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罅(6) 首から下げている鍵でドアを開け、玄関で脱いだ靴をきちんと揃えた。僕の両親はとても几帳面な人で、お行儀とかマナーとかいったことにはすごくうるさかったのだ。 「ただいま、お母さん」 玄関に立ちんぼうのまま、僕は家の中に声を掛けた。『おかえり』は、なかった。 もう随分と長い間、『ただいま』『おかえり』っていう、昔は当たり前だった遣り取りをしていない。もう何年もそんなふうな寂しい家だったように感じるんだけど、実際のところは家族が離れ離れになってまだ一年も経っていないから、僕の気のせいだろう。 錯覚ってやつだ。シェパードの『脚の存在のジレンマ』や、ジャストローの『ウサギとアヒル』みたいなものだ。 確かこういうのを相対性って言うんだったよな、と僕は考えていた。僕にとっての『可愛い女の子と一緒に座っている一時間』が七歳の誕生日までの楽しかった日々で、『熱いストーブの上に手を乗せた一分間』が家族がばらばらになってからの時間なのだ。どちらも同じくらいの長さに感じる。不思議だ。 返事を受け取ることは諦めて、僕は暗いままの廊下を通って、キッチンへ続くすりガラスのドアを開ける。電気は点いていなかった。 お母さんは何をするでもなく、テーブルに着いてぼおっとしていた。朝僕が出掛けてから、一ミリも変わらない格好だ。 この様子だとまたお昼食べてないなあと思って、僕は冷蔵庫を開けて、中を物色する。今日は買い物に行ってないから、あまり食べ物がない。 「ご飯、卵、三つ葉……あ、ねぎ残ってる。ええと鰹だし、醤油、みりん……卵雑炊でいい?」 僕は振り返ってお母さんに聞いた。 返事はなかった。 でも僕は「うんそう、了解」と頷いて、ミルクパンを引っ張り出してきて、踏み台を使ってコンロの前に立つ。料理は結構得意なのだ。あんまり難しい注文をされても困るけど。 「綾時に会ったよ」 だし汁が煮立つまでの間、ぼおっと青いガスの火を見つめながら、僕は静かに切り出した。 「元気そうだった。仕事してる綾時ってすごく格好良いね。あなたが好きになっちゃうのもわかるよ」 僕は、『あなたはそういうこと言わないで。ダメです』とか、『変な冗談はやめてください』とか、真っ赤な顔になって、ぷいっと顔を背けて言うお母さんを想像してみた。 それはすごく簡単にイメージできた。うちのお母さんはすごく照れ屋さんなのだ。僕は笑って「だってほんとにそう思ったんだもん」と言う。「冗談なんかじゃないよ」と。 お母さんはもうしょうがないって顔になって、俯いてしまうかもしれない。『へんなところばかりあの人に似て……』と拗ねてしまうかもしれない。 僕はきっとにやにやしながら、「いじっぱり」と言うだろう。「素直になりなよ」と。 でも想像の中じゃない、ほんとの僕のお母さんは、暗いキッチンで、コンロの青い灯りに照らされて、ぼんやり佇んでいる。それだけだ。 表情はないし、ずうっとテーブルの上のなにもない一点を見つめたままだ。僕を見ようともしてくれない。 さっきの空想も、僕が自分で想像したことなのに、なんだかひどく物悲しい気持ちになってしまった。 「……でも、もうわかんないよね。僕の、ことも……わかんないんだもんね」 僕のお母さんは、少し前からもう喋らない。動かない。 社員寮にある僕んちの周りに良くいる影みたいな人たちと同じふうな、人形みたいな風体になってしまった。 何を言っても何も返してくれない。僕の声は届かないし、僕を見ても笑ってはくれない。目は虚ろで、どこも見ていない。 ミルクパンがしゅんしゅん音を立てはじめた頃になると、だしの良い匂いがふわっとキッチンに広がりはじめた。 僕は、ゆらゆら揺れる青い火をじいっと見つめながら、ぼそぼそ言った。 「――今、ガス栓捻ったら、普通に死ねちゃうよね。最近のガスって、一酸化炭素が入ってないから、中毒にならないんだって。