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おかあさん(1) 大好きな人が、死んじゃうところを見る。夢だ。 正確には「見る」とかそんなふうな他人行儀なものじゃない。いや、でも最初のうちはそうだったと思う。他人行儀というか、僕は傍観者だった。車に轢かれたり、ひどい熱病でうなされていたり、うっかり階段から足を踏み外して強く身体を打ったりして、瀕死のあの子を僕は見ていた。 大声で名前を呼んで、駆け寄って、僕は「行かないで」と泣きながらすがりつくのだ。あの子はひどく悲しそうな目をして、「望月、ごめんな」と言う。そしてすうっと目を閉じる。その目はもう二度と開かれることはない。 いつからだったろうか、それが『微妙』に変化をはじめた。僕は穴を掘っている。墓地だ。見渡す限りそうだ。十字架の、上部分がないかたちの奇妙なお墓がたくさん並んでいる。 僕は一番新しいお墓に深い穴を掘り終わると、盛り上がって山になった土の上にシャベルを刺し、振り返って微笑む。「待たせちゃったね」と言う。 栄時くんは、可哀想に両手と両足を太い鎖で縛られている。お墓の横の石畳の上に転がされている。彼の顔はひどく青ざめていて、僕と目が遭うと首を振る。 「いやだ、望月、やめろ」と栄時くんが言う。僕は構い付けずに彼を穴のなかに突き落とし、もう一度シャベルを手に取って、今度は穴を埋める作業に移る。 栄時くんは半分土に埋まり掛けながら、「まだ死にたくない」と叫んでいる。僕は構わず土を掛ける。やがて彼の身体が見えなくなると、声も止む。 僕はそれからもしばらく作業を続け、平坦になった地面を慣らし、一息つく。最後の仕上げに、この墓地のなかで一番大きくて綺麗なお墓を立てる。 僕は毎日甲斐甲斐しくお墓を磨き上げて、「今日も君は綺麗だね」とか話し掛ける。 やがて土のなかからなにかの植物の種が芽吹く。薄い青色をした、みずみずしい、小さな芽だ。 僕はそいつに水をやり、大事に育てる。そこには害虫も強い風も雨もないから、植物は葉をかじられたり風に倒されることなく育っていく。やがて蕾が生まれ、花が咲く。 それは青い蝶々の姿をしている。何匹も何匹も、無数に集まっていて、それが花のかたちに見えるのだ。僕は嬉しくなって、手を伸ばす。触れようとした瞬間、沢山の蝶が一斉に飛び立ち、灰色の墓地を青く染めていく。 そして僕はいつも決まってそこで、小さな子供に手を差し伸べられる。変なのっぺらぼうの白い仮面を被った子供なんだけど、その子が僕の手を掴んで、「そんなところで遊んでちゃだめ」と、まるでお母さんみたいな言いかたで怒るのだ。 僕は「うんごめんね」と素直に謝る。その子は「僕から離れちゃだめだよ。怖い影に攫われちゃうよ」と言って、変な仮面を取り外す。 どんな顔をしてるんだろって、僕がその子の顔を覗き込んだところで、目が覚める。そういうのがここ何日か続いている。 僕は妙なことに、この街へやってきてからの記憶というか、思い出というか、そういうものがすごく強いのだ。例えば毎晩見た夢を隅から隅まで覚えている。好きな子の言葉を、ほんの囁きや独り言めいたものまで、ひとつ残らず覚えている。 だから最近どうも変だなって思うのだ。一週間前から同じ夢ばかりだ。毎日それぞれちょっとずつ違うところはあるけど、それにしたって妙なことなのだ。僕の夢に出てくるあの小さな子供の身体が、ちょっとずつ削れていく。最初は指がなかった。次の日は足がない。まるでなにか大きな生き物に食べられちゃったってふうに。 今日の夢に、あの子は出てこなかった。ただ「逃げて!」ってすごい必死な声だけだ。僕はそれですごく怖くなってしまって、一生懸命走って逃げた。 今日も目が覚めて、朝が来てるってことに、すごくほっとした。最近僕はどうも疲れてるようだ。 