たりで過ごす24時間(2)




 僕らは港区から離れて、隣町のプラネタリウムへ足を運んだ。
 少し遠いけど、ここなら誰も僕らを知らない。栄時くんはそのことにすごくほっとしているようだった。
 女の子の格好を嫌がっていて(すごく可愛いのに!)、僕の隣を歩いている彼は、すごく恥ずかしそうだ。彼の嫌がることはあんまりしたくないけど、ここばっかりは、なんとか我侭を許してほしい。僕の未来が掛かっているのだ。
「あ、あの、ごめんね……」
「いい。腹は決めてる。お前のことだから、また突拍子もないことを言い出すと思ってた」
「あ、うん。……えへへ、こうやって、ふたりで星空を見に行くってさ、なんだかすごくロマンティックだねえ」
「プラネタリウムだろ。そんないいもんじゃない。……もしかすると、近所の小学生が遠足で来てるかもな」
「へえ! この国では子供がプラネタリウムに行くのかい? 遠足で、クラスみんなで?」
「そんな驚くことかよ。普通じゃないのか。お前、一体どこの国に住んでたんだ」
「えっと……アメリカの、でっかい遊園地があるとこ……カリフォルニアだっけ。ロンドンもなんかお洒落だったなー。インドでカレー食べたり、」
「お前のワールドワイドさは、なんだかスケールが違うな」
 栄時くんは呆れたような感心したような微妙な顔で首を傾げている。
 彼は顎に手を当てて、「じゃあお前いくつも外国語が話せたりするんだよな」と頷いている。
「すごいな。日本語も、多分俺よりは上手いし。良く喋るなって、ちょっと感心する」
「そ、そうでもないけどね。君は? どんなとこに住んでたの?」
「俺は、――なんか、病院暮らしが……長かったかな」
 栄時くんは目を閉じて、頭を振って、「どうだっけ」と言っている。
 僕は心配になってきた。この子、やっぱりこんなに細いし、小さいし、身体が弱いんだろうか。あまり連れ回しちゃうと疲れちゃうだろうか。
「びょ、病院? まさか君、どこか……」
「いや、健康。身体も丈夫。俺の取り柄だからな。ただ、割と良く入院を、してた、気がする。――あれ……俺、あれなんで入院してたんだっけ」
 栄時くんは「あ、まただ」と言いながら額を押さえて、眉間を寄せている。
「あ、ど、どうしたの……痛い?」
「あ、い、いや。その、頭痛持ちなんだ、俺。心配するようなことじゃない……ああ、そうだ、入院。事故で。怪我したんだよ。病気じゃない」
「あ、そうなんだ。その、痛かった、ね……」
 僕は、栄時くんが事故に遭って、怪我をして入院しているところを想像してみた。何故か僕のイメージする病室には彼のお父さんもお母さんもいなくて、栄時くんはひとりきりでぽつんとベッドに座っている。外を見ている。外には雪が降っている。
 彼はしんとした静かな白い世界の中で、弱々しく呼吸しながら、強い孤独を感じている。僕は世界にひとりきりで、誰とも、何とも繋がらずにいるんだと。
――なんでお前が痛そうな顔をするんだよ。十年も前の話だから。傷も残らなかった」
 栄時くんが僕の背中を叩いて言う。どうやら僕はひどい顔をしていたらしい。なんでそんな顔をするんだって言われたけど、そりゃあ好きな子が辛い目に遭っているところなんて考えちゃったら、自分がひどいことになるより何倍もキツいに決まっている。
「でも、でもさ、その事故の時の痛いとか怖いって思い出は君の中にあるんでしょ」
「いや、ないよ」
 栄時くんは拍子抜けしちゃうくらいなんでもない顔で言った。まるで今日の天気の話みたいに気負いがない。
