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光が消えて、目の前に冷たい色の回廊が現れる。僕は来た路を振り返る。淡いグリーンのぽうっとした明かりが、ターミナルに灯っている。 「ジン、こいつを停止させられるか?」 「ちょっと弄ったったらエエだけやけど。なんや、あいつらホンマに来る思てんのん?」 「うん。きっと来る」 「ターミナルなんか、塔の中にぎょうさんあるやん」 「足止めにはなる。……嫌がらせにしかならないかもしれないけど」 「了解」 ジンが装置を弄ると、割合簡単にターミナルの光は消えた。 「急ぎましょう」 タカヤが言う。 「約束の時間はもうすぐです」 「うん」 僕は頷く。 ◇◆◇◆◇ 遥か彼方の地上は、雲のようなもやに隠れて見えない。そう言えばこの塔の内部は、中だけで完結している異質な空間だったから、雲の下にあるのが僕らの街だという保証はない。 もしかすると、そこには本物の地獄があるのかもしれない。でももう何も怖くない。滅びはすべてに平等だ。天国も地獄も、今人類に染み込んでいるカルト思想も、人類そのものも、その生命の輝きも、じきにふっと掻き消える。蝋燭の炎を吹き消すように、すごく簡単にだ。後に残るのはただ深い影たちだけだ。 外壁のない回廊を、僕らは高く高くまで上っていく。僕はいつか綾時と一緒に見た星空のことを思い出す。あのどこまでもどこまでも高く昇っていく感触を思い浮かべる。あのまま燃え尽きて灰になったって良かったけれど、僕はまだ生きている。 一月とちょっとの間の記憶はなんだかぼんやりしている。あんまりに平凡で、ありきたりで、普通の日常だったからかもしれない。 タカヤとジンは宗教だとかカルトだとか騒いでいたけど、そんなのは僕の知ったこっちゃない。いつも通りがそこにあるだけで、僕は大分満足だった。三食クリームソーダ付き、昼寝付き、僕がゴネたらたまにチーズケーキ付き。ケーキは三等分する。僕の取り分は大分少なくなるが、一人で食べるより、みんなで食べたほうが美味しい。だからまあ、そこは許してやってもいい。 ――僕は綾時と待ち合わせをしているのだ。 子供の頃みたいに秘密の約束をして、僕はいつもちょっと早く来て僕を待っている綾時のところへ駆けていく。 綾時はいつもそうなのだ。時間きっかりなんてない。いつもちょっとばかり早い。わくわくし過ぎて待ちきれなかったなんて子供みたいなことを言う。 頂上が見えてくる。 でもまだそこに綾時の姿はない。僕は、ちょっとがっかりする。今日ばっかりはちょうどの時間に来ることにしたのかもしれない。 「……ホンマに、ここまで来れたなぁ」 ジンがほっとしたような、くたびれたような声で、感慨深そうに言った。タカヤが「ええそうですね」と頷く。 「ジン、カオナシ、あなたたちとここまで来ることができた。私は、それを嬉しく思う」 「チドリも一緒に連れてきたりたかったな」 「すぐに同じものになれる。滅びは平等だ。後か先かなんてどうでもいい」 「あんたは最後までメカっぽい奴やったな。ちゃんと喜んどるんか? また『どうでもエエ』思てるんちゃうか?」 「思ってない。二人とここまで来れたことはちゃんと嬉しいと思ってる」 僕は微笑んで言う。 「トモダチ、だからな」 ふたりはちょっとびっくりしたような顔をしている。まったく彼らは僕を何だと思っているんだ。 「なんや、くすぐったいわあ。なんやそれ、トモダチてあんた」 「あなたがそういうことを言うとは。意外です」 ふたりは笑っている。僕は、僕の人生を振り返る。捻れ曲っていたが、まあ悪くはない人生だったと思う。嫌なことや辛いことばかりだったような気がしていたのに、今になって思い出されるのは、楽しかったことや嬉しかったことばかりなのだ。 綾時とふたりで過ごしたことや、友達と遊んだこと、それと知らずに僕はいろんな場面において、常になけなしの心でいろいろなことを感じていたのだ。 僕には心なんかない。でも、僕が棄てきれずに取っておいた僕の心の大事な部分というものは、確かに僕の中にずっとあったのだ。それはまぎれもない僕の心だ。 僕はシャドウでも機械でもない。僕は僕だ。もう一度人生を一からやり直すとしても、僕は僕以外の誰かの人生を選び取らずに、またろくでもない僕の人生を生きるだろう。必ずだ。 僕は最期を前にして、僕が出会った様々な人たちの顔を思い浮かべる。綾時。