可愛い女の子たちがいっぱいの学校で過ごして、友達もいて、大事な恋人もできて(「恋人みたいだよね」って言っても否定されなかったもの)、毎日すごく楽しくて、幸せってこういうことを言うんだと思う。 でもなんだか、具合の悪い違和感がある。僕はなにやってんだ、ってふうな。何かすごく大事な、やらなきゃならないことがあったはずなのだ。でもなんだっけと考え込んでも、なんにも出てきやしない。 僕は、随分ひどくやられてるんだと思う。大好きな人をこの手で殺してしまう夢を毎晩見るってことは、想像以上に堪えるものなのだ。 もちろん、昨日の夜夢の中で君を殺しました。その前の晩も、その前も、なんてあの子に言えるわけがない。誰にも言えない。 そして一番気持ち悪いのが、夢の中の僕があの子の息を止める時、すごく興奮しているってことだった。朝起きた時にパンツがぐっしょり、なんてのも一度や二度じゃない。なんで僕栄時くんを殺しちゃうような恐ろしいを見て欲情してるんだ。 しかも、最近は夢じゃ済まない。学校であのリボンタイに飾られた細い首筋に、気を抜くと手を伸ばしちゃいそうになる。そのまま強く掴んで引き絞りそうになる。 冗談じゃない。そんなことをしたら、怒られたり、嫌われてしまうどころじゃすまない。現実の彼は、夢のなかとは違うのだ。一度死んだらもう帰ってこない。いなくなる。 大好きな人がいなくなったらって、そんなの考えるだけで怖いのに、僕は彼がいなきゃもう生きてはいけないだろうに、なんでこんなにぞくぞくするんだろう。 あの子が息しなくなったらって考えると、前まで僕は想像しただけで泣いちゃいそうだったのに、すごく怖かったのに、なんで今の僕はこんなに静かな心地でほっとしてるんだろう。 「そしたらやっとほんとに僕のものになってくれるんだ」って考えてるんだろう。 変だ。怖い。すごくいやだ。 会いたく、ない。 大好きな人に会いたくないから学校を休むっていうのも、変な話だと思う。 でも僕はひどく煮詰まっていた。次あの子に会ったら、きっとあの細い首筋に手を掛けて力を入れるんだって、そんなことばっかり考えているのがすごく怖かったのだ。取り返しのつかないことになる。 最近の僕は本当におかしくて、自分でも何をするかわからないところがある。ふと気がついたら知らない場所にいたり、学校にいたはずがいつのまにか家に帰ってきてたりする。 得体の知れないことばっかりで、僕は参ってしまっていた。怖くて僕に優しくしてくれるあの子に泣き付いて「助けて」って叫びたいけど、それはできない。一人で我慢するしかない。今の僕の姿を、あの子に見せたくない。幻滅どころじゃない。うっかり衝動的に乱暴しちゃったりなんかしたら、きっとまた口もきいてくれなくなる。今度は許してはくれないだろう。 あの子に会いたくないから、僕は家のなかに閉じ篭ってたってのに、 「――望月? 大丈夫か」 栄時くんが、今一番会いたくないひとが、僕の目の前にいる。 ◇◆◇◆◇ カーペットの上に放り出された栄時くんの鞄の中から、震動音が聞こえる。「携帯」と僕はぼそぼそ言う。栄時くんは「うん」と頷く。でも出ようとする気配はなかった。 しばらく鳴り続けて、携帯は黙った。栄時くんは友人の多い人だったから、きっとしょっちゅうこうやって電話が掛かってきてるんだろうなと、僕は思った。同じ寮生、クラスメイト、上級生下級生、そのほかたくさん。 僕はこの子がそうやって沢山の人間と繋がっていることを喜ばなきゃならないんだろう。 半分ではちゃんとそう思うのだ。きっと僕が今急にふっと消えてなくなったって、誰かがこの子のそばにいてくれるだろうって安心感がある。 たとえば彼とすごく仲が良いアイギスさん。なんだかんだ言って面倒見が良い順平くん。彼らがいてくれるなら、僕はすごく安心する。 でも僕はほっとするのと同じくらいに複雑な気持ちになる。この子に触らないで、この子は僕の特別だと考えてしまう。