(8)




 眩い、昼間みたいな光の次に、地鳴りと揺れがやってきて、今日のお昼はあの子の顔を見られて幸せだったなあってにんまりしながらベッドに入っていた僕は、まるで見えない手で振り回されるみたいにして、ベッドから落っこちた。
 そこへ狙ったかのように、僕の頭目掛けてポップアップ式のトースターと電子辞書とモバイルが降ってきた。……もしかすると、大事に扱ってたつもりだけど、いたらない僕を日頃から恨んでたのかもしれない。
 ガラスが床にぶつかって砕け散る音を聞いて、書棚のほうへ目をやると、僕が奥さんと子供と一緒に撮った、家族三人の記念写真が入ったガラス製の写真立てが、棚から落っこちて無残に粉々になっている。
「あー!!」
 僕は叫んで、慌ててガラス片のなかから大事な写真を引っ張り出して、顔を歪めて、がっくり肩を落とした。
「ああ……」
 間の悪いことに、飲み残したインスタントコーヒーが零れて、茶色い染みになっている。とても大事なものなのに、なんてことだ。
 それより一体何が起こったんだろうと思って、とりあえずテレビを点けようとした。――でも電源を入れても点かない。
 同じようにラジオもダメだ。部屋の明かりもダメで、携帯もダメ。時計も止まっている。
 これはただごとじゃあない。まるで実験で作り出される例の特殊な空間みたいだ。シャドウが生まれる過程の環境にそっくりだ。
 このマンションで一体なにがあったんだと訝って、慌てて部屋のカーテンを開けて外を見て、僕は唖然とした。海のほうが、一面火に包まれている。
 いつも窓から見えている研究所と学校がない。研究所が建っていたあたりには、ごうごうと燃え盛る火の海がある。
 そして学校があった場所には、奇妙な塔が建っていた。今にも空に届きそうな、高い高い塔が。
 僕は一瞬、きっとほんとの僕はベッドに入ったまま、悪い夢を見ているに違いないと思った。
 だってそうじゃなきゃ、これが現実ですと言われても、適応できない。信じたくない。今日の昼間、僕は確かにあの子に聞いたのだ。僕の大事な一人息子に、






『ん、僕ね、ここに住んでるの。アイちゃん、あんまり帰れないから、こっちに住んじゃったほうがいいって』





 ――栄時とアイちゃんは、あそこに住んでいるんだ。
 あの、今は燃え盛る炎の中に消えてしまっている研究所のそばに。
「た、大変だ……!」
 僕は真っ青になっていたと思う。息も忘れるような勢いで、慌てて脱ぎ散らかしてあった服を着込み、動かない携帯をお尻のポケットに突っ込んで、靴をつっかけながら部屋を出た。
 全身が強張っているせいで、何度も転びそうになりながら外に出ると、空があかあかと燃えていた。火が次々に建物に燃えうつり、広がっていく。
 ムーンライトブリッジのほうに異常なくらい大きな月が掛かっている。ともかく、何もかもがおかしい。まるで世界中が一瞬で凍り付いたようになっていて、あちこちに巨大な棺桶のようなものが立っている。
 後ろからまばらに同僚の社員が出てきて、「うわっ」とか「なんだこりゃ」とか大騒ぎだ。
「ちょ、わけわかんないんですけど! さっきまで一緒に呑んでた同期が、みんなイキナリ変な棺桶に変身しちゃって――
「おいあの棺桶、人間らしいぞー! みんな、叩くなよ! 壊すなよ!」
 もう何もかもがおかしくて、何に驚けばいいのかわかんない。ともかく僕は、お嫁さんと息子を探さなきゃならないのだ。
 研究所のほうへ向かって駆け出して、もう馴染んだ並木道に差し掛かったところで、僕は変なものを見た。
