(5)




「あ、ちびくん! どうしたんだい? 遊びにきたの? 良くここに来れたね……あ、学校は? どうしたの?」
 ラボの廊下を探検していると、思った通り綾時の顔を見付けた。部署は違っても同じ敷地内で働いている訳だから、必ずどこかにはいるって思っていた。僕は笑って綾時に飛び付いて、「うん。今日はお昼まで」と言う。
 本当は僕はちょっと前から学校には通っていないけど、嘘を吐く。最近僕は良く嘘を吐く。ひどいことをされない為だったり、心配しなくていい人に気を遣わせたりしない為にだ。
 綾時が僕を『たかいたかい』するみたいに抱き上げて、くるんと一回転して大事に床に降ろしてくれた。にこにこしながら頭を撫でて、小声で「昨日ぶりだね」って嬉しそうに言う。
 僕らが二人で手を繋いで微笑み合っていると、綾時の同僚の大人のひとたちが、「なんだなんだ」って顔でやってきた。
 どうやらここでは、子供はすごく珍しがられてしまうらしい。僕が住んでる辺りでは、モルモットにされてる子たちが普通にフラフラ歩いたりしているけど、そんなこともないみたいだ。お兄さんとかおじさんとかお爺さんとか、大人ばっかり。ちゃんとした会社の中って感じがする。
 どんな感じかって言うと、部屋中どころか廊下にまで機械がはみ出していたり、ともかくなんていうか、メカメカしい。まるでヒーローたちが拠点にしている秘密基地みたいだ。
 金属と数字がいっぱいのパッキリした世界。モーターの頑張る音がうるさいくらい鳴っていて、オイルの匂いもする。
 僕がいつもいる区画のどんより澱んでしんとしている雰囲気とは大違いだ。おんなじ研究所の、おんなじ白い廊下なのに、なんでこんなに違うんだろう。不思議だ。
「望月の息子だって」
「うわ……やべぇ、マジかわいい……望月の子供とは思えねえ」
「え、女の子じゃねぇの? マジで?」
 注目されてしまっている。多分、学校にお父さんやお母さんが来た時の僕を反対にしたみたいな感じなんだろう。ここは大人ばっかりだから、学校とは逆で、子供が珍しがられてしまうんだ。
 僕はお行儀良く見えるように気を付けて、ぺこんと頭を下げた。
「も、もちづ、えっと、黒田栄時です。うちの綾時がお世話になっています」
「うわっ、礼儀正しい! コレあれだな、きっとお母さん似だな」
「えーちゃんって言うのか。お父さんみたいに女に目がないナンパヤローにはなるんじゃないぞ」
「こ、こら君たちー! うちのちびくんに気安く触るんじゃないよっ!」
 綾時がばたばた手を振って、他の大人から僕を守るように抱き上げた。僕は別に苛められてた訳じゃないんだけど、やっぱり綾時は相変わらず過保護だ。
 もしこの人のそばにずっといたなら、僕は今でも幸せな子供だったんだろうなって、ちょっとだけ考えてしまった。でも僕はこれでも男だから(今みたいに「女の子じゃないの?」とか失礼なことを言われてしまう時もあるけど)、守られるより守らなきゃいけないのだ。なんだか変なことを考えてしまって、お母さんに申し訳ない。
 綾時は僕を向かい合わせに抱いて、「それにしてもどうやってここへ来たんだい?」と言った。
「入口で警備の人に怒られなかったかい? アイちゃんにくっついてきたの? あの子もこっちへ来てるのかい」
「ん、僕ね、ここに住んでるの。アイちゃん、あんまり帰れないから、こっちに住んじゃったほうがいいって。だから平気だったよ。あの、綾時、お仕事邪魔しちゃってその……ごめんね?」
 勝手なことしちゃってるなって、すごく反省はしている。でも僕は綾時にどうしても言わなきゃならないことがあったのだ。
「あのね綾時、昨日――
 僕が言い掛けたところで、眼鏡のおじさんが慌てた様子で部屋に入ってきて、「仕事に戻れ!」と叫んだ。
「おい望月、ちびっこ隠せちびっこ! 全員真面目に働いてるフリ。レベル五の奴らが見回り来てる」
「え。珍しいね」
「またこっちの部署は勤務態度がいい加減だとかチクチク嫌味言いにきたのかな?」