 確かに、僕も以前のことは良く覚えていないような気がする。昔の話ってそんなものなんだろうか。
 栄時くんが言う。
「全然覚えてないんだ。その時頭打ってさ、俺のなかのはっきりした思い出っていうのは、事故から大分経って、病院のベッドの上で目が覚めた時から始まってるんだ。それより前のことは、全部ぼんやりしてる」
「え。じゃ、ご両親はさぞ心配したろうね……」
「いや。全然。二人とも、事故の時に死んだから」
「え」
 僕は顔を強張らせた。十年前の事故で両親を亡くしたって、それは僕らが七歳の頃のことだ。それじゃ十年間この子は一人で、お父さんにもお母さんにも甘えられずに生きてきたんだろうか。
 栄時くんは僕を安心させようとしてくれてるんだろう、「心配されるようなことじゃない」と言っている。でも僕は、僕を気遣ってくれている栄時くんに申し訳ない話だけど、ひどく冷たい心地でいた。運命とかそう言ったものが憎らしくてしょうがない。
 どうして僕らが出会ったのはついこの間なんだろう。もっとずっと前、この子が独りぼっちになる十年前に、僕らは出会っていなくちゃならなかったのだ。
 僕はひどい選択ミスをして、この子をとんでもない目に遭わせてしまったような気がする。もし栄時くんがひとりになってしまった時に、僕がそばにいてあげられたら、守ってあげられたら、どんなに良かっただろう。
 どうして時は待たないんだろう。
 なんでこんな綺麗な人が、ひどい目に遭わなきゃならないんだ。
「だから、大丈夫だって。覚えてないっていうのが、俺には逆にありがたいんだ。両親の顔も覚えてないから、いなくなってもそんなに悲しくはなかったんだ。――ああもう、すまない。こんな話をするつもりはなかったんだ。やめよう。だから泣きそうな顔なんかするな。お前には全然関係ない話なんだから」
 栄時くんが困りきった顔で僕の頬を撫でる。僕は、どうやら泣きそうな顔をしているらしい。
 そりゃあ泣きたくもなる。僕はこの人にずっと幸せであって欲しいのだ。
 いつもの顔がたまにふっと綻ぶと、途端に花が咲いたようにぱっと可愛くなる。僕はその顔がすごく好きだった。
「ぼ、僕が!」
 僕は、栄時くんの手を両手で握る。そして必死で言う。
「僕とその、これから、い、一緒に暮らして、か、か、家族にっ、ならないかい?! あの、ずっと大事にするから、ちゃんとごはん作れるようになって、家事もできるように頑張るし、き、きっと君を幸せに――
「……朝からいきなりプロポーズされるとは思わなかった」
「……あ」
 やってしまった、と思った。ちょっと先走り過ぎた。
 栄時くんは微妙な顔つきでいる。いきなりこんなことを言って、引かれちゃったろうか。僕は青ざめる。まさか嫌われてしまったろうか。
 まだ朝なのに、今日は始まったばかりなのに、せっかくのチャンスなのに僕は何をやっているんだ。
 栄時くんが肩を竦める。そして、目を閉じて言う。
 僕はびくびくしながら、彼の言葉をひとつひとつ大事に拾う。
「まあ、考えとくよ。お前といると退屈はしなさそうだ」
「えっ? い、い、いいの? ほんとっ? じゃあ僕と付き合」
「それとこれとは別だ。今日はお前を絶対この手で矯正してやる」
「え」
 僕は泡を食ってしまった。矯正って、それは一体、何それ。僕の記憶が正しければ、それは歪みを直したり、間違ったところにあるものを、もとの正しい位置に戻したりするっていう言葉だ。
「あ、あの……やっぱり、僕は間違っているのかな。気持ち悪い?」
