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罅(1) 僕はお母さんと買い物に来ていた。ふたりで、車で、近くのモールにまでだ。 食べ物、白菜とかほうれん草とか人参とかりんごとか、お菓子も、それからティッシュボックスやトイレットロール、僕の服、おねだりして買って貰った玩具、たくさん買い込んだ。僕もお手伝いで両手に荷物を抱えて、お母さんの横をえっちらえっちら歩いてく。その時だった。その人が、偶然、視界の端っこに入ったのは。 「やあ、君かわいいね。良ければこれから食事にでも――」 『あまーい囁き声』(って言うんだそうだ)が聞こえる。僕は、あちゃあ、と頭を抱えたくなった。すごくまずい展開だ。 案の定お母さんはぴたっと一瞬足を止めて、『そっち』を氷みたいな目で見て、また歩き出す。さっきよりも随分スピードアップしていて、僕はついてくのに一苦労だ。 「ね、ねえ、あの」 「栄時、見ちゃダメです。早く行きましょう」 お母さんがナイフみたいな声で言う。やっぱりすごく不機嫌になっちゃってる。ああもう、あの人のせいだ、と僕はちょっと恨めしく考える。あれはもうきっとなにかの病気なんだ。 お母さんの『栄時』って声に反応したらしく(あの人は僕の名前ならどこにいたって聞き分けてくれるのだ)、あの人が振り向く。そして、『あっすごくまずい』ってふうに、さっと青ざめる。 今ちょうど口説いていた女の人(美人だった。お母さんより胸がおっきい)に「ごめんね」って謝って、僕らのほうに駆け寄ってきた。具合悪そうな、『うちの子じゃありません!』ってお母さんに言われた子みたいな顔で、僕らの後ろにくっついてくる。 「あっあのっ! ご、ごめんね! まさか君がここに来てるなんて、思わなくって……」 「――あなたは、ダメです。生理的に受け付けません」 「そんなあ、アイちゃん、ねっ、久し振りに会えたんじゃない、一緒にお茶でも――」 「『愛栄さん』と呼ぶこと、と約束したはずですが?」 「まっ、まなえさんっ、ごめんなさいっ、首絞めないでっ」 僕のお父さん、綾時だ。お母さん、アイちゃんが、両手に持った荷物をどさっと地面に置いて、綾時の長いマフラーをぎゅーっと絞める。 ああなんか久し振りの光景、って僕は思うけど、ほっとくとこのまま綾時が殺されちゃいそうだから、とりあえず止めてあげる。僕は我ながら良くできた子供だ。 「……アイちゃん、綾時、死んじゃうよ。やめたげようよ」 「ちびくん……えーじ、僕のやさしいえーじっ、大好きっ!」 綾時が泣きながら僕を抱き締めようと腕を伸ばして、でもアイちゃんに「待て」を命令されて、しょぼんとした顔で項垂れる。なんだかご主人様とわんこって感じだ。アイちゃんがしゃがんで僕を抱いて、「いい子ですね」と頭を撫でてくれる。綾時は羨ましそうにこっち見てる。 「栄時、あなたはこんなダメな大人になってはダメですよ。まっとうに、まっすぐに、一途な大人になるんです。――あまり栄時に触らないでください。浮気性が感染します」 「ちびくんっ、パパはねっ、君とママだけだよっ、ほんとだよっ!」 「綾時……ウソツキはダメって自分で言ったのに。あのね、僕知ってるんだから。綾時、きれいな女の人見ると、誰にでも好きって言うよね」 綾時は僕が言うと、世界が終わったみたいな顔になった。そんな顔をしたって、ほんとのことなのに。 なんか僕のほうが悪いこと言っちゃったな、みたいな気分になってしまった。綾時はちょっとそういうところがある。どう頑張っても憎めないのだ。怒れない。 アイちゃんだってほんとはほだされそうになるのを頑張ってガマンしてるんだってことを、僕は知ってる。 アイちゃんが僕の手を繋いで、にっこり笑って言う。 「さあ、行きましょう栄時。……あなたは荷物を持ってくださいね。車まで運んでください」 「は、はいっ! 持ちますっ!」 綾時はびしっと敬礼して(こんなでも自称僕のヒーローなのだ)、僕らが買い込んだ荷物をひとりで持って、ついてきた。やっぱり大人の男のひとってすごい。僕とアイちゃんが一生懸命頑張って運んでた荷物を、すごく軽々持って平気そうな顔をしてる。 あ、かっこいい、と僕はちょっと綾時を見直してしまう。 荷物を車のトランクに積み終えると、僕はいつものとおり、助手席に座る。シートベルトもきちんとする。そして僕は小さな声で、こっそりと、ひそひそ言う。 「……りょーじ、またアイちゃんに怒られるよ? 今日は無理だよ。も、諦めたほうがいいよ。日曜日にまたあそぼ?」 「ちびくん、男はね、そう簡単にへこたれちゃいけないんだ」 綾時がちょこんと後部座席に座ってる。かっこいいことを言ってるけど、すぐにアイちゃんに蹴り出されてしまう。あーあ、と僕は考える。綾時はほんともうダメだ。全体的に。 「栄時、もう行きましょう。ここで見たことは忘れましょう」 運転席側のドアが閉まる。車が発進する。駐車場の地面に顔から倒れこんでた綾時が慌てて立ちあがって追っ掛けてくる、けど、人間が走り出した車に追い付けるわけがない。 「栄時ー!」 綾時が泣きながら追っ掛けてくるものだから、僕はあんまりかわいそうになって、車の窓を開けて顔を出して、手を振った。 「――綾時! あのねっ、綾時が僕らのほかのひとを好きになっても、僕もアイちゃんも綾時だけなんだからね! 大好きだからね!」 「栄時ー!! うわーん!! ごめんね! ふがいないお父さんでごめんねえいじいぃー!!」 ――僕のお父さんはすごいダメな父親です。 |