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せつなさみだれうち 山岸に「リーダー、お湯!」と注意されるまで、僕はマグカップに延々と熱湯を注ぎ続けていた。 僕は慌ててポットのボタンから手を離した。ラウンジにちょっとした洪水が起こっている。 「だ、大丈夫ですか?」 「……ああ。すまない、考え事を……」 振り向いた拍子に手を滑らせてしまった。マグカップが湯をぶちまけながら床に落ちる。 「だ、大丈夫ですか?! あっ、かかっちゃってません? 熱くなかった?」 「あ……悪い。掛からなかったか」 「いえあの、私じゃなくって、リーダーが」 言われて僕は自分の制服を見る。びしょ濡れだ。そう言えば熱い。かなり、すごくだ。 「……ほんとだ。雑巾借りてくる。……山岸」 「は、はい?」 「見なかったことにしてくれ」 「は、はい。え、いえそのっ、火傷しちゃってません? 手当てとか」 「平気だ。後でディア掛けておく」 「えっ……もう、黒田くん……」 あのおとなしい山岸に「もう」とか言われてしまった。僕はどれだけぼんやりしてたっていうんだろう。 手伝ってくれるという申し出を丁重に断って(だって僕のミスなのだ。彼女の手を煩わせるわけにはいかない)、水浸しの床を片しに掛かる。見られたのが優しい山岸で良かった。他のメンバーだったらきっとひどく怒られたり、馬鹿にされたりしたろう。特に順平とか最悪だ。 僕は普段ならありえないミスをやらかしてしまうくらい混乱していた。考えを上手く纏めることができない。さっきからずっとぼんやりしている。 男に告られてしまった。 いつもなら『またかよ、俺がなんかしたのかよ』とひどく気落ちして、憂鬱になって、ポロニアンモールのマンドラゴラでひとりカラオケでもやって、犬に噛まれたんだとかなんとか自己暗示を掛けて、どうにか折り合いを付けていたはずだ。 でも今回は、いつものように顔を見た覚えもない生徒が相手じゃない。僕の友達の望月だ。 (……あいつ、じゃあ毎日普通に喋ってる時も、僕にキスしたいとか考えてたのかな) 僕は雑巾で床を拭きながら考える。 (好きって、そういうことだよな。恋してるってことは、恋人になりたいってことだよな。恋人ってことは、その……) 僕は変なことを考えてしまって、真っ赤になった。ぎゅっと目を瞑ると、順平が部屋に置いてったアダルトDVDや、『総天然色』とか書かれたグラビア写真集が瞼の裏にちらついた。あいつは僕と、裸で抱き合ったり、そういうことをしたいんだろうか。 (い、いやだって、ないだろ。それはさすがにないだろ。俺男だし、望月も男だし、そういうの、無理じゃん。え、なんだそれ。プラトニックだろ? そういうもんだろ? だって望月だし……!) 僕はなんにも難しいことを考えていなさそうな望月の笑顔を思い浮かべた。あいつは思ったことをそのまま口にして、良く痛い目を見ることもある男だ。僕のことが好きだっていうのも、きっと精神的なもので、変な下心とかは抱いていないだろう。 そう考えてると、嫌でも僕はふっと思い出してしまった。 (……でもあいつ、風呂で僕にキスしたよな) 舌まで入れられた。あんなのほんとにやる奴いるんだって、今はなんだか違う意味で驚きだ。 僕は溜息を吐く。もう変なことを考えるのは止そう。僕は望月の手を引いて、真っ当な道に戻してやらなきゃならないのだ。 「何着ていこ……制服は変だよな……」 自室のクローゼットを開け、僕は今顎に手を当てて考え込んでいる。 あまりまともな服というものを持っていないのだ。荒武者の鎧だとかパワードスーツとか、そういう実用性優先のものばかりだ。これは素で街中を歩けない。 でも明日は僕は望月の妙な意味での好感度を下げなきゃならないんだから、いっそのこと任侠のステテコと虎皮の腹巻に、大吉のお守りを首から下げて、ある意味すごくフリーダムな格好で行ってやろうかとも考えたけど、それは普通の友人としても幻滅されそうだから、選択肢からは外しておいた。 僕は望月に嫌われたい訳じゃないのだ。いい友人になりたいと思っている。 それに嗜好がズレている望月のことだから、そんな格好を「わあっ素敵だね!」なんて誉められたら目も当てられない。 あいつは僕なんかに恋しちゃってるとか真顔で(泣きながら)言うやつなのだ。絶対おかしい趣味をしているに決まっている。案外あいつの方がステテコと腹巻にお守りで来るかもしれないぞと、僕は変な覚悟を決めてしまった。 「そう言えば望月の奴、金持ちなんだよな。ステテコとかはまあいいとして、あいつスーツなんかで来ない……とは言いきれないし、望月だからな……その時に横でこんな貧乏臭い格好、でも俺ちゃんとした服持ってないしな……」 なけなしの服を床に並べていく。セーターにコートにジーンズ、シャツが数枚、色は白とか黒とかグレーとか無難なものばかりで、以前友近に「遊び心が足りない」と指摘されてしまった、地味なものばかりだ。 