こでもいっしょ




 「やあ、こんばんは」と声を掛けられたのは、僕がちょうどその日出された数学の宿題をようよう済ませたところだった。デスクライトがふっと掻き消えると同時に、肩の後ろからにゅっと頭が突き出てきたのだ。
 僕はもう慣れたものなので、「ああ、こんばんは」と返す。そしてこっそり岳羽あたりなら悲鳴を上げて腰を抜かしそうなシチュエーションだなと考える。
 彼女はお化けや幽霊やそう言った非科学的な存在が恐ろしいらしいのだ。
 じゃあ毎晩訪れるこの影時間やシャドウや、頭を銃で撃ったら怪物が腹の中から飛び出して来る僕らの存在ってのは一体どういう認識になるんだろうと思ったが、まあどうでもいいかと思い直し、考えるのを止めた。
 面と向かって言うと、順平みたいにボディブローを食らいそうだ。返答が期待できない以上、考えたって仕方がない。
「『等差数列と等比数列』? ……ってなに?」
 僕の肩の上に顎を乗っけて、教科書を覗き見し、彼が言う。頭の重みが、僕の右肩に掛かる。
 でも軽いものだ。この奇妙な同居人(というのだろうか?)はまだほんの小さな子供の姿をしている。
 『姿をしている』というのは、彼が本当にまだ幼い子供だとは限らないからだ。態度は大人びていて、言動も思慮深く、礼儀正しい。僕の同級生たちよりよっぽど扱い易い。
 そして何より、彼はたぶん、人間じゃない。影時間だけに現れる、僕しか知らない子供だ。
 僕はまだ口に出してこそいないが、彼はきっと幽霊なんじゃないかと思っている。いつか昔この寮にゆかりのあった子供の霊かなにかじゃないのかと。
「別にお前には関係ない」
 僕はそっけなく言って、教科書とノートを閉じる。ファルロス(と言うのだ、その少年の名前は)はちょっと不満げに口を尖らせて、「君、冷たい」と言う。僕は「心外だ」と肩を竦める。
「知る必要のないことを、わざわざ知ろうとすることはない。頭の中には必要な情報だけ入れておけ。僕らの頭には容量ってものがあるんだよ。覚えておけることは無限じゃない。不必要なもので一杯になってしまったら、必要なものを入れる時にちょっと手間取ることになる。俺もどうでもいいことはさっさと忘れるように努力している」
「あ、親切で言ってくれてたんだね。ごめんね。早とちりしちゃった。……ううん、でも僕の頭のなかは今すごく空っぽなんだけど、何を入れておけばいいのかな?」
 ファルロスはいつもの癖で首を傾げて、真剣にうんうん唸っている。僕はああなるほどと思い当たる。この子には記憶ってものが欠落しているのだ。
 記憶がなくなるってことについて、僕はそう深刻に受け止めることができない。まあいいんじゃないか、くらい。
 僕にもまともな記憶はないが、日々の生活で特に困ったことはなかった。今もこの上なく普通に過ごしている。大事なのは過去あった何かなんかじゃあなく、今生活する上で何が必要なのかということなのだ。たとえば僕なんかだと、学生らしく教科書の内容と、課外活動のための力の振るい方、時間割と放課後のスケジュール、そのくらいでいい。
 僕はまた肩に顎を置いて(どうやら気に入ってしまったようだ)、「どうしよう」と訴え掛けてきているファルロスの頭を撫でて、「まあ、子供だし」といくつか提案してやった。
「お前くらいの年代だと、そうだな……ゲームは電源入らないし、テレビもつかない……じゃあトトロも駄目だな。本はどうだ。絵本、児童書、漫画。……まあ部屋にないな。今度何か面白そうなものを用意しておいてやろう。お菓子とか、外遊びとか」
「それってどんなの?」
「お前こないだ美味いって食ってたろ。プリンだよ。あれがお菓子」
