学旅行、僕らの愛しの王子様(7)




 その時はほんとにすごく良い思い付きだと思ったんだった。一大チャンスだ!って。
 僕らの前には迫り来るゆかりさん(のビンタ)、背後には美鶴さん(の処刑)、おまけに多分僕には特別にアイギスさんの絞首刑も待ってるだろう。真田先輩も順平くんも、栄時くんまで真っ青になって、岩伝いににじにじ逃げてる。
 でも多分、見つかるのは時間の問題だ。だって露天風呂みたいな見晴らしの良い場所で、男四人を上手く隠せる障害物なんて、僕らが今隠れている最後の砦の岩陰しかないんだから。そこももうじき攻略されようとしている。万事休すってやつだ。
 でも僕は青くなってる三人とは違って、なんだかワクワクしたものを感じていた。まるでこーいうの、スパイ映画みたいだ。悪の組織の秘密基地に潜入したヒーローたち、敵の女幹部に見つかりそうになってドッキリ大ピンチとかなんとか。
 大体女の子ってのは優しい生き物なんだから、謝ったらひどいことはしないと思う。きっと『きゃっ、やだぁ望月くんのエッチ!』とか『いやーん、見ちゃダメぇ〜』っていう展開になるんじゃないかなって思う。あわよくば混浴でご一緒できるかもしれない。ならむしろ、こそこそ隠れるより堂々と姿を現して「ごめんね」って言ったほうがいいんじゃないかなあ、って思うけど、僕は栄時くんを見る。彼は額に冷汗どころか脂汗が浮いている。順平くんと真田先輩も同じような感じだ。「疾風……」とか「氷結……」とか「銃殺刑……」とかよくわかんないことを言ってる。いやさすがに銃殺刑はないでしょ。日本は平和な国で、武器持っちゃダメって法律で決まってるみたいだし。
「そんなに見つかりたくないの?」
「当たり前だ。お前は彼女らの怖さを知らないから」
 ふーん、と僕は頷く。そんなにヤならしょうがない。混浴は諦めよう。栄時くんと一緒にお風呂って時点で、僕はもうすでに混浴の喜びを噛締めているわけだし。
 そこで僕は良いことを思い付いてしまったのだった。逃げるスパイ、迫る追手の魔の手、まるで映画のシチュエーションそのままを再現してみたんだ。
 僕はかなう限りなんでもないふりを装って、栄時くんの肩を抱いた。たぶん、彼は許してくれるだろうなって思ったんだった。
 栄時くんは今まで僕が彼に何をしても、どんなことをしたって、本気で怒ったことがない。僕の我侭を何でも赦してくれる。
 だからもしかしたら今回のことも、「もー、しょうがないな望月は。でも助かったよ」って笑って赦してくれるもんだとばかり思っていたんだ。そんでもしかしたら、それで僕のことをちょっとは意識してくれるといいなって。
 これは事故だからって言ったら、また栄時くんは「まったく望月は」って顔をしてくれるもんだとばかり思ってた。僕はたぶん、知らないうちに、ものすごく彼に甘えてたんだと思う。
 僕はその時初めて栄時くんにキスをした。
 事故に見せ掛けた、最悪に意気地のないキスだ。
 唇を合わせて、柔らかい感触をいっぱい感じたあと、吸い付いて、舐めて味を知る。大好きな子の唇って、触れ合うだけでこんなに幸せになれるんだって、僕は初めて知った。
――な、」
 なにすんだ、って感じで彼の唇が開いて、柔らかそうな舌が口の隙間から覗いて、それで僕はたまらなくなってしまった。僕のなかのどこかで、プチンってはじける音を聞いたような気がする。
 僕は、そうしたいって思ったまんま、栄時くんの口のなかに舌を差し込んでいた。歯を舐めて、舌を絡めて舐めて、ずっとずっとそうしたくてしょうがなかったことをする。
 僕は何度も何度もその可愛い唇に吸い付きたいなって思ってて、いつかもし本当にキスをする機会があった時には、かなうかぎり優しく丁寧に、ちゃんと紳士にするんだぞって決めてたんだ。
 でもいざホンモノの唇に触れちゃうと、僕の理性ってものは薄いガラスの花瓶みたいなもので、強い衝撃を受けてあっけなくぱりんって割れてしまった。
「ん、んっ……」
