父さんと僕とニュクス親衛隊[3]



「ゆかりッチいいいい!」
 僕を担いで順平が駆ける。いつもプラプラしているけど、タルタロスで鍛えた足腰と腕力はまだ鈍ってはいないみたいだ。そう言えばたまに野球部に顔を見せるようになったって聞いたことがあるような気がする。あのいつもの豪快なフルスイングを披露していたりするんだろうか。
 放課後の校舎にはもうあまり人は残っていなかったけど、稀にすれ違った生徒は僕らを見てぽかんと口を開けていた。まあ無理もない。
 弓道部の扉をほとんど蹴り開けるみたいにして、僕らは部室に転がり込んだ。そしてこういう時に限って間の悪いことに、僕らの目の前には下着姿の岳羽がいた。
 僕はこの時、なんとなく達観した気持ちで考えていた。順平は多分こういう間の悪い星の下に生まれてしまった男なのだ。それも近くにいる人間まで巻き込んでしまうのだから始末が悪い。あの屋久島と修学旅行の悪夢、僕はまだ忘れたわけじゃないのだ。多分一生忘れない。
「い、い……――いやああああああぁっ!!」
 岳羽のボディ・ブローが順平を軽々吹き飛ばした。あの大きな身体をだ。女の子の細腕でなんでそんなことができるのか、僕には理解できない。
 それよりも、これは他人事じゃないのだ。次は僕が空を飛んで柱だかロッカーだかに顔面から突っ込む羽目になるのは確定している。どうしよう。
「死ね順平ッ!! ――もう、キミも! ちょっとデリカシーなさすぎ! 出てってよ!!」
 岳羽が真っ赤な顔で頬を膨らませて、僕を叱り付けた。ラボにいた頃に見た、人慣れしていないモルモットみたいな顔だ。
 大体着替えの最中に鍵を掛け忘れた岳羽も悪いとは思ったが、口にするとまた引っ叩かれそうなので、黙ったままでいる。そもそも僕は順平がこんな暴挙に出るとは思わなかったのだ。ノックくらいするべきだった。
 順平は備品の山に頭から突っ込んで痙攣していたが、ひどく慌てた様子でがばっと起き上がって、僕の肩を抱いて岳羽のほうに突き出した。
「なにこの扱いの差?! ひいきだ! や、それよりゆかりッチ助けて! なんとかしてコレ!」
「はぁ?! もーなんでもいーから早く出ていきなさいよッ!!」
「えーちゃんが! エージが女の子でボインが柔らかくてノーブラで乳首が大変なことに!?」
 順平はかなり錯乱しているようで、わけのわからないことをべらべら喋っている。僕も分からない。岳羽はもっと分からないだろう。『ハア?』って顔をして、僕のほうを見て、さっき教室で見た順平と、ほとんど同じ顔で硬直した。
「……なんか、良くわかんないんだけど」
 僕はぼそぼそ、半分弁解するような心地で言った。岳羽が縋るような目で順平を見た。順平も『助けて』って子犬みたいな目で岳羽を見つめている。
「……順平……あんた一体今回は何をやらかしたの……」
「オレっちのせい?! いやいやいや、オレなんもしてないもん! ほんとだもん!!」
「あの……栄くん? なにそれ」
「胸?」
「いやっ、違え! そーじゃねえ! 誰かに見られたらコトなんだぞ、お前のその面白パワーは! わかってんのかよ?!」
 怒られてしまった。順平はかなり情けない顔で、「頼むよゆかりッチ」と言った。
「そのっ、なんでとかどーしてとかは後で考えることにしてさ……とりあえず、このままってのも、アレで……視覚的にちょっと、あのアレで、透けてて、――その、処置をお願いしたく」
「あ、え? あ、うん」
 岳羽は大分呆然としていたが、そこでようやく自分がまだ下着姿だということを思い出したらしく(ピンクだった)、顔を真っ赤にして順平に鞄を投げ付けた。
「ちょっ、出てってとりあえず、あんたは! あんた男でしょ?! 変態!」
