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這い寄る、思い出(前編) 帰り道、路地の柵の陰から急に犬が飛び出してきた。あっと思う間もなく、僕の目の前で車にはねられる。動かなくなる。 「あ」 僕は、道路へ飛び出す。動かなくなっている犬を抱き上げる。まだ子どもで、僕の腕に簡単におさまってしまうくらいに小さい。 目は開いたままだ。血が僕の上着の袖をべったり汚す。 すぐ後から走ってきた車が、立ちんぼうの僕に迷惑そうにクラクションを鳴らす。僕はのろのろ歩道へ戻る。すごく悲しい気分になる。腕のなかの身体はまだあったかいのに、少しずつ冷たくなっていくのが怖い。まだ、心臓は動いてる。生きてるのに。 僕は駆け出す。ポートアイランド駅の並木道を駆け抜ける。 しばらく走ると、割合年月を経た学生寮が見えてくる。僕より大分前を歩いていく背中を見付けて、叫ぶ。 「――黒田くん!」 栄時くんが振り返る。彼は『どうした』って顔になって、『あ』ってふうに目を軽く見開いた。 「望月、どうしたんだ、それ」 「そ、それ? ん、……この子、車に轢かれ、て」 栄時くんは、きっと優しい人だと思うんだけど、死に掛けている子犬をまるでものみたいに言う。彼には僕みたいに、なにかが死んじゃうってことが怖くてたまらない、という気持ちはないらしい。 なんでだろう。僕はすごく違和感を覚える。この子、こんな子だったっけ。どうしちゃったんだろう。栄時くんは生き物が好きで、やさしくて、小さな小鳥が死んじゃった時もあんなにわんわん泣いてたのに。どうしちゃったんだろう。なんで顔、変わらないんだろう。悲しんでくれないんだろう。僕はすごく悲しくなる。 僕は栄時くんの顔をじっと見つめて、「お願い、助けて」と言う。 「治してあげてよ。君の手品なら、きっとできるよ。そうでしょ?」 「お前な、勘弁しろよ。こいつもう死んでるじゃないか。俺は魔法使いじゃない。そんなことできる訳ないだろ」 「ね、お願いだよ。お願い、なんとかして……」 黒田くんは『しょうがないな』って顔になる。 そしてさっき手品を見せてくれた時みたいに、僕に「目を閉じろ」って言う。 「目、閉じてろよ。みっつ数えるまで、絶対に開けるんじゃないぞ」 「……ん。ね、ほんとに、」 「目を開けたら、死人の国に連れ戻されちゃうからな。絶対目、閉じてろよ」 僕は、言われたとおりにぎゅっと目を閉じる。黒田くんの声が聞こえる。 「ほら、一、二……」 「――ペルソナカード、ドロー、デッキ、オープン。アルカナ『愚者』オルフェウス、『女教皇』アプサラスを召喚。ミックスレイド『カデンツァ』を発動」 まるで発砲音みたいな破裂音と、ガラスが砕ける音がする。 「く、黒田く」 僕はびっくりして、栄時くんとの約束も忘れて目を開いてしまう。 そしてそこで、ありえない光景を見る。 栄時くんは銀色の銃を頭に突き付けていた。 青いひかりが満ち、彼がのけぞる。その顔は恍惚としていた。とても気持ちが良さそうで、僕の背中にぞくっとした震えがはしった。綺麗だった。 栄時くんが、抱いたひかりを解き放つ。眩しくて僕はまた目を閉じる。瞼を焼く明かりがふっと消えて、「三。開けていいぞ」という栄時くんの声が聞こえる。 僕は、目を開ける。 はたして、もう死んじゃってた子犬は元気に立ち上がって、丸い目で僕らを交互に見て、栄時くんに尻尾を振ってじゃれついた。 栄時くんはちょっと笑って、「ああ、犬の匂いするのかな」と言っている。そう言えば順平くんから、寮で犬を飼ってるって話を聞いたことがある。とても賢い子だそうだ。 僕はぎこちなく微笑む。そして「良かった」と胸を撫で下ろす。 僕は、なんにも見てない。約束は守られた。竪琴を背負ったロボットみたいなのも、女神様みたいな綺麗な女の人も見ていない。 栄時くんはふっと顔を上げて僕を見て、首を傾げた。 