(3)




 栄時が「あーあ」って顔をしている。レストランのテーブルの上にお行儀悪く肘をついて、咥えたストローに息を吹き込んで、グラスの中のソーダ水をぽこぽこ言わせている。「ダメです」と私は怒る。
「お行儀悪いですよ。ぷくぷくさせるの、ダメです」
「だってアイちゃん、綾時可哀想だったよ。一緒にごはんくらいいいのに。綾時のアレはもう病気なんだって思ったら、腹も立たないでしょ。僕らのこと好きでいてくれることに変わりはないんだから」
 そう言われると、私は「うっ」と詰まってしまう。すごく心の狭い人間になったような気分になる。栄時は、この子は器が大きいというか、本当に心の広い子だと思う。綾時さんが同じことを言っていると呑気だとか大雑把だとか思ってしまうけれど、生真面目な性格の栄時が言うと、なんでもすごく説得力というものがある。
「アイちゃんも、妬いちゃうくらい綾時のこと好きなんでしょ。早く仲直りしようよ。うちに帰っても僕らだけって、すごい気持ち悪い。ごめんなさいって、それだけ言ったら済むじゃん」
「……私は悪くないです。綾時さんが、」
「綾時あんななんだから、大人になってあげなよ。げっそりしちゃうくらい謝ってたじゃん。僕ヤだよ、アイちゃん以外の人と綾時が再婚しちゃうとかそんなの」
「わ、私だってヤです!」
 栄時が『ほら見てみなさい』って顔をする。私ははっとして、口を押さえて赤くなってしまう。本当に、この子はいつの間にこんなにマセちゃったんだろう。私や綾時さんみたいにダメな親を持ってしまうと、『僕がしっかりしなきゃ』って考えてしまうのかもしれない。
「で、でも今更そんな、どうせまたすぐに浮気しちゃって、また同じ事の繰返しになるに決まっています。人間の恋愛なんて、持続するのは二年程度だって言いますし、」
「僕は生まれて七年、綾時とアイちゃんのことがずーっと好きだよ。今から二年経って九歳になっても、ぜんぜん今と変わんないと思う。アイちゃんは難しいこと考え過ぎだよ」
「……そうかなー」
「そうそう」
 栄時は頷きながら、「でも綾時も悪いよね」と言ってむくれている。
「こんな綺麗なアイちゃんほっといて何してんのって思う。早くハンセーして戻ってこなきゃ、僕早くおっきくなって、アイちゃんお嫁さんにしちゃうもん」
「栄時はいい子ですね」
 私はなんだかほっとしてしまって、栄時の頭を撫でる。この子は本当に良い子に育ってくれている。ふがいない両親のせいでたくさん辛いこともあったのに、純粋でまっすぐなやさしい子だ。綾時さんに少し見習ってもらいたい。
「アイちゃんもしっかりしなよ。早く綾時連れ戻さないと、僕が綾時のお嫁さんになっちゃうよ」
「……栄時はママをお嫁さんにしてくれるんじゃなかったんですか?」
「うん、する。僕がアイちゃんをお嫁さんにして、そんで僕が綾時のお嫁さんになったら、また前みたいに家族三人で暮らせるじゃん」
 栄時はにこっと笑って、「僕頭いいでしょ」と無邪気に言っている。あんまり健気で、泣きそうになってきた。この子には本当に苦労を掛けてしまっている。栄時は栄時なりに、壊れてしまった家族を修復しようと必死なのだ。
「……ごめんね。苦労掛けて、ダメなお母さんでごめんなさい栄時っ……」
「それ、綾時も前言ってた。別に苦労なんてしてないよ。……ね、アイちゃんあのね、またいつか、家族で一緒に暮らせるよね? 三人で前みたいにごはん食べて、お風呂入って、一緒に寝て、「行ってらっしゃい」と「おかえり」できるよね?」
 栄時が不安そうな眼差しで、一生懸命、たどたどしく言う。だから、私は頷く。そう深く考えることもなく頷いてしまう。
 栄時はほっとした顔になって、「早く赦してあげてね!」と言う。無邪気に笑う。