「あ、あれね、うん。あれは大好きだよ。甘くて美味しい」
「外遊びは……僕もまああまりやった記憶はないが、キャッチボールをしたり、ブランコに乗ったり、ジャングルジムに登ったり」
「ううん、良くわかんないものばかりだね。キャッチボールは何か味はする? ブランコはワンワン鳴くのかな。ジャングルジムって、人の名前みたい」
 僕は頭を抱えた。これは強敵だ。
 相手が見たこともないものを口で言って説明できるほど僕は口が上手くなかった。
 それにしてもこの子は本当にものを知らないんだな、と僕は痛切に感じた。見た目が子供そのものだから、なんだか不憫になってくる。
「遊具を知らないって、お前は公園に行ったことがないのか?」
「え……うん。それはおかしいかい? いけないことかな」
「外は?」
「……良く覚えてない」
「いつもはどこにいるんだ」
「君のそば」
「この部屋か」
「うん、そんな感じ」
 僕はいくつかの情報を整理して、推理してみた。この子供は、僕がこの街へやってきた日に、この巌戸台分寮のカウンターの中にいた。僕がこの街で初めて出会った人間(?)だ。
 岳羽は僕よりも前に寮入りしていたが、ファルロスのことを知らない。訊くと気味悪そうな顔をして「やめてよ」と怒られた。
 まあこの巌戸台分寮は大分歴史を感じさせる外観だったし、元々はホテルか何かだったのを改装したって話を聞いたことがあるような気もする。子供の幽霊の一人や二人、出たっておかしくはない雰囲気だった。
 僕は多分気に入られたか取り憑かれたかしたのだろう。実害はなさそうなので、まあどうでもいい。
――部屋から出るのは平気だな。具合悪くなったりはしないか」
「え、平気だけど……良くおつかいとか、してるから」
「そうか」
 どうやらこの寮に縛られている自縛霊って訳ではなさそうだ。ほっとした。
 僕はクローゼットを漁り、コーデュロイのジャケットを引っ張り出した。ファルロスに被せてやると、当たり前だが大きい。ダブダブだ。
「駄目だな」
「うん、重いよ」
「じゃあこっちは」
 椅子に掛けておいた制服の上着を被せてやると、相変わらずダブダブだが、ファルロスはなんだかまんざらでもない顔でにんまりしている。どうやら気に入ったようだ。
 大分余ってしまっている上着の袖を折って、僕もジャケットを着込む。ポケットに財布と部屋の鍵を突っ込んで、ファルロスの手を取る。
「頭にもの詰めたいんだろ」
「うん?」
「散歩、行くか」
 ファルロスは余程嬉しそうに、ぱちんと手を叩いてぱっと頬を紅潮させた。
「わ。いいの?」
 僕は頷く。「構わない」と言う。どうせ明日は休みだ。特に予定もない。少しくらい子供と一緒に夜更かししたって構わないだろう。
 何しろこっちが恥ずかしくなってくるくらいに喜ばれると悪い気はしないので。





 寮から外へ出るほんの一瞬だけ、僕はその子が外の空気に触れたらぽっと消えてしまうんじゃないかと危ぶんだが、それはまったく見当はずれな心配のようだった。
 最近日中は随分暖かくなったものだが、影時間が訪れると、相変わらず世界は急激に冷え込む。
 それは体感温度と言ったもので、もしかしたら実際には気温はほんの『一分前』と変わらないのかもしれない。でも温度計が動かないので、確認のしようがない。まあどうでもいい。
 僕はファルロスの手を引いて、まだ日があるうちに一度通った道をゆっくり歩いていく。
 ファルロスは外の景色が大分珍しいらしく、口をぱかっと開けっぱなしで、きょろきょろ頭を巡らせて歩いている。
 余所見ばかりで、僕が手を掴んでいなければ、電柱や建物にぶつかった回数は一度や二度じゃ済まなかったろう。実際何度か転び掛けて、その度に僕が腕を引っ張って支えてやらなければならなかった。
