ートアイランドの悪魔




 彼女の顔は、『今まで見たことないくらい』穏やかだった。少し笑っていて、僕は「なんか気持ち悪いな」と場違いなことを考えていた。
 僕はそれまで彼女を見たのは一度きりだった。順平が拉致られて転がされてた時、あの彼女を捕らえた日だ。なんだか僕のことを、幽霊でも見るみたいな顔で見ていたのを覚えている。
「……処分……しにきたのね」
 首を傾げて彼女が言う。それはなんだか、「ごはんまだ食べてなかったの? もうないよ」だとか、「お前のフロスト人形? ああ、なんか首もげたから庭に埋めた」だとか言ってる時と同じような、『いつものような』なんでもないふうだった。
「おまえ……ぜんぜ、かわら、ないのね……」
 彼女がにやっと笑う。完全に僕をバカにしている。そっちこそ、その生意気というか、むかつくところは全然変わらないだろって、僕は言ってやりたい。相変わらずお前はろくなもんじゃないなと。
「ひとを、すきになるのって、こんなにいい気持ちだって、……しらないでしょ。うらやまし……でしょ?」
 彼女は「ねえ」と順平に微笑み掛ける。僕への態度と大分違う。なんかむかつく。
「貌も……心も、なまえも、ない、お前には……一生、わから、ないよ。ざま……みろ、」
 最期まで憎まれ口を叩く余裕があるのは、ちょっと尊敬する。僕はもう理解していた。彼女はここまでだ。
 そういうのは見れば分かる。もう慣れたことだった。彼女自身もすごく正確に理解しているようだった。ひどくほっとした顔のくせ、どこか残念そうだった。
「さき……行ってるね、カオナシ。お前、も……はやく、来なよ……」
 ああ、ぜんまいが、
――じゅ……ぺ……すき……」
 ――切れた。





 順平が、泣いている。なんで泣くんだろうって思って、僕はああそうかと思い当たる。好きな子が死んだら、そりゃ悲しいだろう。泣くのは当たり前だ。それが『普通』ってことなのだ。
 そしていつまでもこうしてる訳にはいかないだろってみんなに諭されて、チドリの遺骸を抱いて立ち上がる。僕はなんだかその時、ひどく羨ましいなあって気分になった。死骸をこんなに丁寧に扱ってもらえるなんて、生きてた頃には彼女も思わなかったろう。
 大事に大事にお姫様抱っこだ。こういうのは破格の待遇っていうのかなと、僕は考えていた。
 誰もなにも喋らない。順平とチドリを見て居心地悪そうな顔をしている。死んだ本人よりも、看取った順平のほうが死んだみたいな顔つきをしている。僕はみんなのしんがりを歩きながらそう思った。
 僕は、ゆっくりと速度を落とす。みんなとの距離が開いて、そしていつしかひとりになる。みんなは僕がいないことなんか気付きもせずに、寮へと戻っていく。僕は省みられないまま、そっと道を逸れる。





