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ちょっとだけずれた日々(4) 日付変更線を跨ぐ。十一時五十九分五十八秒、五十九秒、――零時。一秒、二秒――何も変わらない普通の一日だった。 綾時は何でか門限を過ぎても帰る気配を見せない。僕が「そろそろ帰れよ」って言ってやったって、「ああうん」とか「そろそろね」とか曖昧な返事をするくせに、マフラーを巻くことも、コートを羽織ることもしない。 僕としては綾時と一緒にいられるのは嬉しいけど、先輩がたに突っつかれたり、順平たちに冷やかされたりすることは避けたい。 「そろそろ帰らないと桐条先輩に怒られるぞ」 「生徒会長さんに怒られるって、ひとつのステータスだと思わない?」 「お前みたいなこと言ってるやつ、確かにいっぱいいるけど。でも明日も学校あるし」 「そう思ってお泊りセット持ってきちゃいました。着替えと、歯ブラシ。明日の授業の教科書」 「お前……。もういいけど、定期は?」 「僕電車使わないもん。明日切符買う。あ、下着がない」 「しょうがないな、もう……僕の貸してやるよ。いいけど、他のやつらに見つかんないようにしろよ。小言言われんのは僕なんだ。女子の部屋に乱入したり、風呂覗いたりもなし」 「はーい。ふふ、良かった。僕ね、君と離れ離れとか、ほんとにいやなんだ。それがちょっとの間でも、ダメなんだ。多分このまま家に帰ったら、君がいないって寂しくて泣いちゃってたろうと思う」 「お前、ほんとダメな奴だな……」 僕は、綾時があんまり情けないことを言うから、つい笑ってしまった。僕がいないと寂しいとか、そういうことを言うのは反則だ。すごくいい気持ちになってしまう。何だって赦してやるか、という気分になる。 「あの……ね、もう遅いし……」 「うん。風呂入るか? 朝のほうが良いかな」 「う、うん。でも、その前に」 綾時が僕の手をぎゅっと大事そうに握って、赤い顔で僕を見た。目は真剣だ。ベッドの上で正座している。ああ、と僕は思い当たって、顔に血が上ってしまった。 「君と、あの、えっちしたいな……なんて……えっと、身体が疲れてなきゃだけど。君今日もすごく頑張ってたから、だ、大丈夫かい?」 「……まあ」 僕は頷く。タルタロスで鍛えられてるから、普段の学校での雑務なんて、ほんとに僕には大した事ないのだ。 「い、いいよ。お、まえの、好きにしたら、いいし」 「うん。よかった、ありがとう」 綾時の細くて長い指が、僕の唇に触る。相変わらずこいつの手白いな、と僕はぼんやり考えた。日本人の肌の色って感じじゃない。やっぱり帰国子女なんだなって思う。ハーフとかクォーターとかそんな感じ。目の色も、性格も。 綾時は、照れ臭そうな顔をしている。クラスの男子の間では読めない奴だって評判なのだが、なんでみんながそう思うのか僕には分からない。こんなに分かりやすい奴なのに。 「栄時、愛してる」 「おっ、……俺、も、綾時が、す」 「黒田!! 無事か!!」 いきなり部屋のドアが開いて、真田先輩が乱入してきた。 部屋に鍵を掛けてなかったっけ、と僕は考えた。失敗だったな、とも考えた。 でもとりあえず硬直してしまって、成す術がない。これは違うんです、と言い訳をするべきだろうか。何がどう違うのか、僕には上手く説明をすることができそうになかったが。 それよりも、無事か、とは何だろう。僕はどこも怪我をしてない。だからとりあえず、まあ無事って言うんだろうなと思う。だから僕は頷く。 「……はあ。そうみたいです」 「望月も無事のようだな。しかしお前ら、そんなに密着して、今まで何をやっていた?」 「こんばんは、真田先輩。ちょうど今僕と彼は、友情を深め合っていたところなんですよ」 「なにっ、本当か? それは良いことだ。そいつはあまり自分のことを語らない奴だが、なかなか骨のある男だ。仲良くしてやってくれ」 「そりゃもう。