(7)




 その時、僕はある意味での永遠を手に入れたような気がしたのだった。
 時間はいつも僕を置き去りにして、ひどく勢い良く、流れの早い川の水のように過ぎ去っていく。僕を待ってはくれない。
 でも僕の目は、その瞬間静止した世界を見た。世界中の動くものは全部止まっていた。時計の針も、落ちてゆく薬莢も、耳の付け根のすぐ上のあたりを撃たれて倒れていく僕のお母さんも、なにもかもが。





「あ……い、――おか、さん」





 僕の声は掠れて感情というものがない。それが、他人の声みたいなよそよそしさで、いやに篭って聞こえた。
 でもやっぱり永遠なんてないのだ。今まで僕の首を絞めていたお母さんは、その声を合図にして、ゆっくりしたスローモーションから解放され、ぱたっと倒れた。足元にすうっと血だまりができていく。





 ――おかあさん、





『あなたは食べ物の好き嫌いのない、本当に良い子ですね。――栄時はこんなに良い子なのに、あなたは恥ずかしくないんですか?』





 まだ一年にもならないのに、それはすごく遠い日々の出来事だったように、思う。
 お母さんがお父さんを叱る回数は子供の僕へのものよりぜんぜん多かった。ほんとにうちのお父さんはダメだと呆れている僕の頭を撫でて、『いい子に育ってくれましたね。そのままですよ、真面目でいつも一生懸命なあなたでいてください』と誉めてくれる。いよいよお父さんは、情けない顔をする。





『次のお休みには、遊園地に行きましょう。いつもいつもお父さんばかり、ずるいです』





 結局あの約束事は守られることはなかった。家族そろってはしゃぎまわる遊園地なんて、今じゃもう僕の夢の中にしか出て来ないのだ。





 ――あなたは、もう二度と会えなくなってしまうまで、結局もう一度僕を愛してくれることはないままでした。





 確かに流れ出した血の色は赤かったのに、しばらく経つとそれが嘘みたいに黒ずんで、ぼこぼこと泡立ち、黒い煙を上げながら消えていく。
 そして今まで人間の身体をしていたものがどろどろに溶けて消えていく。後には服が残るだけだ。セーターとタイトスカート、それから僕とおそろいのヘッドホンが。
「無事かい?」
 優しく声を掛けられて、手を差し伸べられて、引っ張り起こされた。僕はその人の顔を見た。その男の人は「ああよかった」って顔をしている。そこに悲しみとか悼みとか言った感情は見て取れなかった。
 もしそこにほんのちょっとでも痛ましく感じているんだって様子があったら、僕はきっと大分違うふうに感じていたろうと思う。でもそんなものはない。
 僕は震えをようように抑えながら言った。
「ドクター……この、ひとは、僕の、」
「問題ないよ。君は僕の養子というかたちでここにいられる。心配しなくていい」
 頭を撫でられた。僕が言ったのはそんなふうな意味じゃないんだと、僕は叫びたかった。あんまりだと。
 でも僕はそれを飲み込んで、なんでもない顔を作って、頭に手を当てて敬礼した。そういうのは得意なのだ。もう何度も何度も何度も、同じことを繰り返している。最後の一回くらいなんてことはない。
 悲しくはないし、寂しくもない。僕はそんなふうに感じない。
 だってまだ、僕にはやるべきことがあるのだ。とても重要で、重大で、深淵なことだ。
 僕はそっけなく、なるだけ感情を切り捨てて言う。
――了解致しました。ただいまより『デス』捜索任務に当たります」
「うん、期待しているよ」
 その人が僕の頭を撫でてくれる。僕は腕を下げ、声から抑揚を消して、我ながら白々しいなと自覚しながら「辺りには他にもシャドウ化した人間がいます。お気を付けて」と言う。
 「ああありがとう」とその人が言う。僕は頷く。少し笑って、「行ってきます」と言う。
 それが僕の精一杯の虚勢だった。僕が今召喚器で頭を撃って、ペルソナを出せば、能力を持たないその人なんて一撃で焼き尽くせるだろう。
 でもそこで終わってしまう。僕が故障したという情報が一瞬でいろんなところに伝わって、上手く探し物もできやしないだろう。
 今だけはガマンだ。全部終わったら、一番に僕はその人を殺すだろう。嘘吐き、良くも今まで騙してくれたな、お母さんは結局僕をもう一度愛してなんてくれなかったじゃあないか、お前が殺したんだ、元はといえば全部お前のせいだ、――たくさんの憎悪を飲み込んで、ただ僕は堪える。そういうのは得意なのだ。
 床に落ちたヘッドホンを、あの人の靴が踏み躙り、砕く。思わず『返せよ』と僕は叫びそうになる。『そのヘッドホン返せよ、それは僕のお母さんのだ』と。
 でも危ういところで僕は言葉をなんとか飲み込む。試されているのだということが、僕には分かっている。僕はみんなみたいに「できそこないの人形」ではないんだということを期待されているのだ。
 僕はなるだけ自然に振舞って、その人に背中を向け、駆け出す。使い慣れたナイフと、傷薬とチューインソウルを詰め込んだバックパックを腰のベルトに引っ掛けて、階段を降りたあたりで召喚器で頭を撃つ。
 サポート用のペルソナを肩に張り付かせる。でも探すのは、『デス』とかいう捜索対象のシャドウじゃない。





