『お仕事だから、ごめんね』




 日付変更線付近の一時間程度の間、気が付けば僕はいつも一人だった。
 影時間において、僕をタルタロスへと誘いに来る下位存在たちの姿は無かった。せいぜい黒い手たちがやってきて、僕の願い事を叶えてくれるくらい。
 思えば、あの子はずうっと僕に言い聞かせてくれ続けていた。暗い方へ行くな、影に攫われるなと。
 僕が産まれる時に持たせてくれた彼の欠片が、今日までずうっと僕を守っていてくれたのだ。すりきれて消えてしまうまで、ずうっと僕を抱いて姿を覆い隠してくれていたに違いない。





 栄時。
 僕のこども。
 お母さん。





「綾時……りょうじ、い、」





「あ……!」
 かぼそいすすり泣きを聞いた途端、僕は飛び起きていた。
 昔から何度も繰り返されて、もう馴染んだものだった。まだ赤ん坊の栄時が夜泣きした時、そして怖い夢を見て目を覚まして、隣で寝ている僕にしがみついてきた時、僕はいつでもすぐに目を覚まして栄時を抱き締め、「もう大丈夫だよ」と言ってあげていたのだ、いつもいつも。
 僕は何度か遊びに来たことがある巌戸台分寮のラウンジにいた。ソファに寝かされて、毛布を掛けられていた。
 毛布は栄時の部屋にあったものだ。しばらく前にこの子と奇妙な同居生活を送っていた頃に見た覚えがある。
 ラウンジには寮生たちの姿があった。腕組みして困り果てたふうにカウンターの前で立ちんぼうの美鶴さん、僕が破壊したアイギス、アイギスの腕をぎゅうっと掴んで僕に助けを求めるような目を向けてきている栄時。栄時の両肩をそれぞれ掴んで、アイギスから引き離そうとしている順平くんと真田先輩。テレビの横で遠巻きにそれを見ているゆかりさんと風花さん、それから栄時と同じ歳くらいの小学生の天田くん。コロマルもいる。
「おまっ、離せって、アイギスラボに移送しなきゃなんねって。桐条先輩んちの人が来てくれてんだ。連れてかなきゃ直んねんだって! さっきからお前は一体何がしたいんだ?」
 順平くんが苛々した顔で、栄時に向かって怒鳴った。可哀想に、栄時はびくっと肩を竦めて、怯えている。目をぎゅっと閉じて、顔を伏せた。前髪の間から覗く唇がかすかに『りょうじ』ってかたちに動いた。
 僕は慌ててソファから降りて栄時の隣にしゃがみ込み、身体を抱き締めて頭を撫でてあげた。「大丈夫だよ」と言ってあげた。
 栄時の身体は相変わらず華奢で、肉付きが薄い。でも僕が最期に見た時よりも、随分背丈だけは伸びていた。幼い顔つきや、怖がりで頼りない性質はあの時のままだったけど。
「な、泣かないで。大丈夫だよ。ここには君にひどいことする人はいないよ」
 その後で控えめに、「僕以外はね」と付け加える。本当に、ひどいのは僕だけだ。
 栄時はずうっと『次は一体何をされるんだろう』ってびくびくしちゃっている。こんなに怖がりになってしまったのも、全部僕のせいなのだ。
 とりあえず、騒いでいる原因はすぐに読めた。たぶん壊れたアイギスをラボに収容しようってことになったところで、ラボにひどいトラウマを持っている栄時が、彼女を行かせまいと頑張ってしまっているんだろう。みんなは多分それに困り果てているのだ。
「ちびくん、大丈夫だから、手を離して。アイギスはね、僕のせいでひどい怪我をしちゃったから、今から病院へ行って治さなきゃならないんだ」
「病院もラボもだめだ。だって、またひどいことになる。……またお母さん死んじゃったら僕、」
「大丈夫、ひどいことはされないよ。君が知ってる怖い人たちは、みんなもう燃えちゃったんだ。ちびくん、僕のお仕事はなんだったかな?」
「……ヒーローと、研究員……ロボット、つくった、り」
「うんそう。技研の人は、僕が知る限り悪い人はいないよ。十年前のデータで申し訳ない話だけど。女性の比率が少なくて、他の部署との交流がないと素敵な出合いが期待できないのが寂しいとこだけど、うん」
「りょうじ……また、そういう話ばっか……」
「だから、大丈夫だよ。僕を信じなさい」
「ん、うん……」
 栄時が恐る恐る僕を抱き返してくれた。『触っても消えないかな、これは本当に幻覚や妄想なんかじゃないのかな』ってふうに、おっかなびっくりした仕草だった。
 でも僕が確かにここにいるってことを悟ると、栄時は僕の胸に額を押し付けて、じっとして動かなくなった。また泣いてるのかもしれないな、と僕は思った。この子はいつからか、すごく静かに泣く子供になってしまったのだ。