気持ちを語るのは、何も言葉だけとは限りませんよね? 彼、自分のことをとっても深く教えてくれたんですよ。可愛かったな」 「ちょ……おい綾時、変なこと言うの止めろって……」 「そうか。確かに言葉などいらないな、そうだ。男は様々なもので語り合うことができる……拳や、背中や、目や――そんな色々なものでな。良い友人を持ったな、黒田」 「はあ……ありがとうございます」 僕は何と言って良いのか分からず、曖昧に返事をした。綾時も真田先輩も、ノリが特殊でたまについていけない時がある。 僕は、次からはきちんと鍵を掛けておこうと心に決めた。最悪のところで乱入なんてされちゃたまったもんじゃない。まあ、この筋肉質の脳味噌を持っている先輩なら、漢らしくプロレスやってましたって言い訳が充分に通用しそうだったけど。 後から仲間たちも続々と僕の部屋に集まってきた。彼らは、門限を大幅に過ぎても僕の部屋にいる、いやもう泊まる気でいた綾時のことで、何か言いたそうにしていたけど、普通の人間の彼の前で影時間やペルソナなんかの話題を出す事ができないせいだろう、何とも言い難そうな表情でいる。後でこれは大分絞られるな、と僕は覚悟を決めた。 「望月。我々の寮は、規則に厳しい。ルールを破る者にはそれなりの罰則が適用される。君は何故こんな時間までここに?」 桐条先輩が、厳しい顔をして綾時を詰問する。彼女にしてみたら、違反者には厳しく、って心づもりなんだろうが、綾時は美人になら罵られたって嬉しいくらいの女好きなのだ。あまり効果はないだろう。 綾時は相変わらず女子向けのにこやかな顔つきで、「こんな時間に貴女に会えて光栄です」とか言っている。ずれている。 「彼と、どうしても一緒にいたくて。僕の大事な人だから」 ごつ、と鈍い音がした。見ると、岳羽が僕の部屋の向かいの壁を思いっきり殴り付けたところだった。なんだか怖いなと僕は思ったが、あまり突っ込んで順平みたいに殴られてもたまらないので、黙っておいた。 「彼を大事に思うなら、それこそルールに忠実であるべきだ。君のお陰で、彼はこの後我々に説教を食らうことになる」 ああやっぱり怒られるんだ、と僕は思った。予想はしていた。綾時はすまなさそうに僕を見て、でもいつもの「ごめんね」は言わないまま、「一緒にいたかったんです」と言った。 「ほんの少し離れるだけでも、すごく不安になるんです。僕、彼のことを僕自身とおんなじものみたいに、ううん、僕よりずうっと大事な、家族みたいに思ってる。できるなら一緒に暮らしたい」 「君は帰国子女で、ここへ来て初めて一人暮しをしていると聞いている。まあ無理もないことだと思うが……君は、どう思う?」 僕に話が振られるのは、なんとなく予想がついていた。いつもそうなのだ。 僕は頷いて、「俺は綾時が好きですから」と言う。岳羽がまた壁に良いパンチを食らわせる。その横で順平が頭をがんがん扉に打ち付けて、部屋の主の真田先輩に「おい、やめろ」と制止されている。 「彼に寂しい思いをさせるのは嫌です。規則のことも分かってます。でも引き止めたのは俺です。すみませんでした」 「そうか……まあ、君がそこまで言うのなら仕方がない。これからは前もって連絡してくれ。それから、きちんと記帳を頼む。悪いが都合の悪い日は追い出すかたちになるかもしれないが、いいな」 「は、はい! 美鶴さん、ありがとうございます!」 綾時が心底嬉しそうに、ぱあっと顔を輝かせた。僕は良かったと安堵しながら、「ありがとうございます」と桐条先輩に礼を言った。先輩二人は、なんだかくすぐったそうな、満足そうな顔をしている。良い友達ができたな、ってふうに。 「って、そうじゃないじゃない! 美鶴先輩も真田先輩も、突っ込まなきゃなんないとこは他にあるでしょう!? なにちょっと良い話纏めちゃいました、って顔してんですか!? 違うでしょ!!」 「あっ」 「そ、そうだった。黒田、悪いが少し作戦し……いや、上まで来てくれ。大事な話がある。