◆◇◆◇◆





 からだは私なんかよりもずうっと大きいくせ、彼はまるで捨て犬みたいな目をしていて、性質もそんな感じだった。懐っこく、無邪気で、そして年中発情期。
 携わっているプロジェクトの関係で、社員寮に引っ越す際に、少しばかり顔を合わせる機会があった。どうやらどこかから引越しの話を聞き付けてきて、「女の子とちっちゃい子供だけじゃ、なにかと辛いでしょ。是非お手伝いに」と現れたのだ。私は、なんとなく読めてしまった。
「栄時、チクりましたね」
「べつに、なんにも言ってないけど」
 栄時は椅子に座ってふらふら足を揺らしながら、すっとぼけた顔をしている。綾時さんは「えへへ……」と苦笑いしていて、ああこの人はそう言えば昔から、嘘を吐くのがすごく下手だったんだ、と私はぼんやり思い出していた。
 今まではほとんど仮住まいみたいな家だったから、あまり荷物は無かった。本棚やクローゼットやベッドなんて大きな家具は先に運び込まれていたし、日常使うものは新しく買い揃えようと思っていた。だから仕事の資料と、アルバムくらい。
「ちびくん、ネジ取ってくれるかな」
「はーい」
 綾時さんと栄時はニコニコしながら、届いたばかりの本棚を組み立てている。ふたりは本当に仲が良くて、たまに栄時は教育ママな私よりも、優しいばっかりの綾時さんのほうが好きなんじゃないかな、と妬いてしまうことがある。
 でもそれでも私がしっかりしなければ、甘やかしてばかりの綾時さんに任せっきりでは、栄時があの人のようにダメな大人になってしまう。あの子には真面目で誠実な子に育って欲しい。私が心配するのはそれだけで、栄時は本当に、私たちにはでき過ぎた子供だと、いつも思う。
 作業が一区切り付いたところで、私は大分居心地悪く思いながら、切り出した。
「……夕食、食べて行きませんか」
「えっ! いいのかい?!」
「あなたは不器用なんですから、どうせいつもろくなものを食べていないんでしょう。身体を壊されても困ります」
「あっ、アイちゃん! あいしてるー!」
「か、勘違いは止してくださいますか。あ、あなたのためというわけではないんですから。ただ、あなたに何かあったら栄時が悲しみますから。それに二人分作るのも三人分作るのも同じで、ただそれだけ」
「綾時、良かったね。あともうちょっと頑張ってよ。アイちゃんきっと赦してくれるよ」
「う、うん! がんばる……!」
「栄時、あのね、」
「あのね綾時、人参は僕が切るよ。頑張るから、ちゃんと食べてね」
「も、もちろんさ! 僕ちびくんが切ってくれた人参大好きっ……」
「風邪ひいてない? 転んで怪我もしてない? 元気でやってる?」
「うう、風邪も怪我もないけど、寂しいよお……」
「……あー、綾時泣いちゃった。アイちゃんのいじめっこ」
「栄時、お母さんは、」
「しいらない」
 栄時はぷいっと目を逸らして、「いーけないんだ〜」と言っている。この子のこういうところは、誰に似たんだろう。私より綾時さんより、たまにしっかりしている時がある。





 ――その晩私たちは、久し振りに家族でテーブルを囲んだ。
 綾時さんは相変わらずだった。いつものように恥ずかしい台詞ばかりで、でも本当に本当に幸せそうで、ニコニコしていた。最近拗ねたような顔が多い栄時も、久し振りにちゃんと笑っていた。
 私も、楽しかったと思う。まるで壊れる前の世界が戻ってきたようだった。夕飯は家族が大好きなハンバーグで、いろんな話をして、でもそれがたぶん、三人で楽しく過ごした最後の時間だった。





◆◇◆◇◆





 最近、自分というものがどんどん希薄になっていくのを感じる。手足の感覚や、私が私であるという認識が薄れていくように思う。
 いつからこうだったろうと私は考える。でも記憶は漠然としていて、うまくものを考えられない。
「最近、ぼんやりしちゃうことが多いんですよね」
「……あ、私も、そうです。なんだかなー」
 私は、同僚と一緒に溜息を吐く。みんな「最近ほんっと忙しいですもんね」とか、「こんな修羅場、うちの部署だけですよ」とか言っている。
 そう言えば、最後に休んだのはいつだったろう。私もみんなと同じで、きっとすごく疲れているんだろう。でもプロジェクトは今ちょうど大詰めで、一息入れている暇なんてない。
――にしても、不思議な生物ですよね。なんも食ってねえくせ、なんか成長してるし。何食ってんの、お前ー」
 同僚が、ケージの中に手を突っ込んで、観察対象の頭部らしい部位を撫でている。それはコールタールみたいな外見をしているけれど、はっきりと生きていた。
 割合懐っこく、人が手を入れるとすぐに寄ってきて、触ると落ち付く。
 人間に害はないと上からの通達があったし、穏やかな性質をしていたから、それがなんなんだろうと考えることはあまりない。私たちは、私たちの望まれるままを行うだけで、余計なことを考える暇も余力もない。もうみんな連日の徹夜でくたくたなのだ。すごく、身体がだるい。
 夕方から出勤してきた同僚が、私を見て「あちゃあ」とか言っている。
「黒田女史、顔色が悪いですよ。今日はもう定時で上がったほうが良いのでは?」
「え……そうですか。でも辛いのはみんな同じですから」
 隣で話していた同僚が、私を肘で小突いて「ダメです」と言う。
「そういうのダメですよ。お子さんも寂しがってるでしょ。あんなちっちゃいのに、幾月の駄洒落で笑うようになっちゃお終いですよ」
「あー、ひどいなぁ、僕の小粋なアメリカンジョークは子供たちにも大人気で、」
「お前のはアメリカンでもなんでもない! ただの親父ギャグだっ!」
 なんとなく、残業するとは言い難い雰囲気だ。私は言われるままに頷く。言われたとおりに、カードを切って、「じゃあお先です」と頭を下げる。
「黒田女史、今度またあの子連れてきてくださいよー、僕のジョークを理解してくれる素敵なお客さん。それに、シャドウに触っても何の障害も見られないなんて、何らかの適性がある可能性があります」
「ええ……そうですね、了解しました」
 私は頷く。でもあの子と言われても、ぼんやりしたイメージしか思い浮かばない。





