い寄る、思い出(後編)




 まず、物音が聞こえた。がたんって、割と大きなものだ。何か重たいものを床に落っことしたみたいな音だった。
 それから急に静かになる。渡り廊下の先の部室は明かりが点きっぱなしだった。
 なんだろって思って、僕は足を早める。部室のドアをそっと開けて、なかを覗き見る。
――先輩っ……」
 男の、声がする。
 頭の片隅のほうで、『あっまずい』って僕は思った。何て言うか、『そういう雰囲気』だったのだ。荒い息と、服が擦れる音。ベルトの金具が外れる音。
 僕は覗きなんてしたい訳じゃなかった。でもそれを見てしまったのは、何ていうか、やっぱりおかしな雰囲気のせいだったんだろうと思う。
 十七の男の子にしては小さなからだが、お皿に乗った料理みたいな格好で、机の上に乗っかっている。腕は両方纏められて、頭の上で縛られている。制服はぐしゃぐしゃに乱されていて、口にはガムテープ。そのひとの顔を、僕は良く知っている。栄時くんだ。僕が心配で心配で、一生懸命探してたあの子だ。
「先輩、僕もう、」
 大柄な男子生徒は、見たことない顔だった。大きな手であの子の脚を広げている。下着はもう取り払われていて、あの子の脚の間に、赤黒い、
「この……!」
 咄嗟に壁に立て掛けてあったパイプ椅子を引っ掴んで、振り被って、そいつの頭に向かって振り下ろしていた。
 あんまり強く殴り過ぎると死んじゃうかもってことすら、考え付かなかった。
 僕の頭のなかは真っ赤になっていた。『なんで』ってことばっかり、僕は考えていた。
 なんでこんなことになってるんだ。なんで、あの子がこんなことされなきゃならないんだ。手を縛られて、喋れないようにされて、脚を開かされて、なんであの子がそんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「触るな、っ……」
 心臓が早くなる。目が乾いて熱い。頭のなかがぐらぐら煮えてる。怒ると身体がこんなふうに熱くなるなんて、今まで知らなかった。
 僕は「この子に触るな」と口のなかで繰り返して、それからはっと我に返って、パイプ椅子を放り棄てて栄時くんに駆け寄った。
「黒田くんっ! ぶ、無事かい……!」
 彼は目を開いていた。でもとろんとなっていて、焦点が合っていない。意識も薄いみたいで、僕の声にも反応しない。
 僕は栄時くんの口のガムテープを剥がして、「大丈夫かい」と泣きそうになりながら訊いた。栄時くんが口を開ける。開けて、