望月は……」 「あ、は、はーいリョージくんは、良い子だからオレっちの部屋でゲームでもしましょうね。んじゃ、先輩がた、ごゆっくりー」 岳羽の突っ込みが入り、先輩たちがはっとして、両側から僕の肩を掴んで、引き摺っていく。綾時は順平の部屋だ。僕はとりあえず手を振って、「またあとで」と言う。「うん、あとで」と答えが返ってくる。 「身体に異変はないか?」 作戦室に入るなり、言われたのはそれだった。僕は首を傾げた。どこもなんともない。いつもどおり。 「今日の影時間の記憶はあるか?」 僕は首を振る。日付変更はごくスムーズに行われていた。 先輩たちは、二人とも揃って変に深刻な顔をしている。具合の悪い沈黙の後、桐条先輩が言いにくそうに切り出した。 「……君、検査を受ける気はないか?」 「どういうことですか」 「訳が分からんからに決まっているだろう」 「もちろん、無理強いするつもりはない。ペルソナ使いの身体検査は、あまり面白くないことまで探られてしまう点があるのは、確かだ」 どうやら僕は、覚えのないうちに、妙なことになっていたらしい。先輩から聞く所によると、馬鹿でかい棺に変化していたそうだ。 そうなると心配なのが綾時だ。巻き込まれておかしなことになってやしないだろうか。 「ああ。できれば望月にも簡単な検査は受けてもらいたいんだがな。巻き込まれて何事もないならそれに越したことはないが、少し心配だ」 僕は、頷いた。 「分かりました。それじゃ、部屋に戻ります」 「ああ、望月のことは頼むぞ」 作戦室を出て、階段に足を掛けたところで、ふっと電気が消えた。真っ暗になった。 身体がふわふわしている。影時間に入ったのかなと僕は考えたが、どうやらそうではないらしい。遠くから、ゲームのBGMが聞こえてくる。歓声も聞こえる。 多分声からして、綾時が順平と対戦して勝ったんだろう。綾時も大概ゲームが下手だが、順平はもっと下手なのだ。 機械が動いている。だから影時間ではないはずだけど、いつも通り床から血が染み出している。ぬるついた感触と、鉄臭いにおいがする。 「……栄時!」 いきなり、綾時の泣き顔が目の前に現れた。彼は今順平と対戦ゲームをやってるんじゃあなかったか。 相変わらず情けない顔つきで、ぶるぶる震えながら、「えいじ、えいじっ」と僕を呼んでいる。 嫌なことでもあったのか、誰かに苛められたのかは知らないけど、まったくいつまで経ってもこいつはしょうがない。泣き虫だ。多分彼の泣き虫は一生治らないんじゃないかなと、僕は思う。 手を伸ばして、綾時の頬を撫でて、「泣くなよ」と僕は言った。 でも、どうやら彼が泣き止む気配はなかった。 ◆◇◆◇◆ 目を開くと、目の前に白い天井があった。壁も白、シーツも白、全部白。僕は懐かしい気持ちと焦燥と不安を一緒に感じて、何度か瞬きをして頭を振り、身体を起こした。 腹の辺りに温かい感触があった。手にも。どうやら、綾時が手を握ったまま、僕の腹を枕にして眠っているらしい。 まったくしょうがないなと思いながら、とりあえず僕のシーツを半分掛けてやった。風邪なんて引かせちゃったらたまらない。 綾時の寝顔がなんだか苦しそうだったから、僕は彼の頭を撫でてやった。触ると、彼の顔は幾分穏やかなものに変わったように思えた。良かった。 彼の髪を梳きながら、僕は辺りを見回した。がらんとしていて寂しい部屋だった。 何度か世話になっている辰巳記念病院の病室に、僕はいた。僕は病院が嫌いだったから、微妙な気持ちになったけど、それほどストレスを感じないのは、傍に綾時がいるからだろう。そんな気がする。 まったく僕が誰かといて安らぐことがあるなんて、信じられない。この港区へ越してきたばかりの頃の僕に、その話を聞かせてやったなら、鼻で笑った後で「寝言は寝て言えよ」と肩を竦めてすっぱり切り捨てただろう。 「ん……えい……」 「綾時?」 綾時は、寝言(だろう、たぶん)で僕の名前を呼んで、苦しそうに眉を顰めている。