僕だけのものになって、これからずっとずうっと一緒にいるんだ。この子は僕と一緒に行くんだ、永遠にだ――僕はそうやって彼を一人占めしたくてたまらない。 僕のかわいい、大好きな人。誰よりも美しい、愛すべき僕の――僕の、なんだろう。言葉が思い付かない。 ともかくすごく大事なものだってのは、はっきりしているのだ。僕はこの子を大事に大事にして、笑ってくれたり手を繋いだりキスしたり、そうやってひとつひとつ僕に赦してくれることをゆっくり慈しんで、ふたりで歩いていくんだと決めていた。 僕は今度こそ『親の都合』とか『もう決まっちゃったこと』とかにハイハイと頷くしかない言いなりの子供を卒業して、この海の見える街で大好きな人たちと暮らすのだ。僕はもう子供じゃない。自分のことは自分で決められるし(僕の他の月光館の生徒たち、クラスメイト、友達、そんなみんなと同じように!)、僕にはまぎれもない意志があるのだ。僕はこの人と、黒田栄時くんとずっとずうっと一緒にいたい。今年も来年も、進級して卒業して、それから先もずっとだ。 「僕、君が好きだ」 僕は栄時くんを抱いて、訴える。少しきつく抱き過ぎているって自覚はあって、きっと痛いだろうと思うんだけど、僕は止まれなかった。ちょっとでもこの子を離すと、大変なことになるって気がしていた。 でもほんとのところは、僕は毎晩怖い夢を見て随分参ってしまっていて、神経がたかぶって、トゲトゲしちゃっているんだろう。自分でもおかしいなって思う。十七になる男が、夢見が悪かったからって、枕を持って泣きながらママの部屋に駆け込む子供みたいになっちゃってるなんて。 僕はそんな自分がどうしようもなくていやになる。僕はできれば格好良いところばかりを栄時くんに見せてあげたい。優しくして、紳士に振舞って、さすが望月だな、なんて言われるような男でいたいのだ。でも現実はそうじゃなくて、僕は彼に呆れた顔で『まったく、しょうがないな望月は』なんて言われちゃうくらいだめな奴なのだ。 僕は、栄時くんに呆れられてしまうことが怖い。完璧に綺麗な彼に呆れて嫌われてしまうことが。 だから僕は今の僕の姿を栄時くんに見せてるってことが、恥ずかしくて嫌でたまらない。こんな情けなくて、不安定で、混乱していて何を仕出かすかわからない状態の時に、この人の顔は見たく無かった。 今なんて、状況だけでも最悪だ。僕は僕を心配してお見舞いに来てくれた栄時くんをベッドの中に引っ張り込んで押し倒している。 説明しなきゃと僕は思った。ともかく、僕も自分自身のことが良くわかんなくなっちゃってて、混乱しきっていること。栄時くんの顔を見たらいろんな感情がいっぺんに押し寄せてきて、頭のなかがぐちゃぐちゃになっちゃったってこと。 そして何より今の僕が僕自身の心を上手く取り扱うことができなくて、このまま僕のそばにいるときっとひどいことになるよ、ということだ。 「――帰って。そばに来ないで」 でも口を開いたら、すごくトゲトゲした言葉が出た。僕は、ほんとはこんなことが言いたいんじゃない。 「違うんだ」と言おうとしたけど、上手く声が出ない。口を開けっぱなしたまま、喉の奥からひゅうひゅう空気が漏れる音がする。それだけだ。 栄時くんがじっと僕を見つめている。彼の目はさびれきっていて、冷たく枯れ果てた冬の荒野みたいで、平坦で薄っぺらい。曇り空みたいな寂しい灰色だ。初めて見た時に、すごく悲しそうな色だと思ったのを覚えている。 そこに、僕の姿が映り込んでいる。情けないくらいにうろたえていて、おどおどしている僕の顔が。 彼はなんにも言わない。ただ黙って僕を見上げているだけだ。 なんだか僕は責められているような気分になった。まるでお母さんに叱られている最中の子供みたいな気分になった。自然に身体が硬くなる。 ふうっと栄時くんの手が伸びてきて、僕の頬に触った。