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罅(9) 機械が動かない、電話も通じない、メールの遣り取りもできないこの世界の中で、栄時は平然と遠く離れた誰かと話をしている。 「報告、攻撃特化型から索敵補助型にパラダイムシフトします。調査中――完了。シャドウとのエンカウント率が極めて低いルートを割出しました。移動を行います」 あの子の頭の上には、硬質の百合の花びらを逆さまにしたようなかたちの身体を持った、まっ白い鈴付き頭の怪物がいる。時折ぐるんと頭を一回転させ、その度に鈴の透明な音色が鳴る。そいつは栄時の肩におんぶおばけみたいに張り付いている。 さっきの『オルフェウス』とはまた別物だ。僕が知る限りでは、ひとつの精神と肉体につき、ペルソナは一体限りって決まっている。以前一つの身体に二つの心を搭載した、精神切替式の箇体が実験的に製作されたこともあったけど、だめだった。起動後間もなく使いものにならなくなった。 自由自在にペルソナを付替えることができる対シャドウ兵装の開発は、夢物語ってことで片付けられたのだ。レッドもイエローもブラックもブルーも、紅一点のピンクもひとりでまかなえてしまう最高のヒーローを作り出そうって企画案は、今は関連書類に中断の判子を押されて、他の多くの没企画書と一緒に眠っている。――まあそれ出したのは僕なんだけど。タイトルは『僕の考えた一番強いヒーロー』だったと思う。上司には『欲張り過ぎ』だとか『器用貧乏』だとか酷評されてしまった。 ともかく、一人でふたつ以上のペルソナなんて、持てた例はない。無数の心を持っている多重人格者か、あるいは正反対に、不定形で様々な人格に自在に変化できる、基本の心が無い者なら、理論上では可能だ。でも実際に動かしてみると、前者は負荷が大きくメモリを食い過ぎて使いものにならないし、後者はそもそも起動しない。 僕は、僕の手を引いて用心深く歩きだした栄時(あの子だ、絶対に)をじっと観察する。逆さまに咲いた花みたいなペルソナが僕らを包んでいる。そうしていると不思議なことに、街なかで時折すれ違うシャドウたち(街なかに普通にシャドウが歩きまわってるって、どんな悪夢なんだこれは)は、僕らに気付かずにすうっと通り過ぎていく。どうやら、僕らを空気みたいなものだと認識しているらしい。 「追加報告。現在『デス』と思われる大型シャドウの反応が、ポロニアンモール付近を移動中。鎮圧にあたった対シャドウ兵装の反応がひとつロストしました。破壊された模様」 僕は栄時の、見えない誰かへの報告を耳に入れて、はっとする。対シャドウ兵装って、僕ら技研が造ってる、ペルソナを搭載した人型戦車のことじゃないのか。 誰が起動させたんだろう。夜勤の誰かだろうか。まだ人格の調整が未完成な箇体もあるんだけど、まあそんなこと言ってられる事態じゃないだろうな。 研究所は爆発して消し飛んだと思ってたけど、まだあそこは生きてるんだろうか。 それにしてもひどいことになったもんだ。僕のかわいいお嫁さんのかたちをした人形が、破壊されてばらばらになっている光景を想って、僕は溜息を吐いた。あんまりすぎる。 彼女たちは、並のシャドウならいくら群れて襲ってきたって、あの自慢の装甲版には傷一つつかないだろうって自信作なのだ。まさか壊れるはずなんてないと思ってたのに、一体今どんな凶悪なシャドウが暴れまわってるっていうんだろう。 栄時はまた、見えない誰かに向かって頷いた。 「了解。救助した社員を安全な場所へ誘導後、そちらへ向かいます。01「カオナシ」が合流するまでの統率は、02「アリス」に任せます」 僕は栄時に手を引かれて(いつもの逆だ)、ポートアイランド駅前にやってきた。棺桶が立ち並び、階段上の改札の前には何人かの人間が集まっていた。見覚えのある顔もいるし、まったく知らない顔もある。ほとんどが背広姿だったり、白衣姿だったりした。桐条の社員だろうと思う。 真っ黒の、まるで映画に出て来る工作員や特殊部隊そのままの格好の、武装した人間が、集まったひとたちを囲うように立っていた。