母の呼び声




 声が出ない。話せない。口を開いても「あぁあ」とか「うぅう」とかいう、影人間のうめき声しか出てこない。
「ううぅ……あぁ、あっ……あぁああ、あ……♪」
 さっきからずうっとリピートしている『
Burn My Dread』の女性ボーカルの声に合わせて、馴染んだ歌詞を唄い上げようとしても、波長が合わないラジオみたいなひどい音しか出てこない。僕は溜息を吐く。今のところは何の問題もないけど、これが続くと厄介だ。カラオケにも行けやしないし、はっきりした言葉が話せなきゃ仲間たちに命令を下せないから、リーダーなんて任せてはもらえないだろう。最悪探索メンバーからも外される。
 そうなったら、僕に一体なにが残るって言うんだろう。
 僕はごく普通の高校生で、まあペルソナは喚べるが、ここへ来るまではまっとうに、非の打ち所のない、普通の一般人だったのだ。戦わなくたって、前の日常が戻ってくるだけだ。世界が終わるわけでもない。
 別にリーダーじゃなきゃ嫌だとか順平みたいなことを言うつもりもない。
 僕は能力強化に打ち込みたい桐条先輩と真田先輩の代わりにみんなを統率しているわけだし、それも僕じゃなきゃできない役目って訳でもない。
 今だって他の役割を与えられたら何だって喜んでやる。戦わなくて良いならそれも良い。僕は一般市民なのだ。
 もう転んだりマッチョなシャドウにぶん殴られたり燃やされたりしなくていいんだぞ、と言われたなら、わあそりゃあ良かったと安心するだろう。その分サポートは山岸とふたりでしっかりやろう。
 でも、何かがズレている感じがする。本当は僕のやるべきことってのが随分昔から決まっていて、すごく高い、下も見えない高さに頼りなく張られた、一本の細いロープの上をなんとか歩いていると言った感じなのだ。
 役目、と僕は考える。僕の役割。
 僕にはみんなみたいな立派な理由がない。ただ妙な力に目覚めました、影時間ってのがあって、シャドウをほっとくと大変なことになる。だからなんとかしなきゃならない。力を貸せと言われて、僕は頷いた。だから今までこうやって戦ってきた。
 僕が戦う理由ってのは、四月にこの街へ来た時から何にも変わらない。
 桐条先輩と岳羽は父親のために、真田先輩は荒垣先輩や妹さんのために強くなりたいそうだし、天田は母親の復讐のため、今は荒垣先輩のかわりに後片付けをやるためにここにいる。山岸は居場所を見付けたんだって言ってた。アイギスは僕を守りたいんだそうだ。順平は言う間でもなく『チドリ』を守りたいらしい。コロマルですら、今はもういない飼主の敵討ちと、僕らへの恩返しのために戦っている。
 でも僕にはそんな大した理由がない。特別課外活動部も運動部も文化部も生徒会も、ようするに一緒くたに感じてしまうのだ。
 僕だけ、空っぽだ。
 僕はその事実に、今になってようやく気付く。そして、肩を引っ張られてどこまでも深いところまで落ちていくような眩暈を覚える。僕だけ、なんにも持ってない。
 最近どうも僕はおかしくて、僕自身戸惑ってしまうことが多々ある。前までなにも感じなかったことが、急に気になったりする。例えばしんと静まった夜に、真っ暗な闇のなかで耳鳴りを聴いていると、すごく心許無い気分になる。僕はひとりだ、と思う。
 それも言葉にすると当たり前のことなのに、ひどい虚脱感を伴って、僕を気だるい気持ちにさせてくれるのだ。
 僕はなんでここにいるんだろうと僕は考える。僕は今更なんで息をしているんだろうと。
 なんだか僕の役割ってものは、あの十一月四日、タルタロスの鐘が鳴った時に終わりを迎えてしまって、後はゆるやかに、ゆるやかに僕は――
(……僕は、なんだろ)
 その後の言葉が、思い浮かばない。死ぬ、とかだろうか。別に今更怖くはない。
 僕には死に対して、変な理想みたいなものがある。
 うとうとして眠るように死んでいけたら最高だ。夜眠って、朝目覚めない。僕の死骸は生きている誰かが適当に片してくれるだろう。地面に落ちた蝉が、蟻に食い尽くされるみたいに。
 僕は自分が灰になっているところを想像してみた。とても白い、砂のような灰だ。
 そうなった僕はこの上なく幸せそうなんだろう。もう何も面倒臭いことを考えなくていいし、息もしなくていい。心臓もないからあの耳障りな音も響かない。
 たぶん数ヶ月もすれば、誰も僕のことを憶えてはいないだろう。みんな僕を踏み潰して、それぞれの一日を生き続けるのだ。
 結局僕は身体があっても灰になっても、誰かにかえりみられることはないんだろう。そして、僕も誰かに対して、特別な親愛の情を抱くことも、憎悪を感じることもないんだろう。ずうっとフラットな一本線の上を歩いていく。いつ死んでもいいように、部屋は綺麗にしたまま。
――やることなくなると、夜はこんなに静かなもんなんだな)
 巌戸台分寮は本当に静かなものだった。まだ影時間にもならないのに、みんなはもう寝静まってしまったのか、部屋で宿題でもやっているのか、物音ひとつしない。
 無理もないかなと僕は考える。みんなくたびれているのだ。
 僕らのやったことは全部無駄だった。みんなどうすればいいんだと途方に暮れている。
 岳羽はひとり素早く立ち直って、元気に「戦う」とかなんとか言ってたけど、僕にはどうも彼女のように、戦うことに特別なパッションを感じることができないのだ。申し訳ない話だが。
 そういう問題じゃない。もし今から、幾月さんが言ってたらしい、十二のシャドウを倒して生まれる『デス』とか呼ばれるシャドウの皇子様を倒しに行け、今度こそ本当に最後だから、とか言われても、僕はたぶん、「勘弁しろ」と首を振るだろう。
 「勝手にやってくれ」と僕は言うだろう。「僕の役目は終わって、もう指一本動かしたくないんだ。もう許してくれよ」と言うだろう。
 そう、僕には本当に、理由がない。守りたい人もいない。なんだかもう全部どうでもいい。みんながみんな、寄ってたかって僕を食い散らかして、過ぎ去っていくんだという気がする。大人たちも仲間も、みんながみんなだ。
 もう好きにしてくれって気分だった。食いたいなら食えばいい。どうせ僕にはもう何の価値もないのだ。
 ただひとつだけ心残りがあって、それは、僕がいないところで一体あの子は――





