とりぼっちのアダム




 目を開くとぎらぎらした色の月が眼球を焼いた。僕は眩しくて、ぎゅっと目を閉じる。ひかりにやられたみたいで、閉じた目から涙が出てきた。頬を伝ってぽたぽた落ちる。僕は目を擦って、今度は空を見ないようにしながら、もう一度目を開けた。
 あたりは蛍光色のグリーンに覆われている。空気の隅々にまで、夜が満ちていた。すごく静かな心地だった。
 そして僕は、僕の身体を見下ろして、変な気分になる。僕が身体を持っているってことが、不思議で仕方ないように思える。なんでだかはわからない。
 僕の身体は、頭から足のつま先まで真っ赤だった。べったり血が貼り付いている。でも僕は、それを不快に思うことはまったくなかった。ただ血が乾いてこびりついてしまうと、ちょっと嫌な気分になった。僕はあの濡れたとろとろした感触がすごく好きなのに。
 僕は、ぼうっと突っ立ったまま、途方に暮れていた。
 僕は何をするべきなのか、わからない。このまま立ったままでいいのか、それとも座るべきなのか。ここにいるべきなのか、どこか他へ行かなきゃならないのか。選択肢が、急に増えてしまったような感じだった。何でもできるんだと考えると、逆に僕は押し潰されそうになる。
 とりあえず、足を一歩前に出してみた。そして、あっこんな感じだ、と納得する。まず僕は歩くべきだ。僕は歩き出す。
 そして次に、僕はどこへ行くべきだろうと考える。歩き出したからには、辿り着く場所があるはずなのだ。僕は歩きながら、うんうん唸って考える。
 路を一歩一歩踏み締めるたびに、僕の裸足の足がぺたっぺたっと音を立てる。たまに赤い水たまりを踏み付けると、ちょっと具合が悪くなる。いい気持ちはしない。なにかこう、足の裏に気持ち悪い感触が触れないように、裸足で歩かなくても良いもの、たとえばそう、靴が欲しいなと考える。
 そこまで考えて、急にふっと気付く。僕はなんでか裸だった。パンツ一枚、靴下一枚履いていない。全裸だ。すっぱだかだ。
「……えっ? ちょっと、なんで僕裸で堂々と街のなか歩いてるわけ……」
 これじゃ変態だ。僕は自分が裸だってことを思い出すと、急に恥ずかしくなってきて、慌ててとりあえず手で前を隠した。でも隠すって言ったって、依然僕が街頭の全裸男だってことに変わりはない。
 僕は露出狂ってわけじゃない。その証拠にこんなに恥ずかしい。でもおまわりさんは僕の言い訳に耳を貸してはくれないだろう。確かこのままでいると捕まえられるのだ。そんなことになったらたまらない。僕は、今の僕の姿が恥ずかしくてたまらない。絶対にあの子には見せられない姿だ。
「あれ、あの子って誰だっけ……いや、そんな場合じゃなくてっ、わああっ」
 僕は慌てて辺りを見回す。誰もいない。棺桶がたくさん突っ立っているだけだ。考えてみればかなり異様な光景かもしれない。『考えてみれば』、考えるごとに僕のなかの違和感は増えていく。でも今の僕は、まず裸だってことが恥ずかしくて仕方がない。
「ふ、服服っ、もー誰でもいいから助けてっ……」
 僕が半べそでわたわたしていると、急にふわっと暖かそうなマフラーが降ってきた。
「……え?」
 僕は空を見上げる。空は相変わらずの蛍光グリーンだ。なんにもない。でも次に靴が降ってくる。僕の目の前で地面にぶつかって、跳ねかえって、ひっくり返り、底を見せたまま転がっている。
 僕はのろのろそれに手を伸ばして、「でもこれはこれで微妙……」と呟いた。
「裸にマフラーと靴って、全裸よりもある意味痛いよね……。できればあとシャツとパンツと、ズボンと靴下。あればいいなあ……なんて」
 駄目元で言ってみた。まさかそう都合良くいくわけないと思ったけど、本当に出てきた。また空から降ってきた。僕は大分騙されているような気持ちになってしまって、空に向かって首を傾げて、「ほんとに?」と言った。
 返事はなかったけど、とにかくこれで手錠は免れる。本当に良かった。誰だかわからないけど、感謝しなきゃいけない。
 ようやく服を着ると、少し落ち付いた。そして僕はまた歩きながら、さっきの続きを考える。僕は歩き出して、これからどこへ行けば良いんだろう。
「うぅん、行くって言ってもこんな時間にどこ行けば良いんだろ……どっちかっていうと、もう早く家に帰りたいよ」
 僕はそこで、はからずもすごくしっくりする言葉を見付けてしまった。
「あ、帰りたい、だ」
 僕は頷く。