 変って言っちゃ失礼になるのかもしれないけど(まあこんな事態だから、まともなものがなにひとつないように思えてしまうのかもしれない)、ともかく、人だった。「うー」とか「あー」とか言いながら、火傷でも負ったのか、自分の身体をぎゅっと抱いてよたよた歩いている。
 どうやら、女性のようだった。僕は「もしもし、どうしました?」と話し掛けて、今辰巳記念病院は診療時間中だったろうかと、ちょっとまともに考え込んでしまった。
 普通ならそんなはずがないって分かりきっていたはずだ。今の所見た限りじゃほとんどの人間は棺桶になっちゃっていたから、外科だか内科だかのドクターも同じように使いものにならないだろう。
 でも僕は混乱しきっていて、途方に暮れていた。どうすればいいのか解らなかった。
 この人は研究所のほうから来たんだろうかと思い巡らして、青みがかった髪の綺麗な女性と、小学生くらいのミュージックプレイヤーとヘッドホンを下げた男の子を知りませんかと聞こうとして、僕はその女性に貌がないことに気がついた。
「……え」
 そもそも、女性かどうかも怪しかった。
 首から下は、僕が話し掛けた時はまじりっけなしに女性だったのだ。でもいつのまにか全身すごく黒ずんでいて、長い髪がタコの足みたいに動き、首だけが身体を棄てて飛び上がった。まるきり真っ黒なタコだ。
「あ、あの?」
 僕はあんまりのことに(ちょっと腰が引けながら)呆然としていた。なんだこれ。
 タコはいつのまにか冠を生やしていた。どう好意的に見ても友好的には見えない様子で、脚をふわっと広げて僕に突撃してきた。
「ちょ、待、」
 あれは人の心を食べる存在だって、データ上じゃ知っている。
 僕としてはこんなところで、なんでいるのかわからないシャドウに食べられている場合じゃない。一刻も早くお嫁さんと子供を見付けて、無事を確認しなきゃならない。
 とりあえず逃げなきゃと思い当たった頃には、網みたいに脚を広げたタコが、僕に向かって急降下してきているところだった。
 まずい、と思った次の瞬間、お腹の底に響く銃声が聞こえた。
「え?」
 タコが頭の真中を撃ち抜かれて、しおしおと萎れていく。血は出なかった。
 銃声のしたほうを振り向くと、小さな子供がいる。足元には零れた薬莢が落っこちていた。
 小さな両手で危なっかしく銃を構えている。喪服みたいな、余所行きみたいな黒いスーツを着ていて、顔のないのっぺらぼうの仮面を付けていた。
 顔が見えなくたって、声を聞かなくたって、僕にはすぐにその子が誰かってことが分かった。僕は泣きたくなるほどほっとして叫んだ。
「栄時! 無事だったんだね! 良かった、アイちゃんは、」
 また銃声。栄時が引鉄を引き、二度、三度と発砲する。その度に僕の背中の後ろで、僕を襲おうとしていたらしいタコの仲間たちが、萎れて地面に落っこち、消えていく。
 僕は唖然としていた。どこで銃なんか拾ったんだろう。それに、あの子はシューティング・ゲームがすごいへたくそで、こんなふうに離れた的に弾を綺麗に当てられるはずがないのに。
 弾が尽きると、栄時は素早く銃を腰のホルスターに仕舞い、今度はお腹のベルトから小さな拳銃を取り出した。





「サンプルコード01、桐条エルゴノミクス研究所長の許可を得て、人格変換兵器の使用を行います。ペルソナ召喚。『愚者』オルフェウスを顕在化、囁くティアラをターゲッティング。突撃」





 栄時が当たり前のように平然として、拳銃を自分の頭に押し当てた。
 「やめなさい」と僕は叫ぼうとした。「危ない」と。
 でも栄時は、躊躇なく引鉄を引いた。ガラスが砕けるような音、鎖が擦れ合うような音が聞こえ、そしてあの子の身体から、奇妙な姿の異形が現れる。竪琴を背負った、赤いマフラーの、あの子に良く似た怪物が。