「モルモットがロストしたんだってよ。変わったモン見つけたら触らず大声上げろって。危ないから近寄るなって。なんか人喰うらしいぞ」
「こええー……」
 なんだかすごくまずい。僕は青くなって、急いで部屋の奥にある机の下に潜り込んだ。
 膝を抱えて小さくなっていると、しばらく経ってから扉がガラガラ開く音がして、どうやら誰かが部屋に入ってきたようだった。
「失礼します……勤務中すみません」
 大人の男の人の声が聞こえる。僕の背中のあたりで、ぞわっと盛り上がるような悪寒が生まれる。この呑気で頼り無さそうな声は、あの人だ。
「あのちょっと申し訳ないんだけどね、なんかこの辺にうちのモルモット紛れ込んでませんか? ヒトガタで、白い仮面被った子供のカタチをしてるんですけど。なんか、こうのっぺらぼうで……ダジャレ大好きな……」
 好きじゃねえよ。
 僕は心の中で「変なこと言うな」と恨めしく思った。勝手にひとを妙なキャラクターに仕立て上げないでいただきたい。大人って勝手だ。僕は下ネタとオヤジギャグは、反射的に殺意が沸いてくるくらい嫌いなのだ。面と向かっては怖くて絶対に言えないけど。
 僕は机の下に篭って、息を止めてじっとしていた。空気のようになるんだ、と自分に言い聞かせていた。
 見つかったらひどいことになるだろう。もしかしたら綾時に、僕があの人の子供の望月栄時とは違うものだってことがばれちゃうかもしれない。
 僕がこっそり綾時と会ってることがばれて、日曜日に家から出してもらえなくなるかもしれない。もっと悪ければ、綾時に「もう君とは会わない」って言われるかもしれない。「君は僕の子じゃない。良くも今まで騙してくれたね」って。
「いや、何も来てませんけど。ダジャレ好きって、変わったモルモットですねえ」
「ええ、そりゃもうね。うちの自慢の作品デスから。見た目は普通の子供なんだけど、極めて危険です。人喰います、パックンチョと。貌が無いので、何にだって化けるんですよ。もしかしたら誰かの子供とかに化けてるかも……」
「わあ、そりゃ怖いな」
 僕は、多分すごく青ざめていると思う。綾時が『あっ、やっぱり変だと思った』って言い出すんじゃないかと、気が気じゃない。『こんなところにうちのちびくんがいるわけないよね』ってぽんと手を打って、僕をあの人に引き渡すんじゃないかって、すごく怖かった。
 あの人に子供だって認めてもらえなくなることを考えると、胸が締め付けられるくらい辛くて、心臓が破裂して死んでしまいそうだ。
「何か見たらすぐに内線で連絡入れますよ」
「そりゃあありがたい。お願いします」
 あの人と綾時の会話は、ちょっと聞いてるとすごく呑気なふうに聞こえる。でも僕はすごく冷たくて凍えそうな気持ちでいた。
 その人に話し掛けないでよと考える。ひどいことをしないで、もうお母さんのことも赦してください、僕だけで赦してください、僕なら何をされたっていいんです、だからお願いします――僕は手を組んで、もうほとんどお祈りしているような格好で、早くあっち行って下さい、と考えていた。もうここへは来ないでと。
 ようやくあの人の「失礼しました」って声が聞こえて、足音が遠ざかっていくと、僕はあんまり安心してしまって、へなへなになっていた。
 ほんとに良かった。綾時に『僕の子じゃありません、持ってっちゃって下さい』って言われなくて良かった。
 僕は綾時に「ちびくん? もういいよ」って声を掛けられるまで、固まったまんまだった。いつもなら怖いことを我慢するなんて平気なのに、綾時がそばにいるって思うと、急に沢山不安になる。まるで普通の小さな子供みたいになってしまう。
 僕はそおっと机の下から顔を出して、どこにもあの人がいないことをちゃんと確認する。なんだかまたすごくほっとしてしまった。
 そして転げ出して、綾時の足にぎゅっと抱き付いて、顔を上げて「僕そろそろ帰るね」と言う。