「……ごめん、岳羽。外で待ってる」
「あぁあ、栄くんは……えーと、どうなんだろこの場合……」
「ととと、とりあえず外で待ってっから!」
 順平がまた僕を抱えて、廊下へ出て、部室のドアにもたれて座り込んだ。人気がないのが本当にありがたかった。こんなところを誰かに見られたりしたら、職員室に呼び出された上に『伊織順平と望月栄時は女の子の生着替えに乱入する全校女子生徒の敵』とかすごく嫌な噂が流れるだろうと思うと憂鬱になる。順平とセットという点が更に嫌だ。綾時に合わせる顔がない。――いや、綾時なら「なんで僕も混ぜてくれなかったのっ!」と違う意味で怒り出しそうな気もする。もう勘弁して欲しい。
「……なぁ、えーちゃん」
「なに?」
 順平のことだから、『ゆかりッチピンクだったな』とか言い出すんだろうなと僕は見当を付けてみたが、彼が言ったのは全然別のことだった。
「……その、どーなってんの?」
「ん?」
「上は、わかるのね。うん。見え見えだから。その、下、が」
「うん」
 僕は順平が言いたいことを悟って、頷いた。とりあえず正座して、ズボンのベルトを緩め、ジッパーを下ろす。
 パンツの中には、なにも無かった。
「ない」
「えっ、うわっマジか……み、見ていい?」
「ん、」
「うわっスゲ、マジかよ。あ、えーちゃん毛ェ薄いのね」
「そう? 普通だと思うけど」
「え、じゃ、この下のほうも女の子なの? エッチなこと考えると濡れちゃうの? にょ、女体?!」
「バカ、お前エロ本読みすぎ。エッチなDVD観過ぎ。もーバッカ、さわんなよ、胸ぇ」
 順平が興味津々みたいな顔で胸を触ってくるものだから、僕はくすぐったくてくすくす笑った。
「すげーすげー、えーちゃん最高! ちょっ、顔埋めていい? オレっち女の子の乳に窒息させられんのが夢なんだわ。百円あげるから」
「安っ! やぁだよもーバカ、」
「えーちゃん「いやーん」つってみて「いやーん」って!」
「いやーん順平のバカぁ、っはは」
 僕らがそうやってじゃれていると、急にすごい勢いで部室のドアが開いた。ドアにもたれかかっていた僕らは、成す術なく弾き飛ばされて廊下に転がった。
「いたた、もードア開ける時は反対側の確認お願いしまーす……うっ、すんません」
「岳羽、痛いじゃ……あっ、ごめんなさい」
 僕らが顔を上げると、そこには鬼がいた。目が爛々と輝いていて、全身小刻みに震えている。あんまり怖くて、僕と順平は抱き合って震えた。
「なにしてんの……処刑、されたいの……?」
「えっ、いっ、いやです、もうホンットすんません、勘弁してください。生まれてきて恥ずかしいッス」
「も、もうしません、痛くしないでください。申し訳ありませんでした」
 岳羽はたまにすごく怖い。こうやって悪のりするとキレるのだ。順平も縮み上がってしまっていて、『なんだよーノリ悪ぃぜゆかりッチよぉ〜』といつもみたいに軽く流すこともできそうになかった。
「……栄くん」
「は、はい」
「順平のノリに付き合ってやることないから。うっかり赤ちゃんデキちゃってからじゃ遅いのよ? ちゃんと危機感持ちなさいよ。わかってんの」
「えっ……なんか良くわかんないけど、もうしません。すみません」
「順平」
「はははいっ」
「綾時くんにチクるから」
「か、勘弁して下さい! 殺される! 宣告されちゃうッスよ!!」
「自業自得。栄くん? 入って。順平はそこで自分のHPの残量でも数えてなさい」
「ひ……処刑される……密室殺人事件の被害者にされる……!」
「こっ、殺される……! 黄色いマフラーの死神が鎖の音と一緒に近付いてくる……!」
「順平!」
「えーちゃん!」
「……私、そのノリ嫌いだな」