 僕はそいつをこの上なく良く知っている。
 自分のなかに宿ったシャドウを飼い慣らし、兵器に変換する。心や人格と言ったものを武器に変える。
 そいつはペルソナという。僕がラボで開発している対シャドウ兵装に実装している、人格変換兵器だ。
 栄時が「オルフェウス」と呼んだペルソナは、いつのまにか僕らを取り囲んでいたタコたち――囁くティアラって名前らしい――を、一瞬で粉々にした。
「殲滅完了。お疲れ様でした」
 子供特有のたどたどしさを残した声が、抑揚なく、平坦に紡がれる。それは僕が良く知っている栄時の声とは大分違っていた。
 甘えや家族に守られてるって信頼や、恐怖や混乱や焦燥もない、なにもかもを削ぎ落とした機械の声だった。
「え、栄時?」
 僕は、恐る恐る栄時に呼び掛けた。なにがあったんだろう。これはまだ悪い夢の続きなんだろうか。まさか栄時が僕のことわからないとか、そんなことはないと、信じたい。
 栄時はのっぺらぼうの仮面を付けたまま、僕に振り向いた。顔が見えない。あの子がどんな顔をしているのかは、分からなかった。
――桐条エルゴノミクス研究所、人格変換兵器サンプルコード01『カオナシ』です。現在アルカナ『死神』シャドウ、『デス』を追跡中です。ただし研究所員の人命救助を優先するよう、命令を受けています」
「えい……じ?」
「それは、僕に付けられた名称ではありません。僕に名称はありませんが、便宜上『カオナシ』と呼ばれています。――素体となった人間の子供の人格は、ペルソナ生成時に破壊されています」
 僕の耳には、その聞き慣れた声がちゃんと届いていた。
 でも僕はたぶん、理解することを一瞬放棄したのだ。栄時がなにを言っているのかさっぱりわからない、理解したくないと。
 栄時は僕のそばへやってきて、僕の指を馴染んだ小さな手で握り、引っ張り、あの機械みたいな声で言う。





「それよりもここは危険です。事故の影響がこの付近にも及ぶおそれがあります。お守りします。僕についてきて下さい。――心配は無用です。僕は対シャドウ兵器です。必ずあなたをお守りします」





 ――きっと僕は、悪い夢を見ているんだ。






◇◆◇◆◇





 十一月二十三日、月曜日。今日は祝日で学校が休みだ。
「じゅんぺーくーん?」
 僕は巌戸台分寮の二階、友達の順平くんの部屋のドアを叩いていた。でも返事はなかった。
 僕は今日は彼と『勉強会』の約束をしていたのだ。僕は古典と歴史が苦手で、順平くんは……まあ全般的に苦手で、連休とその後の体験学習を見越して金曜日に大量に出された宿題をなんとか片付けよう、って名目だ。
 まあ、順平くんの隣の部屋に住んでいる栄時くんに助けを求めて、僕はあの子に会えて嬉しい、順平くんは宿題がラクに片付いて嬉しい、っていう一石二鳥の素敵な作戦なのだ。
 時間はぴったり午前十一時、腕時計も携帯もおんなじ。だから時計が狂っているわけじゃないと思う。
「じゅーんぺーくんってばー! 寝てんの? もう、約束の時間だよ! 起きてよ」
 ドンドンドアを叩いていると、順平くんは相変わらず顔を出してくれなかったけど、かわりに隣の部屋のドアが開いて、栄時くんがひょっこり顔を出してくれた。
「望月」
「あ、おはよ! ごめんね、もしかして寝てた? 起こしちゃったかな……」
「いや」
 栄時くんはちょっと心配そうに階段のほうを見て(そうだ、そう言えばここには僕にダメ出しするアイギスさんも住んでるんだ)、「順平、風邪ひいたみたいでさ。寝てるんだ。起こしてやるな」とそっけなく言ってから、僕の手を掴んで部屋に引っ張り込んだ。