「うん、帰りたい。おうちに、帰りたい。戻りたい」
 僕は立ち止まる。
「……行きたくない、おうち帰る……」
 また涙が零れてきた。今度は目が痛いからじゃない。僕はすごく悲しくて、たまらなくなってしまった。立ち止まって、僕は空を見る。涙越しに見る月は相変わらず明るくて眩しい。目を焼く。
 でもなんだか、僕はそいつを眩しいと思うことが悔しいような気がする。僕はお前なんかよりも、もっとずっときれいで眩しくて、明るいものを知ってるんだぞ、と言いたくなる。
 でも上手く言葉で説明することができない。すごく、すごく素敵なものなのだ。色もかたちも思い出せないけど、ただとても小さいもので、大切にしなきゃ、ちょっとの不注意ですぐに壊れてしまうような、繊細な宝物なのだ。それは僕の思い出のなかに、確かにあるものなのだ。
 じーっと月と睨めっこをやっていると、また目が痛くなってきた。ごしごし目を擦って、僕は「どうしよう」と呟く。これからどうしよう。僕は覚えのない場所にいる。ここからどうやって家に帰れば良いんだろう。
 すると、手に触るものがある。のろのろ目をやると、真っ黒で、紙みたいにぺらぺらした腕だった。
 僕の手をちょんちょんと突付いて、僕の顔の前までやってきて、おいでおいでをするみたいにひらひら手招きする。
「こっちおいで、って?」
 黒い手が、ぐっと親指を立てた。『イエス』って言ってるんだろう。でも僕はまごつく。
「でも、知らない人についてったら、怒られちゃうよ」
 黒い手はしょんぼりしたように、へなへな萎れた。まあ悪い手じゃ無さそうだとは思うけど。
 そいつはまた僕の手をとんとんと突付いた。『手、出せ』ってことなんだろうなと思って、僕は右手を上向けて差し出した。黒い手がぺらぺらの指で何か書いていく。
「うは、くすぐったい……え、なに? 『あ』……『あうち』? アウチ?」
 黒い手は違う違うと言うふうに慌てて手を振る。そうだろうなと僕は思う。いきなり出会い頭に「アウチッ」と言われたって、僕としても困っちゃうのだ。
「え、『お』? 『おうち』……あ、おうちに連れてってくれるの?」
 黒い手はまた親指をぐっと立てた。『イエス』だ。僕は「なあんだ」と笑う。ほっとする。
「君、いいやつだね。僕、おうちどこかわかんなくって。迷子の迷子の、えー……なんだっけ。迷子の、子どもさん。いや違うな。ちびくん。うーん、あの子よりも迷子になるのはいつも僕のほうだし。あれ、なんだっけ? これ?」
 僕は首を捻る。「困っちゃうな」と言って、「あ」と閃く。
「困ってしまってワンワン吼えるんだ、犬のおまわりさんが。迷子の迷子は仔猫ちゃんだね」
 そうだそうだと僕はぽんと手を打って、思い出したと笑う。そして黒い手に案内されるままについていく。
「君はあれかい? そんな手が長くて困らないのかな? 僕ならきっと、君くらい手が長いと、こんがらがって大変なことになるよ。うん。固結びとか、リボン結びになっちゃうね」
 僕は導かれるまま、大きなマンションに入っていく。すごく懐かしい感じがする。確かここが僕の家だ。そうだった。
 僕を案内する手の数はどんどん増えていって、いつしか足元には、僕が歩くごとに黒い絨毯みたいなものが敷かれていく。なんだか王様にでもなった気分だ。くすぐったくて、僕は笑う。
 エレベータの扉を開けてくれたのも、黒い手たちだった。どうやら僕の部屋があるマンションの扉は、いつのまにか手動になっていたらしい。管理人さんは面白いことを考えたものだ。僕はちょっと感動した。黒い手たちは大変そうだけど。
 そして僕は家に帰ってきた。「ただいまー」と言いながら扉を開けて、部屋に入って、でも誰も「おかえり」と言ってはくれない。すごく寂しい気分になって、僕は黒い手に訊いてみた。
「ね、ここ、僕んちじゃないんじゃないかな。僕んちは、こんなさみしい場所じゃなかったような気がするんだ。誰もいないし――誰か、すごく大事な子が一緒にいたような気がするんだけど」
 黒い手はまたひらひら手を振る。『そんなことはないですよ、ここはあなたの家ですよ』と言っているみたいだ。僕は溜息を吐く。そうなのか。それじゃ、しょうがない。
 部屋に戻っても、黒い手がいっぱいいる。とりあえずシャワーを浴びて眠ろう。僕はすごくくたびれていた。全部明日からだ。明日になれば、もっとうまくものを考えることができるだろう。





