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ふたりで過ごす24時間(3) 「――歴史上一番旧い星座ができたのが、紀元前三千年ごろ。人間がでかい石運んで砂漠にピラミッド造ってた頃な。今から五千年前だ。『デカン』っていう三十六個の星のグループだよ。今の星座とは全然違うもんだ。星を目印にしたり時間を計ったりするのはそれよりも昔からやってたみたいなんだけど」 栄時くんが頬杖をついて、コツコツテーブルを指で叩きながら言う。この子良くこんな難しいことがスラスラ出てくるなって、僕は今更だけど感心してしまった。 さすが学年トップの天才だってもてはやされるだけはある。 僕らは隣町の図書館にふらっと立ち寄っていた。静かだし、栄時くんは良く図書室に通っているみたいだから、きっと本が好きなんだろうなって思ってのことだったんだけど、どうやら「別に、あんまり読んだり借りたりしないな。いつも自習してるんだ」ということだった、らしい。 「でも本は嫌いじゃないよ」と彼は言う。 「喋らないし」 そりゃそうだろうねえって僕は思った。本が勝手に口を開いてペラペラ喋ったら――面白いかもしれないけど、お化けだ。ちょっと怖い。 栄時くんはどうやらあんまり人と喋るのが好きじゃないらしい。じゃあ僕がいつもうるさくして迷惑だったかなと心配になったけど、栄時くんは「あ」って顔をして、「お前と喋るのは好きだよ」って、ちょっと顔を赤らめて言ってくれた。……うれしい。可愛い。抱き締めたい。 「嫌なのはお前じゃない。順平」 「君、順平くんと仲良いじゃない」 「断じてそんなことはない。あいつうるさい。あの馬鹿のノリに付き合ってられない。おんなじ寮生じゃなきゃ誰が相手してやるもんか」 偶然なのかそういうもんなのか、僕は以前順平くんからおんなじような台詞を聞いたことがある。 僕が「君黒田くんと仲良いよね」って言った時のことだ。「断じてそんなこたぁねー! あいつ暗過ぎ。あの宇宙人のノリが理解できねー。おんなじ寮生じゃなきゃ誰が構ってやるかよ!」って、言い方まで似たり寄ったりだったから、僕はつい吹き出しそうになってしまった。 「ん?」 「あ、ああいや! うん、なんでもないよ。うん、ごめん、それでさっきの話だけど」 僕は話を中断させてしまったことを詫びる。元はと言えば、「さっきの星のこと、詳しく知りたいな」って僕が言い出したことなのだ。 僕はこれまで夜空の星にたくさんの、頑張っても覚えきれるかどうか自信がない数の名前があるってことを、さっき初めて知ったのだ。 栄時くんはそれを聞いて「嘘だろ?」って驚いた顔をしていたけど、「まあ帰国子女だからな」って納得してくれたみたいだった。今僕にすごく丁寧に教えてくれている。 「うん、続きな。今の星座の基礎みたいなものが出来あがったのが、二世紀半ごろ。アレクサンドリアのトレミーって人が、彼が生まれる三百年くらい前にいたヒッパルコスって人が作った星図を纏め直して、今の……ちょっと違うとこはあるけど、星座を作ったんだ。――お前本当に知らないのか? なんか僕、お前といつかそういう話をしたことがあったような気がするんだけどな」 「うん? あったっけ」 「……あれが蟹で、あっちがライオンだよ、とか。いや……勘違いだな、多分。すまない」 僕は頷く。僕はこれまで栄時くんと交わした言葉は何一つ忘れていないから、きっと彼の気のせいだろう。 「それにしても、その……星をたくさん、いろんなものに見立てて、あれは犬だよ、鳥だよって考えた人は、すごく素敵だね。きっと綺麗な女の人なんだろうなー。優しくて、夢があって、あ、お母さんみたいな人かも」 「いや、絵で見たことあるけどオッサン。いかつくて、顔半分から下はモジャモジャ。むさくるしい。