「そんなに珍しいかよ」
「うん、そりゃあね。でも僕や君みたいな人、いないね。変なのは立ってるけど」
「あれは象徴化した人間。影時間が過ぎれば、俺たちみたいなのに戻ってまた動き出す」
「そうか……じゃ、僕は見れないね。残念だなぁ」
 ファルロスはしょげた様子で肩を落としている。
 やはりこの子供は、影時間の中に棲んでいるのだ。
 僕は少し不憫になり、また羨ましくもなった。お化けには学校もテストもないのだ。煩わしい交友関係にげんなりすることもない。
「君がいてくれて良かったよ。僕の声は君にしか届かない。君がいないと僕、こんな途方もないくらい広い場所で、ひとりぼっちだったんだね」
「イゴールとエリザベスがいるだろ」
「お爺さんとお姉さんは……なんていうか、うーん……好きなんだけど、何て言うか、そばにいるなって感じないんだよね。例えば僕がすごく怖い目に遭ったとするよ。でもあの人たち、多分僕を助けてはくれないと思うんだ。「わあこりゃあ大変だ」とは言うだろうけどね。でも君は助けてくれる。僕に手を差し伸べてくれるだろうってことが解るんだ、はっきりとね。あっ、あの人たちが僕に親切にしてくれているってのは知ってるし、ありがたいってちゃんと思ってるよ」
 僕は「うんそう」と頷く。少しぶっきらぼうな口調だったかもしれない。
 実の所、僕はちょっと照れていた。助けてくれるのがデフォルトだと、当たり前みたいに子供に信頼されてしまうと、大人ってのは妙にむず痒くなってしまうものなのだ。
「あ、怒ったかい? 別に君の重荷にはならないよ。気を付ける」
「そうじゃない。大人が子供を守るのは当たり前のことだ。子供が余計な心配をするな」
「あ、うん。そうだね」
 ファルロスはにっと笑って、「君は優しいなあ」とか的外れのことを言っている。僕はこれまで優しいなんて言われた経験は無かった。魔王だとか鬼軍曹だとか、好き勝手なことを言われている。やはり子供ってのは、随分純粋なものなんだろうな、と考えた。例えそれが人間じゃなくても。
「そう言えば、さっき言ってたね。寮を出しなに、僕が消えちゃうんじゃって。どうしてそう思ったの?」
「ああ……この前、怨霊騒ぎで色々そういう話を聞いてたから。自縛霊っていうのは、死んだ場所に留まって動けないって」
「ジバクレー?」
「幽霊のこと」
「ユーレー?」
「死んだ人間が生きてる人間に会いに来ること。お前がもし幽霊なら、寮から出たら消えちゃったかもな」
「僕、死んでる?」
「まあ、生きてる幽霊は『生霊』って言うらしいけど」
「生きてるのにゆうれい……ねえ、それは普通の人と何が違うの?」
「確か、魂だけが勝手に動きまわってるんだ。身体はどこか別のところにある」
「じゃ、僕は誰かの魂かもしれない?」
「ああ、そうだな。勝手に動き回って、影時間が過ぎたらくたびれて元の身体に戻るんだ。そんで目を覚ます。俺の枕もとに立ったことは覚えていない」
「じゃ、僕は眠ったり目を覚ましたりする度に、その誰かと交代してるのかな」
「案外、普通に学校行ったりしてるかもしれないな」
「それすごく面白いね。じゃ、僕は君と一緒の高校生だったりするかもしれないわけだよね。昼間は何も知らずにすれ違ったりしてて、こうやって、」
 ファルロスは楽しげに上着の袖を振って、とても大事そうに胸の校章に右手でそっと触れた。
「君とおそろいの制服着ちゃったりしてるのかもしれないんだ」
 冗談半分だったが、ファルロスはどうやらいたくこの話が気に入ったらしい。にやにやしながら、「いいな、僕も学校見てみたいな」と言っている。そう言えば彼は、昼間のタルタロスを知らないのだ。僕は頷いて言う。