ちょっと滑稽なくらいに、あからさまに強張った僕を見て、彼はちょっと笑った。 「怒ってるわけじゃない。そんな顔をするな。お前を怖がらせに来たわけじゃないんだ。すまないな」 「……なんで君が謝るの。君が謝ることなんか何もないよ」 やっぱり僕の声はすごくトゲトゲしていた。好きな子にはちゃんと親切にしてあげて、優しい言葉を掛けてあげなきゃならないって思うのだ。でもどうしてもこんな声しか出ない。 栄時くんは、僕の態度にも機嫌を損ねた様子は無かった。彼は人の感情に疎いとか、ちょっとのことでは動じないとかみんなに言われてるけど、そのせいじゃないし、そうじゃない。すごく優しい人なのだ。 彼はちょっと居心地悪そうな顔になって、「勝手に押し掛けたことだ」と言った。 「お前、携帯も出ないから、なんかあったんじゃないかって思ったんだ。生きてて安心した。邪魔にならないようにもう帰る」 「あ、ううん」 僕は反射的に栄時くんの手首を掴んだ。きつく掴み過ぎちゃったみたいで、彼が顔を顰める。ああまずいと僕は思った。またやってしまった。 「ご、め」 「どうした」 「か、かえら」 『帰らないで』と言おうとして、はっとなった。今の僕はどうあってもまずい。このまま、何か仕出かす前に栄時くんに帰ってもらったほうが絶対良いに決まっている。 でも『帰って』とも『帰らないで』とも言えず、そのまま彼のあたたかい手を握って、どうすれば良いのかも解らずに、僕は途方に暮れていた。どうしよう。 「落ち付け」 「……ごめん」 「飯は食ったか?」 「…………」 「最後に食ったのはいつだ」 「……わかんな……」 「……今は? 食えそうか」 「…………」 僕は首を振る。栄時くんの気持ちは嬉しかった。すごくだ。 でも今はどうしても食べ物をお腹に入れる気分じゃなかった。身体じゅうがもやもやしていて、食事って行為がどういうものだったのかってことが、上手く思い出せない。良くわからないのだ。 生きていく為にとても重要なものだってことを、頭では理解している。でもお腹が減らない。だから食べない。食べなくても平気だった。 なら僕には必要ないことなんじゃないかなあって、そう思うのだ。 「熱は……ないな。どこか痛いところはあるか」 「あたま……」 「痛いか」 「痛い。すごく痛い」 「病院は?」 「…………」 「薬は……飲んでないな。もしかしてお前病院がどこにあるのか知らないんじゃないだろうな。辰巳記念病院は分かるか。駅からちょっと行った所にある病院だ。ついてってやるから――」 僕は頭を振る。なんというか、『病院』って単語を聞いて、胸がぐっと締め付けられるような、すごく嫌な気分になった。僕は昔友達からその場所の話でさんざん怖がらされたことがあるのだ。あの子は言ってた。すごく怯えた顔で、こんなふうに、 「『病院は嫌い』……」 栄時くんはちょっと驚いたようだった。「そうか」と頷き、それから笑ってるのか困ってるのかわかんない微妙な顔になって、「僕も同じだ」と言った。 「でも頭痛いんだろ。そんな顔色悪くなるくらい。いい子だから俺についてこい。ちゃんと我慢できたら、キスしてやるから」 僕はのろのろ口を開いて、いくつか言い訳をした。そんなに大したものじゃあないってこと、持病みたいなもので、よくあることだってふうに。 どっちもちょっとは本当だ。僕は頭痛持ちなのだ。良く訳もなくこうやって頭が痛くなる。最近は特にひどい。 痛みは決して『大したことない』ものじゃなかったけど、まあなんとか我慢できるくらい。それよりも困るのは、僕の心というものがトゲトゲにささくれだっていることなのだ。 栄時くんは「そう」と頷いてくれた。しょうがないなって顔になって、それからぽつぽつと今日の学校での出来事を話して聞かせてくれた。 女の子たちが僕のことをすごく心配してくれていること、順平くんも一緒に悪ふざけできる友達がいなくてつまんなさそうだったってこと、アイギスさんがソワソワしてること、学校の授業の進行についての簡単な説明なんかを、静かな声で、ゆっくりと話してくれた。 