どうやら一般人をシャドウから守っているみたいなんだけど、どう見ても警官には見えない。と、思ってたら彼らの胸には桐条の社員証がくっついていた。 相変わらずうちの会社は得体が知れない。まあ戦うロボットを造ってるような会社だから、兵隊を抱えてたくらいで今更驚きはしない。僕の常識はどんどん麻痺していく。 僕と栄時の姿を認めると、彼らは礼儀正しく敬礼した。栄時も当たり前みたいにして、それに返す。 良く見ると武装しているのは大人だけじゃなくて、栄時とおんなじくらいの子供もいる。小さい子はみんなのっぺらぼうの仮面を付けていた。 「……それ、流行ってるの?」 こっそり栄時に訊いてみたけど、答えてくれない。 お揃いの仮面なんか被って、前も見えないだろうに、みんな妙に平然としている。このくらいの歳の子なら、こんな事態だから泣き喚いてたっておかしくないのに、ロボットみたいに冷静だ。 僕は、ふと思い付いて手を挙げた。 「……あ、あのー、トイレに行きたいんですけど?」 栄時の手をぎゅっと掴んで、「ひとりじゃ怖いから君も来てね」と引っ張って連れていく。兵隊さんたちはあからさまに『しょーがねーな』って顔をしていたけど、別段怪しまれるようなこともなかった。 僕は階段を降りて、トイレの横を通り過ぎ、横道に逸れて、人気のない路地裏に入り込んだ。そして怪訝そうにしている栄時の前にしゃがみこんで、彼の服の襟元、ネクタイ、ポケットを念入りにチェックした。 思った通りだった。ネクタイピンから細い黒のコードが、上着の内ポケットへ続いている。中を探ると、小指ほどの大きさの薄いレコーダーが入っていた。機械類が止まってしまっている時間のなかでも、平然と『REC』の表示が赤く点灯している。 僕はすぐにレコーダーの停止ボタンを押して、その小さな板切れをアスファルトの地面に叩き付けて、靴の底で踏み躙って粉々にした。 そして、身体を強張らせている栄時の頭を撫でて、「大丈夫」と笑い掛けてあげた。 「――もういいよ。誰も聞いてないから」 僕はまだ強張りのとけない栄時の手を取って、優しく撫でてあげた。指の一本一本に大事に触り、ゆっくり解していく。 「レコーダーで録られてたから、君はなんにも言えなかったんだ。わかってる。栄時、もういいんだ。大丈夫だよ」 栄時は動かない。僕は「さ、そんなお面、もう取りなさい」とその子を諭して、のっぺらぼうの変な仮面に手を伸ばした。栄時はされるがままで、抗わなかった。 はたして、無機質な仮面の下には、僕が良く知っている顔があった。 顔色は紙のように真っ白だった。眉はぐっと歪み、目は恐怖に潤んでいて、唇は強い感情を我慢するようにきゅっと引き結ばれている。 泣き出す直前の幼い子供の顔がそこにあって、それで大分僕はほっとしてしまった。 よかった。もういつもの栄時だ。 ひゅっと息を呑む小さな音が聞こえて、小さな身体が飛び付いてくる。僕のお腹に顔を埋めて、そして子供らしい大きな泣き声を上げる。 そう、これが『いつもの栄時』なのだ。僕に似て泣き虫で、気が弱くて、甘えん坊の小さな小さな男の子なのだ。 「りょうじ……おか、さん、アイちゃんが、アイちゃんが死んじゃったあぁあ!!」 栄時が泣きながら、「僕のせいだ」と叫んだ。僕はうまく現実と折り合いが付けられないまま、ただ栄時を抱き締めて、背中を撫でてあげる。 もしかしたらとは思ってた。きっと世界の終わりがきたんだと、僕は感じた。今にも膝が震え出しそうで、いやちょっとガクガクきてるけど、僕は今となってはもう、ひとりで、なんとしてもこの小さな栄時を守らなきゃいけないのだ。シャドウや、こんな得体の知れない変なお面を僕の可愛い子供に勝手に被せたやつからだ。 「栄時、落ち付くんだ。僕がそばにいるよ。パパはここにいるからね。……喋れるのかい?」 「うっ、シャド、なちゃって、僕殺そうとして、ドクターに頭撃たれて、僕、僕綾時のかわりに、アイちゃ、絶対まもろって、おも、てたのに……!」 