陶酔してるとこ悪いけど」 「ヒゲ面?!」 「うん」 「えー……夢が壊れるよぉ……」 「ご愁傷様」 栄時くんがおかしそうにくすくす笑っている。僕は「もう、笑わないでよお」ってちょっと拗ねたふりをしながら、やっぱり笑ってしまう。 胸がじわっと熱くなる。好きな子を笑わせてあげられると、僕は本当に嬉しくなってしまう。頭の中にぱあっと花が咲いたような気持ちになる。 「それにしても、君は物知りだね! 色んな知識が頭の中に詰まってる。頭良いもんね〜」 「……そうでもない」 僕が誉めると、栄時くんはちょっと照れた顔ですっと目を逸らす。どうやら、この子は人に誉められるのがあんまり得意じゃないらしい。慣れてないって感じだった。 こんなにすごい人なんだから、みんなに「すごいね」ってもっと言われていたって良いのに、僕には分からない。 「江戸川だよ。保健の授業でやった。お前が来るちょっと前な」 「あ、そうなの……」 僕の顔はちょっと情けなくなっていたと思う。保健の授業はちょっと苦手なのだ。 この間も今日はどうしたら栄時くんと一緒に帰れるかなあって一生懸命考えていた時に当てられて、もちろん答えられず、寿命を半分にされてしまった。ちょっと上の空だっただけでひどすぎる。 「保健ってのは、えっと、女の子の身体のこととか、赤ちゃんはどこから来るのとか、どうやって育てれば良いのとかを教えてくれるのかと思ってたけど」 「……まあお前にとってはそればっかりだったかもだけど。望月えろいぞ」 「え、ええ?! ご、ごめん……」 「いや……まあ、月光館来るまでは、僕もそう思ってた。江戸川はオタクだよなあれ。黒魔術オタク。授業無い時は保健室でなんか召喚してるって。悪魔らしいもんを」 「うわぁ、やってそう……! 今にも呼び出しそうな顔をしてるよね、あの人」 「うん。月光館おかしいよな。なんかみんな妙に投げやりだし、見た目からしておかしいし、兜とか陰湿とか、話の長い校長とか」 「あ、陰湿! 江古田だよね。僕こないだなんてひっどいよ、小テストのことでお小言もらっちゃってさ。外国かぶれだとか、日本人の和の心が理解出来ないとか、差別だよ、サベツ。あと学生のくせにいつも女の子をはべらしてる種馬とか、親もろくなもんじゃないだろう、顔を見てみたいとか、将来子供ができたらその子もろくでなしになるとかまで言われて」 「……なんか今、すごいむかっとした」 「だよねっ! あ、でも、君は結構優遇されてるよね。君っていうか、アイギスさんとか、ゆかりさんとか、あ、あんまりその、アレな……順平くんまで」 「ああ。なんかあいつ、桐条先輩の御機嫌取りに必死でな。たぶん、そのおかげ。なんか僕らのこと、取り巻きみたいに思ってるらしくて。勝手な話だなって思うけど」 「うわ……いいなあ! それ、僕も君んとこの寮に住みたいよ……」 「残念、満員」 「ううー……君の部屋、本当に住もうかなあ……」 僕が内心本気で言うと、栄時くんは笑って「ばあか」と言った。 「うち、狭いよ。ボロいし、あちこちガタきてる」 僕はぐっと詰まって、「でも」と食い下がる。 「君と一緒に暮らしたいんだ」 「…………」 栄時くんは顔を真っ赤にして、「あ、そう」とか頷いている。でも「いい」とも「駄目」とも言わない。駄目出しされないから、きっと脈はあるって思って良いんだろうか。 僕は実の所、栄時くんが暮らしている巌戸台分寮に憧れのようなものがある。映画に出てきそうなくらいお洒落で感じの良い建物だ。 旧い、懐かしい時代の雰囲気はちょっと入ってきただけの僕にも穏やかに馴染んだし、何より顔ぶれがすごい。生徒会長の美鶴さんに、ボクシング部主将で女の子たちの憧れの的真田先輩、クラスの人気者のゆかりさん、隣のクラスの感じの良い風花さん、面白い順平くん、加えてなんでか小学生もいるらしくて、犬も飼っているらしい。