 栄時くんが苦しそうにうめく。
 僕は完全にまわりが見えなくなっちゃってた。もう綺麗な栄時くんしか見えなくなってて、多分そこで順平くんと真田先輩が止めてくれなきゃ、もっと深いところまで栄時くんの身体に踏み入ってたろう。
「……あ」
 僕はその時、こんなに激しいのは初めてってくらいひどい後悔を感じたのだった。
 栄時くんを泣かせてしまった。
 彼の綺麗な目は呆然と見開かれていて、すうっと涙が零れた。僕はそうなってようやく、自分がどれだけどうしようもないことをしでかしちゃったのかってことを理解したのだった。
 冗談で済むことと済まないことの区別もつかない、僕はどうしようもない大馬鹿野郎なのだ。





◆◇◆◇◆





「アイツあれ、ぜってーファーストキスだったッスよね……」
「ああ……泣いていたしな。多分、あれはさすがに、俺でも泣いていたろうな」
「というか、アイツもチューに夢見てるなんてことがあったんスね……その、はじめては好きな子と、みたいな。そっちのほうが驚きっていうか」
「あいつが泣いたところなんて初めて見たぞ」
「いや、アイツ結構すぐ泣きますよ。プレイヤーとヘッドホン取り上げたら『うわーん、僕のプレイヤーかえして〜』つって」
「……あとでなにか買ってやるか」
「でも女子連中にガードされてて近付けねッスよ」
 遠くで犬の鳴き声が聞こえる。もう真夜中で、消灯時間なんてとっくに過ぎていた。
 大気は冷え込んでいた。立ち並ぶ灯篭も、重たそうな黒い瓦屋根も、白い壁も、石畳も、ぼうっとした灯りに照らされている旅館の庭の紅葉も、全部が冷え冷えしてそっけない顔を見せている。周りのものみんなが僕のことを、馬鹿だとかどうしようもないなとか言っているみたいだ。
 それはほんとにその通りで、僕はほんとにほんとにどうしようもないくらいの馬鹿だ。
 僕ら三人、僕と順平くんと真田先輩は、お風呂で女の子たちの処刑を受けた。でもかろうじて一命を取り留めたらしい。
 美鶴さんに「処刑する!」って言われた直後から、僕の記憶は途切れている。どうやら昏倒させられて、寝ている間に屋外に叩き出されてしまったようだ。頭の上には、僕らが今夜眠っているはずだった部屋がある。女の子たちや栄時くんも、もう多分眠ってる。
 さっき旅館の外のゴミ置場で目が覚めて、今晩一晩そこで反省してろって、ゆかりさんの書き置きが僕の額にセロテープで貼り付けてあった。僕らは庭の岩にもたれて座り込んでいた。部屋に帰るに帰れない。女の子たちの言い付けを破るのは怖いし、栄時くんに合わせる顔がない。
「……泣かれちゃった……」
「おいリョージ?」
「……キラわれ、ちゃった。僕はもうお終いだ……死にたい……」
 あんまり苦しいと、もう涙も出てこない。
 悪い夢であってくれたらなって、僕はさっきから何度も考えてる。でも夢は覚めない。僕は確かにやらかしちゃったのだ。僕のせいなのだ。
 栄時くんは、今まで僕のことを友達として信頼してくれてた。それはきっと間違いない。優しくて、僕がどんなへまをやらかしても「しょうがないな」って許してくれる。
 僕は彼の信頼に甘えていた。この子はきっと、僕が何をしても怒らないだろうって思ってた。
 ひどいやつだ。あの子はすごく繊細で、ましてやこないだみたいなことがあった直後にまた男に襲われちゃって、それが事故だって冗談だって、あの子の心に罅を入れたことは間違いない。
 ちょっとあの子のことを思えば解ることなのに、僕はなんであんなひどいことをしちゃったんだろう。事故でキスできたって、嫌われちゃったらなんにもならない。ドキドキもしない。
 あの時、あの子の心が僕から離れてくのが分かった。目や肌で直に感じられた。せっかく一生懸命勇気を出して話し掛けたり、大事に大事にしようって決めて、そうやって育んできた絆が消えてしまう。
 僕の手の中にあるのは、もう輝きを失った、割れたガラスみたいに粉々になってしまった絆の欠片だけだ。