「……見たか?」 「み、見てないっ……」 僕は首を振る。僕は、君との約束ちゃんと守ったよ、と嘘をつく。 「見て、ないよ……」 「見たんだな」 栄時くんは肩を竦めて目を閉じた。もうほんとしょうがない、ってふうに。 「何があっても嘘は吐くな。約束は守れ。すごく大事なことなんだ」 「見てないから」 「望月、お前嘘下手なんだな。そんな顔をするな。もうどうしようもないよ」 僕は、栄時くんの落胆した声を聞きたくなくて、可哀想なものを見る目を見たくはなくて、ぎゅっと目を閉じて耳を塞ぐ。 でも奇妙な気配を感じて、顔を上げる。目を開くと、あの竪琴を背負ったロボットが空に浮いていた。 おなかについてるスピーカーから、チャンネルの合わないラジオを流している時みたいなノイズが響いている。そいつはすごく苦しそうに身をよじる。 「目、開けるなって、言ったのに」 栄時くんががっかりしたふうに首を振る。 「せっかく友達になれたのに」 空に浮かぶ奇妙な身体をなかから食い破って、真っ黒な、とても大きなものが顔を出す。手足を広げて大きな声で鳴いて、そしてすごい勢いで、僕らのところへ一直線に降りてくる。 「もう会えない」 そしてそいつは栄時くんを、すごく長い包丁みたいな剣で貫く。背中から胸を串刺しにされて、栄時くんががくっと項垂れる。地面に、まるでとても長い針で縫い付けられたような格好になる。 「――黒田くん!!」 僕は彼に取り縋る。剣を伝って、信じられないくらいの血が地面に零れる。 でもその血が血溜まりをつくることはない。地面に触れたところからぼこぼこ泡だって、吸い込まれ、消えていく。 「――あ、」 いつしか辺りは明るいグリーンの闇に覆われている。僕は栄時くんの頬に触って、怖々顔を上向けさせる。 その顔は、もうすごく死んでいた。 目がスーパーで売ってる魚みたいに濁って、ただ口の端から一筋、鮮やかすぎる赤い血が零れていた。 栄時くんは、死顔まで完璧に綺麗だった。虚ろな目が責めるように僕を映し込んでいる。 「ああ、あぁああっ」 僕は口の中で何度も何度も『ごめんなさい』と謝る。僕が約束を破ってしまったから、僕の大好きなひとは死人の国に連れてかれてしまった。 「もう会えない」って栄時くんの声が、頭の中をぐるぐる回る。 僕はもう栄時くんに会えない。あの綺麗な顔で、お前はほんとどうしようもないなって笑ってくれることはもうない。 沢山話したいことがあったのに、もう彼の耳には入らない。 好きだって、もう伝えることもできない。 世界から、彼が零れていく。 僕が抱いている腕が、肩が、全部が黒ずんでどろっと融けていく。 僕は、こんなことになるなんて知らなかった。こんなことがしたかったんじゃない。 僕は何も知らずに、なんでいつもこんな、取り返しのつかないことを、 「うわああああぁあああっ!!」 そして、栄時くんだったコールタールに取り縋って絶叫する。 ――そんな、夢を見た。 今日も栄時くんは綺麗だ。 そして、元気だ。さっきも朝から順平くんに回し蹴りしてた。 なんであんな夢見ちゃったかな、と僕はぼんやり考える。縁起でもない。昨日の晩見た映画番組のせいだろうか。それとも、女の子に貸してもらって読んだ漫画が悪かったのかな。 「――ドロー、デッキ、オープン……」 僕は右手でシャーペンをくるくる回しながら、なんとはなしに呟く。 その途端、後ろのほうでがたんと大きな音がする。振り向くと、順平くんが青い顔で立ち尽くしている。どうしたんだろう。具合でも悪いのかな。 今は授業中だ。教室じゅうの目が彼に向く。でもなんでか、ゆかりさんとアイギスさんは、じいっと栄時くんを見つめている。順平くんもだ。 その顔は、なんというか、子どもがなにかやらかしちゃった友達を見て『いーけないんだ』って言ってるみたいな感じだった。 栄時くんは無反応で、黒板を見つめ続けている。