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コールタールの沼 オレらのボスが死んだ。アドバイザーどのが発狂した。こいつも天文台から墜落して死んだ。リーダーさんが、影人間になっちまった。 加えてオレたちのやってたことはまるっきり無駄で、いやもっと悪くて、世界を守るだかなんだか言う格好良いこととは正反対で、結局悪い奴に全員騙されて踊らされてただけだったのだ。マジで凹む。もう何にも手を付ける気になれねー。 桐条グループのトップが死んじまって、急にゴタゴタして、桐条先輩は親父さんが死んじまったことを悲しむ間もなく、いろいろ難しい手続きがあるとかで家に帰っちまった。残されたオレらは、全員お先真っ暗な顔を突き合わせて、これからどうすんだよって話をしていた。 もちろん、エージの姿はない。今のあいつには、何を言ったって通じやしないだろう。「うぅ」とか「あぁあ」とか言ってるばっかりで、目に光がなく(元々あいつの目がキラめいていたことなんて一度もなかったのだが)、ほんとに影みたいな人間になっちまってた。 オレとしてはすごく複雑な気分だった。かなり気に食わないところもあったものの、まあ最近じゃあいつは良くやる奴だよなって、ヒーローの星の下に生まれてきたような奴なんだって、ようやく認めてやってもいいかなって感じになっていたのだ。 スカしたクールフェイスが、ムカツクくらいサマになっていた。そんなあいつが涎垂らしてうーあー言ってる姿なんて、正直見たくはなかったのだ。まだあんまり信じられない。悪い夢でも見ているような気分だった。 「――美鶴も黒田も廃人だ。さて、どうしたもんか……」 真田さんが腕を組んで、途方に暮れたみたいに言った。今はこの人が、オレらの中で一番年上で、力もある頭みたいなモンだった。でもその真田さんまで「こういう時にシンジがいてくれたらな……」とか言って現実逃避している。ダメだこりゃ、どーしようもない。 オレは「荒垣先輩なら先月死んだでしょ」とツッコミ入れたくなる衝動を必死に抑えながら、「チドリはどうなるんスか」と訊いた。今のオレにとっては、一番大事なことだった。正直言っちまうと、影時間とか、桐条先輩の親父さんとか、幾月とか、エージとか、身近にはいたけど良く知らない他人よりも、オレはそのことだけが心配だった。あの子はどうなっちまうんだ。ひとりっきりで、どんなに不安だろう。ひどい目に遭わされてなきゃいいが。 でもそんなことが言えるはずもない。オレはもどかしくてたまらなくなる。 真田さんは「わからん」と言った。あんた年上だろ、強いんだろ、なんとかしてくれよと叫び出しそうな衝動を、オレは必死に抑える。ただでさえオレは、今まで一緒に戦ってきた桐条先輩やエージを上手く心配してやれない最悪なヤローなのに、これ以上はマジでダメだ。 そして、オレにリーダーのバトンが回って来なかった理由を痛感する。オレには無理だ。カッカしちまって、ダチを気遣ってやることもできない。 「正直持て余しているってところだろう。美鶴が帰って来なきゃどうしようもない。アイギス、黒田を――……ラボだったな。しょうがない、俺が黒田の面倒を見る。しばらくタルタロスもなしだ。いいな」 異存なんかあるはずもなかった。風花が「私も、リーダーを看ますから」と言っている。オレはさすがに、かなりきまり悪い気分で、「風花は止めといたほうがいーぜ」と言ってやる。 「……あいつもさ、女子にあんなカッコ悪いトコ、見られたくねーだろうし」 「でも私、このくらいしか……」 「心配するな。そう手は掛からんさ。今日は解散だ。今の状態で何を言ってもどうにもならんだろう」 「……そうですね。じゃ」 皆で一斉に溜息を吐いて、辛気臭い集まりは終わる。真田さんは上着を担いで、エージの様子を見にいく。 オレはその背中を見送って、この人はスゲーな、と考える。こんな状態でも誰かの心配をしてやれるのだ。オレの頭の中は、自分のことも他の仲間のことも入る隙間がないくらい、チドリでいっぱいになってるのに。 「……明日も学校なんですよね。なんだかそんな気分になれないや」 「だな。オレっちもうサボってどっか遠いトコに行きたい……」 ほんとにそんな気分だった。チドリを連れてどこまでも遠いとこまで行くのだ。あんまり金はないけど、まあそこは若さでカバーする。ヒッチハイクなら金も掛からんだろうし。半分本気で考えていると、遠くから「うおおお!」と真田さんの悲鳴が聞こえてきた。 「エージの部屋のほうだな」 「どうしたんでしょう……リーダーが女の子にでもなっちゃってたのかな」 「……天田くん、君も大分疲れてるみたいだね」 オレたちはとりあえずエージの部屋に向かう。 二階廊下の突き当たりにあるエージの部屋の扉は開いていた。中から灯りが零れてきている。 「なんでしょう、この臭い……」 風花が口元を押さえて言う。オレも「なぁ」と頷く。