「今度写真撮ってきてやるよ」
「わ。ほんと?」
「ああ。そんな面白いもんでもないけど」
「ありがとう! 楽しみにしてるよ。僕、空っぽだけど、君のことで頭いっぱいにしたいんだ。僕君しかいないから」
「ああそう。まあ面白みのない人間で悪いが、俺でいいなら好きにしてくれよ」
 ファルロスはにいっと口の両端を上げて、「そりゃもうね」と嬉しげに言った。僕はどうやらかなり懐かれているらしい。この人間かどうかも怪しい少年の、あからさまな好意を感じる。まあ好かれて悪い気はしない。
 僕なら、世界でもしたった二人きりになったのが僕のような気難しい人間だったとしたら、コミュニティを築くことは早々に諦めて一人で歌でも唄っているだろうが、この少年の忍耐強さと適応力の高さには正直感心してしまう。
 途中少し道を逸れて、僕はファルロスを連れてコンビニを覗いた。相変わらず電気は消えていて、レジカウンターの中に棺桶が二つ、雑誌コーナーの前に二つ、カップ麺が並んでいる棚の前に一つ突っ立っている。時間帯を考えると、まあこんなもんだろう。
 僕はファルロスをチョコレートやポテトチップスが並んでいる棚の前に連れて行って、「好きなものを選べ」と言ってやった。
「ひとつだけだぞ」
「え、いいの? わ」
 ファルロスは目をきらきらさせながら、真剣な顔で棚を物色しはじめた。彼は『自分で望むものを沢山の選択肢から選ぶ』ということに、いたく感激しているようだった。
 まあ無理もない。僕の部屋にはまともにものがない。子供が楽しめそうなものなんてないのだ。
 彼はまずおもむろに棚の前にしゃがみこんで、並んでいる菓子を手当たり次第に引っ張り出して床に並べるという暴挙を行いはじめた。
 僕の目は、自然レジの前に突っ立っている棺桶に行く。まああの状態じゃ、どう頑張っても「お客さん困りますよ」と文句は言いに来られないだろう。どうでもいい。
 僕はさっさとバニラ味のカプリコを選んで、床にしゃがみ、どうやら小さい脳味噌で苦悩しているらしいファルロスをじいっと覗き込んで、聞いてやった。
「決まった?」
「……君と同じがいい」
「じゃあ直せ。元の場所へだ。こういうことは普通はしちゃいけない。行儀良くしてろ」
「うん」
 僕らは二人で棚を片し、カプリコとモロナミンGを二本ずつそれぞれポケットに入れて、レジの上に千円札を一枚置いてコンビニを出た。
「すっごいね! お菓子の宝箱みたい」
「そうだな」
 僕は頷く。あれ、と思う。ファルロスはちょっと顔を紅潮させていて、足取りも軽い。落ち付きがない。この子はこんな仕草をする子だったろうか。
「楽しそうだな」
「そりゃあね、うん」
 今にもスキップでもしそうな様子で、彼が頷く。僕は、ああこいつも普通の子供だったんだなとぼんやり考えた。影時間にしか現れない、まるで影のようにふっと掻き消える、僕にしか見えない、謎めいたことばかり言う――そういう怪しげなところばかり見ていたから意外に思えたわけだが、ちゃんと子供らしいところもあるんだと、ちょっとほっとした。
 僕らは買ったばかりのお菓子をかじりながら、手を繋いで長鳴神社の長い階段を上がっていく。不思議と今日はシャドウに出くわさなかった。
 そう言えばいつもそうだったな、と僕は考えていた。影時間にひとりで街を歩いている際には、僕は一度もシャドウとエンカウントしたことがないのだ。





 まあちょっとは子供らしいところを見れて良かった、とか思っていたのだ。階段を上りきる前は。
「え、栄時……! 栄時!」