「ああ……うぅ、あー」





「え」





 聞こえたのは、良く街中で立ち尽くしている奇妙な人たちみたいな、虚ろなうめき声だった。
 この街には『無気力症』って病気のひとがいっぱいいる。なんにもできなくなって、自分が自分だってこともわかんなくなって、ただうめいているだけの、ぺらぺらの紙切れみたいになってしまった人たちだ。僕はそういう病気があるんだってことを、この国に来て初めて知った。
 この病気の特徴は、『昨日まで元気だったのに、ある日突然発病する』ことなんだそうだ。どんな偉いひとも、強いひとも、元気な人も平等にぺらぺらにうすっぺらくなってしまう。
 僕はもう、泣いてしまっていた。綺麗で、頭が良くて、なにより優しくて面倒見が良い、僕の大好きな人が、こんなふうになっているのを見るのは耐えられない。なんで、と僕はまた考える。なんでこの人がこんな目に。かわりなら僕がいくらでもやるのに。
「う、嘘でしょ、ねえっ……嘘だよね? く、黒田くん、僕のこと分かるかい? 名前、覚えてくれたよね。君の斜め前の席で、転入してきたばっかりで、いろいろ不安で、でも君が優しくしてくれたからすごく嬉しくて、もっともっと君と一緒にいたいって、いろんなこと話したいって、思ってて……あの、望月だよ。望月綾時、わかる?」
 栄時くんの反応は鈍い。でも彼の、輪郭のぼやけた目がぐるっと上向いて僕を見た。僕は、たまらなくなる。そんなふうに見られたって、いつもみたいに嬉しいって思うよりも、ただすごく悲しくなってくる。
「君がそんな、あんなふうになっちゃうのはいやだよ。影みたいになっちゃうなんて、君みたいな綺麗で強くて、格好良くて、優しい人が、あんなふうになっちゃいけないよ。まだ君と話したいことがたくさんあったんだ……僕、まだ君になんにも言ってないよ!」
 僕は栄時くんを抱き締める。彼の身体はあったかくて、細くて、気持ちいい。でも、僕はもうそれも嬉しいと感じることができない。
「こんなのって、ないよ。僕が……僕ならいくらでも、君のかわりに、……どうして、君なんだよう……!」
 涙があとからあとから出てきた。僕は栄時くんに縋りついて、『なんで』『どうして』を繰り返す。誰かが答えてくれるわけでもないし、僕が泣いたからって、大好きなこのひとが帰ってきてくれるわけじゃない。でもあんまり悲しくて、僕にはどうすることもできない。
「……な、」
「……え?」
「……あぁ……ら、い」
「え……え、黒田く、」
「れっ……。うぅ……」
 僕は驚いて目を見開いた。今の声、もしかして、『なかないで』って聞こえなかったろうか。僕は栄時くんの顔をじっと見つめて、「『泣かないで』?」と訊いた。彼が、大分時間を掛けながら、頷く。
「あ……君、わかる、の?」
「……あ、あ」
 彼が頷く。僕はほっとして、安心し過ぎて倒れこみそうになった。「よかったあ……ほんとに、よかったあぁ……」とへなへなになる。ほんとに、良かった。この子がこの子のままでいてくれて、ほんとに良かった。
 どうやら栄時くんは、口が痺れて動かないみたいだ。さっきの目の色といい、もしかすると変な薬でも使われたのかもしれない。僕のなかで、心配に押しやられていた怒りがまた沸いてきた。
 栄時くんはほとんど裸に剥かれていて、かろうじてシャツが身体にひっかかっているくらいって格好だった。僕はやるせない気分で彼の背中を撫でる。ほんとはこういうのは、もっと違う状況で見たかった。細い腕だとか、薄い胸、骨のかたちが分かる腰なんか。ああ僕は最低だと思って、すぐに栄時くんから目を逸らした。こんなのは駄目だ。彼にひどいことをしようとしてたやつと同じだ。
「あれ……おれ、なに、やってんだろ。着替えて、かえろって、……あれ?」
 栄時くんは、どうやら部活が終わった辺りから記憶があやふやらしい。彼はしばらく時間を掛けて、状況を呑み込むと、さあっと顔を真っ青にした。
「……え? ないだろ。だって俺、男で、……え? 間違えたとか、だって男同士でこんなの、変だろ、なんで、俺が」
「落ち付いて。もう大丈夫だから。……もう怖くないよ」
「……ん。あれ、そういえば、なんでおまえ、ここに」
「……順平くんから君が寮に戻ってないから、知らないかって連絡があったんだ。携帯も繋がらないって訊いて、すごく嫌な気分になって、心配になって」
「……お前、来なかったら、おれ、」
「……大丈夫。もうなんにも考えないで。僕がついてる。守るから」
「ん……あ、望月、悪いけど手、解いてくれないか……」
「あ、うん。ごめんね、気がまわらなくて」