 ――あの人を、探さないと。





 僕は優しかった頃のお母さんの顔を思い浮かべようとして、でも漠然とした曖昧なイメージしか引っ張り出してこれなくて、唖然とした。さっきまでは上手く、鮮明に、まるで目の前にあるみたいに浮かべることができたのだ。
 どうも記憶が混乱している。消えた人の顔が、上手く思い出せない。
 そこで僕は、今夜もし僕が死んだら、あの人の頭の中から僕のことはきっと消えちゃうんだろうと、ぼおっとした頭で理解した。
 きっとそうだろうって思ってたはずなのに、変に胸がざわざわする。でもそんなことを考えている場合じゃない。僕は集中して、サーチを行う。
 何もかも今は我慢だ。あの人を探さないといけない。守らなきゃいけない。
 お母さんが踏み躙られる姿を見せられて、そうして感じる憎悪と殺意を我慢してまで、僕にはやるべきことがある。
 死んだらどんな人間でもそこでお終いだ。
 どんな大事な人でも、死人は死人でひとくくりにされる。
 僕が今やらなきゃならないことは、死んでしまった大好きな人を悼むことじゃない。





――アイちゃん、ごめんなさい。お墓も作ってあげらんないけど、僕もすぐおんなじものになるよ。綾時だけは守らなきゃだよね。だから行くね。絶対あの人には傷ひとつ付けさせやしないからね。僕頑張るよ)




 ちょっと前に起こった爆発で、港のまわりは火の海だった。壁や階段や道路やいろんなところから血が流れてきていて、空の色がおかしい。空気もおかしい。ひどく寒い。
 機械が動かなくなって、僕のデジタル時計も見れない。あれからどれくらい経ったんだろう。