 ものすごく冷たい声で吐き棄てられて、僕は順平と一緒に『すみませんでした』と声を揃えて、土下座した。怒った岳羽は本当に怖い。下着は可愛いのに。





◇◆◇◆◇





「えーと、じゃあとりあえず……上着、脱いで」
 僕は頷く。女子に裸を見られるのは大分抵抗があったが、そう言えば僕も身体は女子なのだ、今は、どういうことか。岳羽は「覚悟はしてたけど、やっぱりこう来たか」とぼやいて、僕の胸を無造作にぎゅっと掴んだ。
「うわっ、岳羽!」
 僕は悲鳴を上げた。いくらなんでもあんまりだ。個室で女子に裸の胸を触られるなんて、男としてすごくドキドキする状況には違いないが、嬉しいとか言う以前にぞわぞわする。だって岳羽ときたら容赦なしなのだ。触るどころじゃなくて揉んでいる。
 僕は女子にありがちな過剰なスキンシップのことを思い出していた。一緒にトイレ、一緒に着替え、『やだぁあんた胸おっきいじゃん』と胸の触りあい、僕ら男は遠巻きにそいつを眺めて目の保養だとかお花畑だとか思っているのだが、触られている女子にしてみれば恥ずかしいし情けなくなってくるし、たまったもんじゃないのだ。そういうことを僕は今理解した。触られる女子の気分を知った。ほんとに、『やだぁやめてよー』の気分だ。そんな感じなのだ。止めてくれ。こんな気持ち知りたくなかった。
「うわぁ、ホンモノ……しかもかたちキレイ。あ、なんか腹立ってきた。もっと揉んでやる」
「そっ、ちょっ、それやだって、うわっ助けろ順平っ!」
「エージぃいー! えーちゃんがゆかりッチに犯される!」
 部室のドアがばんばん外から叩かれるが、鍵が掛かっているせいで開かないようだ。僕は本当にこのまま岳羽に犯される羽目になったらどうしようと青くなった。だって目が普通じゃないのだ。『この野郎苛めてやる、無茶苦茶にしてやる』って顔をしている。
「なにびくびくしてんのよ、嫌ね。栄くん、ちょっとじっとしててね」
「あ、うん」
 僕は大分怖々と頷いた。岳羽は鞄からメディカルキットを取り出して、絆創膏の封を開けた。可愛いピンク色で、水玉模様だった。そいつを僕の胸に貼った。ちょうど乳首の上だ。見た感じ、ちょっと間抜けなんじゃないだろうか。
「なにこれ」
「そう都合良く下着の替えなんて持ってきてるわけないでしょ。とりあえず応急処置。ブラ付けないとシャツ着た時に大変だから。透けるしかたちがそのまま出ちゃうんだから、帰りにちゃんと買うのよ?」
「え……勘弁しろよ」
「お子様が口答えするんじゃないわよ」
「だ、だってそれ、痛いだろ。その、男が、女性用下着売り場で。黒沢さんに怒られる」
「……はあ。だから栄くん、自分の身体見てもの言いなさいよ。今のキミはどこからどう見たって可愛い女の子なんだからね」
「か、可愛い?」
 僕は予想しなかったことを聞いて、首を傾げた。岳羽は「うん可愛いよ」と普通に頷いている。僕はちょっと赤くなって、「そうなのかな」と俯いた。
「あの……綾時、どうかな。どう、思うだろ」
「……なにそれ? なんでそこで綾時くんが出てくんの」
「いや、なんかまあいろいろ事情があってな……」
 順平が扉の外からすごく困ったふうに、「またチドリちゃんと喧嘩したみたいなんだよ」と言った。
「そんでおとーさん取られちゃったと思ったみたいでさ、僕が女の子ならパパはもっと僕に構ってくれるのに!ってメソメソしてたら、宇宙パワーでそんなお花畑に」
「正直止めといたほうがいいと思うけどね……綾時くんも大変だと思うし。まあ、お父さんに振り向いてもらいたいって気持ちはわかるけど。私もね、四歳くらいの時にね、『パパのお嫁さんになりたいの』ってすごくおめかしして――