◆◇◆◇◆





 朝起きて、冷蔵庫の前に座り込んでオレンジジュースのパックを取り出して、コップに注いで、飲み干す。甘くてちょっと苦い味が口いっぱいに広がって、ぼんやりした頭がちょっとずつクリアになってく。
 それから僕は新品のトースターに食パンを突っ込む。ぼおっとしながらパンが焼けていくさまをじっと見ている。塗るのはいちごジャムだ。甘酸っぱくて、僕はこいつが大好きだ。
 新聞を読もうと思って、でもどこにも見当たらないことに気付く。あれおかしいなと考えてから、ああそうだ僕はまだ引っ越してきたばかりだから、誰も僕んちを知らないんだと思い当たる。新聞屋さんも、僕のともだちも。僕はちょっとがっかりして、テレビをつける。
 天気予報では、今日は一日じゅう良い天気だと言っていた。降水確率0パーセント、雲は無く、一日中晴れでしょう、らしい。いつもながらこういうの、すごいと思う。どうしてこんなこと分かるんだろう。それにしてもお天気お姉さんは今日も綺麗だ。
 僕はチャンネルをクルクル回す。ニュースをやっていたり、子ども向けのアニメ番組をやっていたり、着ぐるみが幼い子供と踊っていたりする。いいなあと僕は考える。僕も体操のお姉さんと一緒に踊りたい。
 時刻は午前八時十二分を指している。壁時計がコチコチ音を立てながら、頑張って動いている。僕はちょっと時計を眺めてから、顎に手を当てて、どうしようかなと考える。確か来週の月曜日から、僕は港区の、うちの近くにある学校へ通うことになっているのだ。
 今まで僕は両親の都合でいろんなところを点々としてきた。ここもいつもと同じように、いつか近い未来に後にしなければならない場所だろう。その分少しでもたくさん楽しめれば良いなと僕は考える。
 ちゃんと友達ができるといいなと思う。かわいい女の子がたくさんいればもっといい。たくさん遊んで、ここでしか見られないものを見るのだ。
 僕には時間は限られている。そんな気がするのだ。『いつも』そんなふうに感じる。なんでだかは分からないけど、今こうやって息をしている間にも、誰かに背中を突っつかれて急かされている感じがする。
 「はいはい、分かりましたよう」と僕は言う。誰の返事も帰ってこない。これは、両親が仕事で不在がちな僕の、癖のようなものだった。ついつい独り言が多くなってしまうのだ。
 テーブルの上に大事に並べてある封筒と書類を、難しいものなのでなんとなく姿勢を正しながら眺める。封筒の表には僕の名前と、『月光館学園高等部・入学届』と書かれている。
「手続きは今週中でいいって言われたけど、やっぱり早いほうがいいなぁ。学校も早く見たいし」
 毎回のこととは言え、新しい学校へはじめて行く時は、すごくドキドキする。綺麗な校舎だといいなと僕は思う。どんな面白い建物があって、どんな人たちがいるんだろう。僕は今はこの街の誰の顔も知らないのに、きっと一月後には、当たり前のような顔をして、今僕が知らない港区に住んでる誰かと挨拶をしたり、一緒に勉強したり、話したりするようになっているのだ。それはすごく不思議なことだ。
 僕は封筒をショルダーバッグに詰めて肩から下げ、カーテンを開け、窓から街を見下ろす。それはちょっと感動する風景だ。
「わぁ、それにしてもここはすごく綺麗な街だなぁ……誰かに見せてあげたいや」
 空がすごく澄んでいる。空の終わりは海の水平線と溶け合って、ずっと向こうへ続いている。海の音が聞こえる。波が打ち寄せて返すかすかなさざめき、カモメの鳴き声、新品の綺麗な街並、つるっとした格好良くておしゃれなかたちのモノレール、なにもかもが、誰かすごく大きな人間がせっせと頑張って作ったミニチュアの庭みたいに、きっちり計算されて作られているという気がする。いらないものがなにひとつ見えないのだ。全部綺麗だ。すごいなと僕は感心する。
 しばらく僕はぼーっと街の景色を見下ろしていたが、ふと時計を見て、「あっいけない」と口を押さえて、慌ててカーテンを閉めて玄関を出た。早く行かなきゃ学校が始まってしまって、登校する生徒を見られなくなってしまう。どんな人がいるんだろうってのをちゃんと見たかったのに。僕は人間を見るのが好きなのだ。