 その手は、低体温だねって女の子たちに驚かれる僕がびっくりするくらい冷たかった。
 栄時くんは無言で扉を閉めて、「悪い、落ち付かないよな、ここ」と僕に申し訳なさそうに言った。僕は首を振る。前に眠っている彼を部屋に運び込んだ時にも思ったけど、やっぱりすごく懐かしい感じのする部屋だ。まるで空き家みたいにがらんとしているのに、ひどく安心する。不思議な感じだった。
「あ……いや、順平くん、大丈夫かな。金曜日はすごく元気だったのに、最近冷えてきたからねえ」
「嘘だよ」
「え?」
「風邪じゃない。ちょっと、いろいろあって、あいつ大分凹んでるんだ。昨日の夜もたぶん寝てない。朝方にどっか出掛けてった。まだ帰ってこない」
「え、なにかあったのかい?」
「……まあ、あったと思う。別に俺が話すようなことじゃないけど」
 栄時くんは淡々と言う。でも顔が真っ青で、目が虚ろで、声が平坦だ。手も冷たいし、僕の目を見てくれない。
 僕は彼の肩を抱いて、顔を覗き込んだ。
「君は? 大丈夫? 顔色が悪いけど……」
「ああ。俺は大丈夫だよ。……ただ、」
 栄時くんは口篭もって、言うべきかちょっと迷ったようだった。僕の顔を見上げて、眉根を寄せた。
 今までそんなふうな弱々しい彼を見たことがなかったものだから、ちょっとびっくりした。彼はひどい目に遭った時だって、悔しいと怒ることこそするけど、こんなふうに「どうすれば良いのかわからない」って顔はしなかった。
 僕は「うん」と頷いて、なるだけ安心させてあげられるように穏やかな顔で、彼の背中を抱いてあげた。そうすると、強張っていた栄時くんの身体からふっと力が抜けていく。
 ああこの子今まですごい不安だったんだと僕は知る。一人で怖いのを我慢してたんだと。なんでもっと早く来てあげられなかったんだろって、僕は自分が恨めしくなった。
 栄時くんが、ぽつぽつ話しはじめる。
「うちの姉さん死んだって」
「え」
 いきなりで、びっくりした。
 栄時くんはあまり自分のことを語らない人だって、みんな言う。順平くんも、ゆかりさんもだ。アイギスさんとは喋ってるのかもしれないけど、悲しいことに僕と彼女の間にはまともな会話と言えるようなものが成立しないので、知ることができない。
 家族の話をする時の栄時くんは、微妙に『ふつう』になる。月光館学園のカリスマ、王子様、天才の優等生、そんな肩書きからすごく遠い、普通の顔になる。
 亡くなったお父さんとお母さんの話をする時は、すごく大切な宝物を「内緒だぞ」って、得意げな顔でこっそり見せるような、幼い子供みたいな顔をする。
 怖い叔父さんや、キてる(ひどい言い様だ)兄弟の話をする時は、「ほんとしょうがない」ってふうな顔をする。
 そのお姉さんが亡くなったらしい。
 僕は何と言って良いかわからない。生徒会長さんのお父さんや、この学校の理事長さんも、つい最近死んだって言う。
 僕は関わりない人の死について、うまく理解する事が出来ないのだ。そのことで、知ってる人が悲しんでいるのは、僕も悲しいとは思うけど。
 多分僕は、死ぬっていうことについて、みんなと同じように感じることができないんだと思う。すぐそこにあるもので、誰にだって訪れる。終わる。お別れだ。生き物として生まれた以上、最期が訪れることは決まりなんだから、しょうがないんじゃないかなって思う。
 でもそういうことを言うと、冷たいやつだって言われそうなので、僕は黙っておくことにしている。好きな子や、可愛い女の子たちに眉を顰められるのはごめんなので。