「気持ち悪くはないが、間違ってはいると思う。お前は普通の男だろう。未来のことを考えろ。今だけ考えて生きていると、ろくな大人にならないぞ。お前、長生きしそうな顔してるし、先はまだまだ長いんだから」
 お説教されてしまった。僕はしょげてしまって、「でも、だって」と言い訳をする。
「あの、もし僕、君に駄目ですって言われちゃったら、だって、もう普通の友達には戻れないでしょ。君だって、下心を持ってる男と友達付き合いなんてしてはくれないだろうし」
「……下心? と、ともかくお前が俺をどう思ってるのかは知らないが、俺はたぶん、割とお前のことが好きなんだよ。友達になりたいと思ってる。べつに、その、……恋人とかじゃなくて、友達じゃ駄目なのか?」
「で、でも僕は、君のことが好きなんだから。普通の好きじゃないんだよ。僕がしたいのは、君とずっと一緒にいて、君に触って……」
「……触るくらい、いくらでも触れば良いだろ。友達なんだから」
「うっ……で、でも! ぼ、僕がやりたいのは、そういう友達の触り方じゃないの!」
 ほとんど叫ぶように言ってしまってから、僕ははっと我に返って、真っ赤になった。しまった、と思った。僕は歩道の真中で何を言っているんだ。
 今だって周りには出勤途中の会社員や、デートしてるカップルや、親子連れや、ともかくたくさんの人々が行き交っている。みんなは僕らを見て、「あらあら」とか「ハズカシー」とか言いながら、ぬるい目をして通り過ぎていく。
 僕にやらかされてしまった栄時くんも、真っ赤な顔をしている。彼はものすごく恥ずかしそうな顔で、「ああ」と頷いた。
「……そ、そうか。すまない」
「あ、う、ううん……」
「…………」
「…………」
 二人きりでいて沈黙が降りると、すごく気まずい。僕は「ああ、エヘン」と無理に咳払いして、行き先に見えてきた銀色の大きな建物を指差した。
「い、いこっか」
「あ、ああ」
 本当に僕は何をやっているんだろう。好きな子に恥をかかせちゃって、駄目な男だ。
 格好良いところを見せなきゃって思うのに、どうしてこんなに上手くいかないんだろう。なんだか初っ端から、ちょっとくじけてしまいそうだ。頑張れ、僕。





◆◇◆◇◆





 プラネタリウムの鑑賞券を二人分買って、待たせてしまってた栄時くんのところへ戻ると、なんだか――彼は、ナンパされていた。
「君、モデルさん? 背が高くて細くて、うん顔もすごく好みだなぁ。声もすごく色っぽくて、す、素敵だ……あ、あのオレと付き合って、いや僕と結婚前提でお付合いして下さい!」
「は、はぁ? 何なんだお前は、俺は男――
「男嫌い?! え、じゃ、じゃあその神々しいまでの美しさでこれまで男性経験無かったりすんの!?」
「いや経験とかそんなわけわかんないし、」
「ますます惚れました! 絶対大事にするからうちに嫁に……」
「おいてめえっ! 彼女嫌がってんじゃねぇか!」
「その薄汚い手を離せ! 彼女はこれから俺の両親に挨拶に来てくれるんだよ!」
「……え? あの、いや」
 瞬く間に口論は乱闘騒ぎに変化していく。栄時くんは何が何だかわかんない、みたいな顔で呆然と立ち尽くしている。
「あの、女神様! 強い男は好きですか!」
「は? あ、ああまあ、強いのは良いことだと思うが、なんだ女神って。俺は男……」
「イエス・マム! おいてめぇら! 勝ったモンが女神を手に入れる! 異存はねーな!」
「無論!」
「返り討ちにしてくれるわ!」
 予期しないところで、いきなり争奪戦が始まっている。
(ちょ、ちょ、ちょ、な、なにやってんのっ……!)
