、勘弁してくれよ。オレっち胃に穴開いたらどーしてくれんの?」 「ん……ごめん」 「もー……なんかお前と喋ってると、すげーちっちゃいガキの相手してるみたいな気分になるぜ」 「同い年だけど」 「ん、だよなあ、なんでだろうな……」 順平が首を傾げている。僕だって良く分からない。 僕らが話し込んでいると、また扉が開いて何人かの生徒が顔を出した。 「ちょっと、倒れたって聞いたんだけど、あの子大丈夫だった?」 「お、ゆかりッチに風花じゃん。良かったじゃんお前〜、モテモテだなぁオイ?」 珍しい顔を見たなと僕は思う。岳羽と一緒にいるのは、隣のクラスの山岸だ。確か同じ寮だったけど、学校で顔を合わせることは少ない。 保健の江戸川は出払っているのに、こういう時に限って急病人が増えるのか、そうこうしているうちにどんどん人数が増えていく。 「邪魔するぞ」 まずボクシング部主将の真田先輩だ。どこか怪我でもしたのだろうか。彼はどうしてか、初等部の天田を連れていた。二人とも同じ寮生だ。 「あれ、真田さんじゃないスか。怪我ッスか?」 「いや……部室に置いている救急箱の包帯が切れ」 「あれ? あの人のお見舞いじゃないんですか? あの、同じ寮生の」 「…………」 みんなはぐるっと首を巡らして僕を見る。僕は個人的に真田先輩と話したことはあまり無かったはずだ。彼はどうして僕のことを知っているんだろう。 そうしているうちに、また新しい顔が入ってくる。驚いたことに、三年生の桐条先輩だ。この学校の出資元にもなっている桐条グループのトップで、生徒会長をやっていて、なんだかちょっと違う世界を生きているような人だった。この人でも具合を悪くしたり、どこか怪我をしたりするんだろうか。そう考えて、僕は当たり前かと思う。彼女だって人間なのだ。 「美鶴、どうした」 「いや……生徒会に、顔を出すつもりだったんだが……」 桐条先輩が僕を見て、変な顔をしている。 「メンバーの彼が倒れたと聞いてな。様子を見にきた」 「お前が?」 「……悪いか。私だって後輩の心配くらいするさ」 「なんか、意外ー……」 岳羽がぽかんとしている。僕も同じような気分だったが、なんだか変にくすぐったくなってきた。なんだこれ、と僕は考える。なんでこんなに、僕は嬉しくなっているんだろう。 「でも、僕らだって同じようなものですよ、真田先輩」 「ああ……まあ、そうだな。そいつが倒れたと聞いて、何故か分からんが、妙な気分になった。理由は分からんが、すぐに駆け付けなきゃならんような気分に……あまり面識もないはずだが」 「でも面白いくらいに寮のメンバー集まっちゃったッスね……スゲーなお前。なんか磁力出してんじゃねぇの?」 順平があっけに取られた顔で言う。僕はわけもなくすごくおかしくなってきて、くすくす笑った。みんなも釣られるようにして、にやっと顔を崩し、にこにこ笑い出す。 「ほ、ほんと。おっかしー、ねぇ……」 「磁石って、ホントにそんな感じだね」 「まったく、わけがわからないな」 「まったくだ」 「ホントです」 僕は笑って、でも急に喉が詰まって、咳込んだ。順平がすぐに気付いて、僕を抱いて背中を擦ってくれた。 「あー、あああ、だっ、大丈夫か? また例の発作か?」 「――んっ、……へー、きっ」 僕は「ごめん」と謝って、滲んできた涙を拭って、順平を見上げる。 「わる……なんか、いっつも、迷惑、掛け……」 「い、いいって。それよりお前、無理すんなつっただろーがよ。体育だって休めつってんのに聞きやしねーしよ」 「――って、おれ、がっこ、好きだから」 「はぁ? わっけわかんねー、タリーしめんどくせーだけじゃん。わっかんねー……」 「ん……」 僕はようやく咳が収まると、ふうっと息を吐いて、胸を撫で下ろす。 