でもその顔にはうっすら脂汗が浮かんで見えた。 「……リョージくん?」 「えっ?」 「その、それ、ね? どこで聞いたの?」 順平くんに訊かれて、僕は首を傾げた。小さな声で言ったつもりだったけど、聞こえちゃったんだろうか。なんか恥ずかしい。 「黒田くんがね、言ってたのを」 「エージいいいい!! テメッ、一般人の前で何喚んでんだあああ!?」 「しっ、知らない! 俺は、なにも、」 「……黒田くん? そのキメ台詞はキミ以外言わないでしょう?」 「だから違う、大体それはエリザベスがなんかカッコいいこと言ってたからつい、」 「栄時さん――」 「アイギスっ! 俺なんにも知らないほんとに信じて――」 「お仕置きです」 「ぎゃあああ!! くっついたばっかなのにまた折れる!!」 「……夢で、聴いたんだけど……」 僕の声なんて誰も聞いてない。栄時くんが怖い顔をした順平くんとゆかりさん、アイギスさんにボコスカにされている。 「あの……」 やめてあげなよと言い掛けたところで、前から黒板消しが飛んできた。綺麗に順平くんの顔にヒットする。ああ、彼チョークの粉まみれになってる、顔。 まあ無理もないけど、鳥海先生がすごく怒った顔をしていた。今は授業中なのだ。 「ちょっと、そこ全員いい加減にしなさい! 望月くんと愉快な巌戸台分寮メンバー、面倒だから纏めて廊下立ってて。バケツ持ってね」 『……すみませんでした』 僕らは揃って頭を下げて、すごすご教室から出て行く。 「バケツ持って廊下に立たされるカリスマ萌え……」 「あの……先生?」 「え? あ、コホン。何でもないわよ。じゃ、142ページ開いて――」 「お前のせいだぞ望月っ!」 「もとはと言えばオメーが悪ィんじゃねーかエージっ!」 「あ、あはは……ごめんごめん、黒田くん。……でもなにが悪かったのかな? よくわかんないんだけど」 「なんでもねー。忘れろ、リョージ。あ、エージを一発殴っていいぞ。お前は被害者だ」 「栄時さん、反省して下さい。とりあえず、あなたは私の隣に。綾時さんから離れてください」 「……黒田くん、復讐は果たされるんだからね」 「……くそっ、理不尽だ……」 栄時くんはすごく苦々しい、苛々した顔をしている。無理もない、彼はほんとになんにも悪くないのだ。理由もなく学年トップが廊下に立たされるなんて、きっとすごく屈辱なんだろう。プライド高そうだし。 「……ごめんね?」 僕は怖々謝った。でも栄時くんはしょうがないなって顔になって、肩を竦めて、頭を振った。 「……いい。忘れろ。俺が悪い」 「そうだそうだ」 「反省してよね」 「猛省を促します」 「お前らうるさい。もう黙れ」 僕はちらっと、げんなりしている栄時くんを見た。天才で、カリスマで、月光館のアイドルみたいな彼が、妙にこういうことが似合う順平くんの隣で、バケツを持って立っている姿はなんだかちょっと可愛くて、おかしかった。 でも言ったらもっと怒らせそうだから黙ってよう。 ◆◇◆◇◆ 「うん、どうしたんだいリョージくん。締まりのないアホ面でにやにやしちゃって、なにかいいことでもあったのかい」 「へ? あ、えっ? そんな笑ってた?」 「おお、ちょっとヒイちゃうくらい。お前、ひとりでニヤついてんのはキモいしイタいぞ」 「あ、う、うん。気を付けるよ」 僕は両手で顔を押さえて、ちゃんとした顔をしよう、と頑張ってみる。でもどうしても口元が上のほうへ上がっていってしまう。 順平くんの顔を見ると、両手を上げて「お手上げ侍……いやむしろダメであります」とアイギスさんの物真似をされた。 「お幸せそーでうらやましーこって。うん、ぼくにもツキを分けてくれないかな、リョージくん」 「えへ……ちょっとね、うん」 「なによ。何あったんよ。ラブレターでも貰ったか? 可愛いコにコクられたか? ……ってお前はそんくらいいつものことだったな。ムカつく……」 「そ、そんなんじゃないけどね。