栄時は僕にしがみついて、「ごめんなさい」と何度も繰り返している。 この子が謝ることなんてなにもない。断じてない。僕は「君はなにも悪くない」と栄時をなだめて、「君が無事でよかった」と、しみじみ、心からそう言った。 ここで栄時までなくしてしまっていたら、僕はもうおしまいだ。へなへなへたりこんで、動けなくなったろう。 でも僕の子はまだ生きている。この子だけは、僕が守らなきゃならない。たとえシャドウや得体の知れない誰かに襲われたって、僕は栄時が大人になるまでは絶対に死なないともう決めているのだ。 「りょじ……僕が、まも、るから。アイちゃ……と、やくそく……」 栄時が声を詰まらせながら、たどたどしく言う。僕はちょっと苦笑して、「大丈夫、君は僕が守るよ」と言ってあげた。今日ばっかりは、『情けないパパ』の汚名を返上させていただきたい。大人は、特にお父さんやお母さんといったものは、子供を守るために存在するのだ。だから僕は、「パパは栄時のヒーローなんだからね」と言う。 「この異常は一体どういうことなんだ。君は何か知っているの?」 「えらいドクターが、実験の最中に勝手に機械を止めちゃったんだ。そんで爆発して、変な塔ができて、シャドウを身体の中に入れられた人はみんなシャドウになっちゃって――全部おかしくなっちゃったんだって。……棺桶になってない人間は、みんなシャドウに食べられちゃうみたい」 まるでそばで見てきたみたいに詳しい。栄時は僕の疑問に気付いたみたいだったけど、悲しそうに首を振って、答えてはくれなかった。 「あの……綾時、僕そろそろ行かなきゃ。駅前で待ってて。そこから絶対動かないでよ。絶対だよ。あそこなら安全なんだから。ほんとにほんとに、危ないことしないでよ」 「え……ちょ、待ってよ。どこへ行くの? こんなところで君一人置いてけるわけないでしょ。バカなこと言わないでよ」 「うん……でも僕兵器だから、みんな守らないと。おっきいシャドウほっといたら、街がめちゃめちゃにされちゃうもん」 栄時は顔を顰めるみたいな変な笑い方をして、「大丈夫、僕は強いんだ」と言っている。 この子はどうやら、僕の自慢の対シャドウ用戦車を破壊した、化け物みたいなシャドウ(そもそもシャドウ自体が化け物以外のなにものでもないんだけど)のところへ行くつもりらしい。 ありえない。馬鹿げた話だ。この子は兵器じゃないし、泣き虫でかよわい小さな子供だ。ペルソナを宿していたって(なんでこの子がペルソナを使えるのかってことは分からないままだけど、考えるのはあとだ)、人間が、まして子供が、戦車よりも強大なシャドウに勝てるわけがないのだ。 「死にに行くつもりかい」 「死ぬ……?」 「勝率は?」 「計測してない。しろって言われてないから」 「ここにいなさい。僕のそばにいなさい。君を危険なところへはやれない」 「でも、逃げるわけにはいかないよ」 「――逃げるのは悪いことかい?」 「……戦うしかないんだ。命令なんだ。もしかしたら勝てて生きれるかもしれない。また綾時と日曜日に遊べるかも。でも逃げたら棄てられちゃうんだ。絶対だ。戦略的後退以外の逃走は即処分って決まってる。ダストシュートに放り込まれて、プレスされて、猿とかモルモットとかカエルとかと一緒に燃やされて、一緒に穴の中へ入れられちゃう。……みんな、そうなんだ。もしかして赦してもらえるかもは、ないんだ。役に立たない道具は、絶対に棄てられちゃうんだよ」 ――栄時は七歳だ。 身体が小さくて、同じ年頃の子供たちよりも背が低いことを気にしている。 甘えん坊で、泣き虫で、気が弱くて怖がりの、誰より愛しい僕の子供だ。 頭は良いけど運動神経はあんまり良くない。身体が弱くて、すぐ風邪を引く。バランスが良くないのか、良く転ぶ。猫背気味で、僕はいつも「背中まっすぐに」とか「ポケットに手を突っ込んで歩いちゃだめ」と注意している。 普通の人間の子供だ。楽しい未来が先にあって、それは絶対のことなのだ。栄時は世界中で誰より幸せになる権利を持っている。 