悪い夢を見ているのなら起こしてやったほうがいいのかなと思っていると、彼がうっすら目を開いた。起きたみたいだ。 「おはよう。うなされてた」 「えいっ……栄時!」 僕を見るなり、綾時は必死な顔をして抱き付いてきた。彼の身体は震えている。 僕は、綾時を抱き返して、背中を撫でてやりながら、「落ち付け」と言ってやった。 「大丈夫だから」 「栄時……えいじ、僕、良かった。君に何かあったら、僕もう生きていけないって、どうしようって、思って、怖くて、」 「うん。僕は大丈夫。すまない、なんだかわからないけど心配掛けたみたいだな」 僕には病院で眠っていた今と、最後に覚えている記憶とを、上手く繋げることができなかった。ぽつぽつ綾時が零す単語を拾ってみると、どうやら僕は寮でいきなり倒れたらしいのだ。 階段から落っこちて、身体を強く打って倒れているところを、先輩がたが見付けて病院を手配してくれたらしい。それが昨日の夜だって言う。 なるほどなと僕は思う。ライトが消えたんじゃなく、ただ僕が昏倒しただけだったのだ。あのぬるついた床の血も、僕自身のものだったのだ。大方どこかでぶつけたんだろう。 外は明るく、もう日はかげりを見せていたから、あれから大分経ったみたいだ。もっとも、大分なんて言ったって、僕が長い時間前後不覚でいることなんてざらだったから、みんなはもう慣れているかもしれない。 綾時はまるで死人みたいにひどい顔をしていた。僕が目を覚ましたと知って、ほっとしたふうに溜息を吐いている。 どうやらかなり心配させてしまったみたいだ。 「ごめん。お前、学校は?」 「そんなの行けるわけないでしょ。君についてなきゃって、君が目を覚ますまでは僕がそばにいてあげようって、思って、だって君が目を覚ました時にひとりだったら、きっと寂しいから」 「ごめん、綾時。迷惑掛けた」 「迷惑なんかじゃないから、もうこんなこと、ないって言ってよね。どこか痛いところはない? 苦しいところはない?」 僕は頷く。痛いのも苦しいのも慣れているから、こんなのはなんてことない。 「欲しいものはない? 食べたいものとか……喉乾いてないかい?」 「うん。平気」 僕は頷く。そして、すごく胸があったかくなっていることに気付く。 綾時は甲斐甲斐しく僕の世話を焼く。今はもうないけど、もしも僕の両親が生きていたらこんな感じだったのかなと、ふと思った。 家族の思い出なんてほとんど残ってないから、本物がどんなものかもわからないが、こんなふうにあったかいものだったんだろうか。 「目が覚めた時に、傍に誰かがいるって、良いもんなんだな」 僕はしみじみ言う。ほんとにそう思った。 綾時は、また情けない顔つきになって、無理に笑うみたいな変な顔をして、「もう大丈夫だからね」と言った。どうやらこの変な顔は、僕を安心させようとしてくれてのことらしい。 「僕、君の傍にいるから。離さないから、何があっても隣には僕がいることを知っていて。君はひとりじゃあない」 「うん」 僕は頷いて、「ありがとう」と言う。綾時はきっと約束を守ってくれるだろうって気がした。 僕はずうっと一人で何でもこなして生きてきたけど、どうやら今はもう違うらしい。彼がいる。 「俺、綾時みたいな父さんが欲しかったな」 「……パパって、呼ぶ?」 「バカ」 僕は笑う。綾時の額にキスして、また笑う。綾時はすごく照れた顔になった。もっとすごいことだって僕らはしてるってのに。 「あ、お客さんだよ」 病室のドアが叩かれて、綾時が「はーい」と返事をする。そこは普通、部屋の主(だろう、たぶん)の僕が返事をするところだろうと思うが、まあどうでもいいのでなんにも言わない。 入ってきたのは、桐条先輩だった。僕を見て「目が覚めたか」と言う。でも硬い顔つきのままだ。 「こんにちは、美鶴さん。昨夜はありがとうございました、病院を手配して下さって」 「彼はうちの寮生だから、当然のことをしたまでだ。