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僕が全部を思い出したのは、言うべき言葉を吐き出した次の瞬間だった。僕の記憶はその時、僕のなかへ還ってきたのだ。 残念なことにみんなは影時間もペルソナのことも覚えてはいなかった。でも僕はそれでもいいと思う。記憶が無くなっても僕らを繋いでいる絆は本物なのだ。僕は間違いなく彼らの中で生きているのだ。『S.E.E.S』のリーダーじゃなくても、彼らは僕の友達になってくれたし、すごく優しくしてくれた。 僕はそうして穏やかに、残された僅かな時間を過ごした。 卒業式の朝、僕が自室で相変わらずポンコツの身体を持て余していると、扉がノックされた。扉を開けるとアイギスの姿がある。彼女はすごく思い詰めた顔をしていて、僕の顔を見ると驚いたふうに息を呑んだ。 「あ……大丈夫、ですか。ひどい顔を、しています……」 「うん。全然、大丈夫。すごく気分がいい。最近暖かくなったよな。春が来たんだ」 「……はい」 アイギスは俯いて唇を噛んでいる。彼女は「でもあまり好きな季節ではありません」と言った。 「お別れの季節です。……約束の、時間です」 「うん」 僕は頷く。アイギスは消え入りそうな声で、「思い出したんです」と言った。 「全部、わたしの中に還ってきたんです。影時間のことも、あなたのことも、だからわたし、あなたが消えてしまうんじゃないかって……」 そこまで言い掛けて、彼女は自分の言葉に怯えたように押し黙った。それから無理をしていると分かる声色で、「変ですよね」と明るく言った。 「時間……もう卒業式、始まっちゃってますね」 「うん。困ってたところ」 僕は苦笑いをして、「助かった」と言った。 「……手を貸して欲しいんだ。ちょっと、一人じゃ辿り付けそうになくて」 「……! はい……」 「ごめんな、アイギス」 僕は謝る。 「ほんとに、ごめんな……」 ◇◆◇◆◇ 「すごく良いお天気ですよ」 僕はアイギスに肩を貸してもらいながら、登校時間を過ぎたせいであまり人気のない通学路をよたよた歩いていく。道往く人たちが、僕らを怪訝な目で見て過ぎていく。 無理もない。なにも知らない人たちからすれば、同年代の華奢な少女に手間を掛けているふうに見えるのだ。今の僕は男としてちょっと情けなさ過ぎる。でも僕は微笑んでいる。すごく機嫌が良かった。 「うん。あったかいな。卒業式終わって休みになったら、どこか行きたいよな。お弁当持って、綺麗なとこにさ。俺頑張ってみんなの分作るよ。アイギスも手伝ってくれるよな」 「はい、もちろんです」 「どこがいいかな……俺、みんなが好きそうなところって想像つかない。そう言えばアイギスって港区からほとんど出たことないんだよな」 「ええ……私は、兵器でしたから。どこかへ遊びに行くとか、そういうのはありませんでした」 「この街の外にもずっと世界が広がってるんだ。夜になるときらきら光ってて、すごく綺麗なんだ。夜空の月から見ると、その灯りのほうが本物の夜空に見える。君にも見せたいな」 「……いつか、見せて下さい。あなたが綺麗だと感じたひかり、わたしも見たいです」 「うん。楽しいところはたくさんあるんだ。遊園地とか、プラネタリウムとか、動物園とか、ただ山に登るだけでも楽しいし、前みたいに綺麗な海もいいよな。また屋久島行きたいな、みんなで。今度は綾時と天田とコロマルも連れてさ」 「ええ、きっと行けますよ。あなたとわたしと綾時さんと、みなさんと、きっと楽しいと思います」 「うん」 僕はそこで咳込んでしまった。ちょっとはしゃぎ過ぎたみたいだ。心配そうに覗き込んでくるアイギスに「大丈夫だから」と微笑んで、そして僕らは約束の場所に辿り付く。 屋上へ続く扉を開ける。遠くから誰かのスピーチの声が聞こえてくる。あのトーンは校長先生のものだ。多分また長い退屈な話をして、聞かされている生徒をげんなりさせているんだろう。 ベンチの上に倒れ込むようにして座り、僕は目の前に広がる遠い街並を見る。 これが僕が愛する港区の風景だ。僕が守りたかった愛すべき世界だ。みんなはそれぞれの命の炎を燃やしながら、今日も思い思いに精一杯生きている。 喧騒の音がかすかに聞こえる。電車のベル、トラックが走る音、風が鳴る音、鳥の鳴き声。