 僕は彼の背中を撫でて、何か奇妙な生き物でも見付けてしまって呆気に取られたような顔をしている、栄時の(そして少し前までは人間だった僕にとっても)友達に向かって頷いて見せた。
「ごめんね、驚かせて。僕らは家族なんだよ。この子も十年前までは『望月』だったんだ。両親が離婚して、母親方の姓を名乗るようになるまではね」
「あ……だからこの間の手紙、リーダーの姓が『望月』になってたんですね。あの、兄弟だったんだ」
「手紙? いや、親子なんだ。この子は僕の子供だよ」
『…………は?』
 みんなは目を丸くして、『こいつは何を言ってるんだ?』って顔をしている。まあ無理もないと思う。見た目同い年の僕と栄時が親子だなんて言っても、誰も信じやしないだろう。僕が今日の影時間を過ごす一瞬前まで、『黒田栄時くん』と仲が良過ぎるくらいに良いクラスメイトだった時分に、自分でそう信じ込んでたのとおんなじように。
 僕は何も知らずに、血を分けた最愛の栄時にとんでもないことを仕出かしたのだ。記憶は全て鮮明だった。心臓に突き刺さって僕を苛むくらい。
 愛する子供を、そして僕に肉の身体を与えてくれた母を誘って抱いた。僕を孕んでくれたお腹の中にたくさんの子種を注ぎ込んだ。このろくでもない記憶は、これからこの世界にあるもの全部の敵になる僕にはお似合いの烙印だ。最低だ。
「聞いて欲しいことがあるんだ。今すぐ、どうしてもなんだ」
 そして、僕はみんなに終わりを告げる。世界は急速に滅びに向かっていること、僕が生まれた意味、そしてこの先の未来に何の救いもないということ。
 もうすぐ終わりが降りてくる。この星に舞い降りた死は、全ての生あるものに平等に大いなる結末を与える。避けようはない。戦うという概念も存在しない。
 そのことが痛いほど良く分かっている。すべて僕が産まれたことが引鉄になって起こった災厄だからだ。この星を捨てて出て行くのでもない限り、どこにも逃げられはしない。
 でも僕は、僕の腕の中に収まって震えている栄時を意識する。この子には本当に何の救いもない。全てに怯えたまま、怖い怖いって言いながら滅びていく。
 いや、滅びまですら持たないかもしれない。十年も死を孕んでいたのだ。この子の身体はもうぼろぼろだった。
 この子自身ももう良く理解しているだろう。今の栄時は夏中鳴ききって、子を産んで力尽きて地面に落っこちた蝉のようなものなのだ。
 生命がゆるやかに解けていく様が、僕の目にははっきりと見える。この子はもう長くない。
 僕がもう一度栄時の中に宿ることができたらどんなに良いだろう。
 手を引いて世界中逃げまわれたらどんなにいいだろう。
 でも終わりは全てに平等で、救いや罪と罰と言った概念もないのだ。ふっと来てぱっと終わる。それだけだ。
 僕は、僕の愛する人たちが苦しんで死んでいくのは嫌だ。ほんの一月にもならない間だったけど僕と友達になってくれたみんなや栄時が、滅びの日まで穏やかに過ごしてくれたらどんなに良いだろう。
「ひとつだけ、救われる方法があるよ。僕を殺せばいい。影時間もペルソナ能力も、そして影時間に関する記憶もなにもかも消える。今僕が話したニュクスについての記憶もね。滅びの日まで穏やかに日常を過ごすことができる」
「それじゃ、何の解決にもならないじゃない!」
 ゆかりさんが怒鳴って、きつく僕を睨む。彼女は悔しくてたまらないって顔つきだった。
 僕は頷く。前向きで希望に縋り、諦めない姿勢ってのはすごく素敵なものだと思う。
 でも、だからってその反対が悪いものだとは限らないと僕は思う。
「逃げるのは悪いことかい? 解決も救いも見つからなくて、君達は絶望を感じているはずだ。不安で怖くて、これは悪い夢だってそう思い込もうとしているだろう。目が覚めたら、また『いつも』って永遠がやってくるって信じたい気分だろう。今この時だけの気持ちで考えないほうがいい。死とすごく密接に向かい合った時、必ず君達は理解するはずだよ。本当の恐怖ってものを、この子のようにね。栄時、今の僕を殺せるのは、僕を十年孕んでいた君だけだ。できるかい?」
 僕は栄時の前髪を上げて、じっと目を覗き込んだ。相変わらずその灰色の目はすごく悲しそうだったけれど、僕を映すと幾分柔らかく眇められた。
「……綾時がそうして欲しいって言うなら、僕は何だってできるよ。あなたが苦しまないように一撃で焼き尽くしてあげる」
「ありがとう。いい子だね」
 僕は頷く。
