ょっとだけずれた日々(3)




 結局僕が寮に帰り付いたのは、午前一時を回った頃だった。
 きっとドアを開けるとそこには仁王立ちの桐条先輩と真田先輩がいて、怖い顔で「遅かったじゃないか」とか言うのだ。それからおそらく五分ばかり説教をされるだろう。嫌味とあてこすりも加わるかもしれない。
 「リーダー失格だ」と言われるだろう。そこに順平もここぞとばかりに加わってきて、僕を糾弾するのだ。
 げんなりしながら扉を開けると、予想通り先輩たちがカウンターの前に立っていた。僕は覚悟を決めたが、まず一番に言われたのは、想像とは全然別のことだった。
「お前……どうした!? なにがあった!」
 真田先輩がいきなり僕の腕を掴んで、強張った顔でそう言った。
 僕は確かにこれまで優等生をやってきたわけだけど、これはいくらなんでも心配し過ぎだ。僕は小さい子供じゃない。
「リーダー、無事で良かった……私、どんなに頑張って探してもあなたの反応がないから、消えちゃったんじゃないかって」
「今までどこで何をしていた?」
 山岸は半泣きだ。桐条先輩に肩を両手で掴まれ、じっと顔を見つめられた。美人の顔が至近距離にあると、なんとなくどぎまぎする。
 「なにも」と僕は言う。
「普通です。ただ時計が止まってたことに気がつかなくて。少し前に順平から連絡をもらって、すぐに戻ってきたんです。こんな時間になってしまってすみません」
「どこにいた?」
「ポートアイランドに」
「影時間の間は?」
「……は?」
 僕は首を傾げた。なんだか話が噛み合っていない。
「そうだ、みんなもおかしいと思ったろう? 何故急に影時間がなくなったのか、思い当たることがなにもないんだ」
「……は?」
 今度はみんながぽかんとしている。「来なかったろう」と僕は訊く。でもみんなは微妙な顔をしている。
「君は今日の影時間を過ごさなかったのか?」
 桐条先輩が、妙に真剣な顔をして、念を押すように言った。僕は頷く。
 時計の針が午前零時を指す。そこから、何事もないように時間は刻まれていく。一秒、一分、一時間、僕がこの街へやってくる前のようにだ。
「聞いてくれ。我々はいつも通りに影時間を体験していた。一時間だ。わかるな。戻ってこないお前を、山岸がユノで探した。だがお前の生体反応はどこにも見当たらなかった。無かったんだ」
「じゃあ、俺だけなんですか」
「まさかこいつが象徴化していたっていうのか?」
「……わからない。念の為に確認するが、ペルソナは呼べるか」
「はい」
 僕は差し出された先輩の召喚器を頭に押し当てた。
 そして引鉄を引こうとした。毎晩、何十回、何百回と繰り返し続けた行為だ。もう千度も呼び出しているかもしれない、僕の偽物の貌だ。





「……あれ」





 何故か手が震える。





 指が動かない。嫌な汗が、額に、背中に、じわっと滲む。





 引鉄が引けない。





 怖い。





 いやだ。





 いやだ、僕はもうペルソナ使いになんかなりたくない――





「……すみません」





「なんだ?」
「引けません」
「……は?」
 僕は桐条先輩に召喚器を突っ返し、そのまま「疲れているので、もう寝ます」と言い、足早に自分の部屋に向かった。
 「何だあいつは」という真田先輩の声が聞こえる。
 心臓が、すごく早く脈打っている。喉がからからだ。ぞっとして、身体が冷える。
 僕は今とんでもない間違いを犯したような気がする。
 ペルソナを呼び出すことを拒んだ。呼べない、と僕は言ったのだ。怯えて戦闘を放棄する罰ってものが、どれだけ重いものなのか、僕はもう知っているはずだ。
 僕は、どうしてしまったんだろう。ただトリガーを引くだけだ。どうして。
 部屋に戻り、洗面台で顔を洗って水を喉に流し込み、着替えるのも億劫だから、制服のままでベッドに倒れ込んだ。
 得体の知れない恐怖が、僕を絡めとっていた。ペルソナを呼び出さない僕に価値はない。
 でも反対に、不思議と安堵してもいた。
 やってやったぞ、という気分だった。
 なんでかその時、僕の頭の中に、望月綾時の顔がふわっと浮かんでいた。
 彼はほっとしたように笑っていた。もういいんだよ、ってふうに。
 何がもういいんだっけ。
 良く分からないけど、ああそうだっけ、と僕は思った。
 もういいんだ。
 僕は普通の人間なんだ。
 ペルソナもシャドウもタルタロスも、実験も手術も戦闘訓練も粛清も、それら何もかもから遠いところに、僕はいるんだ。今ここにいる僕には、怖いものはなにもない。