そう言えば、僕は自分で服を買ったことがない。引越しの時に段ボール箱に詰まっていた服は、多分そういうことに無頓着な僕を心配して、今はもういない、僕の養父だった叔父が用意してくれたものだ。 なんだかオッサンらしいチョイスだなあ、とこっそり考えてしまった。まあ仕方ないのかもしれない。本当にオッサンだし。 養父は厳しい人だったが、妙に過保護なところがあって、何人かいる兄弟の中でも僕を特別に可愛がってくれていた、と思う。 出発の日に、「君みたいな綺麗な子が着飾っちゃったら、目立っちゃって仕方ないからね。気を付けて、普通だよ普通。普通でいるんだからね。ああもう心配だな。すぐに僕も様子を見にいくからね、怖い先輩もいると思うけど、苛められたらぶん殴っていいからね、許す」とか言われたのを覚えている。僕の顔は十人並だが、身内のフィルターってやつが掛かっていたんだろう、しきりに「変な人について行っては駄目だよ、君は見た目は可愛い子なんだ」とも言われた。僕は別に可愛くはないと思う。 「制服が一番まともなんだよな……こういう時の服一着くらい持っとけば良かったな。今からでも……ああもうこんな時間か。店は閉まっているし、順平とかに借りて……いや、あいつに借りを作っては駄目だ。真田先輩……がまともな服を持っているわけはないし、そもそもあいつらデカ過ぎるからさすがの俺でもサイズが合うかどうか……あ、下着どれにしよ」 箪笥を開けて履いていく下着を物色していたところで、僕ははっと我に返って、手に握っていたパンツを壁に投げ付けた。 「――お、俺は何をしているんだ!? デートじゃあない。明日は一日掛かりで俺があいつを説得してまともな奴に戻してやらなきゃならないんだぞ。引っ張られてどうする……!」 そして頭を抱えて蹲る。念入りにパンツまでチョイスしていた自分が嫌になる。大体そんなもの、どうせ見られやしないんだから、何を履いていったって同じだ。うっかり社会の窓が開いていたとかならともかく、相手にパンツを見られるような状況なんて、ジーンズを脱がされたりするような―― 「……考えるのは止めよう」 頭が痛くなってきた。 そういう状況には絶対に陥らない。僕は念のために、トラフーリ持ちのジャアクフロストを装着する。僕があの、ほとんど人間的に聖域と言っても良いくらい純粋な望月にまともな攻撃ができるわけがない。ここは逃げたり隠れたりしながら、騙し騙しやっていこう。 大体男同士でそういう妙なことになったって、僕に子宮があるわけじゃなし、大して気持ち良くもないだろう。望月も僕にそこまで無体なことは求めていないはずだ。せいぜい抱き合ったり、キスしたり、その程度で、普通の友達よりもちょっとスキンシップが激しいくらいで―― 「……あ」 そう考えていて、僕はなんだか嫌なことを思い出してしまった。 修学旅行で、確か順平が言っていたのだ。その、望月は毎晩、好きな子のことを考えて、 「……ああああああ」 お前の頭の中で、一体僕は何をやらかされているんだ望月綾時。 僕はあの時「男なんだからしょうがないだろ」とか言ってやった訳だが、今になってすごく後悔している。やめてくれ。そういうのは女の子のことを考えてやってくれ。 大体僕はノーマルなのだ。普通だ。普通に女の子が好きだ。 望月も僕も男で、キスされた時もすごく嫌だったのだ。あの時の気持ちを忘れるな、僕。 望月に岩に押し当てられて、身動きできなくて、唇を吸われて、舐められて、口のなかまで舌を入れられて、激しく―― 「……あれ?」 なんで僕は、こんな、顔がすごく熱くて、心臓がばくばく言っているんだ。胸がぎゅうっと締め付けられて、息が苦しくて、そうだ、僕はこんなに嫌なんだから、望月には絶対に普通の嗜好の男に戻ってもらわなきゃならない。 「そうだ、駄目だっ! 引っ張られるな! 頑張れ俺! 明日は絶対に負けちゃいけないんだ!!」 僕が吼えていると、急に携帯が鳴った。びくっとして、恐る恐るパネルを見ると、どうやら相手は順平だった。用があるなら直接言いに来い。隣室なんだから。 「――なに」 『……エージ、うるせぇんだけど』 「………………悪い」 順平にうるさいとか言われる日が来るとは夢にも思わなかった。僕は反省した。これというのも、全部望月が悪いんだが。 僕はふと嫌なことに思い当たって、順平になにげなく訊いてみた。 「そう言えば、順平。お前、望月が好きなやつって知ってるか?」 『…………』 その沈黙はなんだ。止めてくれ。お前、まさか恋愛相談に乗ってやってるって、まさか、望月と僕の恋路とかを応援してるんじゃないだろうな。お前、S.E.E.Sのリーダーを裏切るのか。 『お、オレっちなんも知らねッス! じゃ! 寝るから! おやすみな!』 電話が切れた。 「…………」 僕はその場で膝を抱えて蹲って、項垂れた。勘弁してくれ。 |