 僕は完全に、まじりっけなく、これっぽっちも容赦なしに、栄時くんに嫌われてしまったのだ。
「とりあえず謝ってこい。あいつも一応人間だ。誠意を込めて謝れば……なんとか、殺されずに、済むか?」
「再起動した後の報復が怖いんッスよね……何されてもぜってートラウマになっちまう……」
 順平くんと真田先輩が、呆れきった目で僕を見てる。ああほんとにほんとに、僕は駄目なやつなんだ。栄時くんに嫌われて、僕は明日からどうやって息を吸えばいいんだろう。
 大好きな人に嫌われてしまったらって、今まで何度か想像して胸がザワザワしたものだけど、ほんとに現実になってしまうと、全身から力が抜けて、なんにも考えられなくなって、たださっきの栄時くんの泣いた顔がグルグル頭の中を巡って、こんなことになるなら旅行になんて来なきゃよかったって考えてしまう。
 遅かれ早かれ、栄時くんが僕を受け入れてはくれないなら結果は同じだったと思うんだけど、それでも嫌われちゃうならあんなことしなきゃ良かった。
 まだ好きだって、それさえ言ってない。栄時くんは僕のことを、言い逃れのために冗談半分でキスしたサイテーなやつだって思ってるんだろう。
 それだけは耐えられない。僕はあの子が好きで好きで、ほんとにいっぱいいっぱいで、冗談なんかじゃなくって、ちゃんと君のことが好きなんだよって、それだけはあの子に知って欲しかった。
 僕はなんでかナンパ野郎だとか女好きだとかいっぱい言われてたりもするけど、そんなんじゃなくて、ふざけてキスするような奴なんかじゃなくて、ちゃんと真面目に君のことが好きなんだって、それだけはどうしても伝えたいと思った。
 例えそれで気持ち悪いって思われたって、僕はどうしてもあの子に知ってもらいたかった。僕は本当に、世界中で一番君のことが大好きなんです、って。





◆◇◆◇◆





 朝食の時は、一度もこっちを見てもらえなかった。出発の時間になって、旅館のロビーに集合した時にも顔を合わせる機会があったけど、冷たい顔で「大嫌い」って言われてしまった。……それはひどいショックで、死んじゃうかと思った。
 僕はなんとか謝りたくて、落ち付いて話をできるチャンスを作ろうとした。バスの中でも、割と席は近かったけど、栄時くんはヘッドホンを付けてプレイヤーの音楽に集中してしまって、僕の声なんて聞いてくれる気配はなかった。しばらくすると眠ってしまった。
 そもそもいつも隣にいるアイギスさんのガードが固くて、まともに近付けない。それで、ああ、今までは栄時くんのほうから随分歩み寄ってきていてくれたんだって気付いてしまった。
 あんなことしなきゃ良かったって、今更だけどそんなことばっかり考えた。
 栄時くんは仲良しのアイギスさんの目を盗んでまで、僕と話をしに来てくれていたのだ。きっと僕と仲良くしてやろうって思ってくれてたんだ。
 でも僕は彼の信頼をもうズタボロに損ねてしまっていた。
「あのっ、」
 僕は諦めなかった。バスを降りたところをつかまえて、「お昼一緒に食べようよ、あの、謝りたくて、」って頑張って話し掛けた。
「昨日、その」
「黒田くん、一緒に食べよ!」
「ああ」
 栄時くんは知らん顔して僕をするっと擦り抜けて、ゆかりさんと風花さんに腕を引かれて行ってしまう。美鶴さんも一緒だった。昨日の処刑レディたちだ。僕もさすがに怖くてそれ以上追っ掛けられずに、黙って彼を見送ることしかできない。
――栄時さんに近付かないで下さい」
 後ろから、バスを降りてきたアイギスさんに駄目押しされた。巌戸台分寮の女性たちは僕にすごく冷たい視線を寄越したあと、栄時くんににこやかに笑い掛けて、一緒に歩いてく。
 アイギスさんも美鶴さんもゆかりさんも風花さんも、みんな普通じゃないくらいのとびきりの美人揃いだから、彼女らに囲まれている栄時くんは、なんだか宮廷ハーレムの王様みたいな感じだった。なんか、すごい。
「……見込み、ねーな……」