何より栄時くんがいる。そしてみんながみんな仲良しだ。あのメンバーで一体どういう話をしてるんだろうって、すごく気になっちゃう。女の子たちも、みんなそう言ってる。 「もし僕、君と一緒に住めたらね、朝起きて、君に一番におはようを言うんだ。一緒に朝ご飯食べて、今日も一日頑張ろうって言って、学校行って遊んで勉強して、そんで帰る時も一緒で、晩ご飯何食べたいって言って、……お、お風呂とか、入って。そんでおやすみ、また明日もいい日だといいねって君に言って、」 「……お前はすごく真面目な奴だな」 栄時くんに、良くわかんないけど、しみじみ言われてしまった。「え?」って首を傾げていると、彼はなんだか眩しいものを見たみたいな顔をしている。 「いや……毎日元気だなって」 「君ほどじゃないよ。いっぱい掛け持ちしてるよね。運動部に、文化部、生徒会、同好会、――」 「いや、そういうことじゃないんだ。なんか、その、……一生懸命だよな。一日過ごすのに」 「そうかな?」 「いつも楽しそうだし、少し羨ましいよ。僕はお前みたいに上手くいろんなことが楽しめなくて、何て言うか、何をやってても楽しいとかつまらないとか思えないんだ。どうでもいいって」 「え、君そんな綺麗なのに」 「い、いや綺麗とかじゃないから。でも僕今お前といるのは楽しいんだと思う。お前、結構いろんなこと頑張ってるし……料理とか。だから、ああ僕もなんかやらなきゃ、頑張らないとって思う。頑張ったら、お前みたいに楽しくなれんのかなとか考えちゃって……」 「え、僕? いや、僕なんかその、」 余裕もないし、君の前で格好良いことひとつできないし、こんなに頑張れるのは君のことを考えた時だけなんだよって、僕は言おうとした。でも栄時くんは首を振って、それからちょっと笑った。 その顔があんまり綺麗だから、僕は見惚れて思考停止してしまった。顔が熱くなるのが分かる。 「……お前がいると、僕はすごく楽しいんだと思う。良くわかんないけど、こうしてるのは好きだ」 「あ、う、うん……よかった……」 僕は赤くなったまま、何度も何度も頷いた。クラクラしちゃう。 「あの、ね」 「ん?」 「……キスしていい?」 「駄目」 我慢できなくて、ついそうやってお願いをしてみたんだけど、あっさり斬られてしまった。 「……周り、人いるから」 「あ、うん……」 「そんな残念そうな顔をするなよ」 栄時くんは微妙な顔をして、「良く分からない」と言っている。 「僕なんかに触って、気持ちいいか?」 「い、いいよ! すっごく! あの、君は、」 「……まあ」 「あ、きもちい?! ほんとっ!」 「わ、ばか、静かにしろって!」 栄時くんがびっくりした顔で、慌てて立ち上がって、僕の口を塞ぐ。そしてきょろきょろ辺りを見回す。僕もつられて見回す。 僕らの周りには沢山の本棚が、まるで迷路みたいに立ち並んでいる。そこにはひとつひとつ丁寧にシートで保護されている無数の本が並んでいる。 床から天井まで届く大きな窓から、わけもなく物悲しくなってしまう秋の日差しが射し込んできている。 司書のお姉さんがカウンターの中で、パソコンと睨めっこしている。 テーブルには仲の良さそうなおじいさんとおばあさんが並んで座っている。夫婦だと思う。僕も栄時くんと、あんなふうにおじいちゃんになるまで、隣にずっといられたらいいのにな。 昼下がりの図書館にはいくらか人がいたけど、みんなそれぞれ選んだ本に夢中だ。でもたまに僕らのほうをちらっと見て、にやっとしている。ああ、なんだか面白い生き物がいるぞってふうな顔だ。 「も、望月。そろそろ出ようか」 「え? あ、もう飽きちゃった?」 「い、いや……こんな場所で、こんな格好だし……その、お前のスーツも、俺の格好もアレっていうか、こんなで図書館来る奴まずいないし……いや、そうじゃなくて、その――あ、は、腹減った、から……!」 