ただその、好きな、子が、」 「おっ? 進展アリ?」 「……その、笑って、くれて。き、昨日ね? ちゃんと笑うとこ、初めて見て、ああ可愛いなって。思い出したらなんかまたドキドキしてきて」 「……お前って見た目と性格のわりに意外にかわいい男だな。なによ、女子に今更ニコッとされたくらいでそんな嬉しいか? お前いっつもカワイイ子にキャーキャー笑顔振り撒いてもらってんじゃんよ」 「だってその、ね? 特別な人だから」 「……ま、気持ちはわかっけどな。オレもチドリに初めて笑ってもらったときゃすっげー嬉しかったし」 「う、うん。だよね? ほんとにほんとに可愛くて、綺麗で、僕――」 「邪魔。廊下の真中で立ち話をするな」 話し込んでいるところに、『僕の好きな子』の声が急に後ろから聞こえてきて、僕はびっくりして「うひゃあ」と悲鳴を上げてしまった。 栄時くんはいつものクールな顔のまま、抱えた教科書で僕の肩を軽く叩いて、「驚き過ぎ」とか言ってる。でもそりゃ驚きもするでしょと、僕は言いたい。こんな話を彼に聞かれたら、恥ずかしくて死んじゃいそうだ。 「なんだ、ニヤニヤ締まりのない顔をして。お前は本当にいつも幸せそうな男だな」 「え、えへへ……」 だって幸せだものと僕は思う。君のおかげだよとも思う。でも言えないのが、ちょっと歯痒い。 「……何の話」 「クールでハートレスなお前にゃわかんねーアツーいお話ですよー。なっ、リョージくん?」 「えっ? あ、あはは」 「……べつにいいけ」 「ダメです。この人に近付かないで」 鈴みたいな綺麗な声と一緒に、なにか鈍い、重たい壷をうっかり落としちゃった時みたいな音がした。栄時くんの後ろからやってきたアイギスさんが、『ダメ』の僕から栄時くんを引き離し――たというか、振り回して壁にぶつけたというか、まあそんな感じで、顔から壁に激突した栄時くんの身体が力なくずるずるくずおれる。 「栄時さん? ああ、やはりあなたはこの人にとってダメであります、綾時さん。頑強なこの人が、こんなにぐったりして」 「アイちゃん……エージに害ってんなら、今のはあきらかにあのね、君のほうがね、」 「保健室に行くであります。看病であります」 アイギスさんはそのまま栄時くんを背負って、同じくらいの体格の男子を担いでいるのにふらつきもしないで歩いていく。 「……あの、黒田くん大丈夫なの? あれ完全にオチてたと思うんだけど」 「あ? あんなのお前、良くあることだろ。いやー、仲の良いことはいいことだね」 「そ、そうなの、かなあ」 「エージはアイちゃんに甘いからね。絶対何があっても怒らないからね、あの宇宙帝王が」 「え? でもこないだデコピンしてたよ。僕が初めてここへ来た日に」 「あー、たぶんそれアレ。なんかの見間違い」 「そ、そうなの?」 良く分からないけど、僕は頷く。あの子大丈夫かなあと考える。せっかく綺麗な顔をしているのに、傷でもついたら大変だ。 「ま、あの二人はほっといて行こうぜ。次移動教室じゃん」 「あ、うん……」 僕らは並んで歩き出す。 「……そのさ、もうじき修学旅行じゃん」 「そうだね。いい時期に転入してきちゃったなあ。楽しみだよ、すごくね」 「ん、まーそーなんだけど。その、オレ向こう行ったらさ、土産買って来ようと思うんだよな、その……チドリに。写真もすげえ撮ってよ、話すきっかけっつーか、そんなん作ってみよっかなーなんてさ。なんか、無理にきっかけ作らねーと会いにも行けねーのが、なんか情けねーけど」 「うん、いいんじゃないかな。僕もそうだ。ちょっとした話でもできればいいんだけどね。でもなんか、用もないのに話し掛けるなって言われそうで怖くって、すごく緊張しちゃって、結局なんかきっかけがないと、なんかね……」 「うぅ、心の友よ、お前はほんっとイイ奴だぜ! オレっちの繊細なハートを理解してくれる親友はお前だけだ! どっかの宇宙人とは大違い!」 