 僕は肩を竦めて、「はいはい」と頷く。どうやら高いところまで上ったは良いが降りられなくなってしまったらしいファルロスを助けてやるために、ペンキが剥げてところどころ錆びたジャングルジムに上る。
「お前高いとこ苦手なんだったら何で上るんだ」
 腕を掴むと、途端に必死な顔でぎゅうっと僕の腰に抱き付いてきた。ちょっと震えている。なんだ、可愛いところがあるじゃないか、と僕はこっそり考えながら、「心配するな」と頭を撫でてやった。
「に、苦手じゃないけど、」
「でも動けなくなったんだろ」
「ごめ、」
「俺も昔やった。上ってるうちは良いんだけど、下見ると怖くなるんだよな」
「うん……」
 僕はファルロスを抱いたまま、ジャングルジムから飛び降りる。この程度なら、日頃跳んだり落っこちたりしている僕にはなんてことはない。
「滑り台で遊んでろ」
「ね、栄時。今のもっかいやってよ。上からぴょんって……」
「はあ? ふざけるな。危ないから駄目だ」
 僕は花を飛ばしているファルロスにデコピンしてやった。「いたっ」と声が上がる。
 でも全然懲りた様子がない。「じゃあ一緒に滑り台滑ろうよ」とか言っている。
「一人で滑れ。俺はもういい大人だから、重い。お前みたいな小さい子供じゃなきゃ無理だ」
 ファルロスは「ええ……」と不満顔だ。口を尖らせている。「僕が君の膝に乗って、びゅんって滑れば大丈夫だよ」と食い下がってくる。僕は溜息を吐いて、「じゃあ手を繋いでてやるから」と譲歩案を出した。
 滑り台の上にファルロスを上らせて、手を掴み、滑らせた。勢いをつけて滑っていく子供を追い掛けて、二歩分ばかり前へ引っ張られていく。
 ファルロスは余程嬉しそうにきゃあきゃあはしゃいでいる。やはり、子供と遊具というものはすごく相性が良いらしい。「つまんない」と言われなくて良かったと、僕はほっとしていた。
 物静かで、聞き分けが良く、ひとりで本でも読んでそうな奴だなと感じていたが、こいつ猫を被ってたなと僕はこっそり思った。まあ子供ってのはそんなもんだろう。僕も昔はそうだった。たぶん。
 しばらく子供の相手をしてやっていた。僕も知らない間に夢中になっていたんだろう。気がつくと、見慣れない犬が、本殿の裏からのそっと出てきていた。野良犬だ。白くて目が赤い。
 変わっているなと思っていると、どうやらそいつは僕らが縄張りを侵したことが気に食わないらしく、激しく吼え始めた。ファルロスが「ひゃ」と悲鳴を上げて、僕の後ろに隠れた。
「栄時、あれ、なに?」
「犬」
「いぬは、僕らがキライなのかな? すごく怒っているよ。こんなふうに『大嫌い』って言われたの、僕はじめて」
 悲しそうにしょげている。僕が何か気の利いた慰めの言葉を捜しているうちに、犬は猛然と僕ら――というか、ファルロスに突っ掛かってきた。また「ひゃっ」と小さな悲鳴が上がって、ファルロスが逃げ出す。境内じゅうを走りまわる。犬は僕には見向きもせずに、ファルロスだけを追い掛けまわしている。
「え、栄時! 栄時……!」
 高いところへ逃げれば安全だと考えたのか、ジャングルジムによじ登っていくファルロスを見やって、僕は溜息を吐いた。聡明な子だとは思っていたのだが、意外に考えなしだ。さっき降りられなくなったことをもう忘れているらしい。
「栄時! 栄時ーっ!」
 犬が怖いのか、高いところが怖いのか、もう泣きが入ってしまっている。僕はポケットに手を突っ込んだまま肩を竦めて、吼えたくっている犬の横で、ジャングルジムの鉄パイプに蹴りを入れた。上にいるファルロスが、足場が揺れたことに驚いて「ひい」とか悲鳴を上げている。
 僕は足をパイプに乗せたまま、びっくりしたようで、尻尾を力なく腹に巻き込んでいる犬をじろっと睨んで、「黙れ」と言ってやった。