 栄時くんもすごく混乱しているけど、僕も大分頭のなかがグルグルしていた。この子はまだ手を括られたままだった。なんで気付かなかったんだろう。彼の手の縄を解いて、それからちょっと怖々と、「触っても大丈夫かな」と訊いた。
「え、なにが」
「その、今誰かに触られるって、いやかなって思ったものだから」
「……望月ならいい」
 僕は、本当にだめなやつだ。こんな状況なのに、変な意味で取ってしまって、ドキッとしてしまった。無性に彼に謝りたい。
「う、うん。ごめんね、服着ないと風邪ひくから。シャツ、袖通せる? 身体は無事かい、変なことは……あ」
 僕はそれを見た途端、ものすごいショックを受けてしまった。上から押し潰されそうに強いものだ。
 栄時くんのおなかに、一本すうっと赤い線が見える。
「こ、これっ……どうしたの?」
「……え? あ、こないだちょっと、その……事故って。今日ついた傷じゃない」
「あ、そうなの……」
 僕は微妙な心地になった。誰かに傷付けられたんじゃなくて良かったって思うところなんだと思うけど、まだなんだか胸がざわざわする。
 栄時くんは手を止めた僕に、すごく申し訳なさそうな顔で、「なあ」と言った。
「……あの、望月」
「え? なんだい?」
「その、あんま見んなよ。心配してくれてんのに悪いけど、その、恥ずい」
「あ、う、うん。ごめんね……」
 僕は慌てて、あんまり栄時くんの身体を見ないように心掛けながら、彼に制服を着せる。途中で「パンツがない」と彼がすごく困った顔をしたり、彼の下着は床で伸びてるレイプ未遂犯人の鞄の中にあったり、それで栄時くんが「……なんかもう履きたくない」と憂鬱な顔になったり、ちらっと覗いた時に、『あ、キレイなかたちだなあ』なんて考えちゃって自己嫌悪に陥ったり、なんだか大変だったけど、無事に着せ替えが終ると、僕らはもう疲れて、ほっとして、ぐだっとなってしまった。
 僕はふと、床に開いたまま転がっている携帯を見付けて、栄時くんに「これ君の?」と訊いた。栄時くんはふるふる首を振る。
「……そいつのじゃないか? その、そこのそれ」
「うん……」
 なんだか嫌な予感がして、携帯のデータを覗いてみた。すると、思った通りのものがあった。画像データだ。栄時くんの制服が、一枚一枚脱がされていくさまが写っていた。
 日付が旧いものもある。栄時くんが窓際で頬杖ついてるやつとか、購買で話し込んでいるもの、体育の時間に撮られたろう、水着姿のとか、更衣室で着替えてる際どいものとか、こんなのいつどこで撮ったんだってものばっかりだ。
「……望月?」
 栄時くんが『なんか嫌な予感する』って顔で、不安そうに僕を見ている。僕は必死になんでもないふりをしようとした。
「な、なんでもないよっ。君はその、見ない、ほうが」
「貸して」
「あっ」
 あっさり携帯を取り上げられた。僕は嘘が下手なのだ。栄時くんの顔が強張る。これは、さすがにショックだろう。
「あの……き、気にしないほうが、いいよ。もう、忘れよう。ね?」
「…………」
 彼は憑かれたような顔つきで、データを丁寧に削除しはじめた。僕は彼が可哀想でたまらなくなる。こんなのってあんまりだ。この子が、一体なにをしたって言うんだろう。
「なんだこれ……音声データ?」
 栄時くんが目を眇めてデータを再生する。携帯のスピーカーから、『どうでもいい』って栄時くんの声が零れ出してきた。
「…………」
「…………」
 ほかにも『何か用か。用がないなら話し掛けるな』や、『どけ。邪魔だ』など、バリエーション豊富だ。僕もさすがにここまでそっけない対応をされたことはないってくらい、ほんとにどうでも良さそうな声ばっかり詰まってる。
 栄時くんの手が震えている。
「……殺しても、いいかな」
「君がわざわざ手を汚すことはないよ。僕が殺してあげよう」
「ていうか、もう、俺が死にたい……生きてても辛いことばっかりだ」
「きょ、今日が特別だったんだよ。運が悪かったんだ。もう忘れようよ。ね、帰ろう。送るから」
 僕はぐったりしている栄時くんに、「立てるかい」と訊いて、背中を撫でてあげた。彼は「ああ」と頷いたけど、足がグラグラになっていて、まともに歩ける状態じゃない。
「無理をしないで」
 僕は栄時くんの身体を抱き上げる。彼の身体はやっぱり軽くて、ちょっと不安になってしまう。まるでなにかの抜け殻を抱えているみたいな気分になってしまう。
「……え? 望月、お前、……嘘だろ? なんで、腕そんな細いのに」
「大丈夫、僕わりと力持ちだから。君ひとりくらい、抱いて寮まで連れてくよ」
「え」
 栄時くんは大分びっくりしていたみたいだけど、自力で歩いて帰るってことは諦めたみたいだ。ただ「……頼む、この抱き方はアレだろ、お姫様抱っこってやつじゃないのか。勘弁してくれ」って言われた。