アイギス。お母さん。幾月さんをはじめとする、桐条のドクターたち。研究所に集められた孤児たち。学校の友達。街で出会った人たち。巌戸台分寮の特別課外活動部のメンバーたち。そして僕と一緒に最後まで生き残ったジンとタカヤのふたり。今はいないチドリ。僕が大好きだったみんなだ。いろんなひどいこともあったけど、僕はきっと彼らのことが好きだったんだと思う。 僕らがやってきた路を、再び誰かが踏み締める音が聞こえる。僕はゆっくり振り向く。そこには思った通り、少し前まで僕の仲間だったひとたちの顔があった。 「――来ると思ってた」 「やあ、こんばんは。あなたがたと共に滅びを迎えるのも、悪くはないと思っていたところです」 「ホンマに来よったなぁ。あ、ターミナル止めたんはカオナシやで。わし知らんで」 僕らは穏やかに微笑んで、彼らを出迎える。もうすぐ終わりが来る。 でも彼らの顔に諦めはない。アイギスが強い痛みを感じた顔で、僕を見ている。僕は彼女に笑いかける。 「――アイギス。もうすぐだ。ここで一緒にニュクスを待とう」 「……わたしは、」 彼女は泣きそうな顔だ。僕は彼女にそんな顔をされると、すごく苦しくなる。綾時が泣き出した時みたいに、胸をぎゅっと掴まれるような気がする。 「わたしは、生きたいです。あなたと一緒に未来まで、もっともっと一緒にいたいです」 「……滅べば、みんなずっと一緒だよ」 「それでもわたしは生きたい。あなたを守りながら、わたしはあなたの傍にいることを感じたい」 「そっか……」 僕は頷き、「ごめん」と言う。意見が違っても、僕は彼女を敵だと認識することがどうしてもできない。昔なら処分されていたはずだ。でも今は違う。何を感じても、誰も怒らないのだ。僕はこの一月でそれを知った。 「……もうすぐ全部終わるのに、僕は嬉しいんだ。僕はやっと自由になれたんだ。もう誰にもひどいことをしなくていいんだ。僕は僕の心のままに、過去より未来より今を生きることができる。大好きな人をここで待っていられる。幸せなんだ。ほんとにほんとに、僕こんなに幸せな気持ちになったのって、きっと初めてだと思うんだ」 「……バッカ野郎が!」 また順平に怒られた。僕は頷き、「ごめんな」と言った。 「順平、ごめんな。……初めてお前に話し掛けられた時、僕はすごく嬉しかったんだ。知らない場所にひとりきりで不安だったから。お前はなんだか僕のことが嫌いみたいだけど、僕はお前が好きだよ。普通のトモダチみたいになれて、嬉しかった」 「『みたい』って何だよ? 友達なんだよ!」 怒鳴られたけど、僕はすごく嬉しかった。僕は笑う。 「――みんな、ごめん。大好きだ」 「遺言みたいに言うなよ! まだまだこれからだろうが! オレは諦めてねーんだからな!」 僕は僅かな大気の動きを感じて、ふっと空を見上げる。空からなにかがやってくる。影時間の巨大な月から、この滅びの塔に降りてくる。 「――あ」 すごく懐かしいシルエットが浮かび上がる。僕の目に、じわっと涙が浮かんできた。 僕は剣を棄てて駆け出す。僕の剣が硬い回廊の床にぶつかって、乾いた音を立てるのが、背中の後ろで聞こえた。 「――カオナシ、行きィ!!」 「本当に無粋な人たちだ。その滑稽さ、まったく救いようがない……!」 戦いがはじまる。僕は構わず階段を上る。昇って、昇っていく。 「――りょうじ、」 僕の足はすごく軽やかに地面を蹴る。身体が軽くて仕方がない。すごくいい気持ちだった。約束の時間だ。 子供の頃、待ち合わせの場所へ駆けていったあの時のままに、僕はその人の元へ、一生懸命駆けていく。 「りょうじ、りょうじっ、」 涙が零れる。僕はまた嬉しくて泣き出していた。でも今はこれがおかしいとも、恥ずかしいとも思わなかった。 そして僕は、塔の頂上の上空に佇む、月から来訪したニュクスの化身を見る。 僕は随分長い間迷子になっていて、今になってやっと、ちょっと頼りないけど格好良くて、僕を好きでいてくれる、僕が一番大好きなその人を見付けたのだ。 僕の、お父さんだ。 腕を広げて塔のへりを蹴る。僕は泣きながらその人に飛び付く。 僕は当たり前のように大事に抱き止められて、抱き締められる。 なんでもない抱擁がこんなに幸せなことだなんて、その人と当たり前にいた子供の頃の僕は全然知らなかった。 僕は嬉しくてたまらなくなる。これからは、ずーっと一緒だ。 僕は、たぶん世界中で一番幸せな人間だ。 ――そして、夜空が割れる。 |