黒田、望月に礼は言ったか」 「はい」 「彼がずっとお前に付いていると言って聞かなかったのでな。それと……望月、少し席を外してくれないか。彼と話がある」 「あ、はい。じゃ、廊下で待ってます。済んだら呼んで下さいね」 綾時が微笑み、会釈して、部屋を出て行く。彼は帰国子女のくせに、一月ちょっとでもう日本の仕草が染み付いてきてるな、と僕はちょっと感心してしまった。 部屋には、桐条先輩と僕だけが残された。なんとなく空気が重い。 居心地悪いなと思っていると、桐条先輩は厳しい目つきを僕にくれ、こう言った。 「黒田栄時、本日付けで君を特別課外活動部現場リーダーを解任する」 「……え」 いきなりなんだ、と僕は思った。でもその反面、ああやっぱりな、とも思った。最近の僕は好き勝手に行動し過ぎだって自覚はあった。リーダーを辞めろと言われても無理はない。 「加えて特別課外活動部からも抜けてもらう。学生寮も、退院次第別の寮が割り当てられるだろう」 「――確かに、影時間への適応能力を失った者は、戦力にはならない。先輩の判断は正しいと思います。ですが、ひとつ聞いても良いですか?」 「……ああ」 「俺には、俺自身がいきなり影時間を体験できなくなった理由が分かりません。見当も付かない。ですが、先輩の口振りだと、理由はもう分かっているってふうに聞こえます」 桐条先輩が、僕からすっと目を逸らした。珍しいな、と僕は思った。いつもは真っ直ぐ過ぎるくらい真っ直ぐな目つきをしているのに。 「年は明かせないそうだ」 ぼそぼそ、彼女が言う。僕には、何のことだかさっぱり分からなかった。 しばらく黙り込んだ後、すうっと病室を横切り、窓の外に睨むような目をやって、腕を組んだ姿勢で、彼女が言った。 「君の命の話だ。じきに君は死ぬ。今そうやってまともに会話できているのが信じられないと、医師連中が驚いていたよ。明日目が覚めなくても何の不思議もないと」 僕は、何とも言えない。 がたん、と廊下から大きな音がした。そして、靴の底が廊下を擦る足音。駆けていく。 「あいつ、立ち聞きしてたな」 「……君はこんな時でも冷静なんだな」 「ただどうすれば良いのか分からないだけです。たぶん、いや多分じゃなくて絶対だと思うんですけど、俺が死んだら綾時が泣くから、どうすれば良いのか分からない」 「君は、彼のことが本当に好きなんだな」 桐条先輩が振り向いた。彼女はそこでやっとちょっと笑った。 「正直、私も随分落ち込んだよ。君の体は壊れ掛けている。なにか、途方もない理由で、君の体は徹底的に擦り減らされてしまっていた。普通にペルソナを呼び出している分には、絶対にありえない程にだ。心当たりが、なにかあるんじゃあないのか」 「残念ですが、全くありません」 「君は誰だ?」 「黒田ですけど」 「……そうだな。すまない、忘れてくれ」 桐条先輩は、「妙なことを言った」と僕に詫びた。そして「身体に気を付けろよ」と一言付け足して、部屋を出て行く。 靴の音が聞こえなくなった頃、僕は溜息を吐く。死ぬとかいきなり言われても、あんまり実感がない。 こういう時、混乱したり泣き喚いたりするのが普通だったろうか。でもそんな気分にもなれない。 特課部を外されて拗ねるべきだろうか。でも良く分からない。 僕は、ぼんやりとしていた。今生きてるのも、死ぬのも、今まで築いてきたものが崩れ去っても、特に感慨はなかった。 まるで僕は随分前からそういうものが来るんだってことを、あらかじめ知っていたふうな感じなのだ。ああ、やっと今日来たのか。それくらい。 僕は、ベッドから立ち上がる。身体は重くも軽くもない。普通。いつも通りだ。 これで余命三週間とか言われても困るよなと思いながら、ベッドの下のスリッパをつっかけて、病室を出た。 綾時に多分、またすごく心配を掛けたろう。ごめんって謝らなきゃならない気がする。 あいつは泣き虫だから、どうせまた泣いているんだろうと思う。慰めてやらなきゃならない。 