 僕は大急ぎで栄時くんの元に駆け戻って、彼の手を引っ掴み、引っ張ってその場から連れて逃げた。多少乱暴になってしまったけど、そこは許していただきたい。
 館内の休憩所までやってきて、誰も追い掛けてきていないことを確認してから、ようやく僕はほっとして足を止めた。
「も、望月?」
 栄時くんはまるでわかっちゃいない顔つきで、僕に「どうしたんだ」とか言っている。僕は脱力した。この子は、あんな目に遭っても上手く危機感というものを抱くことができていないらしい。
「き、君ねえ……ちょっと目を離した間に、なに魔性の女神様なんてやってるんだい? 君はクレオパトラかい? それともアントワネットなのかい?」
「え? 何言ってんだ。何なんだろうな、あれ。変な宗教の勧誘かな。最近多いよな、ああいうの」
「……ほ、ほんとにもう君は、君ってやつは、なんでそうなのっ……」
 僕は彼の手をぎゅーっと握って、深い溜息を吐いた。駄目だ、たとえほんのちょっとの時間でも、この子から離れちゃいけない。大変なことになる。
「僕から離れちゃダメだよ、危ないでしょ?!」
「え……いや、離れたのはお前が、」
 栄時くんは親に怒られた子供が言い訳するみたいな調子でぼそぼそやっていたけど、僕が「言い訳しない!」とぴしゃっと言ってあげると、「すみませんでした」と素直に謝ってくれた。うん、やっぱり子供は素直なのがいいと思う。
「すごく、すっっごく心配したんだからねっ……怖い人に連れてかれたらどうするつもりだったの。大丈夫? 何もされてない? 怖かったよね、ついててあげなくてごめんね」
「いや、子供じゃないし、……何だったんだ、あれ?」
「……君は気にしなくていいよ。行こう」
 僕は栄時くんの手を引いて歩き出す。そして今まで思ってた以上に彼が天然さんだったってことを思い知る。僕が気を付けてあげないと、彼はいつか絶対に大変な目に遭ってしまう。僕がしっかりしないと。
 僕に手を握られて、栄時くんは微妙な顔をしていたけど、何も言っては来なかった。それでちょっとほっとした。僕はどうやら、とりあえず、こんな状況で申し訳ないけど、彼と手を繋ぐところまでは許してもらえたらしいのだ。





◆◇◆◇◆





 大好きな子と星空を見るっていうのは、たとえそれが作り物だったとしても、すごく素敵なことだと思うのだ。
 プラネタリウムホールの照明が落ちる。辺りは仄かに星空と非常灯が光る夜になる。
 僕は実は怖がりなので、小さい頃からあまり暗いところが好きじゃない。でもホールの外にはいつも通りの昼間が広がっているし、隣には僕の大好きな栄時くんがいたから、静かな心地だった。いや、静かではないのかもしれない。朝からずうっと心臓がドキドキしっぱなしだ。あんまりにも早く打ち過ぎて、寿命が縮んじゃいそうなくらい強く鳴っている。
 天井に十一月の天体が映し出される。僕らが毎晩見ている夜空にはいろんな名前の星がある。
 『アンドロメダ』や『ペルセウス』なんて格好良い名前の星座から、『いるか』や『こうま』みたいに可愛いもの、『ちょうこくしつ』なんておかしくてくすっと笑っちゃいそうなものまで沢山だ。
 夜空の星も、自分達がこんなに遠い星に住んでる僕らに名前を付けてもらって、「面白いかたちだなあ」とかにこにこしながら言われてるなんて思わないだろう。
 星たちに初めて名前を付けたのは誰なんだろう。きっとロマンティックで感情豊かで、すごく素敵なひとだったに違いない。女の子だといいなあと僕は考える。
 僕は余程隣の栄時くんの腕を引っ張って、「ねえ、すごいねえ!」と叫んで、この感動を分かち合いたいと思ったけど、どうやらホール中みんなが静かにお行儀良くしているらしいから、なんとか頑張って我慢した。
 僕はおとなしくしているのが、実はすごく苦手なのだ。綺麗なものを見たら誰かの顔を覗き込んで「きれいだね!」と感動を分かち合いたいし、悲しいことがあった時には、誰かの袖を掴んで大声で泣き喚きたい。
 この前も順平くんたちと映画を見に行った時、僕だけアクション映画のヒーローがあんまり格好良くて、真似して叫んだら「恥ずかしいからやめろ」とみんなに怒られた。