酸欠で死んじゃうんだって。僕ら事故で『普通』に死んだら、きっといつまでも綾時に覚えててもらえるよね」 返事はなかった。『いいですね』も『それはイヤ』もなかった。 僕は無理矢理口の端を上げて、「なんてね」となんでもなかったことにした。 「嘘だよ。ごめんなさい」 そして手際良く、ご飯と、三つ葉と、ねぎをミルクパンに入れる。それから卵。簡単なものだからすぐにできる。 僕は「できたよ」とお母さんに報告する。 それから注意深く火を止めて、ガスの元栓をきちんと閉めた。 二人分の食器を出してきて、等分に分けてテーブルに運ぶ。良く考えてみればこれが最後の食事になる可能性は非常に高いわけだから、もうちょっと良いものを食べたかったかもしれない。例えば最後なんだったら、僕の大好物のクリームソーダとチーズケーキをお腹がはちきれそうになるくらい食べたり飲んだりしたかった。ともかくどうにも味気ない食事だなあと思った。 最近僕は、ごはんに対して、前みたいに意欲的じゃなくなってしまった。「食いしん坊だね」って綾時に笑われていたはずなのに、何を食べても美味しいと感じることができない。 ただ例外はあって、今でも日曜日に綾時と一緒にファミリーレストランで取る食事だけは別だった。「美味しい?」って訊かれて、「うん、とっても!」って返事をしながら食べるごはんはとても美味しかった。 「お行儀悪いよ」って言われながらも、沢山楽しいことを喋りながら食べるハンバーグとか、グラタンとか、オムライスとか、そういうのはいつもの、僕がどう頑張って作ってもオガクズみたいになっちゃう、味気ない食事とはぜんぜん違っていた。 僕は卵雑炊をスプーンで掬って、吹いて冷まして口に入れる。熱くも冷たくもない。変な味だ。 「あ、あれ? ごめんね、また美味しくないね。いい匂いしてるのに、どうしたんだろ。前はちゃんとできたのにな」 いつの間に僕はこんな簡単な料理もできなくなってしまったんだろう。前は大丈夫だったのだ。僕は料理が得意で、良くお母さんと一緒に夕飯を作ったりしていた。 オムレツもすごく綺麗に作れる。サバの味噌煮も得意だ。なのに、なんでこんなにシンプルな卵雑炊なんかでつまずいているんだろう。 なんだか情けなくなってきた。悔しい。目の奥がじんと熱くなって、鼻の奥がツンとしてきた。 「ご、ごめんね。なんで上手くできないんだろ。すごいしょっぱいねこれ。塩も醤油もあんまり入れてないはずなんだけど……ダメだなー」 いつのまにかほっぺたがべたべたになっていた。鼻水まで出てきた。目の前がすごく滲んでいる。雨の日のガラス窓越しの外の世界の風景みたいに。 こんな簡単なこともできないんじゃ、綾時を「もうほんとに不器用なんだから!」と笑うこともできやしない。 僕はスプーンを置いた。なんだか気持ち悪くなってきた。全然食欲が湧かない。 こんなまずいものをお母さんに食べさせるのも申し訳なくなってきた。後でコンビニにちゃんとしたものを買いに行こう。 僕はお母さんに「ごめんね」と謝ろうと思って、ふっと顔を上げて、その人の唇の端っこからつうっと涎が零れていて、白いセーターをべたべたにしちゃっていることに気が付いた。 僕は「あああ」と慌ててタオルを取ってきて、お母さんの口とセーターを拭いてあげた。部屋が暗いから、良く分からなかったのだ。 僕の家はいつも電気が消えっぱなしになっている。明るいとお母さんが嫌がるのだ。だから昼間もシャッターを閉めっぱなし、いつも薄暗くてじめっとしている。 僕は床に膝をついて、お母さんの膝にぎゅっと抱き付いた。 そしてちょっとだけ泣いた。この頃のお母さんは人形みたいになってしまっていて、そうしてもちょっと前みたいに『泣くんじゃありません』と僕を怒ることはなかった。 僕は何度も口の中で「ごめんなさい」を繰り返す。選び間違えてごめんなさいと。 「ごめんなさい、お母さん。――僕も一緒に行くからね。もう綾時、赦してあげようね。