 後ろから、ぽんと肩を叩かれた。順平くんだ。彼は居心地悪そうな顔で、僕に同情してくれた。彼は、あきらかに僕が悪いのに、それでも僕の味方をしてくれるらしい。いい人だなあ、やっぱり親友っていいなあって思ってしまった。
 彼が言うには、なんだか鏡を見ているようでいたたまれないんだそうだ。
「オレっちもさ、気持ちはさぁ、分かる……ぜ? チドリンあんまかわいくて、二人っきりで喋ってて、ついチューしそうになっちまったことって、一回や二回じゃねェし」
「あ、君もあるんだ……」
「そりゃ、男ですし。でもなんか、それで「身体目当てなの? そ。好きにすればいい」とかって愛想つかされちまったらって思うと怖くてよ。オレは君の身体じゃなくて、心が欲しいっつーの? クサいけどそんな感じで。……あの子に泣かれたりとか、したら……ヤベ、オレっち多分清水寺から飛び降り自殺……」
「……だよね……」
「と、飛び降りるなよ! ま、まだチャンスはあるって!」
「……一パーセントもあるとは思えないんだけど……」
 深い溜息が出た。僕と栄時くんはそもそも、ただでさえ障害だらけの同性同士で、もう友達としての関係も壊れてしまってた。話も聞いてもらえない。
「け、景気付けに飯食おうメシ! あ、真田さーん! メシ行きましょうメシ!」
 真田先輩が嫌そうな顔をしながらも、僕らのところへやってくる。彼は知らずに僕らに巻き込まれてひどい目に遭ったんだから、まあ怒ってるのも無理はない。
「……またお前らか。何か企んでないだろうな」
「まさか……もうコリゴリっスよ」
「大体お前らはやり過ぎだ。風呂しかり、黒田しかり……しかし、確かにあれは堪えるとは思うが、その様子だと一発も入っていないのか。あいつにしては珍しいな」
「あー……うん。確かに、こいつ無視されてマスけど、まだ生きてるっスもんねー」
「お前がやってたら今頃サンドバックか、事故に見せ掛けて消されているかどちらかだろうな。おい望月、気を付けろよ。曲がり角には気をつけろ。殺されるかもしれん」
 僕はうやむやに「はあ」とか頷いた。どっちかというと、栄時くんにちゃんと処刑されたほうが気は楽だったと思うけど、仕返しどころかほとんどいない奴扱いされてしまってる。
 僕はその後も頑張った。彼の後ろにくっついて回って、新幹線でも何度も話し掛けて、でもまたさっさと寝てしまった栄時くんに無視され、あんまり相手にされないものだから、友近くんにまで「まあ、頑張れよ……うん」とか同情される始末だった。
 港区に帰り付いたのはもう夕刻だった。それでも僕は栄時くんについて、普段降りない巌戸台駅で降りて、「待って、ねぇ待って!」って栄時くんの背中を泣きながら追い掛けた。
 さすがに寮にまでくっついて来られてはかなわないと思ったのか、栄時くんはそこで今日はじめて僕に振り向いてくれた。
 やっぱりすっごい不機嫌な顔だった。顔を顰めて「なに」って低い声で言って、僕を睨んでいる。僕は一言二言自分でもよくわかんないまま言い訳をする。黒田くんはもごもごしている僕に、時間の無駄だって顔で立ち去ろうとする。僕は慌てて彼を引き止める。
 そしてそこでようやっと、ずーっと言いたくて、でもどうしても言えなくて、彼に会ってから今までずっとガマンしてきたことを、ほんとにやっと吐き出した。
「……黒田くん、黒田、えいじくん、僕は」
 自分でも全身ぶるぶる震えてるのが分かった。怖くて怖くて仕方なかった。
 最悪のタイミングだった。
 目の前にいるのは、僕のことが大嫌いな、すごく怒ってる栄時くんだ。
 間違いなく、これで終りなんだって思った。ふられちゃって、僕の世界はめちゃくちゃに壊れて、荒れ果ててしまって、真っ暗闇になるのだ。
 でも僕はずうっと押し込めてた自分の気持ちを、
――僕はきみが、好きです」
 やっと、言った。





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