「十二月三十一日に、もう一度ここへ来るよ。大晦日だね。その時に君達の答えを聞かせて欲しい。人間の僕を気遣ってくれる必要はないよ。僕はシャドウだ。消滅させることに何の問題もない。もう一度言うけど、逃げるのは悪いことじゃない。君達には辛い選択をして欲しくないんだ。……それと、ちびくん」
 栄時を呼ぶと、「なに?」と僕の顔を見上げてくる。その顔にはまっさらな純粋さと幼い素直さがある。
 僕は栄時の肩を二度軽く叩いて起き上がって、頭を撫でて、「君はここで生きなさい」と言った。
「みんなと一緒にいなさい。僕はこれから行かなきゃならないところがあるんだ。そこへは君を連れてはいけない」
 ひゅっと息を呑む音がして、栄時の目が見開かれた。この目を僕は何度も見ている。
 『家族三人で遊園地に遊びに行こうね』と約束をしていたのに、その日の朝になって急に出勤要請が出た時と一緒のものだ。
 小さな栄時は息を呑んで目を見開く。そのまんまるい目に徐々に涙が浮かんで、すうっと頬を流れ落ちる。『約束したのに!』と栄時が叫ぶ。『僕よりお仕事のほうが大事なんだ、綾時の馬鹿!』って。
「りょうじ」
 栄時の唇が『どうして』ってかたちに動いた。僕は見てられなくて、彼に背中を向けて足早に寮を出た。
 あの子の隣にいると、僕は僕の役割を忘れてしまいそうになる。ただの人間だった頃に戻ったような気持ちになる。僕の中の人間の部分も、シャドウの部分も、平等にあの子を愛しているのだ。
 だから連れては行けない。どんどん変わり往く僕の身体と心を、あの子だけには見られたくない。
「りょ、っ」
 閉まったばかりのドアがまた慌しく開いて、栄時がひどく狼狽した様子で転げ出てきた。余程慌てているようで、上着も着ないままだ。靴も片方脱げている。
「綾時! ぼく、僕も一緒に、」
「君はここにいなさい。みんなと一緒に普通の人間として過ごすんだ。連れては行けない」
 僕はじきに、僕じゃない違うものになる。世界の滅びをたからかに唄う死神になる。栄時が僕に分け与えてくれた心も、影に浸蝕され、人格化された死そのものに相応しい意識にシフトしていくだろう。
 変化した心を持った僕は、おそらく栄時が傍にいたら、躊躇なく襲い掛かるだろう。餌を発見、いただきますってふうに。この子のなけなしの生命と心を貪るかもしれないし、また身体まで食らい尽くすかもしれない。
 僕はこの子とは一緒にいられない。それはもうきまりみたいなものだった。
 僕はシャドウだ。
 一緒にいたいってただそれだけの理由で、まさか栄時まで心のないシャドウにしてしまうわけにはいかない。この子は人間なのだ。
 なにもかも怖がりながらも、心臓を一生懸命動かしている人間なのだ。
 栄時が僕のマフラーをぎゅっと掴んで、怒られた子供みたいにびくびくした顔で、後ろをくっついてくる。
「綾時……い、いやだよ、行っちゃ、いやだよ。綾時がいなくなったらまた僕、いつもみたいに変になっちゃうよ。なんにも考えらんなくなって、僕じゃなくなっちゃうよ。こわいよ……」
「……僕と来たら、きっともっと怖い思いをするんだ。だからパパの言うことをちゃんと聞けるね? ちびくん、きみはいい子だものね」
 僕はなんとか栄時を諭そうとした。彼の手のひらを両手で包んでゆっくり開かせて、マフラーをするっと抜き取り、彼の身体を抱き締めた。
「元気で。いつも傍で見てるから、一人じゃないから。身体に気を付けて。また大晦日に会いにくるよ」
 そして、別れを告げた。僕は影に融ける。
 空気みたいになって空に昇り、そっとあの子を見下ろす。
「りょ、りょーじ! りょうじっ!」
 栄時は可哀想なくらいに怯えて、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、きょろきょろ周りを見回して、すぐに僕を探して駆け出した。
 僕はあの子がぐずぐずに泣きながら叫ぶ声を聞いていた。





「いや……やだ、やだぁあ、……置いてかないで! おとうさん!!」





 ――僕は、本当にだめな父親です。





 栄時、ごめんなさい。僕はお父さんなのに君を守れなくて、泣かせてばかりで、そんな悲しそうな顔をさせてばかりで、傍にいてあげることもできない。
 光り輝いていたはずの未来を奪うことしかできない。君に見せられる姿なんてないのです。





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