「そ、そんなことはないけど。僕もね、なんか、その、きっかけ作りっていうか。今まで自炊とか全然したことなかったんだ。でもあの子、料理が結構好きみたいな感じで。僕はあんまり器用なほうじゃないんだけど、いつかあの子に美味しいって思ってもらえるくらいに料理が上手くなって、お弁当とか作ってきたいなーって思うんだ。あの子のことを考えて、僕はこんなに頑張れたんだよって。君のおかげだよってさ。……うわー、なんか照れちゃうなあ。ちょっと恥ずかしくなってきた」 「気にするな! オレっちも聞いてるだけでハズいし背中が痒くなってくるが、オレは漢・望月綾時を応援するぜ!」 「う、うん! が、がんばるよ!」 「バカっ、意気込みが甘い! そこは漢的には『がんばるぜ!』だ!」 「が、がんばるぜ? うん、がんばるぜ、だよ!」 「バカ、『だよ』はいらねー!」 ◆◇◆◇◆ お風呂上がって、パジャマに着替えて、歯も磨いて、さあ寝よっかなって思ったところで、『Burn My Dread』のサビの部分が聞こえてきた。携帯の着信音に設定しているメロディだ。液晶パネルを見ると、相手は順平くんのようだった。 「はい、もしもし?」 『お、リョージ。今何してた?』 「え、寝ようと思ってた。今から目覚まし合わせるとこ」 『ハア? おまっ、健全な男子高校生がこんな早い時間にナニやっちゃってんだよ。てっきり女子とオタノシミ中? じゃねーの? ってちっと気ィ遣ったのによ。損した』 いきなり電話を掛けてきてこれだ。僕は「もーなんなのさ」って、ちょっとぐったりしてしまう。僕は夜がすごく弱いのだ。日付が変わるまで起きてることなんてめったにない。 電話の向こうの順平くんは、『あ、悪ィ悪ィ』と言い置いて、『じゃ、エージそっちにいたりしねーな』と言った。 「え? 黒田くん?」 『ん? おお。あいつ今晩……その、用事あるっつってたのによ、まだ帰ってきやがらねーの。ケータイ掛けてもシカトだし、ンっと自己中な奴だよな。な、お前今日放課後あいつとなんか話してたらしーじゃん。あいつからなんか聞いてね? 今日どっか行くとかなんかさ。さっき宮本に連絡入れたら、部活出てさっさと帰ったつって』 「え……僕はなにも、えっ、あの子まだ帰ってないの? もうこんな遅くなるのに」 『わり、知らねーならいーんだわ。じゃ、また明日な――』 「わかった! すっ、すぐ僕も探しにいくから! ごめんねっ!!」 『は? いやリョージ、べつにお前にそゆこと頼みたかったわけじゃ、大体お前もなんも知ら』 僕は慌てて電話を切って、着替えるのももどかしく、脱ぎ散らかしてある服を急いで着込んで部屋を出た。 べつに僕が心配することなんて、なにもないのかもしれない。 栄時くんは僕よりも遥かにしっかりしていて、危なげなくて、格好良くて、僕が『ついうっかり』をやらかしちゃった時にも、「しょーがないな」って感じでフォローしてくれる。 夜遊びする子には見えないけど、彼もああいうふうに真面目そうに見えたって十七歳の男の子だ。寮生だし、門限が決められてる小学生じゃない。遊んでたらちょっと遅くなっちゃった、ってこともあるだろう。 (でもなんでこんな嫌な感じするんだろ) 僕は栄時くんからほんのちょっと目を離しているだけでも心配になる。心配で心配でたまらなくなる。 本当はずっとついていたいくらいだ。毎日家まで送ってあげて、部活がある日は終わるまで待って、『ひとり暮しだけど、ちゃんとごはん食べてる?』って気を付けてあげて、『夜は早く寝るんだよ』って夜更かししないように注意してあげたい。大事に大事に守ってあげたい。 (こんなこと考えてたら、頼りないお前に心配なんかされたくないって怒られちゃうかな) でもやっぱり不安になる。僕はみんなみたいに、『栄時くんだから、完璧だから』で彼のことを全部納得してしまうことができない。 