「気に食わないならすぐに出て行く。これ以上子供を怖がらせるな。あまりしつこいと、どうなるか解るな」
 犬はぺたんと耳を垂らして、情けない声で「くうん」と鳴いた。ちょっと悪い事をしたかもな、と僕は考えた。僕は犬が嫌いじゃない。小動物の類は大事にすることに決めている。
「ファルロス、降りられるか」
「む、無理だよ栄時」
「だろうと思った」
 ファルロスを地面に降ろすには、また僕が上って行って、抱き上げてやらなきゃならなかった。可哀想に震えていて、目をぎゅっと閉じ、僕の首に腕を回して抱き付いてくる。
 僕は溜息を吐く。せっかく楽しんでいたところに散々だった。これがトラウマになって、僕の部屋に引き篭もってしまわなければいいが。
 ちらっと犬を見遣ると、すごく不服そうな目でファルロスを見ている。僕は子供を抱いたまま「すまないな」と言い置いて、長鳴神社を後にした。
 そう言えば、犬は影時間に象徴化しないのか。動物の棺を見たことがない。
 まあ犬がペルソナを出してシャドウと戦ったりするなんてありえないので、どうでもいいことだが。





「いぬは、とても怖いね」
 ファルロスが、もう僕の腕から降りて、手を繋ぎ、ぐずりながら言う。「僕はなにもしてないのに」と、すごく不服そうだ。
「ガブリといくぞ、って叫びながら追い掛けてきたよ、あいつ。ひどいよ。僕が何をしたっていうんだ」
「野良犬だから、昼間に子供に苛められたのかもしれないな。それで子供が嫌いなのかも」
「ええ……子供ってだけでひとくくりにされちゃたまんないよ。僕はあいつになんにもひどいことしてないもの」
「そうだな……」
 僕は「すまないな」と謝る。実際に見せてやって、「これはジャングルジム。登ったりくぐったりして遊ぶもの」だとか、「こっちはシーソー。両側に乗って交互に……ああ、今は俺のほうが随分重いからお前が上がりっぱなしだが、体重が似たり寄ったりな同級生とかと乗ると、交互にパタパタ動くんだ」とか解説して、色々教えてやろうと思ったのに、「犬はとても怖い」と覚えなくても良い知識を植え付けてしまった。
 いや、もうトラウマですらあるかもしれない。まあ今後怖がって近付かないようになれば、噛みつかれる心配もないだろうが。
「どうして謝るの?」
「お前にいろいろ子供らしいことを教えてやろうと思っていたんだが、怖い目に遭わせた」
「でも僕は嬉しいよ。君と二人で散歩。すごく素敵だよ。ねえ、また今度こうして二人で歩こうよ。さっきのことなら、僕は平気だからさ」
「ああ。お前が構わないなら」
 僕は頷く。楽しんでもらえたのなら良かった。
「今度はいつ? いつ一緒に遊べる?」
「いつでもいいが……できれば土曜日の夜がいいな。次の日朝寝ができるから、遅くまで起きていられるし」
「うん、わかった。じゃあ次の土曜日ね」
「急だな。まあいいよ。俺も予定は空けておく」
「今度はどこへ? さっきのとこは、その……あいつまたいたら、やだな……」
 ファルロスが力なく肩を落として言う。ああ、やっぱりトラウマになっている。
 僕は少し考えて、「海岸沿いにでも行くか」と提案してみた。
「お前、海は見たことが?」
「うみってなに?」
「……わかった。今度見せてやるよ。きっと驚く」
 僕は頷く。この子は無邪気でいい子だが、少しものを知らなさ過ぎる。今度機会があった時に、学校の知り合いたちに、初等部の教科書を残していないか聞いてみよう。「こくご」や「りか」「しゃかい」なんかは、この子も楽しめるはずだ。たぶん。
 ふっと、空気が緩んできたことに気付く。まずいなと考える。影時間が明け掛けている。