 こういうのはどうやら『子供っぽい』というらしい。『まあ帰国子女だからな』とも言われる。じゃあ『帰国子女』は『子供っぽい』ってことなんだろうか。
 ともかく僕は、今日は『大人の男』でいたいので、なんとか我慢して人工の夜空を見上げる。はしゃいで栄時くんに恥をかかせる訳にはいかない。
 今日の僕は頼り甲斐がある落ち付いた物腰の紳士なのだ。それこそ栄時くんが「あ、いいかも」って思ってくれるような立派な男でいられるように、僕は頑張る。
 ふと横を見ると僕とおんなじふうに無心に星を見上げる栄時くんの顔が見える。暗くて薄ぼんやりしているけど、こんなにすぐそばに彼がいるってことは、今更だけどすごく驚くべきことのような気がする。
 みんなが大好きな黒田栄時くん。学園のカリスマ。頭が良くて運動部のエース、生徒会まで掛け持ちしていて、何よりすごく綺麗で優しい、僕のあこがれの人。
 今僕が手さえ伸ばせば、すぐに彼に触れられる。頬を撫でたり、薄い首に触れたり、それができる。でもできない。
 僕は精一杯の勇気を振り絞って栄時くんの手に恐る恐る触れる。今の僕に許された精一杯だ。
 僕は彼の手を握る。そして何でもないふりをして星空を見上げる。
 でも本当は緊張しきっていて、喉がからからだ。目がうろうろしちゃってまともに星座のかたちも見えない。ナレーションも、僕の耳を虚しく擦り抜けていく。
(……え)
 ふいにぎゅっと手が握り返される。
 僕は驚いてしまって、弾かれたように彼を見る。栄時くんは相変わらずなんにも言わないまま空を見上げていて、でも溜息を吐いて、僕からふいっと顔を逸らした。
 僕は、すごく嬉しかった。ああ僕は触り合うのをこの子に赦されているらしいぞって思ったら、あんまり嬉しくて、また騒ぎ出しそうになった。
 世界中のみんなに、ねえすごいでしょ、すごいことだよね、僕の大好きな憧れのこの人が僕の手を握り返してくれたんですってふれまわりたい。
 僕はだらしないくらい(自覚はある)にやにやしちゃいながら、ぎゅうっと栄時くんの手を握り返す。怒られない。また嬉しくなる。
(……すごい、しあわせ)
 今の僕には夜空に虹が掛かったって何にも不思議じゃない。
 好きな子の手のひらが、僕を世界中で一番幸福な男にする。嬉しい、幸せだ、そしてたったこれだけの触れ合いで僕をこんなにも舞いあがらせてしまう栄時くんは、やっぱりすごい子なのだ。





◆◇◆◇◆





 ドームの照明が点いた途端、僕は心臓が停まりそうなくらいびっくりした。
「え」
「…………」
「え、あの」
「…………」
「……泣いているの?」
 僕の隣で栄時くんが泣いてた。ぼおっと顔を上げたまま、目を見開いて、まるで捻られた蛇口から止めどなく水が流れていくように、涙がぽろぽろ零れている。
 彼の顔には『悲しい』や『痛い』は無かった。無表情だ。いや、ほんのちょっとびっくりしたような気配も混ざっていた。
 ともかく僕は大混乱だ。僕は何かしたっけ。彼を泣かすようなことをやらかしてしまったろうか。やっぱりふっと我に返ってみたら、僕とデートしているなんてことがすごく虚しくなってしまったんだろうか。プラネタリウムの星座は気に入ってはもらえなかったろうか。僕はすごく感動しちゃったんだけど。
「ど、どうしたの?」
 僕は、慌てて栄時くんの肩を抱いて顔を覗き込んだ。でも反応はない。栄時くんは空っぽになったみたいに呆然としている。
 他のお客さんが、『どうしたんだろう』って顔で僕らを横目で見ながら通り過ぎていく。ホールから出て行く。穏やかな薄い光に照らされたドームには、静かにクラシック音楽が流れ始めている。
 ともかく、僕は栄時くんの手を、なるだけ不安にさせないように気を付けながら慎重に握って、「立てるかい?」と聞いてみた。
 栄時くんは、ようようって感じで頷いてくれた。
 なんだかその様子が、まるで泣き疲れた小さな子供みたいだったから、僕はすごく歳下の子に接するような気分になってしまって、彼の頭に触れて「泣かないで」と笑い掛けた。ほんとに、子供みたいだったのだ。