 栄時くんは、軽い。僕の肩と両腕に彼の重みが掛かる。
 でも軽いって言っても、もう十七歳の男の子だ。小さな子どもみたいにってわけにはいかない。
 僕は、なんでだかそのことがすごく嬉しいような気がする。『ああこの子は今ここにいて、十七年間ちゃんと生きてきたんだなあ』って思う。
 栄時くんはひどく眠そうにうつらうつらしている。さっき使われた薬のせいなのか、あんまり疲れちゃったのか、たまにかくっと頭が落ちて、僕の肩に当たる。
 なんでか、僕はそうされると、すごく懐かしい気持ちになる。
「眠いなら寝ちゃっていいよ」
「でも……重く……」
「僕はこれでも力持ちだからね。安心してよ。ちゃんとお家まで送るから」
 栄時くんは僕の背中で揺られているうちに眠気が増してきたようで、僕の肩に頬を当てて静かになってしまった。ああ安心してくれてるんだなと、僕はすごくほっとしてしまう。
「……おとう、さん……」
 すごく小さい、ぽそぽそした声で、栄時くんが呟いた。たぶん、寝ボケちゃってるんだと思う。僕はくすぐったくなって、ちょっと笑った。
 こないだも寝ボケた彼に「お父さん」って呼ばれてしまったのだ。僕はそんなに彼のお父さんに似てるんだろうか。栄時くんのお父さんなんだから、たぶんものすごくカッコ良い男の人だろうとは思うけど。
 彼はほんの小さな子どもみたいに、頼りなくて幼い声で言う。
「……ごめん……ね、おと、さ……」
 栄時くんの声の響きは、なんというか、悲しそうだった。楽しい記憶を思い出して、って感じじゃなかった。なんだか僕は、自分がすごく悪い事をしたような気分になって、ぎゅっと口を結んだ。悲しくて、顔を歪めて、自分でもどうしてこんなに苦しいのか良くわかんないまま「ごめんね」って呟いて、そして、