なのに、なんでこの子が、こんなに幼いのに、悪いことなんてなにひとつしてやしないのに、当たり前みたいな顔をして恐ろしいことを口にするんだ。誰がそう仕向けたんだ。 たぶん生まれてはじめてってくらい強い怒りが湧いてきて、僕は強く栄時の腕を掴んだ。この子は僕の子だ。僕がいないところで、何を好き勝手苛めてくれてるんだ。絶対に許せない。 「――綾時?」 「行きたいっていうのが君の意思なら、僕は止めやしないよ。僕はなんでも君の決定を尊重したい。でもどうしても行きたいって言うなら、僕の腕を切り取ってから行きなさい。僕は絶対に離さない。君は、誰にも渡さないよ」 僕は、栄時の腕を掴んだまま歩き出す。栄時はひどく困惑した顔つきをしながら、それでも僕の手を振り払うことはせずに、ついてくる。 「りょ、綾時、どこ行くの?」 「この街を出る。誰も君を怖がらせないところに連れていくよ」 「だ、駄目だよ。その、そんなことしたら、綾時までひどいことされちゃうかもしんないよ」 僕は振り返って、誰より大事な、まだまだ幼い子供に笑い掛けた。 「――大丈夫だよ、僕のちびくん。心配しないで。これから何があっても、僕が君を守るよ」 ◇◆◇◆◇ 偶然、アイギスさんと栄時くんの会話が耳に入ってきた。どうやら僕のことを話題にしているらしい。 好きな子が僕を、僕が知らないところでどう思ってるのかなってのは、本当にすごく気になってしまう。僕はなんでもないふりをして女の子たちと会話しながら、注意深く耳を澄ませて、彼らの声を聞き取ろうとしていた。 「眩しい、やつ」 「? デコがでありますか?」 「…………」 ◇◆◇◆◇ 「お、おはよ」 通学路で朝一番に声を掛けると、栄時くんは一瞬きょとんとして、「え」と言った。 「おはよって……望月?」 「うん?」 「誰かと思った。どうしたんだ、それ」 栄時くんが僕の頭を指差して、「それ」と言う。今朝は整髪料で髪を整えないままだ。いつもは上げている前髪が額に掛かっていて、――これで眩しくないはずだ、たぶん。 僕が「いつも眩しかったね、ごめんね」と怖々言うと、栄時くんはなんでかものすごく呆れた顔つきになって、「お前、バカだろ」と言った。 ――眩しいの上にバカが付いてしまった。ショックだ。 彼は溜息を吐いて、「そういうんじゃない」と僕の額に手を伸ばし、前髪を上げて、「なんでそうなるんだよ」と言った。 「お前の頭はどういう面白い構造になってるんだ」 「だ、だって、眩しいって」 「例えだって。なんか、眩しいひかりとか、急に見たみたいな感じ。ずっと暗い部屋にいて、外に出て、日のひかりを見た感じになる。――お前は一生懸命で綺麗だから」 栄時くんはちょっと笑って、恥ずかしそうに顔を赤くした。朝一番から彼のこんな可愛い顔を見れるなんて、今日は素晴らしい日だ。 「俺と全然違うから、そういうとこ、好きだって、言おうと……」 「……え、す、好きって、」 「あ。いや、普通にだ。変な意味じゃない」 慌てて弁解してるんだけど、顔が真っ赤だ。この子は絶対僕のことが好きになってくれてると思うんだけど、彼は恋愛初心者なのだ。僕にも自分の気持ちにも鈍くって、どうやらまだまだ先は長いらしい。 でもこういうふうに相手をすごくすごく大事に思えるって、優しく守ろうって、ちゃんとこの子の心が育つまで待とうって思えるのって、すごく新鮮だ。素敵だと思う。毎日がきらきらして見える。 僕はこっそり栄時くんの手を握ろうとして、「バカ」と慌てて引っ込められた。通学路だから、誰かに見られるかもって心配らしい。 学園に到着、玄関で上履きに履き替えて二階に上って、僕らは唖然とした。まるっきり人気がなかった。 「……え?」 「あ、あれ? 今日お休みだっけ、二年。朝礼……いや、まさか遠足?」 廊下はしんとしていた。僕らの教室、二年F組もがらんとしている。クラスメイトは誰一人いなくて、黒板には鳥海先生の字で、『本日体験学習』と書かれていた。 『あっ』 僕と栄時くんの声が揃った。やってしまった。 そう言えばそんなことをみんな言ってたような気がする。