 そして僕はそこで初めて命令に逆らった。





◇◆◇◆◇




 望月綾時が慌てた顔をして生徒会室に飛び込んできたのは、放課後、僕がいつものようにプリントのコピー、纏めと整理整頓を任されて雑用係としてこきつかわれている頃だった。
 「おじゃましまーす!」と勢い良く扉を開けて顔を出したかと思えば、ひどく焦った顔で扉を閉めて――廊下を走って行く順平の「バカッ、そこは刑務所だっ」という怒鳴り声が聞こえたような気もしたが――ほっと息を吐いている。
 案の定生徒会のメンバー、小田桐や伏見や桐条先輩をはじめとする真面目で融通のきかないことに関してはちょっと誇れる面々は、なんだこいつはという顔をして、不意の闖入者に訝しげな顔を向けた。
「なんだね、君は」
「え? あ、いや。怪しいもんじゃなくて、」
 望月は手と頭をぶんぶん振って「ちょっと通りすがりで」とか言っているが、ちょっと通りすがって生徒会室に乱入する物好きなんかいるはずがない。
「伊織! 望月! どこへ逃げたー!!」
 野暮ったい足音が、薄いドアを隔てた廊下を通り過ぎていく。望月が「ひえっ」と小さな悲鳴を上げて身体を竦ませる。それでなんとなく、僕は理解してしまったのだった。ああこいつ、また順平と一緒に何かやらかしやがったんだと。
「違反者が生徒会室に出頭してくるとは良い心掛けだな」
 小田桐がぎらっと目を光らせている。伏見は校内の噂や望月本人の素行がどうも気に食わないようで、犯罪者でも見るみたいな「いやだな」という目で望月を見ている。
 桐条先輩は肩を竦めている。何も言わない。この人も日頃の順平とかを見ているから、そろそろこういう人種ってものに慣れてきたんだろう。
 望月は可哀想なくらいに慌てて「ご、誤解だよ〜」とか言いながら、救いを求めるように僕のほうを見ている。あからさまに「助けて」って眼差しだ。
「望月、こっち」
「あ、うん」
「プリント折るの手伝って」
「はい」
 ちょうど空いていた隣の席に望月を座らせて、紙の束を押し付けてやった。
「……黒田くん、君はだね、」
 何か言い掛ける小田桐を手で制して、僕は「手伝ってくれる奴がいると助かる」とそっけなく言った。小田桐はどうも不満らしく、渋い顔をしている。
 僕は望月の頭をぽんぽんと撫でて、「どうせ声は江古田だったし」と肩を竦める。
「俺は友人は信用するほうなんだ。あいつと望月とをはかりにかけて、こいつのほうを信じられないなら友達なんかやってない」
「く、黒田くんっ……」
 望月がいたく感動したふうに目をきらきらさせている。
 小田桐も伏見もなんか「ああなるほど。さすがだな」って感じで感心しているし、桐条先輩も「フッ……君にも良い友人ができたようだな」とか言っているが、お前ら当たり前だろ。あの陰湿教師と比べて勝負になる奴は、僕の知り合いのなかにあんまりいないぞ。今ならもれなく順平だって庇ってやる。
「どうせ昨日の古典の小テストについてのお説教から逃げ出して、追い回されてたってとこだろ」
「わ、すごい。なんで分かったの?」
「お前が先生に目をつけられるなんて、女子絡みか古典と歴史の点数の関することだけだ。帰国子女に無茶をいう教師の説教なんて、お前が聞く必要ない」
「えへ、僕を信用してくれてるんだね。嬉しいなあ」
「信用というか、……ああ望月、」
「うん?」
「椅子から降りろ。正座」
「うん」
 いきなり正座しろとか言われても、望月は軽く頷いてその通りにする。お前ちょっと聞き分けが良過ぎやしないかと思ったが、まあ面倒がなくて良い。
 生徒会メンバーは「犬……」とか「女王様と下僕」とか言いながらざわめいていたが、不本意なので構い付けず、僕は脚を組んで机に肘をつき、さも『今まで叱り付けてやってました』感を演出する。僕はなにかを演じたり、そういうふりをしたりすることが、昔からすごく得意なのだ。
 そうしているうちにドアが勢い良く開いて、顔を真っ赤にした江古田が現れた。
「二年F組の望月がここにいると聞いたんだがね!」
 どうやら足の早い順平には逃げられてしまった様子で、余分の怒りを望月にぶつけてやろうって顔つきだ。
「見付けたぞ望月、逃げた伊織の分も目一杯説教を……んん?」
 江古田教師はなんでか床に正座している望月と、説教してましたという空気を放ってやっている僕とを見比べて、呆気に取られたような顔つきをしている。僕は早口でたたみかけるように、そしてできるだけ偉そうに聞こえるように、「こんにちは江古田先生」と挨拶してやった。
「望月くんは僕が叱り付けておきましたよ。どうやら彼も反省してくれたようだ。これ以上先生の手を煩わせることもないでしょう」
「い、いやしかし覇王様……でなくて黒田君、一応こちらにも教師としての面子ってものがね、」
「担当クラスの生徒一人守れない教師の面子など犬にでも食わせればよろしい。六月の失態をもうお忘れですか。まったく救いようがないですね貴方は」
「え、いや、あの、その……も、申し訳ございません、く、黒田様」
 僕は肩を竦め、「もういいでしょう?」と聞いてやった。江古田は可哀想なくらいにうろたえて、僕の肩を揉んだり靴を舐めたりしそうな勢いだ。
「ところで江古田先生、生徒思いの良い教師である貴方に是非お願いがあるのですが」
「は、はい、何なりとお申し付け下さいッ!」
「こちらの生徒会の先輩がたが手が足りず困っているようなんです。これは僕の個人的なお願いなのですが、手伝ってあげて下さいませんか」
「も、もももちろんでございます、黒田閣下!」
 僕は微笑んで「ありがとう」と言う。そして固まっている望月の肩を叩いて、「じゃあ行こうか、望月君」と手を伸べて立ち上がらせ、「ではさよなら」と生徒会室を後にする。
 僕らは無言で二年F組の教室へ戻り、扉を閉めて、それぞれの席に置いてある鞄を手に取って――吹き出した。
――っは、はは、ダメだってくろだく、おっきい声出したら聞こえちゃ……」
「おまえ、だって……っく、閣下ってなんなんだよ、もー」
 そして二人で転げるように廊下を駆けていき、階段を降りて、玄関を通り過ぎ、外へ出る。その辺りでようやく口元を押さえる手を除けて、僕らは笑い出す。
「き、君ってほんとにカメレオン! 順平くんの言ってたとおり! 演劇部に入るべきだよ!」
「あは、はっ、に、似てただろ? 桐条先輩と、あとうちの一番上の兄弟があんなでさ、息継ぎしないで喋るんだ。もーすっげー偉そうなんだよ。江古田、あいつすごい押しに弱いんだよ。こないだなんて桐条先輩に突付かれて本気でビビっちゃってさ、もーアレいい気味だっての通り越して、可哀想だったよ。俺あんな大人になりたくないな」
「君はどう頑張ってもなれないよ、閣下だもん。すっごい格好良かったよ! ドキドキしちゃったぁ、なんか。君結局自分の仕事も先生に押し付けちゃうしさ」
「うん、面倒な仕事無くなって良かった。帰り暇?」
「もちろん!」
「じゃ、はがくれでラーメン食って、」
「ポートアイランドで恋愛映画!」
「それからカラオケ行って、」
「シャガールでクリームソーダだね! ゴー!」
 僕は望月のマフラーの裾を掴んで、望月は僕の手を握り、ほとんど走りながら校門を抜け、ふと立ち止まってこっそり軽い挨拶みたいなキスをして、ポートアイランド駅に向かって駆け出した。





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