 タルタロスのすぐ近くのポートアイランド駅には、真夜中にも関わらず、いくつか人が象徴化した棺が突っ立っていた。順平が出会ったのは映画館の前だって言ってたから、多分この辺だろう。花壇のへりに腰掛けて、僕は静かに駅前の風景を眺める。何の変哲もない。取り立てて描きたいと思うような、面白い建物もない。
 彼女はここから見た何にそんなに惹かれたんだろうって考える。僕には分からない。大体彼女の絵自体理解不能だ。なんだか気持ち悪い、得体の知れない怪物の口の中みたいだ。それで良く見てらんなくて、絵を破いて殴られたっけ。
(……あれ?)
 僕は、違和感を覚えた。僕は今、誰のことを考えていたんだろう。誰を思ってこんな真夜中に、ポートアイランド駅の花壇なんかに座り込んでいるんだろう。
「……あ」
 影時間が明けかけている。ぱっ、ぱっと街灯が点く。棺桶は人に変わる。
 それと同時に綺麗に晴れ渡っていた夜空が澱み、雨が降り出す。みんな「ああ」って顔をして、傘を差しはじめる。でも僕が傘なんか持ってきてる訳ない。
 これは、あれだ。きっとあいつが、身体を冷やして風邪を引いて、こじらせて肺炎に掛かって死ねって言ってるんだ。なんて奴だ。死人はもう目を閉じたままおとなしくしてろ。
――ああ」
 そこで僕は思い出した。そうだ、さっきたしか、電話が掛かって来たんだった。姉さんが死んだって話だった。
 病気であと二年しか生きられない姉さんは、あと二年は生きられたのに、好きな奴守ってついさっき事故に遭って死んだんだ。
 僕は『普通』の人間だから、そりゃちょっと冷たいとか言われたりもするが、家族が死んだらそれなりに悲しんだりもする。それが『普通』ってことなのだ。
 姉さんは僕や他の兄弟と同じで身寄りがなくて、僕らは養父のもとで何年か一緒に暮らした。そう長い期間じゃなかった。せいぜい半年かそこら。一年もいない。仲は最悪に悪くて、いつも喧嘩というか、泣かされていた。この僕が。
 でも僕らの間には、奇妙な連帯意識が芽生えていた。僕らを理解出来るのは僕らきりだった。僕ら兄弟は四人で完結していたのだ。愛情とかそういうものじゃあなくて、なんというか、頭とレーダーとアドバイザーと下っ端戦闘員(兼デコイ)、四つ合わせてひとつの完成品っていう感じだった。姉さんがいろんなものを探す。僕らは姉さんの『探し物を見付ける能力』をすごく信頼していて、姉さんの言葉ひとつで右に曲ったり左に曲がったりする。
 あれは、なんで僕らは、あんなに一生懸命駆け回ってたんだろう。一体何を探していたんだろう。
 ――ああきっと、まだほんの子供のころのことだから、きっと僕らは探検ゴッコでもやっていたんだろう。
 いっぱい、傷だらけになりながら、走って跳んで転んで、敵と戦って(ヒーローごっこだ)、僕らは暗い塔をどこまでもどこまでも登ってく。
 本当に懐かしいなと僕は考える。でも姉さんは死んだ。もういない兄弟たちみたいにあっけなく転がって、もう動かない。喋らない。もう僕を苛めたり、そんなのもない。ざまあみろだ。死んじゃったら負けだ。





――人を好きになるのって、こんなにいい気持ちだって知らないでしょ。





 そのくらい、僕だって知ってる。僕にはまるで必要ないことだから、知らんぷりをしてるだけだ。





――うらやましいでしょ? 貌も心も名前もないお前には一生わからないよ。ざまあみろ。





 羨ましくなんかない。僕が姉さんを羨ましくなるなんて、そんなことがあるわけない。
 テストだっていつも僕が一番で、僕は姉さんが欲しいものを全部持ってる。僕のほうがすごいんだ。羨ましいだろって、それは僕の台詞だ。
 僕にだって、やろうと思えばいくらでも人を好きになれる。冷血で無慈悲な姉さんにできて僕にできないわけがない。
 僕は携帯を濡らさないように、身体を覆いにして取り出し、開いてナンバーを入力する。でも半分がディスプレイに表示されたところで、手が動かなくなる。
「……望月……」
 電話なんか、掛けてどうする。僕は携帯を放り棄てた。
 子供みたいに、姉さんにできて僕にできない訳はないんだから、好きだって言ってくれってあいつに泣き付くのか。望月にしてみれば、こんな時間に訳が分からない用件で電話を掛けられて、ひどい迷惑だろう。君がそんな自分勝手な奴だと思わなかったって愛想を尽かされるかもしれない。
 彼は人を疑うことを知らないすごくいい奴だから、きっと知らないうちに僕に騙されているのだ。僕には彼が言うような、彼が好きになってくれるような価値なんかない。きっとほんとの僕を知ったら、すぐに離れて行くに決まっている。





――カオナシはあいつらと一緒にもう帰ってもたんかな……」
「彼は相変わらず人気者のようですからね。多忙なのでしょう。今日のところは帰りましょう。雨も降ってきた」
「多分これ、チドリの恨みの雨かなんかやで……お前らも風邪ひいてこじらせて肺炎起こして死ねつっとるんや……」