◆◇◆◇◆





 僕は今すごく不安になっている。栄時くんの手を引いて、とりあえず人気のない場所を探す。
 彼はプライドの高い人だから、きっと泣き顔なんて見られたくはないだろうし、僕も彼が恥ずかしがるような顔を誰にも見せたくはない。
 栄時くんは泣き顔まで綺麗だけど、でも今の僕は正直弱ってしまっていた。何が悪かったんだろう、一体僕は何をやっちゃったんだろうって考えが頭の中をグルグル巡っている。
 どうしようどうしようって思いながら、プラネタリウム館に隣接している公園にまで栄時くんを引っ張ってきて、とりあえずベンチに座らせてあげる。
 さすがにいつも遊んでいるだろう子供の姿はない。きっとみんな学校に行っているのだ。いつもの僕らみたいに勉強したり運動したりしているんだろう。
 遠くに小さい子供を遊ばせるお母さんたちの姿が見えるけど、僕らが二人きりでいる、植物の蔦が絡まっている小さな屋根の下はすごく静かだ。
 栄時くんは、泣く時まで物静かな子だった。僕は悲しいことがあった時なんかは、多分わあっと大声を張り上げて泣いてしまうだろうけど、彼はただ静かに涙を零している。
 泣き方まで綺麗だなあって、ふと不謹慎なことを考えてしまって、自分がいやになる。栄時くんが悲しんでいる姿にまでドキドキしちゃうなんて駄目だ。
――大丈夫かい? 僕が……その、こんなことお願いしたの、やっぱり嫌だった、よね……」
 僕は栄時くんの背中を撫でてあげながら、そう切り出した。どうして泣いているのかは分からないけど、理由は僕のせい以外ではありえないだろう。今日隣にいるのは僕だけなのだ。
 でもそうじゃないらしい。栄時くんは首を振って、目を伏せている。
「え、あ……うん。じゃあどうして泣くの?」
 僕は彼に訊く。変なことを言っちゃったかな、もしかして(精一杯の勇気を振り絞って)手を握ったのがいやだったかなってこと、それとももし悪い意味じゃなければ、プラネタリウムの星空がすごく綺麗で感動しちゃったの?なんてふうに。実際ちかちか光る小さな星の群れはすごく綺麗で、僕もちょっとじわっときてしまったのだ。
 でもどれも違うらしい。栄時くんはまた首を振る。
「……わから、ない」
「あ、うん」
 僕は頷く。沈黙が訪れる。
 栄時くんにも良く分からないらしい。ああ、だからこんなに呆然とした顔をしているんだって、僕はやっと気付いた。
 彼にも分からないのだ。それなら何かお手伝い出来たらなって思う。
「じゃあ一緒に考えてみようよ。その、君が今感じていることを、僕に教えて欲しいんだ。わかることだけでいいから。僕は君が好きだから、君のことが知りたい。まず、そうだね……今日僕と一緒にいて、楽しいと感じてくれてる? つまんなかったかな」
「……たのしいと思う。……スカートはなんとかしてくれって思うけど」
「そ、そっか。嫌じゃないならよかった」
 どうやら、楽しんでくれていたらしい。僕はまだ彼に格好良いところのひとつも見せられていないから、すごく心配だったんだけど、それは良かった。
 ちょっと気持ちが軽くなる。僕はついにこにこしてしまった。
――あ、だ、大丈夫かい?」
 僕と目が遭った途端、栄時くんが激しく咳込んだ。僕は慌てて彼の背中を擦る。
「無理しないで、ゆっくりでいいからね。僕が、ちゃんとそばにいるから……あ、僕がそばにいるのはどんな気持ち? 嫌じゃない? それとも、迷惑かな」
「……わからない」
「え」
 さっき軽くなった気持ちが、また重石みたいになって、僕の肩にのしかかってくる。嫌かも、迷惑かもって物凄く不安になる。
 でも僕がここで不安がっちゃ駄目だ。今は栄時くんを安心させてあげるのが何より優先なんだ。僕は頷く。
 栄時くんは一瞬固まってしまった僕を見て、「あ」って顔をして、「嫌じゃないとは思うんだ」って言ってくれた。
「望月がそばにいると、僕はすごくいい気分になるんだと思う。僕といて楽しいと思ってほしいって思う。でもお前の顔を見てると、たまに僕はすごく苦しくなる。なんでなのかわからない」