 同じ施設内にある社員寮に帰ると、扉を開けるなり小さな子供が飛び出してきて、私に抱き付いてきた。
「おかえり! 今日は早かったんだ! 一緒にごはん食べれるねっ!」
 そして、すごく嬉しそうに笑う。私もつられて笑う。
 この子は、誰だったろう。どこの子だったろう。すごく私に懐いているみたいだ。
 手を引っ張られて、テーブルに案内される。テーブルの上には、ケチャップでジャックフロストの可愛い顔が描かれたオムライスが乗っていた。
「今日は冷めないうちに帰ってきてくれてよかった。ね、僕結構ジョータツしたでしょ」
 子供は得意げに笑っている。そこで私は、ああ、と思い当たる。この子は私の子供だった。
 名前は、なんだったろう。確か私の名前と一文字お揃いで、綺麗な名前をしていたはずだ。
 テーブルで宿題をしながら私を待つつもりだったのか、端に纏めて置かれている教科書に書かれている名前を見て、私はまた「ああ」と思う。『黒田栄時』とある。栄時、そうだった。そんな名前だった。
 栄時は「疲れちゃってるんだね」とか「僕がおっきくなったら、ちゃんといっぱい働いて、楽させてあげるからね、ごめんね」とか、ニコニコしながら話し掛けてくる。
「おっきくなったら僕もラボで働くんだ。いっぱいいっぱい勉強して、ふたりと一緒にお仕事すんの。そんでね、また三人で暮らすんだ。ねぇ、アイちゃん!」
 私に同意を求めるように、栄時がにこっと笑いながら首を傾げた。なんだかもやもやする。なにかおかしなことがあったような気がする。
 私はまた「ああ」と思い当たる。子供の栄時が、母親の私をそういうふうに呼ぶのは、おかしいんじゃないかと思う。私はすぐにそれを改めさせることにした。
「その呼び方、ダメです」
「えっ」
「お母さんって呼んで」
「えっ? あ、あいちゃ、」
「ダメ」
 栄時はひどく困惑した顔になって、「どうしたの?」と掠れた声で言った。
「りょーじも、こーやって呼んでるじゃない。僕らすごく仲良しの友達みたいだねって、三人で言ってて」
 さっきから、栄時はおかしなことばかり言う。三人って、なんだろう。ここには私たちふたりきりしか住んでいない。
 私はスプーンをお皿に置いて、栄時に「何を言っているんですか」と訊いた。
――『りょーじ』さんとは、誰ですか?」
「え、」
 栄時が、息が詰まったみたいな声を出した。目を丸くして、信じられないものでも見るみたいな顔をして、そして急に大声で泣き出した。
 私はそれを静かに観察していた。この子が何を言っているのか、全然わからない。
「栄時、あなたもきっと疲れているんですよ。ごはんを食べたら、もう眠りなさい。明日にはきっと、元通りになっています。だから泣かないで」
 栄時はますます激しく泣き出した。私はそれをやはり静かに観察する。どうしてこの子は泣いているんだろうと考えてみる。答えは思い付かず、わからないままだ。
 私には泣くべきことなんて何も思い浮かばず、だからとうてい理解出来ない理由で泣いているこの子が、言葉が通じない、得体の知れない怪物のように見えてきた。
 この子は一体、誰なんだろう。
 なんで、泣いてるんだろう。





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