 世界が、





 変わっていく。





 暗闇が、明るいグリーンの目に痛い眩しさを伴って、『ほんとの夜』がやってくる。歩道や煉瓦の壁が血を流して泣き出す。夜空の月がひどく大きくぐうっと膨らんでいく。
「あ……こんな時間まで起きてるの、久し振りだなあ」
 僕は夜空を見上げ、なんとはなしに呟いて、「あっ」と声を上げてしまう。僕の背中の栄時くんは、彼のままだ。消えたりしない。
 街のどこにも人間がいなくなってしまって、この一時間、僕は世界にひとりっきりになってしまうと思ってた。誰も知らない魔法の時間だ。
 この時間の間は、僕は王様みたいになれる。
 『甘いもの食べたいな』と言ったら誰かが僕のテーブルにいつのまにか運んできてくれてる。ケーキにジュースにアイスクリームにクッキー果物、沢山、いろんなものだ。
 『なにか面白いことないかな』と言ったら、黒い手が集まってきて、一生懸命芸をしてくれる。なんだか申し訳なくなって、一度きりしか頼んでないけど。
 でも人間に関しては上手くいかないようだった。『栄時くんが、欲しいな』って思っても、こればっかりは都合良くぽっと出て来るわけがない。次の朝になって急に僕のことが好きになってくれてるとかはなく、なんだかやつれた顔で、「おまえなんかあいつらのマタタビ的なもんつけてたんじゃねーの?」と順平くんに呆れた顔で言われてた。
 『かわいい女の子とお話したいな』って言ってみても駄目だった。朝になって、マンションの周りに街じゅうの無気力症の女の子たちが集まってきているのには、住人みんなでびっくりしたけど(あれもしかしたら黒い手が彼女たちの手をひいて連れてきたんじゃないかって、ちょっとひやっとした。そんなことはないって思いたい)僕の願い事が叶うのは、どうやら物に限定されてるらしい。
「……黒田くん?」
「……ん……なに、おとう、さ……」
「あ、いや。うん。なんでもないよ。ごめんね、ゆっくりおやすみ」
 すごく眠そうな声で言うから、僕は「起きて、これ見て」って言えなくなってしまった。また明日でもいいかなって考える。あんまり子どもっぽく言われるものだから、ついほんとに子どもに接するみたいに言ってしまって、僕はまたくすぐったくなって、ちょっとだけ笑ってしまう。すごく辛いことがあった彼には、ほんとに申し訳ないと思う。





 巌戸台分寮に着いて、僕はまずちょっとびっくりした。順平くんをはじめ、同じクラスのゆかりさんや、隣のクラスの風花さん、今日戻ってきた美鶴さん、ボクシング部の真田先輩、知らない顔の小学生、犬まで、みんなラウンジに集合していて、扉を開けた僕にいっせいに目を向けてきた。ちょっと、困惑する。
「あの……こんばんは。すごいね、みんな揃って」
 もしかしなくても、みんな栄時くんのことを心配して、彼が帰ってくるのを待ってたんだろうなって思う。この子は愛されているのだ。大事にされてるみたいで良かったと、僕はほっとする。
 みんなは僕の背中に担がれている栄時くんに大分びっくりしている。無理もない。まず順平くんがソファから立ち上がって、「悪ぃ」と寄ってきてくれた。
「寝てんの、そいつ? お前、ホントに探しに行ってくれちゃったのな」
「あ、うん。彼の部屋はどこかな。とりあえずちゃんと寝かせてあげたいんだけど」
「ニ階の一番奥だ。順平、案内してやってくれ。傷はないか? どこか悪いところは――医者を呼んだほうがいいか」
「真田さん、こいつに過保護過ぎッスよ。どっか悪けりゃ起きて自分で行くでしょ。そーやって先輩がたが甘やかすから、エージがどんどんふてぶてしくなるんスよ」
「甘やかしているつもりはないが……」
――とにかく、彼も無事戻ってきたことだし、皆解散だ。君、世話を掛ける。あとは我々に任せてくれ」
 美人の会長さんに話し掛けられて、ついぽおっとなってしまうけど、僕は首を振って「僕やります」と言った。このままほっとける訳がない。
 順平くんに案内されて、栄時くんのポケットに入っていた鍵でドアを開け(順平くんがあんまり自然な動作でやるから、僕はちょっとびっくりした。この寮の人はほんとにアットホームだ)、早くベッドに寝かせてあげなきゃと部屋に足を踏み入れた途端、僕はぐらっと世界が揺らぐのを感じた。
「え?」
 あんまりに、馴染む光景だった。
 まるで、自分の部屋に帰ってきたような感じだった。
 びっくりするくらい、なにもない部屋だ。人の生活の匂いってものがほとんどない。まだ越してきたばっかりの僕の部屋もそうだけど、でも今年の四月から数ヶ月掛けて蓄積されてきた、生活の空気がまるでない。
 変な置物とか、プラモデルだとか、趣味で集めてるコレクションだとか、雑誌だとか、そんなものが全然ない。
 そして、僕は知ってる。クローゼットのなかの服の枚数、