 僕は頷く。ほっとして、救われたような気分になる。僕はこの子の言葉ひとつに、空に舞い上がったり奈落の底に突き落とされたり、なんか大変だ。ちょっと情けないかもしれない。
「うん、どんなふうに? どこか痛くなる? その、ごめん、僕君を不愉快にさせるつもりとかはないんだ。ほんとだよ」
「……嫌な気分にはならない。ただ、胸が痛い」
「うん」
 僕は頷く。今も痛みを感じているのか、栄時くんは自分の胸をきゅっと押さえている。
「ほかにもある?」
「……息が、できなくなる。咽が詰まって、」
「うん。それから?」
「……顔が、熱くなって、風邪ひいてるわけじゃないと思うけど……」
「うん、そっか」
 胸の中から、じわっと何かが染み出してくる。それは僕自身のすごく正直な心だ。僕は期待してしまっているのだ。
 胸が痛くなって、息ができなくて、咽が詰まって、風邪をひいている訳でもないのに顔が熱くなる。ちょうど、奇遇にも僕が今感じているものと一緒だ。もしかして、と僕は思う。
 栄時くんがちょっと考え込んで言う。
「……望月が嬉しそうな顔をしたら、僕はそうやってすごく苦しくなる」
「僕が喜ぶの、君はいやかな?」
「……ううん。嫌じゃないと思う」
 僕は神様とか、ううん、この国では仏様って言うんだっけ、そんなものに心から感謝したくなった。両手を振り上げて、大声で「ありがとう!」って叫び出したくなった。
 聞いた限りでは、それは本当に本当に僕とおんなじ症状だ。大好きな人が喜んでくれた時、僕は嬉しい反面、すごく胸が苦しくなる。息をするのも辛いくらいに、胸がきゅんとする。
 僕は栄時くんに抱き付いて、「それ、僕とおそろいだよ。きっと君は、僕のことを好きになってくれてるんだよ!」って大声で言いたい。でも、なんとか我慢する。
 先走って後悔するのは、一昨日の夜に充分懲りているのだ。僕にも学習能力ってもんがある。
 落ち付いて、ゆっくりゆっくり、大事にするんだって決めたのだ。僕は言う。
「ねえ、これは仮定だけどね、もしかしたら僕が嬉しくなった時に、君も嬉しいって感じてくれてるんじゃないかな?」
「……うん。でも苦しくなる理由になってない気がする」
「君はひとより随分不器用なんだと思うよ。悪いことじゃないし、僕は君のそういうところもすごく好きだけど」
 僕はたぶん、すごく締まりのない顔をしているだろうと思う。頭で考えたことがすぐに顔に出てしまうのだ。
 なんとか口の端を引き締めながら、僕は栄時くんに「ねえ、ちょっと手を触ってみてもいいかな」と訊いた。
「さっきみたいに。いやかな?」
「……べつにいいけど」
 赦しをもらって、彼の手を大事に包み込む。なるだけ優しくなるように注意する。
「どうかな」
「なにが……?」
「嫌かな?」
「べつに、なんで?」
 栄時くんはほんとに「なんで?」って顔をしている。僕はそれでまたにやにやしてしまいそうになる。
 なんでもないみたいに栄時くんは言うけど、これってすごいことだと思うんだ。僕はつい昨日まで彼に「大嫌い」って言われていて、「近寄るな」まで言われてしまった男なのだ。
 でも「触るな」とも「気持ち悪い」とも言われない。こんなに近くにいるのに怒られない。
「ちょっと申し訳ない話になるんだけどね。僕、君の赦しなく君にキスするようなやつなんだよ。 触られていやじゃないかな」
「あれは……あれ?」
 栄時くんの顔が、急に曇る。僕は、「あっしまった」と考える。嫌なこと思い出したって思われちゃったろうか。
「ご、ごめん。嫌だったよね、ごめん……」
「……なんか、変だ。あれ、」
「ん?」
「……その、嫌だったと思うんだけど、僕が一番嫌だと思ったのは、そうじゃないんだ。違うんだ」
「うん……」
 栄時くんが「なんだこれ」ってふうに首を傾げて、僕の顔を見上げて言う。
「僕はたぶん、その、望月はきっと僕の嫌がることをしないんじゃないかって思ってたんだ。たぶんだけど」
「……うん。裏切られたような気持ちになった?」
「……たぶん」
「ごめんね」
 僕はまた空高く舞い上がるような心地になってしまった。