雨ざらしにされて錆びた鉄みたいな臭いがする。そしてエージの部屋を覗いて、オレはその臭いの正体を知った。 エージの部屋は真っ赤だった。床一面だ。血だ。血溜まりができている。 影時間に見慣れたあの赤い水たまりみたいだ。でもそれは普通の蛍光灯の白い光の下で見ると、あの影時間の風景よりも、余程異様だった。 噎せ返りそうな血の臭いのせいで、胃がひっくり返りそうになった。酸っぱくて温かいものが、喉のあたりまで込み上げてきた。 「黒田、落ち付け」 真田さんが、血まみれの床に座り込んで、エージの頭を抱いている。さっきエージは、ベッドの端っこに座り込んでいたんじゃなかったか。うーあーうめいていたのだ。 「手を開け。言っていることは分かるな」 そして、真田さんはエージの手から細身のアセイミナイフを奪う。床に放り棄てる。乾いた音がして、刀身が蛍光灯の白いひかりを吸い込んで、ぎらっと光る。目を焼く。 オレは呆然としていたが、ようやく我に返って、「どうしたんスか」と訊いた。 「な、何スかこれ? ち、血が。こんなに」 「この馬鹿が、手首を切ったんだ。派手にざっくりやった。心配いらん、傷は癒した。お前らはいい、戻れ」 戻れって言われたって、ハイそうですか、なんて言えるわけがない。 見るとエージの部屋の壁には気持ちの悪い絵が描かれている。赤い血で、指で描いたふうに見える。簡単な人間の絵だった。子どもの落書きみたいなものだ。それがたくさんだ。 それぞれ顔には、目とか鼻とか口のかわりに、数字が書かれている。 『2』と書かれている人間は、頭と胴体が離れていた。『3』、『4』がなくて、『5』は黒っぽいシャドウみたいな奴に、頭から食べられている。『6』もなくて、『7』は『1』と書かれた人間もどきに首を絞められている。『8』と『9』も怪物に食われている。 そうやって延々と人間が殺されていくさまが、壁に絵物語みたいに綴られていた。十一番の途中まで描かれたところで止まっている。おそらく、そこで真田さんのドクターストップが掛かったのだ。異様で、薄気味悪い光景だった。 「あぁ……ああああぁあ……」 「『痛いのは分かる』、か」 「あぅ、あうううぅう……あぁあっ」 真田さんの問い掛けに、驚いたことにエージがこくっと頷いた。影人間になったんじゃなかったのか。そう言えば、アレには程度ってものがあったのだ。ちっとダルいってくらいの軽度のものから、もうグダグダの重度のものまで、いろいろある。 「『声が出ない』か」 「ああっ、うあ、うっうぅう……」 またエージが頷く。 「ちょっ、真田さん、なんで通じてんスか。おかしいっしょ」 「昔ボクシングの延長で、読唇術を習ったことがあってな。口の動きで大体は分かる。黒田、字は書けそうか」 「あうぅう……」 「『やってみる』か。おい順平、何か書く物はあるか。あと紙だ」 「ははははいっス!」 オレは慌てて隣の自分の部屋に戻って、机の上に放り出してあった鞄の中から、ほとんど白紙の現代文のノートとシャーペンを引っ掴んで、エージの部屋に戻る。真田さんに差し出す。真田さんはエージの手にシャーペンを握らせて、自傷防止用だろう、手首を掴んだまま、「今どんな状態だ、書けるか」と言った。 エージは言われるままに、ノートにシャーペンを走らせて、グダグダな字を書いていく。 「……この状態で『問題ありません』だと……お前はまったくもう、どうしようもないな。もういい、とりあえず血を落とせ。部屋も片さないとどうしようもないだろう。……『すみません』? そういうことを言うなら、何故こんなことをする。『わかりません、気付いたら血だらけでした』だと? ……もういい、黙れ。『黙ってます』? うるさい、黙れ」 エージの声が聞こえないせいで、真田さんのひとりシアターだ。オレはとりあえずその場に突っ立っているのもいたたまれなくなって、「雑巾取ってきます」と言い置いて、エージの部屋を立ち去った。 ◆◇◆◇◆ しばらく経ってから、部屋のドアがノックされた。もういい時間だったが、オレは一向に眠ることができずに、電気をつけっぱなしたまま、ぼんやりテレビを見ていた。深夜にやってる映画だ。微妙にエロいが、そう大したことはない。 オレはテレビを消して、「はいはーい」と返事をする。扉が開いて、入ってきたのは、驚いたことにエージだった。まだ目が大分とろんと虚ろだが、いつもどこ見てるのか分からない目つきの奴だから、目が虚ろなのは気にもならない。動作に危なげはない。 エージはオレにノートを突き出した。そこにはこう書かれていた。 『ノートとシャーペン、汚して悪い。明日新しいの返す』 汚い乱雑な字だったが、そこにはちゃんと考えてものを書いたって感じがあった。オレはエージの顔を見て、頷き、「そのー、大丈夫なの?」と訊いてやった。我ながら白々しいとは思ったが。エージは頷き、ノートにさらさら『問題ない』と書いた。 『上手く喋れないだけ。あとはいつもどおり。部屋も片した。大体何があったか聞いた。