◇◆◇◆◇





――これはこれは、面白いことになっておられますな」
 僕は行儀良く椅子に座って、老紳士と向かい合っている。彼の隣にはいつものように、エレベーターガールのエリザベスが立っている。
 僕はなにか言おうとして、「うあぁあ」とうめいてしまった。やっぱり声は出なかった。
 どうやら「面白い」ってのは、僕のこの半分影人間みたいな状態を示すらしい。相変わらずこの老人の笑いどころは良くわからない。
 僕との対話が難しいことを悟ると、彼、イゴールはエリザベスに目配せした。エリザベスが僕のそばへやってきて、ハンカチで包んだ小さな小瓶を差し出してきた。透明な赤い液体が瓶の半分くらい入っていて、「私をお飲み」と書かれたラベルが貼られている。
「これをお飲み下さい」
 僕は頷く。得体の知れないものを口にするのはちょっと抵抗があったが、なんでか僕は、『そういうこと』がひどく当たり前のような気がしていた。たとえば毒かもしれないものをあえて口に入れるってことなんかが。
「ご心配はいりません。ただの気付け薬ですよ」
 僕は頷く。瓶の蓋を開け、中身を一気に飲み干す。甘いのか、それともひどい味がするのか、結構覚悟を決めたのだが、拍子抜けしてしまうことになんにも味はしなかった。
 しばらくして、息ができなくなってきて、僕は喉を押さえる。
 ああ、やっぱりまともな薬じゃなかったんだ。そうじゃないかなとは思ってた。
「う……うぅ、あぁああ、ああっ」
 僕はうめく。椅子から転げ落ちて何度も咳込み、えづく。なにか喉の奥にちくちくしたものが刺さっているのが分かる。何だろうと思う間もなく、「おとなしくなさっていて下さいね」と声が聞こえて、ふっとエリザベスの微笑が見えて、
――っぐ!? んんんんー!!」
 喉の奥まで指を突っ込まれた。
 ほんとに、死ぬかと思った。胃カメラなんか、やったことはないけど、たぶんこれに比べれば可愛いものだと思う。
 「暴れると辛いだけですよ」と言われて、僕はこくこく頷いた。おとなしくしていなければ、多分もっとひどいことをされる。メギドラオンとか。
 はたして、エリザベスが僕の喉から引き抜いたのは、一本の、人差し指ほどの長さの黒い棘だった。
「うあ、あっ? あ、」
「これが喉に刺さっておりましたので」
 棘は蛭みたいにぐねぐね動いている。僕の血だかなんだかを吸っていたのか、先端から赤い滴がぽたぽた零れていた。
 そいつは僕の声で、すごく気持ち良さそうに『
Burn My Dread』を唄っている。僕は理解して、納得した。そいつが僕の声を食っていたのか。
 僕は涙目で床にべちゃっと潰れながら、エリザベスの手に向かって腕を伸ばす。
「か……え、し……あぁ、」
 何だかわからないけど、それはすごく僕の大事なものなのだという気がしていた。誰にも触られたくない、僕だけの宝物なんだという気がした。
 でもエリザベスは新しいハンカチでその棘を包んで、すっと背中に隠した。まるで意地悪な女の子が、小さな子供を苛めるみたいな仕草で。
 僕はそれを見て、急に目の前が真っ暗になったような気がした。あの黒い棘は僕の、僕のすごく大事な、
――返して!!」
 僕は、腕を伸ばしてエリザベスに掴みかかっていた。彼女はにこっと穏やかに微笑んで、とても優雅で、洗練されていて、ダンスでも踊っているみたいな動作で、僕の頭に回し蹴りを叩き込んでくれた。
 僕は成す術なく床を転がっていく。
 頭がグラグラで、視界が歪んで、痛くて情けなくて涙が出てきて、でも僕はのろのろ手を伸ばす。
「僕の子供、かえして……」
 そう口にして、僕ははっと気付く。