 栄時くんは、僕がキスしたことに怒ってた訳じゃない。彼は信頼していた僕に裏切られたと思って、あんなに怒っていたのだ。
 じゃあもしかして、って僕は思う。もしかして栄時くんは、キス自体はそんなに嫌じゃなかったんだろうか。ふざけたことに怒っていたんなら、僕が悪ふざけなんかじゃなくて、真面目にこの子の唇を吸いたいって思ったからだって知ってくれたら、どうだろう。
 もしかして、もしかすると、僕に望みはあるんだろうか。
――あのね、じゃあ僕が君のこと、世界じゅうどこを探したってきっと君より大事な人を見付けられないくらい大好きで、だから君とキスしたいって、そんなふうに思っててもだめかな? 君はあの時みたいに泣くかな」
「なっ」
 栄時くんは息が詰まったような顔になってしまった。頬が赤い。
「な、そういう問題じゃ、だって僕らどっちも男なんだぞ。絶対変だよ」
「でも君が好きなんだ。ほんとに、君に嫌われたらどうしようって、僕はそればっかり心配してる。でも僕はもし君に好きになってもらえたら、まちがいなく世界中で一番幸せな人間になれると思うんだ」
 栄時くんは、ものすごく真っ赤になってしまった。耳まで綺麗に染まってしまっている。
 僕は不安と期待で、すごくドキドキしていた。口から心臓が飛び出しちゃいそうなくらい、激しい心音が聞こえる。僕自身のものと、
――あ)
 触れ合っているところから、栄時くんの鼓動が伝わってくる。僕に負けないくらい、強く早く鳴っている。僕は嬉しくて、びっくりして、頭がクラクラしてきた。
(この子も、ドキドキしてくれてるんだ)
 すっごく、うれしい。
「いい?」
 僕はじっと栄時くんの目を見つめて訊く。彼の目は揺れている。
 でもふっと俯いて目を逸らされてしまって、僕はがっかりして、項垂れた。
 やっぱりまだ、こういうのは駄目だったろうか。
「……だめ?」
「い、いや、その」
「だ、だめ、かな……」
 我ながらすごく往生際の悪い男だ。がっくりきていると、栄時くんが慌てて「別にいやだとは言ってない」って言ってくれた。嫌じゃないってことは、
「いいの?!」
「い……いい、けど、」
「うん!」
「前みたいなのは、いやだ。その、舌入れたりする、あれ……」
「うん!」
 僕は勢い込んで頷いた。なんだか夢を見ているような気分だった。
 これはアレだよね、と僕は考える。夢オチとかじゃないよね。良くあるように、鈍い衝撃と一緒に目が覚めて、女の子にプレゼントしてもらったぬいぐるみを抱き締めてキスしてて、「やっぱり夢だった……」ってがっかりしちゃうとかじゃなくて、これはちゃんと現実で、僕は今本当に、僕が大好きな人にキスする許可をもらっちゃったわけなんだよね。
「ね、目、瞑って」
 栄時くんが、おずおず目を閉じてくれる。
 僕は彼を怖がらせないように、大事に大事に肩を抱く。抱き締める。
 顎をそっと指で上げさせて、情けない話だけどあんまり緊張しているせいでちょっと震えてしまいながら、栄時くんの唇にキスをする。
 やっぱり彼の唇は、すごく柔らかかった。
 あたたかくて、僕をすごく良い気持ちにしてくれる。
 僕は栄時くんの背中に腕を回して彼を抱いた。何度も何度も彼の唇を舐めて、吸って、味わう。
 ずっとこうしてたい、と僕は思う。離れたくない。この人とひとつになりたい。
 でもそれはまだまだ駄目だ。ほんのちょっと触れ合うだけの挨拶みたいなキスに、栄時くんは固まってしまって、真っ赤な顔をして、ぎゅーっと目を閉じて震えている。
 僕がやらかしてしまった後で順平くんと真田先輩が言ってたみたいに、多分初めてなんだろうって思う。
 僕はこの子を大事にするって決めたのだ。この子に無理は絶対にさせない。
「黒田くん」
 唇を離して、僕は言う。
「好きです」
「……ん」
 キスの合間に、僕は何度も何度も彼の名前を呼んで、「好きだよ、君が好きです」って言う。
 栄時くんから「俺もだよ」って返ってくることはなかったけど、僕はその度に彼が頷いてくれるだけで、すごくすごく幸せだった。






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