◆◇◆◇◆





 僕が月光館学園へ辿り着いた頃には、もう通学路を歩く生徒の姿はほとんど見られなくなっていた。ちょっと遅かったかなと僕は考える。残念なことだ。もう少し早起きすれば良かった。
 玄関から入ったところで、僕は悩んだ。靴箱がある。外靴は駄目、なのだそうだ。『ちゃんと上履きに履き替えましょう』と紙が貼られているけど、そんなこと言ったって僕はまだ上履きを持ってない。しょうがないんじゃあないかなと言い訳するような心地で、僕はホールへ足を踏み出す。靴を脱いだほうが良かっただろうか。確か日本では、家に帰ったら玄関で靴を脱ぐらしいって聞いたことがある。
 とりあえず、外靴だからって警報が鳴ったりはしないみたいだった。
 それにしても、広い校舎だから、僕は少し不安になる。僕はこれからどこへ行けば良いんだろう。先生がいる職員室、とかだろうか。事務局のような場所があるのだろうか。まさかいきなり校長室なんてのは、ちょっと大胆過ぎるだろう。
 ホールの真中でぼーっと突っ立っていてもしょうがないので、とりあえずあたりを見回してみる。人の姿はほとんどない。





――あ、」





 いた。
 『購買部』の看板が出ているカウンターの前で、年配の女性にいろいろ話し掛けられている。
 男の子だ。でも、綺麗なひとだなあと思った。
 青みがかった綺麗な髪、しなやかな細いからだ、少し猫背気味で、銀色のヘッドホンを掛けている。僕と同じくらいの年頃で、でもあまり背丈は無かったから、一年生なのかもしれない。
「もうね、あんまり無茶するんじゃないよ? おばちゃん心配しちゃうからね。服も大事に着るんだよ。もう破いちゃダメだよ」
 どうやら制服を貰っているみたいだ。男の子はさっきから一言も喋らないまま、こくんと頷いた。無口な子なのだろうか。ビニールパックを受けとる仕草がなんだか危なっかしくて、ちらっと見えた手首があんまり細くて、僕はなんだかひどく不安になってしまった。ほっとけない子、ってこんな感じなんだろうか。
 男の子はどうやら用事を済ませたみたいで、購買部の女性にぺこっとお辞儀をして、くるっと振り返った。
 その顔を正面から見た途端、僕の全身にぱしっと静電気みたいなものが走った。
 それは大分強かった。雷に打たれたみたいな感じ。
 僕はびっくりしてしまった。
 僕は人が大好きだけど、誰かを見てこんなふうに強い衝撃を受けるなんて、はじめてだ。それで大分混乱してしまった。





(……あれ。なにこれ。なに変なにこれ、なんで僕、こんな、あれ?)