「あの、綾時……なんか、邪魔しちゃってごめんね」
「ううん、全然そんなことないよ。またおいで」
「うん。あ、あの……――昨日、もう会いたくないって言ったの嘘。僕は綾時大好きだから、どうしても謝りたくって」
 そうだ、僕が今日、見つかったらあの人にすごく怒られるだろうなって知りながら、お仕事中の綾時のところへやってきたのは、この為だったのだ。
 僕は昨日の日曜日、綾時にひどいことを言ってしまったのだ。
 あんまり綾時が優しいせいで、ついほんとのことを零してしまったのだった。「怖い」と。「助けて」って。
 その後で、僕は自分がすごく大変なことをやらかしちゃったんだと思い当たって、ひどいパニックに陥った。
 綾時は僕といたら、僕みたいに怖い目に遭わされるかもしれない。それがすごく怖くなって、僕は慌てて「怖い」も「助けて」も嘘だって打ち消して、「もう綾時に会いたくない」って言っちゃったのだ。
 綾時はびっくりしてた。「どうして」って泣きそうな顔をしてた。
 僕は混乱したまま、「僕もう綾時なんか好きじゃない」って叫んだ。「僕もう綾時の子供じゃない」と。
 そして僕はひどいことを沢山言いっぱなしで、そこから逃げ出したのだ。
 あの時、綾時は今まで見たことないくらい悲しそうな顔をしてた。
 だから最後に謝らなきゃならないと思ったのだ。何ていうか、大好きな人とは笑ってさよならをしたいと思う。
 僕はすごい親不孝者の子供なので、せめて終わり際くらいは、全部綺麗にしておきたかったのだ。僕の部屋も誰かの思い出も何もかもを。
 それに僕自身だって、最期に思い出すのが「あんなこと言わなきゃ良かった」とか「ごめんなさいお父さん」とか最低だ。思い残すところがありすぎて、毎晩綾時のところに出てって怖がらせる悪いオバケになっちゃいそうだ。死んだらなにも残らないってことはちゃんと分かってるけど、もしかしてってこともある。
 今日の綾時は、僕がもういつもどおりだって思ってほっとしてくれている。良かった。本当に心の底から、僕はそう思うのだ。
「綾時がお仕事してるとこ見れて、良かった。格好良かった。じゃ、またね。お仕事頑張ってね。さよなら」
「うん、またね。ママによろしくね」
 僕は笑って手を振って、部屋を出る。お互い見えなくなるまで、綾時は僕ににこにこしながら手を振ってくれている。僕も笑いながら手を振る。
 そして白い廊下の角を曲る。
 その途端、僕はいつもの顔に戻る。
 普段とは違う貌を付けていたから、ちょっとほっぺたが変な感じだ。でも嫌な気持ちはしなかった。
 できたら、ずうっと僕はこの仮面を付けて、幸せなふりをしていたい。綾時に優しくしてもらえる子供でいたかった。
――さよなら。お元気で」
 僕は静かに一人ごちた。多分今のが、僕がこの七年の人生で最後に笑った楽しかった時間になるんだろう。
 すごく冷静に、他人事みたいに考えた。悲しくはなかった。綾時がすぐそばで赦してくれていないと、僕にはもう悲しいとか寂しいとか、そういうのが良く分からないのだ。
 今日の実験は、今までで一番大事なものだってあの人が言ってた。シャドウの親玉みたいなすごいやつを作るんだって。そいつが生まれたら、僕らみたいな半端なサンプルはいらなくなるんだって。
 だから多分僕は今日でいらなくなるだろう。
 明日になれば、誰にも忘れ去られて、いなかった子供になるかもしれない。
 ――僕の大好きな愛する綾時、どうかこれからも、あなたは笑っていて下さい。格好良くて優しいヒーローでいて下さい。怖いことなんかなんにも知らないでいて下さい。
 その為なら僕は何にだってなれるのです。怖い時になんでもないふりをして、泣きたい時ににやっとして、そして僕はあなたを見守るお空の星にだってなれちゃうんです。
 ――さようなら、お父さん。どうか、お幸せに。





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