 ――なんでかすごく頭が痛い。きっと、風邪でも引いたんだろう。
 僕は目を閉じた。





◆◇◆◇◆





「どうしたの? なんだか元気ないね」
 朝一番に僕のところへやってきた綾時が、「風邪ひいた?」と心配そうな顔で首を傾げながら、僕の額に触った。
「うーん、熱はないみたい。でも気を付けてよ、最近すごく冷えるんだから。お腹出して寝てちゃだめだよ」
「うん……」
 僕は頷く。「お前もな」と言う。
「ああ、心配だなあ……僕、夜中に君が布団蹴っ飛ばしちゃってても、掛け直してあげらんないしね。歯痒いよ」
「大丈夫だよ。僕ももう小さい子供じゃないんだから」
「何言ってんの。君は大きくても小さくても、なんだかダメだ、心配でほっとけないよ」
 僕は頷く。なんだか綾時の顔を見ていると、昨日の夜から感じていた漠然とした不安なんてものが、どうでも良いもののように思えてくる。
 彼はいつも通りお気楽な顔で、ニコニコ微笑んでいる。思えば、僕は彼が怒ったり、誰かを強く憎んだりしているところを見たことがない。人畜無害な男なのだ。
 だから、一緒にいるとほっとするのかもしれない。綾時は多分だけど、僕のことを嫌いにならないんじゃあないかなって思うのだ。何があっても。
 僕はひとりで何でもできるし、いつも一番でなきゃならない。だから人に心を開いたり許したりはしないんだって、今までの僕は随分肩肘を張って生きてきた。
 それがなんでか、今はすごく綾時がいると安心する。そばにいてくれるとほっとする。我ながら似合わないとは思う。
 でも誰かを信頼できるって、すごく心地の良いことなのだ。僕はそれを初めて知った。
「綾時、今日帰り暇?」
「君と一緒に帰りたいな」
「……うん。カラオケ行かないか? たぶん腹減ってるから、飯も食いに行きたい」
「喜んで。何を食べたい?」
「……クリームソーダと、チーズケーキ。カラオケ行った後は、ワックがいい」
「うん。いいね」
 実は、僕の方からこうやって誰かを遊びに誘うのって、これが初めてだった。
 綾時はにこにこしながら頷いてくれる。はね付けられなかったから、僕は嬉しくなってしまって、彼に「ありがとう」と礼を言った。
 綾時は女子大好きで、女の子たちの方も綾時のことをアイドルみたいに思っているのだ。だから、彼は結構忙しい。
 それなのに、僕と約束を取り付けてくれたことが、僕はすごく嬉しいと思う。





◆◇◆◇◆





 
そしてまた影時間が訪れる。僕は、あの子が怖い思い出にもう怯えないで済むように、棺に何重にも鎖を巻いて、厳重に鍵を掛ける。
 棺のなかで、あの子はこの一時間、ふわふわまどろんで眠っている。
 すぐそばで触れていると、ぜんまい仕掛けの玩具の、止まり際のぎこちない震動のような、危なっかしくて不規則な心臓の音が聞こえてくる。
 身体は冷たい。でも、僕よりは随分と温かい。人間の体温だ。
 僕は棺になる。
 僕は鎖になる。
 僕は、影そのものになる。
 あの子を守る。それだけが、僕をかろうじて人間として、この世界に繋ぎとめている強い望みだ。僕が生きている証だ。
 僕は、まだ望みを持つことができる。
 まだ生きている。最愛の人を守ることができる。
 僕は、人間だ。
 きっと世界中の誰もが許してくれなくたって、あの子だけは僕を抱き締め、微笑んで頷いてくれるだろうと思う。
 なら僕に怖いものはない。人類全部の非難と憎しみと恨みと悲しみを、僕は受け入れられるだろう。
 僕はシャドウだ。
 僕は死の宣告者だ。
 でも、僕は人間だ。
 あの子のお父さんで、こども。





「なん……っだ、こりゃ。鎖? こんな馬鹿でかい棺桶なんか、見たことねぇ……」
「リーダーの生体反応、やっぱり感じられません……昨日と同じです」
「おーい! 聞こえっか! 返事しろって! エージ、おま、何様だっつの! オレら締め出すんじゃねーよ! 寒ィよ一時間!!」
「あの……これ、たぶん中に綾時くんが……象徴化したまま巻き込まれてると思うんだけど、大丈夫かな、彼……」
「あいつまだ帰ってなかったの!?」





 あの子の、そして人間だった頃の僕の友人たちの声が聞こえる。
 どうやら分寮から押し出してしまったようだ。少し申し訳ないことになってしまっている。
 僕は、膝の上で気持ち良さそうにまどろんでいる栄時の頭を撫でてあげた。僕の手のひらはかなり大きくて武骨なものに変わってしまっていたから、優しくしてあげられたかはわからない。ちょっと自信がないけど。





――りょう……じ……」
『うん』





 ほとんど寝言で、すごく安らかな声で、あの子が僕を呼ぶ。
 僕は、すごく安堵していた。僕がそばにいてあげられることが、こうして触っていてあげられて、この子が安心してくれることが嬉しかった。
 僕は本当にどうしようもない父親だけど、確かに、誰よりもこの子を愛してる。
 自信を持って言える。この星で一番この子を愛してる。





『ちびくん、愛してるよ。僕はここにいる。もうずーっと、ここにいる。君のとなりにね。もうどこへも行かなくていい。誰の言うことも聞かなくていいんだよ。君はここにいなさい。怖い時間の間、パパが君を守ってあげる。僕はいつでも君を守るヒーローなんだ』





「りょう……クリーム、ソーダ……のみた、い。チーズケーキも、つけて……ごはん、おなかいっぱい……」





『……うん? ほんとに君は、食いしんぼうさんだなあ。うん、また明日ね。一緒にシャガールに行こうね』





「にちよ……遊園地、行って。三人で、いっぱい……いっぱい、あそぼ……」





『うん。沢山、遊ぼう。楽しい夢を見てるんだね、ちびくん。良かった。本当に、よかったよ』





 僕は、本当に、安堵していた。
 願わくば、もうじき訪れる最期の日まで、この子の毎日が輝けるものであるよう――






戻る - 目次 - 次へ