 栄時くんはぼそぼそと、僕にたまに話を聞かせてくれていた兄弟の訃報について語ってくれた。
「昨日の晩、好きな人守って死んだって。幸せそうだったって。病気でな、余命あと二年って言われてたんだ。だから今更のことなのに」
「……悲しいんだね」
 ひどくしょげていて、憔悴しているから、きっとこの子の心は愛する家族をまた失ってしまった悲しみでいっぱいなんだろうなって思って、僕は途方に暮れた。
 なんでこの子ばっかりこんな目に遭うんだろう。近しいひとを亡くしてばかりなんだろう。
 でも、言っちゃ悪いけど、この子の家族もひどいと思う。どうしてこの子を置いて死んでしまったんだろう。ご両親なんて、まだ七歳の子供だったこの子を置いて逝ってしまったのだ。
 僕ならきっとそんなことはしない。絶対に死なない。死にそうになっても、何が何でも、石にかじりついてでもこの子の元へ帰ってくる。ずっとそばにいてあげる。
 僕は死なないことにかけては、ちょっと自信があるのだ。
 そう考えてたら栄時くんは「いや……」と困ったふうに首を振った。
「人が死ぬってことについて、悲しんだことはないんだ。良くあることだし、しょうがないんじゃないかって思う。それに多分、姉さんにも他の兄弟にも、ふざけんなってぶん殴られると思うんだ。お前なんかに悲しむ資格なんかないって――お前には、心なんかないだろって。僕が悲しむなんて気持ち悪いって」
 彼はちょっと笑って、「仲、悪かったんだ」と言った。
「結局一回も病院に見舞いに行けなかったんだ。忙しいとか面倒だとか言い訳して、僕、なにやってんだろ。もしかしたら、なんか変わってたかもしれないのに。最後に会ったのも随分昔で、もう顔も思い出せないんだ」
 栄時くんが僕の背中に手を回す。僕を抱き返してくれる。おずおずと、自信がなさそうな、怖々与えられた餌に近寄っていく野良猫みたいな仕草だった。僕は、こんな時に申し訳ない話なんだけど、それに大分ドキドキしてしまった。
 僕の胸に額をくっつけて、彼はすごく小さな、消え入りそうな声で言う。
「怖いのは、それじゃないんだ。顔も覚えてない義理の兄弟が死んだことじゃない。僕今まで、死ぬって、ただ明日の朝目が覚めないことだって思ってたんだ。でも違うんだって。好きなやつに会えなくなるってことなんだって。だから、ちょっと考えてみたんだ。もし明日目が覚めなくて、望月に会えなかったら、僕はどうするんだろうって。……でもなんか、上手く悲しんだり、そういうの、できなくて。……僕たぶん、冷血な姉さんよりずっと駄目なやつなんだ。人でなし、なのかも」
 僕は、どうすればいいんだろう。栄時くんの「好きなやつ」の名前に僕が挙がったことを喜ぶべきなのか、「もう会えなくても悲しくない」と言われてしょんぼりするべきなのか、わからない。「そんなことないよ」とか、ありきたりなことしか言えない。
 栄時くんはすごく申し訳なさそうに、「困らせてごめんな」と言った。
「いつもお前に迷惑掛けてばっかだよな。ほんと悪い」
「迷惑なんかじゃないよ」
「悪い……僕さ、僕が死んでも望月が生きててくれたらいいやって、思ったんだ。できれば僕のこと覚えててくれたらなって。あんまり悲しんだりとかはいらないけど、いや悲しむなよって思うけど……泣いて欲しくないし。僕ちゃんとお前と喋って、ここにいたんだって、忘れないでくれたらいいな」
 それを聞いた途端、僕のなかにはじめて生まれる感覚があった。
 僕は、想像してしまったのだ。僕の腕の中でひどくしょげているこの子が、明日いなくなっている。