僕には降って湧いた死なんてものよりも、そっちの方が随分と痛い。綾時に泣かれるほうが。 こういうところが順平を怒らせるんだろうなって、自覚はあるのだ。 ◆◇◆◇◆ 病院の屋上に、綾時はいた。落下防止用の金網に手を掛けて、僕に背を向けるかたちで座り込んでいた。 すごくわかりやすい絶望のポーズだな、と僕は思った。綾時はいちいち分かりやすすぎる。感情表現のレパートリーがあまりない僕は、それを見る度にああなるほどと感心してしまう。嬉しい時はこんなふうで、悲しい時はこうなんだな、ってふうにだ。 「綾時、もう中に入れよ。もうじき夜が来る。冷えるから。上着も着ないで風邪を引くぞ」 返事はなかった。 綾時のそばへ行って、顔を覗き込むと、彼はぼおっと目を虚ろに見開いて、放心している。僕は、なんだかすごく悪い事をしたような気分になってきた。 「ごめん。でも、ここ寒いから」 手を取って、引いて行こうとしたところで、綾時はいきなり僕に抱きついてきた。 そして大声を上げて泣き出した。身体はぶるぶる震えている。彼はちょっといろんなものを怖がり過ぎていると、僕は思う。 こんなで僕がいなくなった時、どうなるんだろう。大丈夫だろうか。心配になってくる。 「ごめん、ごめんなさい。僕を、置いてかないで」 「なんでお前が謝るんだよ」 まったくしょうがないなと思って、僕は綾時の顔を手のひらで拭い、「戻ろう」と言う。でも綾時は首を振る。 「僕も寒いから」 「あ……! う、うん」 まったく、小さな駄々っ子でも相手にしているみたいだ。彼を引き摺って病室へ戻る途中、何度かいろんな人に「なんだこれ」って目で見られた。 まあ無理もない、十七の男が恥ずかしいくらい大泣きしてるところなんて、あんまり頻繁に見るもんじゃないだろう。 部屋に戻って扉を閉めたところで、「君、落ち付いてるね」と言われた。 「桐条先輩にも言われた」 「怖くはないの?」 「……良く分からない。だって僕は今すごく元気だし、痛くも苦しくもないんだ。誤診じゃないのか」 「そ、そうだよね! きっと、間違ったんだよ。でなきゃ僕、君がいなくなったら、いやだよ。耐えられないよ。僕も一緒に、」 「一緒に、じゃない。大丈夫だよ。お前は何て言うか、大丈夫だって思う。僕がいなくなっても、また可愛い女の子見付けて、僕なんかのことはすぐに忘れて、今よりずっと幸せに……」 殴られた。 しかもグーでだ。線が細くてか弱いイメージがあるのに、けっこうキツいものを持っていたんだって、僕は正直驚いていた。 綾時が僕に乱暴なことをするのなんて、初めてだ。床にひっくり返ったまま呆然としていると、彼は涙目で「ばかっ!」と僕を罵り、慌しく部屋を出て行った。 僕は、なにかまずいことを言ったろうか。 分からない。たぶんそうなるだろうなってことを言っただけだ。 でも綾時を怒らせた。僕は正直、すごくへこんでしまっていた。嫌われたかもしれない。 恐る恐る病室から顔を出して廊下を覗いてみても、もう綾時の姿はなかった。帰ったんだろう。 溜息を吐いて、のろのろベッドに戻った。すごく気分が悪かった。 なんで僕はいつもこうなんだろう。誰かを怒らせたり、嫌われたりしかできないんだろう。 順平なら全然構わない。気にしたこともない。――いや、ちょっとだけ、嘘だ。僕は多分、彼に嫌われた時も、それなりに悲しかったんだと思う。 僕は、そんなつもりは全くないのだ。例えば、相手を怒らせようとか、そういうのは、ほんとに全然。 僕は綾時のことが好きだ。彼はきっと、何を言っても、何をやったって、僕を嫌いにはならないだろうって気がしていたけど、彼だって人間なのだ。僕を全部赦してくれるなんて、そんなの神様でもない限り無理だろう。 なんでこうなっちゃうんだろう。ベッドの上に座り込んで、シーツに包まって、考えてみた。 でもわからない。僕がいなくなっても綾時はきっと大丈夫だよってことの、どこがいけなかったんだろう。全然ほんとのことなのに。 |