『コートが一枚、セーターがいち、に……三枚。あ、こっちはパジャマ。あは、僕とおそろいのもある。ね、君今度これを着てみせてよ』
『勘弁しろよ、せっかく夏物仕舞ったとこなんだから、そっちは引っ張り出すなよ。そんなに面白いもんか? 俺の部屋、子どもが喜びそうなものなんてないだろ、×××××』





 どこに、何があるか、





『とても面白いよ。君が大事に使ってる物たちは、なんだかすごく喜んでる。きらきらしてる。宝捜しだ。楽しいね』
『……遊ぶのはいいけど、あとでちゃんと片付けろよ。……て、言ったってどうせ、いつもお前が散らかしたものの後片付けをするのは、俺の仕事なんだ』
『あ、もしかして、怒ったかい? ごめんね、君を怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ――





――悪戯はお終いだ。×××××、ほら、……おいで』





 腕が差し伸べられて、大きな、あたたかくて優しい手が、僕の髪を、





――リョージ? どうした、ぼっとして」
 順平くんの『こいつどうしたのかな』って声が、僕を引き戻した。僕は慌てて「ああうん」と頷いて、「その、綺麗な部屋だね……」と無理に笑った。心臓がいやにうるさく鳴っていて、なんか変だ。
「ああ、最初はやっぱびっくりするよな。これホント十七の男の部屋ですかっての。娯楽がねー。オレならこの環境で生きていけねー」
 栄時くんの上着を脱がせて、リボンタイを解いて、シャツのボタンを緩めてあげてから、ベッドに寝かせる。彼は毎日きちんと綺麗に制服を着てきて、それがすごく似合っていて、格好良いのだ。
 僕は彼の手を触って、苦しそうな顔をしていないか確認して、彼の上着を壁に掛けようと、立ち上がろうとした。そこで、手を引かれる。
 栄時くんが僕の指をきゅっと握っている。ほんとにほんとに小さな子みたいな、頼りなくて幼い仕草だ。ほとんど寝言みたいな調子で、彼が言う。
「……い、か……ないで、おと……さ……」
「う、うん。大丈夫、僕がついてる。安心して眠りなさい」
 僕は慌てて床の上に正座して、何度も頷く。「ここにいるよ」と言う。そうすると、栄時くんの寝顔が、ちょっとほっとしたようなものに変わる。僕はそのことが嬉しくて、口の端が緩んでしまった。
「コラコラコラエージくん、リョージくん、も、帰らなきゃアレだから。終電出ちまうから。明日も学校、OK?」
「ぼ、僕は平気さ。それに、彼についていたいんだ」
 『ナニコレ』って顔をしてる順平くんに、僕は言う。終電よりも学校よりも、僕はこの子が大事だ。そばにいたい。
「僕にできることはこのくらいだから、少しでもこの子が安心してくれるならここにいたいよ。ちゃんと目が覚めるまでついててあげたい」
「……アレ? お前、なんで男相手にそんな一生懸命なってんの? 女好きのリョージくんが、あれっ?」
「だって、この子はこんなに小さいんだから、僕が守ってあげなきゃ」
「……お前それエージが起きてる時に言ってみろ。ぶっ飛ばされっぞ」
 順平くんは『しょーがないな』って顔をしている。彼は部屋から顔だけ出して、「真田さーん、どうします?」と途方に暮れた声を出した。あの人、三年生だから、みんなのお兄さんみたいな存在なのかもしれない。
 真田先輩ははなんだか大分勘違いしたのか、湿布薬だとか冷却シートだとか、薬品らしいボトルを抱えてやってきた。「何があったんだ」と彼に聞かれて、僕はうっと詰まる。ほんとのことなんて言えるわけがない。
 僕は「彼、倒れちゃってたみたいで。たぶん過労じゃないかなって思います。すごく頑張りやさんだから」と答える。僕はどうやら嘘を言うのが下手みたいだけど、真田先輩は「そうか」と納得したように頷いてくれた。良かった。
「黒田はまだ眠ったままか。まあ外傷が無いならいい。目を覚ましたらプロテインを飲ませておけばいいだろう。望月と言ったな、後輩が迷惑を掛けた。すまない」
「真田さん、あのね、プロテインは風邪にもストレスにも何にでも効く魔法の薬じゃねンスから。ほんっと頼んますから、何でもソイツで解決しようとすんのは勘弁して下さい」
「何を言う。現に、この前こいつが風邪を引いた時、プロテインを飲ませてみたら一晩で治ったぞ」
「それは色々なミラクルが重なったんデスよ。あーもーいーからリョージ、お前もう帰れ。オレらがちゃーんと見とくからよ。安心しろって」
「ああ、心配ない。信用しろ」
 僕はかなり心配で、どうしてもついてたいんです、とごねたけど、結局半ば追い出されるようにして、帰らされてしまった。ほんとに大丈夫なんだろうか。僕は途方に暮れながら、でもどうすることもできないので、とぼとぼ帰途につく。あの子、目を覚ました時にもし誰もそばにいなかったら、すごく不安なんじゃないかな。