アイギスは無事なのか。真田先輩は知らないと言っていた』 「あーうん、たぶん」 オレは頷く。アイギス命のこいつのことだから、さっきのことでスクラップにされやしないかと心配してたんだろう。それにしても人間より先にロボットを心配するなんて、なんてやつだ。それを考えて、オレ自身もチドリの心配しかしていなかったことに気付く。そしてこっそり、こいつもそうなんだな、とちょっとほっとした。 「それよりお前、傷は? なんであんな真似したんだよ」 『知るか。俺が教えてほしいくらいだ。なんであんな殺人事件の現場みたいになってるんだ。真田先輩は俺がシャドウに食われたせいで、おかしくなってたんじゃないかって言ってた。でもシャドウに食われてなんで生きてるのか分からない』 エージも大分混乱しているようだった。真田さんに簡単な事情説明は受けたらしいが、アイギスに腹に一発食らわされてからずっと気絶していたせいで、幾月のあのイッちゃった顔だとか、桐条先輩の親父さんが死んじまったことだとか、ちゃんと目で見てないので上手く信じることができないらしい。 オレはつい、幾月のヤローはお前が天文台から突き落として殺したんだぞ、と言いそうになってしまって、慌てて口を押さえた。これは墓まで持ってかなきゃならんことだった。真田さんにきつく釘を刺されていたのだ。どうせあの流れじゃ誰かがやってたろうと。 エージはなにも覚えていないらしい。なら自分が知らない間に人殺しになっちまったなんて、知らないままのほうがいいだろう。どうせ幾月は、桐条先輩の親父さんに撃たれて、死に掛けてたのだ。オレもあのまま死んだって思っておこう。 『なんか、人を殺す夢見た』 エージがぽそっと呟くような調子で、さらさら文字を書く。オレは心臓が止まりそうになりながら、「ふーん」と頷く。 「どんな?」 『良く覚えてない。沢山人を殺す夢。首を刎ねたり、絞めたりして、シャドウの群れに放り込むんだ。餌やるみたいに』 オレは、ああ、と納得する。さっきのエージの部屋の落書きの意味を、ちょっと理解した気がした。エージは無意識のうちに、さっき幾月にシャドウたちのなかに放り込まれたことを、夢ってかたちで見たんじゃないだろうか。きっとこいつでも怖かったのだ。あんなコールタールみたいなバケモンに食われてしまうってことが。 「イヤな夢だな。にしても、生きてて良かったよな、マジでよ」 それは、オレもちゃんとほんとに思うのだ。これ以上死なれたり影人間になったり、そんなヘビーなことにならなくて良かった。エージが、前どおりとはいかないが、こうやって話(?)したりできるようになって良かったと思う。 『べつに、どうでもいい。そんなこと』 せっかくオレが良かったつってやってんのに、エージは相変わらず空気詠み人知らずな野郎だ。そこはありがとうって言うところだろうが。 「……アホ。お前がそんなになってイヤだって思う奴だっているだろうが」 『そんなものはいない』 「ンなわきゃねーだろ。ダチとか、家族とか……あ、悪ィ」 『いい』 そう言えば、エージも孤児だったのだ。この寮にいるのはそんな奴らばっかりで、こういう時はちょっと居心地が悪い。でもエージはその中でも、なんだか特殊だった。親がいないとかそういうんじゃなくて、なんだか生き物って感じがしないのだ。さっきみたいに、腕を触っても心臓の音が聞こえなさそうな、そんな感じなのだ。 「……死ぬの、怖くねぇのかよ」 『どうでもいい』 「またソレかよ。いい加減にしろよ」 オレはまたちょっとイラッとする。なんでこいつは、こーいうことを真顔で平気で言うんだと、胸倉掴んで揺さ振りたくなる。 なんでそんなに、『怖いもの? ハア? 怖いってなに? 食いモン?』みたいな顔をしていられるんだろう、この男は? エージが首を傾げて、俺なんか変なこと言ったか、という顔で、またノ―トに文字を書いていく。腕の感覚が戻ってきたのか、もういつもの綺麗な字だ。 『手ぶらなら、落とす心配をしなくていい』 「ハア? ……何をだよ」 『全部どうでもいいものばっかりだったら、無くなっても平気。俺が死んでもかわりはいるから、誰も別に気にしない。昔も先も関係ない。今さえあればいい』 さらさら流れるように文字が綴られていく。そこに迷いはなくて、オレはなんだか、機械が地図でも書いているのを眺めているような気分になる。 『だって』 エージは、当たり前みたいにそういうことを書く。 『死ぬなんて明日目が覚めないだけだろ』 オレはぱかっと口を開けて、呆けたまま、のろのろエージの顔を見た。いつもの無表情を。心なんかママのお腹の中に忘れてきました、って感じの、感情のない顔を。 オレはチドリの無表情を思い出していた。彼女は言う、『――怖い? どうして。死ぬなんて、明日目が覚めないだけでしょ』と。 「……エージ、」 なんでお前は、そんなにまで、一文字一文字なんにも違わずに、そっくりの無表情で、あの子と同じことを言うんだよ。 |