「――じゅんぺ、も、へーき」 「マジでか?」 「ん、」 なんでこんなふうになるのか分からない。僕はただ学校へ行って、みんなと同じように過ごしているだけだ。なのに、ひどく疲れてしまう。身体を動かすのさえ億劫だ。だからいつもこうやって順平に迷惑を掛けてしまう。 「……大丈夫?」 「……ん、」 「また、前みたいに元気になるといいね」 「うん……」 「そうだよなー、こいつ前はすっげー元気だったよな。あ、わかったお前、掛け持ちし過ぎだ。アレが悪かったんだ。過労じゃねー?」 「そ、かな?」 「まあ、確かにやり過ぎだとは思っていたが……」 「すまないな。苦労を掛ける」 「いえ……」 「無理し過ぎは今後控えてくださいね。もういい大人なんですから」 僕は頷く。なんでみんなは、僕が部活を掛け持ちしたり、生徒会に所属していることを当たり前みたいに知っているんだろう。 それに今置かれている状況も変な感じだ。みんな、僕の身体のことをすごく良く分かっているみたいな顔をしている。まるで末期患者を看取ろうとする家族みたいな顔つきだ。縁起でもない。 「……ねぇ、いい機会だしさ、今日の夜はこのメンバーで親睦会でもやらない? おんなじ寮生なわけだし」 「おっ、いーねぇゆかりッチ!」 「私も賛成です」 「君は? 平気か」 桐条先輩が僕の頭を撫でて言う。この人は、なんでこんなに子供にするみたいに僕に触るんだろう。ともかく、僕は頷く。 「彼も参加できるそうだ」 「え、マジっすか! 桐条先輩と一緒にお食事?!」 「……順平、アンタはもう黙ってて」 「お前は何か食いたいものがあるか」 真田先輩が僕の頭を撫でて言う。――この人もだ。なんで僕の頭を撫でるのだ。一歳しか違わないのに。 「……俺、ですか」 「あなた、何が好きなんですか? 好物とかあるんですか?」 小学生の天田少年に聞かれて、僕はちょっと考えて、答えた。 「……クリームソーダ」 「…………」 「あと、チーズケーキ。……プリンも好き」 「…………」 「空気詠み人知らずめ……」 みんなが頭を抱えて、はあっと溜息を吐いた。 「……それは食事には入らん。そんなに食いたきゃ今度シャガールへ連れてってやるから。そうだな、なんだ、寿司は食えるか」 「あ、はい。好きです」 「じゃあ決まりだな。美鶴、寿司だそうだ」 「わかった」 みんなはほっとしたようだ。「楽しみだね」とか「僕はタマゴで」とか言っている。 「まったく、お前しょーがねーなー。ちゃんとメシ食ってるか? ん?」 「ホントだよ。ちゃんと身体、大事にしてよね」 「あの……良かったら、ごはん、作ってあげようか……?」 「……差し出がましいようですが、それは止めてあげたほうが良いと思いますね。彼のためにも」 「まったく、お前ももういい大人だろう。体調管理はしっかりしていろ」 「明彦、食生活が乱れきったお前にだけは、彼も言われたくないと思うぞ」 みんなわいわい騒ぎながら僕を気遣ってくれる。 僕はなんだか胸が詰まったようになった。なんだかすごく眩い世界にいるみたいな気分だった。 僕はその時、どうしても言わなきゃならない言葉があるような気がしていた。その言葉を彼らに言うためだけに、僕は今ここにいるんだと言う気がしていた。 「……あの、……みんな」 みんなが僕を見る。僕は精一杯微笑んで、彼らに僕の気持ちを告げた。 「――ありがとう。俺は、ほんとに幸せ者です」 その時なんでそんな言葉が出てきたのか、僕にはわからない。ただ僕のなかから溢れてきたのだ。僕はみんなに、どうしてもありがとうと伝えたかったのだ。 「なに水臭ぇこと言っちゃってんのよ、この不思議ちゃんは」 順平が笑って僕の首に腕を回した。 ほんとに僕は幸せ者だ。今を生きれて、ほんとに良かった。 |