僕は栄時くんのことで頭がいっぱいで、何か言われても「はいはい」と流していたような気がする。 僕はそおっと栄時くんを見る。学園のカリスマで、天才で、漢らしい彼が、溜息を吐いて「やってしまった……」と言っている。 「この僕が……望月と同レベルのミスを……」 「あ、あはは、ご愁傷様……」 僕は苦笑いした。そつのない子だと思ってたけど、栄時くんは結構おまぬけさんだ。そういうところも可愛いなあ、って僕はメロメロになっちゃってるわけなんだけど。 「どうしようか」 「今から行くのも気が乗らないな。力仕事でルーチンワーク、お前はどうだ」 「僕力仕事はちょっと。君んとこそういやなんだっけ」 「時価ネットで倉庫内整理」 「僕道路工事」 「似合わないな」 「君もね」 「サボるか」 「あ、ダメなのに。どこ行く? 僕朝ご飯まだ食べてない」 「わかつで朝食セットでも食うか」 「あそこ朝もやってるんだあ」 「焼魚定食が美味い」 「魚かぁ……味は好きなんだけどね、骨が」 「骨なら取ってやる」 「じゃあ僕もそれ」 チャイムが鳴って廊下に人気が無くなった頃、僕らは来た道を引き返し、玄関で外靴に履き替えて外へ出た。いい天気だった。 わかつで朝ご飯を食べて、その後神社でデートした。この長鳴神社、実は穴場のデートスポットなんだって女の子たちに聞いたことがある。人気がなくて、静かで、落ち付いた雰囲気だ。 学業のご利益があるそうなんだけど、どうやらここの神様はいろんな願掛けをされているらしい。僕が聞いた限りでも恋愛成就や健康、その他たまに木の幹に藁人形が打ち付けてあったりもするらしい。……それはどうなのかなって思うけど、でも怖いことにそいつが効いちゃうらしいのだ。 僕の転入前に亡くなった月高三年生の先輩がいたそうなんだけど、その人の名前が書かれた藁人形が木に刺さってたことがあったそうだ。怖い話だなあ。 前に来た時も感じたんだけど、僕はすごくこの神社が懐かしいと思う。いや、神社だけじゃない。ふと入ったコンビニ、通る路、僕の越してきたばかりの家、巌戸台分寮の彼の部屋、そして何より僕が恋する黒田栄時くん、全部がまるで昔馴染みだったみたいに感じられる。 この街に来てからそんなふうに感じることばかりだ。でも僕はここへは初めて来たはずなんだけど、もしかすると子供のころに、似たつくりの街に住んでいたことがあったのかもしれない。 「こないだお前、僕がみんなの心を食べてるって言っただろ」 ふと思い出したって感じで、栄時くんが言った。でも、なんとなくだけど、それは「ふと」って感じじゃあなかった。今まで何度も切り出そうとしていて、でもなんだか言い出しにくくて今日までずるずる来てしまって、ようやっと口にしたってふうに、僕は感じた。 彼と出会ってそう経たない頃(今だってまだ一月も経っていないわけだけど)、僕は栄時くんにひどいことを言ってしまった覚えがある。あんまりみんなに想われているのに、誰もことも好きにならないって顔をしているこの子に、好きだって想う僕の気持ちも、みんなの気持ちも、ひっくるめて君は食べてしまってるんじゃあないか、なんて言ってしまったのだ。 そうじゃない。あの時の僕はなんにも知らないのに失礼過ぎる。 「あ……ごめんね、あれは、忘れてよ。君を傷つけようと思って言ったわけじゃないんだ」 「もし、そうならどうする」 「う、うん?」 「本当に僕がお前の心を食べちゃってて、それでお前が男の僕なんかを、その……好きだとか、思ってたら。きっと僕を恨むだろ」 どうやら栄時くんは、あの時の僕のうっかりをすごく気にしていたらしい。僕は自分が恨めしくなった。なんであんなこと言っちゃったんだろう。 大体そんなのはすごく些細なことなのだ。 もし、たとえばの話だけど、栄時くんが不思議な力を持っている魔法使いかなにかで、僕の心を食べてしまって、それで僕が彼に恋をしているとする。 もしそうなら、僕としてはむしろ感謝するべきことなのだ。 彼に恋をしてない僕は、こんなに一生懸命じゃなかったろう。なんでも中途半端で、今を適当に楽しんで生きてたと思う。