 そのびりびりした感じは、一瞬だけのものじゃあなかった。ずうっと正座していて、急に立ち上がった時みたいに、僕を鷲掴みにしている。
 きれいな人は、やっぱり綺麗な顔をしていた。目鼻立ちとか、触り心地が良さそうな髪だとか。でもそれだけじゃなくて、なんというか、その目だった。
 ぼんやりしていて、物憂げで、焦点がぼやけていて、すごく悲しそうだと思った。僕はその目を見て、すごいショックを受けたのだ。なんでかわからないけど、すごく辛い気持ちになった。鼻っ面を誰かに思いっきり殴られたみたいな気持ちになった。なんでかわからないけど。
 僕がそうやって固まっているうちにも、その子は僕に背中を向けてさっさと行ってしまう。僕は慌てて引き止めようとした。何か、声を掛けなきゃならない。
 僕は緊張で口のなかがからからになってしまっていたけど(こんなのはじめてだ!)、精一杯の勇気を振り絞ってその子に声を掛けた。





「あ、あの! ……おーい、君! 職員室どっちかな?」





 勇気を振り絞ってこれだ。しかも、声が上擦ってしまっている。
 僕はちょっと情けなくなった。もっと他に言うべきことがあるだろう。君きれいだねとか、かわいいねとか、何年生なの、もし良かったら今度一緒に食事にでも行かないかいとか、そういうの。そういう『いつもの』だ。
 その子はやっとちゃんと僕のほうを見てくれた。声が聴けるかなとちょっと期待したけど、結局なにも言ってくれなかった。そう言えば、購買部の女性に話し掛けられている時も、彼はなにも言わなかった。だんまりだったのだ。せっかく綺麗な声が(美人の声は綺麗なものに決まっている)聴けると思ったのに、残念だ。
 その子はじっと僕を見て(見られてるってだけで、僕は恥ずかしくて、顔がすごく熱くなった)、すうっと腕を上げて、廊下の奥を指差した。
「……あ、あっち?」
 その子はこくんと頷いた。それからひらひら手を振って、階段を上がって行ってしまった。
「あ、あのっ! な、なまえ……」
 君の名前を教えてください、と僕は聞こうと思った。でももうその子の姿はなくて、僕はまたホールでひとりきりでぽつんと立ち尽くしていた。
「あ……行っちゃ……た……」
「なんだ、あの子を知らないってあんた、モグリかい?」
 購買部の女性に話し掛けられて、僕は思わず反応した。
「あ、あの子を知ってるんですか! あのっ、お名前は? 何年生ですか? クラスは? あのっ、好きな食べ物とか、好みのタイプとかっ……!」
 女性は笑って、「あーあ、あんたもカリスマにやられちゃったのねぇー」と言っている。僕は首を傾げた。
「か、かりすま? 変わった名前ですね……す、素敵ですけど」
「ま、いやだよ、あだ名だよ。ツキ高のカリスマっての、ここじゃ知らない子はいないよ。何たってあんな可愛い顔して学年トップで運動部のエースで、生徒会にも出入りしてるって、ちょっと耳澄ましたらあの子の噂が聞こえてくるよ」
「え……そんなに、すごいひとなんですか?」
 僕はなんだかすごいなと思う反面、くすぐったくなる。なんでだろう、僕はほっとしていた。良かった、という感じだった。あの子がみんなの人気者でいてくれて、誰かにいじめられたり、ひどい噂が流れていなくてほんとに良かったと、そう思った。
 これはちょっと、もしかするとあれなのかなと僕は思った。一目惚れってやつかもしれない。なんだかあんまりしっくりくる言葉じゃなかったけど、僕はあの子にまた会いたいし、声を聞かせて欲しいし、話したい。僕の声を聞いて欲しい。それってきっと、そういうことだろう、たぶん。
 でもあの子は男の子みたいだったな、と僕は変な気分になる。こういうのは、ちょっと変なんじゃあなかったっけ。まあいいけど。