みんな僕がこの一年間融けていた日常そのものだ。 アイギスが隣に座り、僕の頭を抱いてくれた。膝枕をされる格好になって、僕はちょっと照れ臭くなる。女の子の太腿はすごく柔らかい。 「――手紙さ」 「はい」 「アイギスの分、絶対他の奴に見せるなよ」 「恥ずかしいことでも書いてあるのですか?」 「……うん、まあ」 僕は顔を赤らめる。こればっかりは誰にも、たとえ綾時にだって見せられない。恥ずかしすぎる。アイギスは頷いて、「わかりました」と言った。 「安心して下さい。あなたが嫌がることを、わたしはしません」 「ん……ありがとう、」 僕はアイギスの腰に抱き付いて、彼女を呼ぶ。 「――お母さん」 アイギスが微笑み、僕の頭を撫でて、髪を梳いてくれている。僕は彼女の繊細な指を見て、ちょっと驚いてしまった。 「アイギス、その手……」 「わたしの手が、どうかしましたか?」 アイギスは不思議そうな顔をしている。僕にはそっちが不思議だった。すごいことなんだから、もうちょっと喜んだって良いのに。 僕は彼女の手を取って、両手で包んで、笑う。 「――温かい」 「え……」 「柔らかい。血が通ってる。心臓の、音が聞こえる。人の手だ」 「え、」 「人間になれたんだ、アイギス。やったな」 アイギスははしゃぐ僕にちょっと悲しそうに笑って、「わたしにはいつものとおりに見えます」と言った。 「鉄でできた、冷たく硬い手です。――でも、あなたがそうだと言うのなら、きっとわたしは本当に人間になれたんでしょう」 僕は頷く。 「あなたがいたから、わたしはわたしになれた。あなたは、わたしが生きる意味そのものなんです。わたしはこれからもずっとずっとあなたのそばで、あなたのことを守りたい」 「うん」 僕は微笑む。 「俺たちは、ずっとずっと友達だよ」 アイギスが僕の頬に触れて、にっこり笑う。僕は彼女がすごく綺麗だと思う。アイギスの目からは透明な涙が幾筋も幾筋も零れている。 僕は手を伸ばし、「泣かないで」と言う。 「――俺のことを好きになってくれてありがとう。次に目が覚めた時には、俺が知らないことを教えてくれよ。楽しいことも、悲しいことも、たくさん、君の心が感じたままにさ」 「はい」 「ん……あ、なぁ、アイギス」 「……はい」 僕は彼女の顔を見て、ふと思ったことを口にした。 「君は笑ってても、泣いてても綺麗だな」 僕は言ってしまってから、この言い方はなんだか綾時みたいだなと思った。でも本当にそう思ったのだ。 彼女はびっくりしたように目を見開いて、それから顔を赤くして、はにかんで微笑んだ。 その顔は、やっぱり綺麗だった。 「……おやすみ」 ◇◆◇◆◇ そして僕は駆け出す。小さな手足を一生懸命動かして走る。階段を駆け下り、廊下を往き、購買の前を通ったところで、こっちに向かって駆けてくるみんなの姿を見る。みんな揃って明るい表情だ。そこには未来への期待のひかりが輝いている。 通り過ぎる時、みんなは僕を見て変な顔をした。 「――初等部の生徒がなんでこんなトコにいんのよ」 「なんか今のガキ、あいつに似てねェ?」 「……ねえ?」 彼らは振り返って僕を見た。だから僕も振り返り、精一杯のありがとうを込めて笑って、たくさん手を振った。 「――! 待て!」 行事予定が貼り出されている掲示板、靴箱、僕がこの一年間、毎日毎日通った道を走り抜け、僕は僕を待っている人のもとへ駆けていく。 「――えっ、あそこの父兄って、うそ……綾時、くん……?」 綾時は玄関の扉にもたれかかって、僕を待っていてくれた。彼は僕を見付けると、『もういいの?』とでも言うように、穏やかに微笑んだ。 うん、僕は、もうだいじょうぶ。 「リョージっ! そいつ、連れてくなよ! お前も帰ってこいよ、なあっ、この馬鹿野郎どもがあっ!!」 僕は床を蹴って、勢い良く綾時に抱きつく。 綾時は僕をちゃんと抱き止めてくれて、僕を伸ばした両腕で抱いてぐるんと一回転して、床に下ろしてくれた。 そして僕は差し伸べられた手を取って、綾時を見上げて、ふたりで微笑み合った。 お父さんと僕のふたりは手を繋いで歩き出す。 生命が溢れるこの星を慈しみながら、白いひかりの彼方の遠い世界まで、ずうっと一緒に歩いていく。 どこまでもどこまでも、どこまでも、僕らはふたりで歩いていく。 |