 僕は足を止め、しゃがみ、ファルロスに「おぶされ」と言う。
 彼はぱっと嬉しそうに目を輝かせ、頬を赤くして、「うん!」と頷いた。そしてそれと分かるくらい興奮した顔つきで、くすくす笑いながら僕の背後にまわり、背中に抱き付いてきた。
 僕はすごく軽い彼の身体を背負って立ち上がり、駆け出した。寮へ向かって。影時間が明けるまでにうちへ帰らないと、はぐれてしまい、この子が迷子になるかもしれないと危ぶんだのだ。
 ファルロスは気楽に「ひゃあ!」とか「栄時はやい、はやい!」と笑いながら、僕の髪を馬の手綱のように掴んでいる。
 僕は「ちゃんと掴まってろ」とそっけなく忠告して、スピードを上げる。わっと歓声が上がる。
 弟ができた兄や、子供ができた親みたいな気分だった。僕らは同じ部屋に住み、二人だけにしか分からない秘密の話をして、たまに散歩に出かけることもある。
 そのうち海を見に行くかもしれない。キャッチボールをするかもしれない。雨が降っていたら、絵本や児童書や漫画を読んで過ごすかもしれない。
 影時間だけに一緒に音楽を聴けないことだけがとても残念だが、僕らはまあ上手くやっていけていると思う。ファルロス。得体の知れない、僕のトモダチ。僕の同居人。たった一人の、もしかしたら、
「……ね、栄時」
「なに」
「僕たち、家族になろうよ!」
 こいつは僕の心が読めるのかなと、僕は考えた。たぶんそうなんだろう。こんなふうに、僕を理解してくれる奴なんて、昼間はどこにもいやしないのだ。
 僕は「うん、まあいいんじゃないか」とそっけなく返す。ファルロスは僕の態度には頓着せずに、手を叩いて大喜びだ。
 そして僕はまた何度目かになる、「こら、ちゃんと掴まってろ。手を離すな」を言う。





――到着」
「ただいま!」
 ファルロスが僕の背中から飛び降り、先に扉を開けて、僕を寮の中に入れて閉める。僕はそわそわしている彼の頭を撫でる。
 僕らの帰還が合図になったみたいに、ラウンジの電灯が点滅する。明かりがつく。僕はすぐそばで、「またね栄時、約束だよ!」という子供の声を聞いた気がした。
「ファルロス?」
 振り返るともういない。気がつけば、僕はひとりで月光館学園制服の上着を掴んで、カウンターの記帳の前に立ち尽くしていた。
 相変わらずあの子は唐突でせっかちだなと考えていると、すぐそばのソファで漫画雑誌を開いたまま硬直している順平を見付けて、「あれ」と思う。さっきドアを開けた時は、誰もいなかったはずだ。
 順平はぽかんと口を開けて、僕を凝視している。彼は何度かわざとらしい咳払いをして、薄気味悪そうに僕を見て、「あのー、いつ来た?」とか言っている。それはこっちの台詞だと思ったが、構いつけるのも面倒で、「今」と答える。
「帰ってきたところだ」
「……一瞬のうちにぱっと出てくんなよ。お前はお化けか妖怪か。夜は墓場で運動会か? 影時間に何やってたんだよ」
 順平が良く分からないことを言った。僕は正直に「神社で子供と遊んでた」と答える。
「一緒に帰ってきたんだが、どこかへ消えた」
「は? 子供? おま、影時間に、ちょ、」
「お前には多分見えないよ。僕にしか見えないトモダチらしい」
 僕は「じゃあおやすみ」とそっけなく言って、さっさと自分の部屋へ向かう。階段に足を掛けたところで、「あいつ怖いあいつ怖いあいつ怖い……」という呪文のような順平の声と、奥でホットミルクでも飲んでいたらしい岳羽の「もうヤダもうヤダ怖い怖い怖い」という震え声が聞こえたが、無視を決め込むことにした。怖いのはお前らだ。
 少なくともあの子はこの二人よりは限りなく、遥かに、人間嫌いの僕にとっては無害な存在だ。





戻る - 目次 - 次へ