◆◇◆◇◆





 あの時、グリーンの闇のなかで、栄時くんを背負って歩きながら僕が考えていたのは、あまり気持ちの良いことじゃなかった。
 すごく胸が苦しかった。こんなに綺麗な、小さな、ほんのちょっと触っただけですぐに罅が入って、砕けて消えてしまいそうなひとに、あんなやつが触っちゃいけないんだ。そういうことだ。
 僕は初めて誰かを憎んだ。死んじゃえ、と考える。そしてすごく嫌な気分になる。僕は何というか、こういうふうに悪いことを考えちゃいけないような気がするのだ。悪いほうに暗いほうに引き摺られていっちゃダメだって、昔誰か大切なひとに言われたような気がするのだ。
 嫌でもさっきの光景が、ありありと目に浮かぶ。縛られた細い腕。薄い唇はガムテープに覆われて見えない。くしゃくしゃになった制服。はだけたシャツに包まれた肢体。しなやかで、綺麗な。
 一瞬だけ、ほんのちょっとだけ、あの薄いお腹に、まるで手術の後みたいな傷痕に触れられたらなと僕は考えてしまった。
 あの子はたぶん、声を上げられない。助けもたぶん、来ない。ただ『なんで、どうして』って目をして僕を見るだろう。きっと泣くだろう。僕だって、なにも変わらない。綺麗なあの子を損なおうとする、どうしようもないやつだ。
 僕は違うんだ、と僕は考える。そんなこと思ってない。ただほんとにほんとに、大事にしたいだけだ。ほとんど、自分に言い聞かせるような気分だった。
「……この子を汚すやつなんて、みんないなくなればいい」
 僕は言う。囁く。
「……ねえ?」
 怖々と、同意を求める。顔が引き攣っているのが、自分でも分かる。僕は多分、誰かに怒って欲しいんだと思う。「そんなこと言うな」とか、「誰かがいなくなればいいなんて、そんなのダメだ」なんてふうに。
 でも返ってきたのは、すごく簡単な肯定だった。拍子抜けしちゃうくらい、あっさりしたものだった。『なにが悪いの?』ってふうな。
 黒い手が急にぬっと現れて、僕の前でぐっと親指を立てる。『イエス』ってふうに。そしてするする引いていく。どこかへ消えてく。僕は遠ざかっていく影を見送る。
 あっちは、僕らが来た道。いつのまにか学校が消えて、異形の塔が建っている。





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