 ああ、兄さんと弟だ。僕のすぐ目の前を通り過ぎていく。姉さんの葬式の帰りなのかな。僕には気付かない。
 僕はその気になれば、空気みたいに振舞うことができる。
 僕には目も鼻も口もない。だから、僕は強く、誰にもかえりみられないことを望む。僕を見ないで欲しいと考える。僕を見て笑わないでくれと。
 そのせいだろう。僕が望んだからだと思う。僕のペルソナは、僕を覆い隠すことにかけてはちょっと自慢できるのだ。誰にも見つからない。誰も僕を見ない。のっぺらぼうだって笑われることもない。
「……え、ちゃ……」
 僕は頭を抱えて座り込んでいる。雨と湿った空気が、僕の身体を冷たく凍えさせる。
「お、おねえ……ちゃん、おねえちゃん、チィねえちゃ、」
 僕はたぶん、みっともないくらいに震えている。姉さんの笑い声が聞こえてくる。彼女は耳のすぐそばで、情けない貌無しの僕を笑っている。
「……や、やめてよ。僕を笑うなよ。笑わないでよ――
 カオナシのくせに、のっぺらぼうのくせにって、姉さんが僕を笑っている。
 お前みたいな心もないやつが、人を好きになれるわけがないって、誰かに好かれるわけがないって言ってる。僕は「違うよ」と繰り返す。僕のことを好きになってくれる人はちゃんといる。
「アイギス、」
 誤作動で、僕を守ってくれている。間違ったプログラムに命令されて、僕を大事にしてくれる。
「……もち、づき」
 みんなに好かれてるクラスの人気者だ。女子にもてて、女の子にすごく優しい。本当は、暗くて喋るのも上手くない僕なんかが仲良くしてもらえるようなやつじゃない。
 全部嘘でニセモノだって姉さんが言う。ラボでちゃんとエラーを直してもらったアイギスと、罰ゲームかなにかで僕をちょっとからかってみてた望月も僕を見て笑っている。貌がない、のっぺらぼうだって言う。
 僕は恥ずかしくて、いたたまれなくなる。まっ平らな見られたもんじゃない顔、いつまで経ってもちびな身体、もう欠片も残っていない心、全部が全部みっともなくて、焼かれて灰になってしまいたくなる。
 僕は『たすけて』って言おうとした。誰かに、姉さんに、アイギスに、望月に、僕の仲間たちに、僕を笑う世界中のみんなに「もう笑わないでくれ、赦してよ」って言おうとした。
 でも僕の喉はどうしてもその言葉を吐き出せなかった。
 それは絶対に言っちゃいけない言葉だった。
 僕が不用意にその言葉を口にすると、きっととんでもなく悪いことが起こるような気がした。それは予感というよりも、予言めいたものだった。あらかじめもう決まっていることだった。だから絶対にそんなことは言っちゃいけない。
 僕は投げ捨てた携帯をもう一度拾って、ぎゅっと握り締めた。大事に胸に抱いて目を閉じた。僕はその時、泣いてたと思うんだけど、正直良くわからない。雨が僕の顔に激しく打ち付けて、それが雨水なのか涙なのかもわからない。
 それに僕はどこかおかしいのだ。悲しくもないのに泣いて、怖い時に笑える。だからほんとに泣きたい時に、僕はきっと泣くことなんてできないのだ。
「……望月綾時……」
 結局ナンバーを最後まで入力することはできなかった。
 僕は多分怖かったのだ。携帯の向こうの望月にもし「みっともないね」って笑われたら、女の子と仲良くやってるところにタイミング悪く掛けてしまって、君への気持ちなんて全部嘘だよ、順平くんとこないだ賭けをやって負けちゃってね、ちょっとした罰ゲームだったんだってとぼけた声で言われたら、嫌われたら、相手にされなくなっちゃったらって考えたら、怖くて怖くてたまらない。
 ――そしてなにより僕は、本当は彼のそばにいちゃいけないような気がするのだ。
 望月は、なんというか、僕がいないところで可愛い女の子と付き合って、そして僕のことをほんの少しもかえりみることなんかなく、いつか結婚して、子供作って幸せにならなきゃいけないって気がするのだ。
 僕なんかに好きだとか言ってちゃいけない、きっと今にひどいことになるって、思う。
 僕は携帯を強く抱き締める。胸に、心臓の上から押し当てる。回線さえ繋げばあいつの声が聞けるだろう。僕は多分すごく安心してしまうだろう。
 でもどうしても指が動かない。
 望月は、僕のいない世界で、僕を忘れて幸せになるべき男なのだ、ほんとは。じゃないとまた僕のせいできっと――





「もち、づ……ぼくを、」





 たすけてなんて、絶対言えない。





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