「おばちゃんもね、ファンなんだよ、実は。あの子先生にもファン多くてね、こうやってキャーキャー言ってると、若返ったような気分になるよ。――あ、そう言えばいいの? もう全校集会終わっちゃうよ。何か用事があったんじゃあないのかい」
「あ……そうだ、僕来週からここへ転校してくることになりました、望月綾時と言います。どうぞよろしく。またあなたに会える日を楽しみにしています」
「ま、やあだよ、ちょっとこんなにイケメンが多いと、おばちゃん困っちゃうよ」
 購買部の女性にお礼を言って、『カリスマくん』が教えてくれたとおりに歩いて行くと、職員室の札が見えてきた。ノックして扉を開けると、すぐに綺麗な女性教師が出迎えてくれた。この学校すごいなと僕は思った。綺麗なひとばかりだ。
「あー、君が望月くん? 来週からなんかウチ来る」
「はい。先生、よろしければ気軽に『綾時』と……」
「寝言は寝てから言いなさい。先生カリスマ以外興味ないから」
 またカリスマくんだ。すごいなと、僕は考えた。モテモテだ。きっと女の子に優しいんだろう。それを考えると、僕はまたほっとした気持ちになる。こんなに女の子に好かれていいなあ、うらやましい、って考えは、どうしてか浮かんでこない。あの子が女の子に優しい子で良かったと思う。
「今までは海外暮らし、親の都合で月光館に。帰国子女ってやつ? あー、いるわ、うちにも君の前にひとり帰国子女。っていうか、外人。何人か知らないけど。うちすごいのよほんと、君で今年に入って三人目」
 僕は先生が並べている書類にふっと目をやって、危ういところで大声を上げてしまいそうになった。机の上には三枚の入学届けが並んでいる。僕が渡した僕の写真付きのが一枚、綺麗な金髪の女の子のが一枚、それから、さっきの『カリスマくん』。
 彼も、転校生だったんだ。
 僕はなんだか嬉しくなってしまって、口元を綻ばせた。
 名前の欄には『黒田 栄時』とある。僕はしっかりあの子の名前をチェックした。一文字、僕とおそろいだ。なんだかすごく嬉しい。話すきっかけにでもなればいいなと思う。
「なにニヤニヤしてんの。どうせやらしいことでも考えてんでしょ。はいはい、これとこれとこれ、なんか難しいのいろいろ。帰って読んどいて、校則とか書いてあるから」
「あ、はい。ありがとうございます。先生はとてもやさしいひとですね」
「その粘り強さは評価してあげるわ。でも先生カリスマ以外興味ないから」
 面白い先生だなあと僕は考える。俄然、来週からの学園生活が楽しみになってきた。何と言っても、どうやらあの子と同じクラスらしいのだ。僕の目は、書類に書かれた『2-F』って文字をしっかりチェックしていた。
 用が済んで、このまま今日から月光館高校生をやりたい気持ちでいっぱいだったけど、今日は一旦帰ることにする。たくさん準備をしなきゃならない。教科書も買わなきゃならないし、制服もだ。これはまたすぐに引っ越してしまうとしたら買わなくて良いものなのかもしれないけど、あの子とおそろいの服なら、これは絶対に欲しい。
――黒田、栄時」
 『くろだえいじ』と僕は口の中で反芻する。『くろた』かもしれないし、『こくた』かもしれない。名前だって『えいとき』とか『さかえとき』とかかもしれない。でも『くろだえいじ』が僕の口のなかでは一番しっくりくるように思えた。
「黒田くん、くろだ、くろだ、」
 彼の名前を口の中で転がすと、急に身体が軽くなる気がする。頭がぽおっと熱くなって、足が宙に浮いているような感じ。
「……えーじ、くん」
 僕は急に気恥ずかしくなって、顔を赤くして、両手に持った書類を顔に押し付けた。





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