「あ、そうなのか。こういうの、俺だけじゃなかったんだ。良かった」
「人選間違った! ゆかりッチも超ファザコンだった! ちょっそこ、ファザコン同士で親睦を深めないで! あいつすげえ我慢してんのに、ぷつっとキちゃって一線越えちゃったらどうすんのよ?!」
「だってチドリに負けるのは絶対イヤだ」
「お前、なんでそんなチドリを目の敵みたいに……」
 順平の呆れ声が聞こえるが、僕だって嫌だと感じる時はあるのだ。
「ともかく、男子制服のままじゃ変でしょ。こないだうちの部の先輩が卒業する時に残してった制服あるから着替えて」
「え……岳羽、俺女装はちょっと」
「女装じゃなくて、キミ今女の子なんだから。下着買うんでしょ? どうすんの、いつものカッコでランジェリーショップなんか入れないわよ」
「いや、通販でいいだろ。べつに」
「いいからさっさと着なさいよ。今の栄くんが男子制服着てるとね、なんか変にやらしいんだから。勘ぐられちゃうでしょ? ほら、彼氏の借りたとかなんとかさ」
「う……」
 岳羽が言っている意味を理解して、僕は顔を赤くした。ちょっとそれは恥ずかしい。
「で、でも多分サイズ合わないぞ。俺背丈180くらいあるから」
「うん栄くん、多分そのうち20センチくらいは幻想よ。大丈夫」
 僕は20センチはあんまりだと思ったが(まあ10センチ程度の誤差はあるかもしれないが)、渋々女子制服を受けとって、岳羽に「見るなよ」と言い置いてから、のろのろ着替えをはじめた。悲しいことに、サイズはぴったりだった。僕は今日からもっとカルシウムを取ることにする。
「はいできあがり。順平、もういいよ」
 岳羽が部室の鍵を開けると、順平が興味津々と言ったふうに顔を出して、「うおお!」と心底びっくりした声で叫んだ。
「イイって! イケるって! なんかその、イケちゃいけない気もするけどたぶん!」
「あ、あんま見んなよ。かなり自分でも情けないんだから」
「えーちゃんすっげかわいいって! うわ、腰すっげーエロい、脚セクシーだなお前、あ、パンツは?」
 順平が僕のスカートを捲り(まあやってみたくなる気持ちは分かる)、岳羽にまたボディ・ブローを食らっている。でも彼はどうしたのか、大分不満そうだった。
「ショートパンツ……体操服かよ、チッくそっ。えーちゃん、そんなん履いてちゃ駄目だから。オレっちが今度スゲーのあげるから。リョージくんがメロメロになっちゃいそうな勝負下着をよ。きっともうすげーぜ、あいつ君しか見えなーいつってメロメロだから、メロメロ」
「……? うん」
「順平、殺すわよ。……それにしても栄くん、その格好してると、なんかどこかで誰かすごく似た子を見たような気がするのよね……どこだっけ」
「……たぶん、気のせい」
 僕は嫌な予感がして、この話題はできるだけ早く流してしまうべきだと考えた。彼女が言っているのはあれだ、例の綾時との女装デートの日の僕のことだ。ばれたらきっと、『あんた男のくせに、元からそういうシュミ? ふーん、まあいいけど』と汚れた雑巾でも見るみたいな目で見られてしまうのだ。絶対に黙秘しよう。
「あー、それにしても、目に入れても痛くねーくらい可愛い子供が、ある日突然頭んなか幼児のまま同い年の美人女子高生になって『パパぁ〜』つって懐いてくるって、すげえ萌えシチュエーションだよな……。畜生リョージ羨ましい」
「あんたまたそんなこと言ってんの?」
 順平がまた余計なことを言って岳羽に睨まれているが、嫌な話題は消えたみたいだ。良かった。僕は心の中で順平に感謝した。





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