僕らのことばっかり考えて、可哀想だ」 お母さんは何も言ってくれない。でも僕は、この人が生きていてくれるだけで嬉しいのだ。 「さっきね、神社にお参りしてきたんだ。あの人が幸せになれますようにって」 僕がいい子でいたら、我慢できたら、いつかはお母さんが綾時と仲直りして、三人で暮らせる日が来るって、僕は信じていた。 僕がいい子でいたら、お願いを聞いてくれるってお母さんが言っていたのだ。 「僕らのこと、忘れて……ほんとに忘れちゃうのかな……他の子ちびくんって呼んじゃうのかな。――で、でも、僕ら、おあいこ、だよね」 でももう全部取り返しのつかないところまで、全部ぐちゃぐちゃになってしまっていた。 お母さんはもう僕のこともわからない。僕の身体も、前みたいな普通の幸せな子供じゃなくなっていた。 「僕はもう、綾時の子供じゃなくなっちゃったもんね」 薬を飲まなきゃ少しも生きられない身体になってしまった。 薬を飲んでも、大人にはなれないそうだ。 成人式に出たり、お酒を呑んだり、お仕事をしたり、そういう大人みたいなことは僕にはできないっていう。 綾時と約束したように、あの人と一緒に暮らすことはできない。 約束は破られる。 僕は大人にはなれない。 未来はない。 これはきっと、全部僕が悪いのだ。僕が悪い子だったから、誰も何のお願いも聞いてくれなくて、そして僕はお母さんを守れないまま、この人と一緒に消えていく。 後には何も残らないだろう。いた跡もなく、誰の記憶からも消えてしまうだろう。 大好きだった人にもいたってことさえ忘れられてしまうだろう。 カエルやネズミやサルなんかと一緒に土の中に埋められるだろう。 僕の大好きな人は、毎朝それと知らずに僕を上から踏み付けて通り過ぎていくだろう。 いつか何かの植物の種がどこかから飛んできて芽吹くかもしれない。その時に、あの人は「わあ綺麗な花だ。こんなところで頑張って咲いている」と一目こっちを見るかもしれない。 でも、その日の仕事が済む頃には全部忘れている。 僕は、本当に何も残らなくなる。 いなくなる。灰になる。 消える。 透明な空気みたいになる。 「――お母さん、僕、栄時です。わかりますか」 僕はお母さんの膝に抱き付いて、震えていた。怖かった。 怖いのを我慢することに慣れきった僕でも、それだけは駄目だった。誰にも知られずに、どこにも残らずに、いなかったことになることが。 ハツカネズミたちの死骸と一緒に取り扱われることが。 せっかくお父さんとお母さんが頑張って考えてくれた『栄時』って名前を持った僕の身体が、大事なところなんて何一つないふうに、ごみのように扱われることが。 「名前、呼んで……おかあ、さ」 僕は言う。 僕は生きてここにいますと。心もちゃんとあります、お父さんとお母さんが好きだって、ちゃんと思うことができてますと。 でもお母さんは何も言ってくれない。 口の端から、また一筋涎が零れる。 僕はぼんやりそれを見上げながら、ちょっとだけ、笑った。 「……はは、ば、ばかみたいだね、僕。ごめんね、」 本当に馬鹿げている。今更誰かが僕を助けてくれるなんて、都合の良いことがあるわけない。 この世界にヒーローはいない。そのことを僕はもう良く理解しているはずだ。 でも最後まで望みを棄てられない自分が、すごく滑稽だって、なんだか他人事みたいに思った。 僕はまだどこかでこう思っているのだ。 もしかしたら、あの誰よりも格好良くて強くて優しい自称僕のヒーローが、僕の絶対絶命のピンチに颯爽と現れて、僕を深い夜の中からひょいっと抱き上げて、救い出してくれるんじゃないだろうかと。 「さあ行こう、もう大丈夫だよ」と手を引いてくれるんじゃないかと。 そんなふうな現実味のない空想を、僕はこんなになっても、振り払ってしまうことができない。 ――遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。学校の方からだ。 もうすぐ、終わりが来る。 |