 学校に来なくて、前から二列目、まんなかの席は空いたままで、僕は「どうしたんだろ、風邪かな」って心配になる。朝礼が始まる。担任の鳥海先生が教室へやってきて、出席簿を教卓へ置き、良く通る声でこう宣言する。『えー、残念なお知らせがあります。みんなのお友達の黒田栄時くんが、昨晩事故で亡くなりました』――僕の時間は、きっとそこで、止まる。
 衝動的に僕は栄時くんを壁に強く押し付けていた。
 顔から血の気が引いているのが分かる。
 人が死ぬって、ああそういうことなんだと、僕は初めて知る。「大変だね」や「かわいそう」や「なんで死んじゃったの、ひどい話だ」なんてもんじゃない。
 僕の世界が、存続するか滅びるか、そのくらい重大で深淵なことなのだ。僕はこの子のいない世界なんていらない。そんなもの嘘ものだ。何もかもが灰色がかっていて、もう息をすることもできない。
 僕が絞り出した声は、たぶんすごく怒ってるみたいな感じだったと思う。勝手なこと言わないでよ、ってふうに。
「……いやだよ! 君がそんなの、僕、いやだよ!」
「望月?」
「君はひどいよ。それ、逆にして考えてみてよ。もし僕が明日の朝目が覚めなかったらって」
「……え」
「君が朝目を覚ましたら、この世界から僕がいなくなってしまったら、どうだろう。君は悲しんでくれるかな」
 その途端、栄時くんの顔が変わる。今までぼんやりしていた目の焦点が、きゅっと引き締まって、僕を見る。
 そして震えだす。唇がわなないて、でも声は聞こえない。
 目が揺れて、すごく怖い夢を見て飛び起きた子供みたいな顔つきになる。――たまに彼はこういう顔をする。ほんの幼い小さな子供みたいな顔を。
 栄時くんが急に腕を伸ばしてきた。僕は、すごく強く抱き締められて、ちょっとびっくりした。
 こんなふうに強く求められたのは、はじめてだと思う。それも大好きな子にだ。
 僕は多分嬉しいんだろうけど、今はなんだか、不安のほうが強かった。喜んでる場合じゃなかった。
「……いやだ、もちづき、いなくなったらいやだ……」
――うん。ごめんね。例えばだよ。いなくならないよ。ここにいるからね」
 栄時くんの声は、震えていた。もしかすると、ちょっと泣いているのかもしれない。
 変なことを言ってすごく申し訳ない気分になったけど、僕だってすごく怖かった。彼が消えてしまうって考えただけで、目の前が真っ暗になる。
――ねえ、僕は君がいなくなっちゃったら、すごく悲しいよ」
 僕は腕の中の栄時くんに、かなうかぎり優しい声を掛ける。そっと肩を抱き、背中を撫でてあげる。
「死んじゃうなんて絶対考えたくない。明日君が目を覚まさなかったら、きっとそこで僕の世界は終るんだ。全部が凍り付いて、ばらばらのこなごなになってしまうんだろうと思う」
「……大げさだよ。僕ひとりくらい、いなくなったって」
――ね、僕大事にするからね、君のこと。だから僕を置いてかないでよ。ほんと、頼むよ。君に置いてかれたらって、考えたら、僕」
 彼がいない世界を思い巡らすだけで、胸が張り裂けそうなほどの、ひどい悲しみが僕に訪れた。僕はこの先なにがあったってこの子を守る心づもりだし、絶対にひとりにしやしないから、どうかこの子が僕の前から消えてしまいませんようにと僕は、ほとんど祈るみたいに真剣に願う。
 栄時くんが僕の頬を撫でて、困惑した顔で「な、泣くなよ」って言っている。どうやら僕は泣いていたらしい。気付かなかった。
「……ん。僕、なんでお前がそんなふうに言ってくれるのかわかんないけど、――気を付けるよ」
 彼が頷いてくれる。それで僕はほっとしてしまった。





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