可愛い女の子に囲まれて、たくさん友達を作って、まあ楽しくはやっていただろうけど、きっと漠然とした生き方をしていたに違いない。この十七年の、大した思い出のない僕の人生の延長だ。 でも今は違う。栄時くんのちょっとした仕草にいちいち見惚れて、朝顔を合わせて「おはよう」って挨拶を交わしただけで、まず僕はその日世界で一番幸せな人間になる。 手が触れ合ったり、隣に並んでいるだけですごくドキドキして、「笑ってくれないかな」「どうすればこの子は笑ってくれるだろう?」って一生懸命に考えを巡らす。 目論みが成功すると、僕は嬉しくて嬉しくて、たまらなくなる。 彼の隣で過ごす日々はきらきら輝いている。今までろくに記憶に残る出来事がなかった僕にも、やっと色褪せない思い出ができたのだ。 彼のことを考えている時、僕はなによりすごく幸せで、今まで十七年間生きてきてはじめて満たされたって感じるのだ。僕の居場所はここだ、やっと見付けたってふうに。 僕はきっと恋をしている。多分、こういうのが恋って言うんだと思う。 僕は今まで、たくさんの可愛い女の子たちのなかで、ふわふわした柔らかい時間を過ごすのがそうだと思ってた。恋は多ければ多いほど素敵だな、可愛い子とたくさんお話できて、僕は幸せだってふうに。 でもその楽しい時間は僕を焼かない。身体も心も、僕自身を作り上げているひとつひとつの大事なものが、熱を持って燃え上がるようなイメージはなかった。曖昧で、柔らかく、脆い。申し訳ない話だけど。 なにより、僕を光だと言ってくれたのは、彼が初めてだ。この子だけだ。 僕は彼のためなら何だって差し出すだろう。心も身体も、僕自身が持っているもの、持っていないもの、何もかも全部だ。すべてだ。僕は生まれてはじめて、すべてを掛けて全力で恋をしている。 だから僕は微笑んで、「いいんだ」と言った。 「……いいよ。僕は、君になら心を食べられたっていい」 栄時くんは眉を寄せて、『なにを言ってるんだろう』って顔つきになった。 彼の頬に触って、背中に腕を回し、大事に抱き締めて、僕は言う。 「今君、僕のこと好きだって思ってくれてるんだよね。僕はそれだけで、もう死んじゃっていいくらい幸せなんだ。それに君に食べられたなら、君のなかに入って、君と一緒に生きられるでしょ?」 「……望月、お前、なんでそんなこと言うんだよ」 栄時くんは、どうやら僕の言葉が気に入らなかったらしい。 「そういうのはいやだ」と言っている。これはまぎれもない僕の本心なんだけど、受け入れてはもらえないんだろうか。少し不安を感じていると、栄時くんは顔を歪めて、――泣きそうな表情になった。 なんだかいつもの彼らしくない。今の栄時くんは、ちょっと不安定な様子に見えた。 いや、今だけじゃない、ここ最近そうなのだ。危なっかしく綱渡りでもしているみたいな、ぐらぐら揺れる不安定な心を、僕は感じていた。 でも、無理もない。彼はお姉さんを亡くしているのだ。彼自身は「別に、あんまり関わりないし」とかそっけないことを言っているけど、きっと不安で怖くて泣きたくて、辛い想いをしているに違いない。 彼は不安そうに胸のあたりでブレザーの襟をぎゅっと掴む仕草をしている。僕は、栄時くんの髪を撫でて、耳に触れた。 そう言えば、ちょっと前から栄時くんはヘッドホンをしていない。胸のプレイヤーもない。順平くんから「あいつはアレがないとダメになる」と聞いたことがあるくらい大事にしているらしいのに、どうしたんだろう? 「だめかな……」 「そうじゃない、ちゃんと女子と付き合えよ。僕のことなんか、ほっとけよ。きっとそのうち、僕のことなんか忘れて、他の子追い掛けて、そうやって幸せだって言ってるよ」 「黒田くん、悪いけど、怒ってもいいかな」 僕は栄時くんの頬を両手で包んで、じっと目を見つめた。彼の目は波打つ水面のように揺れていた。 なんでこの子は、分かってくれないんだろう。この子自身の価値を認めようとはしないんだろう。 僕はこの子の言うことならなんでも受け入れる気持ちでいるけど、こうやって自分を傷つけるような物言いはあんまり好きじゃない。 