栄時くんが真っ赤になって言う。お腹が空いたって、そんな恥ずかしいことなんだろうか。僕は彼がものを食べているところを見るのは、可愛いから大好きなんだけど。 ともかく、僕は頷く。そして「気付いてあげられなくてごめんね」と謝る。 「うん、お腹減ったね。もしかして、我慢させちゃってた? 悪いことしちゃったな……」 「い、いや、……今。今だ、ちょうど」 「あ、そうなの? 良かった」 僕はほっとして笑う。栄時くんは微妙な顔をしている。そして僕の手を引っ張って、図書館を後にする。 出口のすぐ前にある交差点で信号待ちをしながら、僕は栄時くんに聞く。 「どうしよ、何か食べたいものある? まだ明るいから夜景は見れないけど、景色の良いとこ知ってるんだ。三ツ星でね、君が気に入ってくれると良いんだけど……」 「……僕は庶民デスから、普通でお願いします」 「え? だって君、王子様だってこないだ女の子が言ってたよ」 「お前それからかわれてるんだよ。僕は一般人、何に関しても中の中、普通の凡人であることが僕の誇りだ。……ファミレスでいいじゃん」 半分ふてくされたみたいな声で、栄時くんが言う。その言い方がいつものクールな彼らしくなくて、何というか子供っぽかったから、僕はつい笑ってしまった。 「あは、何か今の、君可愛い」 「うるさいな。僕は可愛くなんてないよ。馬鹿にするなよ」 「いいじゃん、って」 「……なんかお前と喋ってると馬鹿になる気がする」 「そんなことないよ! 君はすごく可愛くて綺麗で、頭が良くて、」 「望月、お前頼むからやめてくれ。恥ずかしい」 「え? あはは、ごめん」 僕はこっそり彼の横顔を覗き込んで、ああこの子真っ赤になっちゃってる、とむずむずしながら考える。またかわいいかわいいなって胸が締まるような気持ちになる。 「ファミレス……えっと、ファミリーレストランのことだよね。ね、そこって家族じゃなくても入れるの? ファミリーって付いてるけど。あ、そっか。僕らが家族になったらいいだけか」 「また出たな帰国子女節。平気だよ。お前学校の女子とか、友達とか……順平とかとは行ったことないのか?」 「うん? うん。初めてだよ。いつもは大体、えっとあの、ワック?ってとこ」 「ふーん。ワックもこっち来て初めてだったのか?」 「え? あ、うん。なんかすごいよね、あそこ。あきらかに人間じゃない形態の怪しい生き物が、カウンターの横に普通にいるんだもの。なんだか風船持って愛想良かったけど、順平くんが言うには、あの生き物はお客さんが食い逃げすると、奇声を上げながらマッハ五で飛んで追い掛けて来るって……口から波動砲撃てるって。悪い子は消し炭だって。怖いよね……」 「……ふうん。まあ、いいんじゃないか。帰ったら、後で順平ぶん殴っておいてやるからな」 栄時くんは頭を抱えて、「まったく馬鹿は困る……」とか言っている。何か気に触ることをしたかなと思ってたら、「お前は悪くないよ」と言われた。それなら良かった。 テーブルまで注文を取りに来てくれたウエイトレスさんがあんまり可愛かったものだから、僕はついつい声を掛けて、「君可愛いね」と口説いてしまう。女の子を褒め称えることは男の義務だって僕は思っている。真剣にだ。 でも栄時くんは『あーあ』って顔をして、「またやっちゃってるし」と呆れている。 「……望月、女の人見たら口説くのよせよ。子供じゃないんだから我慢しろよ。そんなだからお前は順平とセットで『バカ二人』とか言われんだ」 「うっ……だって、」 「望月」 「うう……ごめんなさい」 栄時くんは腕を組んで、「まったくどーしようもない」って言っている。なんだろうこの既視感。僕は前にも彼にこういうことを言われた気がする。あんまり誰彼構わず声を掛けるのは良く無いぞ、って。 