順平くんはあの子が電話に出なくて「シカトだし」って怒ってたけど、もしかしたら何か理由があって、携帯の通話ボタンも押せない状態にあるのかもしれないじゃないと僕は思う。 たとえば、事故に遭った。車に轢かれちゃったとか、階段とかから落っこちちゃって、痛くて動けない。僕は誰もいないところで怪我をして、ひとりでじっと蹲って、どうしようどうしようってすごく困ってる栄時くんを想像してしまって、泣きたくなった。 あの子が苦しかったり怖かったりするのは嫌だ。僕が代わりをやれるなら、喜んで痛いのも辛いのも受け取るだろう。 僕はあの子を守らなきゃいけない。それは、はじめて彼を見た時から強く感じていたことだった。僕が栄時くんを守らなきゃならない。どんな辛いことがあっても、ちゃんと手を繋いでいなきゃならない。この子を離しては駄目だと。すごく小さくて頼りない手をしていて、すぐに壊れてしまいそうで、だからちょっとひどいことをされただけでも、きっと取り返しのつかないことになると。 ポートアイランドのスクリーンショットには、あの子はいなかった。ちょうどレイトショーをやっていたところだったけど、チケットブースのお姉さんに聞いても、見てないそうだ。ただちょっとした特徴を伝えただけで、「あああのカワイコちゃんね。今日は来てないわよ」と通じてしまった時は驚いた。あの子は本当にこの街の人気者なんだ。 ポロニアンモールにもいなかった。シャガールは閉店しかかっていてがらがらで、エスカペイドにもいない。マンドラゴラにもあの子らしいお客さんは来ていないらしい。 (……あれ) 僕はマンドラゴラから出しなに、路地裏になんだか変なものを見つけて、目をごしごし擦った。 (なんであんなトコにドア置いてあるんだろ。どこかのお店が粗大ゴミで出したのかな。まだすごく綺麗なのに) 「変なの」と首を傾げて、また歩き出す。この街には夜を過ごせそうな場所は限られていて、僕は途方に暮れる。 (あとはえっと……学校?) もしかして、部活が終わってさっさと帰っちゃったって聞いたけど、帰り際に具合が悪くなって倒れちゃったんだろうか。それとも部活中にどこか打って、保健室で休んでいるうちにこんな時間になってしまったのかもしれない。ああそれありそう、と僕は考えた。僕がはじめてまともに栄時くんと話をした日もそんな感じだった。 図書室で、仕事を任されてて、でもあの子はカウンターのなかで居眠りしちゃってて、僕が起こすと「危なかった」と言ったのだ。「夜まで落ちるとこだった」と。 あの言いかたは初めてって感じじゃなかった。もしかしたらあの子は、ああ見えて結構抜けたところがあるのかもしれない。そう考えるとちょっと可愛いけど。 夜の学校は暗くて静かで不気味だ。灯りはついていない。玄関ホールも無人の購買も、昼間とは打って変わって沈んだ印象だった。 明るいうちはあんなに馴染みやすい顔をしているのに、学園内のいろんなものが、『お前なんか知らない』とそっぽを向いているような感じだった。昼間は新入りの僕にも大分優しい感じがするのに。 僕はホールの真中で立ち止まって、きょろきょろする。どっちだったかなと考えて、とりあえず両手を出して左右を確認する。 (『学校入って右側』が職員室のあるほうだっけ。えっと、『玄関に向かって右側』だっけ?) とりあえず警備の人を探したほうがいいかなと考える。ただでさえ僕はまだ学内で迷子になるやつなのだ。一緒に探してもらったほうが早いかもしれない。 「……あれ?」 僕はひょいっと窓から身を乗り出す。ちょうど今、渡り廊下の先の離れのほうで、ちかっと明かりが点いたのだ。 まだ誰かいたんだ、あの子かな、と考える。部室のある方角だ。 時間を確認しようとして、ポケットが空だってことに気付く。あんまり慌ててたもんだから、どうやら僕は携帯を忘れてしまったらしいのだ。「しょうがないなあ」と溜息を吐いて、僕は駆け出す。 |