「ノート取ってる。元気になったら見せてやるから」 「うん……」 「その……早く治せ。お前が、苦しいのとか、そういう顔をしているのは、なんか嫌だ」 「うん」 「今よりひどくなったら、引き摺ってでも連れてくぞ」 僕は、そこで自然に、ちょっと笑ってしまった。ピリピリしていた心が一瞬緩んで、解けた。ふわっとあったかいものが流れ込んできた。 栄時くんが僕の心配をしてくれているようだ。僕はそのことがすごく嬉しいと思う。 「……君は優しいね」 「そうでもない」 「僕はこんなにひどい奴なのに、とても親切にしてくれる」 「お前がひどかったのなんて、一度もない。いや……修学旅行の時一回きりだな。ひどい奴ってのは、僕みたいな奴のことを言うんだ。親切なんてもんじゃない」 僕は恐る恐る、栄時くんの首元を飾っているリボンタイに触れる。 指先で先端を摘んで引っ張り、するする解いていく。「ひどいこと」と僕は言う。 「されるの嫌でしょ。だから、もう帰ったほうがいいよ。僕のことなんか押し退けてさ。こんなやつの相手、君がすることない」 そんなことを言いながらも、僕は往生際悪く「でも嫌わないで」と付け加えてしまう。言ってることがばらばらだ。支離滅裂で、ぐちゃぐちゃで、誰も理解出来ないだろう。僕も出来ない。 リボンを解いて、糊のきいたシャツのボタンを、上から順々に外していく。なんだかプレゼントの包みを解いていく時のような興奮と、僕自身への苛立ち、怒り、それから後ろめたさを感じている。 僕は、こんなことをしていて今更なんだけど、栄時くんに怒られることがすごく怖かった。優しくて僕を受け入れてくれる彼に拒絶されることが。 だから、すごくびくびくしていたんだと思う。栄時くんに呆れた顔で、「そんなに怖がるな」と言われてしまった。 「取って食ったりしない」 「うん……それ、僕のほうがその、……だと思うし、」 「お前は僕と寝たいのか?」 「…………うん」 申し訳ないけど、僕は正直に頷いた。きっとやだって言われたって止まれない。無理にでも彼を裸にして、お腹の中に性器を突っ込みたいって、そう強く思う。 多分気が済むまで栄時くんの中に僕の精子を吐き出すか、栄時くんが僕を昏倒するまでぶん殴ってくれるかしなきゃ止まらない。 彼はとても優しい人だった。でもまさか強姦するような男にまで親切にしてくれやしないだろう。僕は嫌われる。嫌われて捨てられる。もう二度と顔も見れない。僕の世界そのものの彼が、ひどく遠いところへ、 「――泣くなよ。僕がなんかすごくひどいことしてるみたいだろ。……その、一緒に寝てやるくらい、いいから」 僕は、驚いて栄時くんの顔をじっと見た。ちゃんと意味解ってるのかなと思って、「大丈夫なの?」って聞いてみた。 「エッチしよって、そういうことだよ?」 「わかってる。お前なら、別に……クラスのほかの奴とかなら絶対嫌だって思うけど、望月なら構わないかなって、それだけ」 「いいの?」 「しつこい。僕は言ったことを訂正しない」 「うん」 まさかここまではって思ってたところまで受け入れられると、嬉しくて、あのトゲトゲした気持ちがきゅっと小さく窄まって、引っ込んでしまった。 そしてはじめていろんなことに気付く。 あのひどい頭痛は、どうしようもない、途方もないくらいにたくさんの『怖い』って気持ちのかたまりだったってこと。僕はずうっと誰かに助けを求めていて、今こうやって手を伸べられて、やっと救われたような気持ちになれたってことだ。 栄時くんが僕の顔を触って「だから泣くなって」と言っている。 僕はもう大丈夫なんだって思った。それですごく安心してしまって、目が熱くなって、ほっぺたが濡れてて冷たくて、そこでああ僕はさっきからずっと泣いてたんだって気が付いた。 |