栄時くんは子供みたいに顔を歪めて、「なんで」と言った。声は掠れていた。 「なんでそうやって甘やかすんだよ、ばか、お前といるとイヤだ。変になる。いやだ、もう、バカ……」 「……うん、ごめんね。そばにいたいって思ってごめん」 僕は「もうなんにも言わないでいいよ」って、栄時くんを抱いた格好で背中を撫でてあげた。彼の身体は震えていた。 僕には、彼がなにか途方もないものを、すごく怖がっているように思えた。どうしようもなくて、足掻いてもなにも変わらなくて、ただ圧倒的で、過ぎ去っていくだけのものを。 僕はどうしたら彼が安心してくれるのか分からない。でも守りたい。僕は、彼を怖がらせる全部から、きっと彼を守ってみせる。もうそれは僕のなかで決まりごとみたいになっている。 「怖がらないで。怯える必要はないよ。僕が、君を守る。絶対だ」 「望月、」 「僕は何でも君が望むものになるよ。君のためなら何にだってなれる。強くだってなれる。ごはんも上手く作れるようになるよ。古典も歴史も頑張る。君を守るナイトにも、ヒーローにだってなれるんだ」 一瞬、栄時くんの身体がびくっと引き攣った。 目が驚いたように見開かれた。それはいつもの輪郭がぼんやりした灰色の目じゃない。見たことがない種類の、意志のひかりのようなものが感じられた。 でもそれを、ほんとは僕はいつかどこかで見たような気がする。懐かしい感触がする。 でもひかりは一瞬で消えてしまう。すぐに目の焦点は失われる。 「……僕が怖いのは、――ことじゃ、ない……」 栄時くんの唇が、掠れた音を紡ぐ。空気みたいにひゅうひゅう言うだけの、口の中でだけ鳴る声だった。 僕が彼の声を聞き取れないなんて、これがはじめてのことだった。 「え……?」 「望月」 栄時くんが目を伏せて、僕の手を触り、大事そうに握ってくれた。 彼の眉は相変わらず顰められていた。すごく真面目な顔をして僕を見た。 「僕、自分でも自分のことわかんなくなる時があるし、どうしようもないくらい嫌なやつだけど、お前だけは、何があったって絶対守るから。――お前が、僕のこと忘れても守るからな」 ――なんでだろう、僕はその時、すごく嫌な感じがした。 大好きな栄時くんの声なのに、まるで冷たい針を胸のなかにぎゅっと押し込まれたような、鋭い痛みを感じたのだ。 栄時くんが僕のことを何があっても守るとか、僕が彼のことを忘れるとか、そして彼が自分自身へひどい言葉を掛けると、僕はすごく気持ちが悪くなる。なんだか大変なことをしでかしてしまったような気分になる。大事な宝物を、誤って谷の底に落っことしてしまうような気分になるのだ。 不安が訪れると、僕は彼に触れたくなる。なんだっていい、とにかくこの子に触っていたら僕はひどく安心できるのだ。僕の手のひらに栄時くんの肌が触れている、ここにいる、どこへもいかない、だから大丈夫だってふうに。 「キスしていい?」 「……ん」 栄時くんはすっと目を眇めて、頷いてくれた。僕らは唇を触れ合わせる。軽く触るだけの、挨拶みたいなキスだ。 「ごめんな、望月」 「どうして謝るの」 「お前たぶん、僕のせいで選び損なってるよ。ほんとは、ちゃんと可愛い女の子が隣にいるはずだったんだ、きっと。僕なんかで、ごめんな」 僕は首を振る。そんなことはない。選ぶとか選ばないとかじゃない、僕にはたぶん、この子しかいないんだ。 「君が隣にいてくれるなら、僕はもうなにもいらないんだ」 僕はまた栄時くんを強く抱く。華奢な首筋に顔を埋める。すると彼の身体が少し強張る。ああ、と僕は気付いて、「大丈夫だよ」と言う。 「……大丈夫、怖がらないで。なにもしないよ。無理しなくていいよ。ちゃんと君が赦してくれるまで、ずっと待ってるから」 彼は申し訳なさそうな顔で「ごめん」と頷き、それから「ずっと今と同じだよな」と、念を押すような調子で言った。僕も頷く。「きっとそうだよ」と言う。 永遠が欲しいと思う。僕と彼がふたりでいるこの一瞬だけが停滞して、終わりなんかなく、永遠に繰り返されたらいいのに。 |