 僕は一体、なにをやっていたんだ。
「あ、」
 僕の子供。僕の、産まれたばかりの赤ちゃん。
 僕はお母さんなのに、なんでまだ産声を上げたばかりのあの子のそばにいてやらないんだ。
 あの子は黒い手に攫われてしまった。どんな怖い目に遭っているだろう。ひとりぼっちで、泣いてはいないだろうか。
 イゴールの声が僕に追い討ちをかける。
「貴方の子供は、母親を求めてさまよっておいでです。貴方のすぐそばまでやってきている。ですが貴方はその悲痛な呼び声に気付かず、終わりに惹かれ、通り過ぎようとしておられる」
「ああ……ああぁあ……」
 僕の喉から、影人間みたいな声が漏れる。でももうそれは虚ろな空洞じゃない。絶望に塗れている。
「差し出がましいとは思いましたが、ご忠告いたしました。こちらはお返しいたします」
 僕はエリザベスの手から黒い棘をひったくるように奪い返して、慌てて部屋を出た。そして駆けていく。
「……さがさなきゃ、僕の子供捜さなきゃ……」
 僕の手の中には黒い棘がある。あの子の影の欠片だ。これがあればいつでも一緒だって、僕は思ってた。
 でもあの子の欠片を持ってたって、僕には泣いているあの子を慰めてあげることもできやしないのだ。
 一目でもいいから、生まれたあの子を見たかった。
 一度でいいから、「お母さん」と呼んで欲しかった。
 あの子の名前を呼んであげたかった。
 僕はもうなけなしの荷物を小さなあの子に持たせて空っぽだったから、あの子にもう一度会ってなにができるかは分からなかったけど、とにかく行かなきゃならないって気がした。
 もし雨が降ったら、僕はあの子が濡れないように覆いになってあげよう。風がひどい日には、抱き締めて砂粒から守ってあげる。あの子がもしお腹をすかせていたら、僕を食べればいい。骨まで、髪の毛一本残さず食べればいい。
 だって僕はお母さんなのだ。産まれたばかりのあの子を誰より愛してる。
 僕はそれを伝えなきゃと思った。あの子は他ならない母親の僕に望まれて産まれてきて、僕がこの命を賭けて愛してるってことを。僕は走る。走って、名前を呼んで、――いつのまにか僕のなかから、僕の意志を吸い取り続ける虚無感は消えていた。





◇◆◇◆◇





 僕は起きあがる。ベッドから降り、ゆっくり立ち上がる。早く行かなきゃと考える。
 窓から見える月は綺麗に半分に割れている。
 レーダーには今日もなんの反応もない。僕は、途方にくれてしまう。
 僕は振りかえり、肩に張り付いているペルソナにすがり付いた。
――どうして見つからないの』
 僕の声はちょっと怒っていた。だって変だ、こんなに小さな街の中なのに、どうしてどこにもいないんだ。
 僕は病室を出て、歩き出す。裸足の足が、冷たく冷え切った廊下を歩く度に、ペタペタ音を立てる。冷たいけど、そんなのはどうでもいい。だってあの子は、きっともっと寒い思いをしている。服もなにも持たずに旅立ったのだ。心配で胸が壊れそうになる。
 外へ出ると、ひゅうっと鋭い風が吹いた。僕は途方に暮れる。早く見付けなきゃ、冬がきてしまう。そうなったらきっと、僕はもうあの子に会えないんだという気がした。
 あの子は僕の手が届かないところまで歩いていってしまって、僕はあの子の食料にすらなることができずに、やっぱり蟻に食べられてしまうのだ。
 僕は夜の街を歩く。誰も僕の姿なんてかえりみない。
 ペルソナに抱かれ、白いパジャマで、裸足で、かわいいあの子の名前を呼びながら僕は往く。





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