僕は、ちょっと顔を赤らめながら『大変ね』って顔で栄時くんを見ているウエイトレスさんに、メニュー表を指差して、「これとこれ」って注文する。 「ハンバーグのAセットとお子様ランチお願いします。それからクリームソーダをふたつ」 栄時くんがテーブルに突っ伏した。ごつん、と鈍い音が鳴る。 「あ、ああっ、ごめんねっ? チーズケーキも付けなきゃだよね、ごめんね、すっかり忘れてて」 「いや、そういうことじゃなくて、」 注文が通ってウエイトレスさんが行ってしまってから、栄時くんがものすごく居心地悪そうな顔で、「なんだお子様ランチって」と言った。 「お前、なんだ? 僕に嫌がらせでもしてんのか?」 「えっ……君はお子様ランチが好きだよね?」 「いや、頼んでいいのは小学生までだから。しかも俺かよ。というか俺の意見も少しは聞けよ」 「あ……他の、食べたいのあった? お子様カレーとか」 「いやなんでそう執拗にお子様……いいや。帰国子女だもんな。ちょっと無理が、あるが、まあ、いいことにする」 栄時くんが頭を押さえて、「納得しろ僕」とか言っている。どうしたんだろう。 「うん?」 「――いや、いいんだ。お前なんか嬉しそうだし。それよりお前、デートの最中に他の子に声掛けて怒られたりすることはないのか? そんなんじゃいつか刺されるぞ」 「ええっ?! 刺されるの!?」 「ああ……うん。そうじゃないか。うち昔、父さんがすごい浮気性でさ。良く母さんが「刺され、刺され」って言いながらキッチンで包丁研いでた」 「……君んち、なんかすごいその、おっかないね……」 僕はその光景を想像してげっそりした。なんでか僕の中のイメージでは、包丁を研いでいるのはアイギスさんだった。しゃり、しゃり、って刃を研石に当てて「ダメであります、ダメであります」って言っている。 美人の彼女にすごく申し訳なくなってくる空想だけど、僕はこっそり「ああありそう……」と思ってしまって、背中がぞわっとした。僕は彼女が守ろうとしている栄時くんを、今日今学校をサボらせて、こんなところまで連れてきているのだ。ばれたら何度か刺されるかもしれない。 謝ったって許してもらえないかもしれないことがあるって、僕はつい先日学習したばかりなのだ。おんなじ日に二度も。 「……なんでかアイギスさんが今僕の頭の中で包丁研いでるよ」 「奇遇だな。僕の頭の中でもだ。『栄時さん、綾時さん、お前ら揃って三枚下ろしであります』とか言ってる」 「わあ、こんなとこまで僕らおそろいだね……でもどうしてかな、なんかあんまり、嬉しくないや……」 「サボリがバレた時は……まあ一蓮托生」 「ぼ、僕君となら……!」 「僕は嫌だ。お前ひとりで逝け」 すげなくされてしまった。栄時くんは具合の悪そうな顔で、「今日のことは絶対誰にも悟られるなよ」と言った。 「言うなよ」 「い、言わないよ! だってこんな可愛い君のこと、僕他の人に見せたくないもん!」 「…………」 栄時くんが頭を抱えて、またテーブルに突っ伏してしまった。耳が真っ赤だ。 運ばれてきた料理を食べてる顔を見ていると、今更だけどまた「この子は可愛いなあ……」って思ってしまう。食べている様子が、なんというか、みんなのカリスマってふうじゃないのだ。すごい早食いで、噛まずに飲み込んでるんじゃないかってくらい。名前を付けるとしたら、『ゴクゴク食い』って感じだ。ちょっとお行儀が悪いけど。 「ゆっくり食べなよ。だあれも取らないからね」 僕が笑って言うと、栄時くんはすごく具合の悪そうな顔になって、「うん」と頷く。彼はばつが悪そうに「癖なんだ」って言う。 「……うち、言ったろ、家族。兄弟多いんだ。ちょっと油断するとすぐ食いっぱぐれてさ。多分染み付いちゃってるんだ。一人暮し始めても治らない」 「ふうん。ふふ、そんなに美味しそうに食べられたらお子様ランチも本望だと思うよ」 僕はなんだかほんわかしてあったかい気分になっちゃって、ニコニコしながら彼の食べっぷりを眺めていた。 「あ、ついてる」 「え?」 「君、口んとこ。ケチャップ」 ひょいっと身を乗り出して、栄時くんの口の横にくっついている汚れに口を付けて、舌で舐めて拭ってあげる。彼のナイフとフォークがガシャンとお皿に落ちる。 顔を離すと、栄時くんは空っぽの手を浮かせたまま硬直している。顔が真っ赤だ。僕は「あっまずい」と思った。 「ごごご、ごめんあの、下心とかはなくって、あの、」 キスの前にはちゃんと「良いかな」って聞こうって決めてたのに、やってしまった。でもキスって感じでもなかったんだけど、これもやっぱりダメだろうか。 栄時くんは「ああうん」と頷いて、僕のほうを見ないまま、お皿に落ちてソースまみれになったフォークを指先で摘んで拾って、テーブルにセットしてあった紙ナプキンを何枚か取って拭っている。俯いている。 怒ったかなって心配になったけど、彼は首を振って、静かに「びっくりした」と言った。 「……ありがと。その、悪い。行儀悪くて」 「え? あ、ああっ、ど、どういたま、どういたしましてっ」 僕らはふたりで顔を赤くしあった。相手の顔なんて見れなくて(栄時くんもこんな感じなのかな)、心臓がうるさいくらいドキドキして、息が苦しい。 初めて人を好きになった時って、こんな感じだったのかなと僕は考える。思い出そうとする。少なくとも僕は十七年生きて人生を旅してきたわけだし、可愛い女の子が大好きだ。幼稚園の先生とか、隣の席に座っていた女の子だとか、みんなが良く言うような甘酸っぱい初恋の人の思い出とか、苦い失恋の経験ってものがあるはずなのだ。 でも僕はこんなふうに心臓が壊れちゃうんじゃないかなって思っちゃうくらいドキドキしちゃうなんて初めてだった。思い出は引っ張り出そうとしても全部ぼんやりしているままだった。 大好きな女の子たちを見た時にはもちろんすごくドキドキしているわけだけど、いつもぽわーっとして、うきうきして、そんなふうにいい気持ちになっちゃうばかりなのだ。 こんなふうに「すごく苦しい」って思ったことはないと思う。僕を見て欲しい、少しでも「やだな」って思われるのが怖い、指がちょっと触れるだけで幸せになっちゃう、笑ってくれるとなんでかわけもなく泣きたくなっちゃう――どん底の絶望と天国のお花畑を、ジェットコースターみたいにすごいスピードで行ったり来たりしているみたいなのだ。 ああ僕は今本当に恋をしているって思う。ここで息をしている。彼に触れる。声を聞いてもらえる。全部が全部すごくリアルで、今の僕はまじりっけなしにすごく幸せなんだと思う。 僕は言う。 「ねえ、好き」 「……なっ、」 「好きです」 「あ……ああ、そう……か」 「――お願いです、僕を見てください」 「…………」 君の隣にいられなくなったら、僕の世界はきっと寂れ果てたすごく寂しいところになっちゃうと思うんです。例えばすごく昔は沢山の人で賑わっていたのに、数世紀の時間が流れた後には土に埋れて誰にも忘れられてしまった、ひっそりした灰色の街の残骸みたいに。 栄時くんは息が詰まったみたいな顔をしている。『どうしたもんだろ』って顔をして、椅子に膝立ちになってテーブルに身体を乗り出して、腕を伸ばし、僕の頭を撫でた。 なんだかお母さんが子供に『泣かないで、いい子だからね』って言っているみたいな他愛ない仕草だった。 でも僕は、今何よりそうされるのが嬉しかった。 僕は何でか分からないけど、男の子の栄時くんに、お母さんみたいに触られることがひどく嬉しかったのだ。彼が言う。 「心配するな」 それは僕の「好き」を受け止めるでもなく、「大丈夫だよ」って言葉ほど優しくもなかった。 でも身体の中にじわっと染み込んできて、なんだか僕は、すごく安心してしまった。 |