ょっとだけずれた日々(6)




 黒沢さんは、なんだか困ったような落ち込んだような微妙な顔をして、僕にお茶をすすめてくれた。こういう時はカツ丼が出てくるもんなんだと思っていたけど、結構拍子抜けだ。
「それで、謝るタイミングが掴めずにずっとつけ回していたと……」
「はい……あの子が僕のこと全然一生懸命じゃないみたいに言うから、つい僕かっとなって彼のこと殴っちゃって、あんなに綺麗な顔なのに傷でも残ったらどうしよって……」
「鞄から押収した睡眠薬についてだが」
「あの子が、いなくなっちゃうって聞いて、僕そんなになったらもう生きていけないって思って、僕も一緒に死のうと思って」
「……悪いことは言わないから、止めておきなさい。彼もそんなことは望んでいないだろう。きっとこの先君が生きて幸せになってくれることを望んで……」
「あ、あの子がいない未来で、幸せになんてなれません! あの子が僕の全てなんです、なんで……なんでっ、なんで死んじゃうの、えいじいー!! うわああぁあん!!」
「……ああ、やり難いな……ともかく、仲直りをしたいのなら、堂々と行ってやれ。君の数々の不審な行動は、周辺住民を不安にさせている。電柱に登って病室を覗いていただの、歩道橋の上で双眼鏡を構えていただの、病室の扉に張り付いてじっと中を覗いていただの、まるきり変態行為だ。できれば逮捕したい」
「だ、だって、だってっ」
「だっても何もない。頼むから特別課外活動部員としてのプライドを持ってくれ」
 怒られてしまった。





 その後で話を聞いた真田先輩と、偶然道で出くわした順平くんに、ほとんど連行されるみたいにして辰巳記念病院に連れてかれた。順平くんは「やめといた方がいいって……」と青い顔でぼそぼそ言っていたけど、真田先輩の例の友情と努力と勝利を何より重んじる性格に押されて黙ってしまった。
 真田先輩は「頼もう!」と漢らしいことを言って栄時の病室のドアを勢い良く開け、僕を放り込んで、「後は頼んだぞ!」と順平くんを引き摺って帰ってしまった。
 これだけ?という気分だった。あの人は一体何をしたいんだろう。
「えっと、あの」
 すごく居心地悪くて、僕は落ち付きなくきょろきょろ視線をさまよわせ、「いい天気だね」とか言うことしかできない。
 栄時は僕を見るなり顔を顰めて、「何しに来たんだ」と平坦な声で言った。
「僕のことなんか、そろそろ忘れたと思ってた」
「……ごめん、僕、その、君に会うの、怖くて」
 栄時がベッドを降りて、立ちあがる。あ、靴下履いてくれてる、と僕はほっとした。棄てられてなくてよかった。
 これは何発か殴られるかもしれない。覚悟はしている。
 でも予想外に、栄時は僕を殴りはしなかった。
 僕を抱き締め、胸に顔を埋めて、「なんで来たんだよ」と言った。
「お前、僕のことなんか忘れたら、多分泣かないで済むだろうなって、思って、我慢してたってのに。でも嫌われたんだって思ったら、すごく嫌だって、僕お前に嫌われるとか、いやだ」
「き、嫌いになんてなるわけ」
「ぼく、を、嫌わないで、りょうじっ、お前が、いないのはいやだよ」
 涙声だ。僕は心底申し訳なくなって、栄時を抱き締めて、「ごめんね」と謝った。
 僕のことがいやになって、嫌な奴の顔を見たせいで、顔を顰めてた訳じゃなかったんだ。栄時は泣きそうなのを我慢してたらしい。我慢できてないけど。
「ずうっと君のこと見てたんだ。毎日ここまで来て、でもどうしても顔を合わせらんなくて、ごめん。僕君にひどいことしたよ。泣かせちゃって、ごめんなさい」
 僕は栄時の頭を撫でてあげた。そして、――






「どうして僕が怒ってたのかって、考えてくれた?」
 「僕」は栄時の髪を梳きながら、穏やかな声で聞いた。栄時は頷く。何度も頷く。
「答えは出たかい?」
「わかんなっ、僕、……でも、僕ならどうだろって、考えて、みた……どうでもよくないものってあんまりないからわかんなかったけど。それで、綾時が僕に『僕のことなんて大事じゃないでしょ、そんなに沢山いろんなものを持ってるんだから』って言うんだ」
「うん。そうだね。君は、その時どう感じたのかな」
「すごい、いやだった。でも、なんで嫌なのかわかんないんだ。まだ分からない。綾時は、分かってるんだろ、怒ったんだから。なんで」
 僕は栄時の背中を撫でて、ベッドに座らせてあげた。隣に僕も腰を下ろす。
 彼の手を握って、「自分で考えなさい」と言う。
「君は頭の良い子だ。誰かのお古の考えが似合う子じゃない。もちろん、僕のものでもね。ただ、一緒に考えてあげられるよ。君の話を聞いてあげられる。栄時、ゆっくりでいいよ。話せるようになるまで僕は待ってる。泣きたいなら、ちゃんと泣いてからにしなさい」
 栄時が頷く。僕が頭を抱き寄せてあげると、小さい子供みたいに僕の胸にしがみついて泣いた。
 こんなに大きくなってもまだ甘える仕草を覚えていてくれたことが、僕は嬉しいと思う。
 できるなら、もっともっと甘やかしてあげたかった。
「……綾時、なんかほんとにお父さんみたいだよ」
 少し落ち付いてから、栄時が言う。僕は曖昧に微笑む。
「もう大丈夫。ごめん。ありがとう」
「うん、よかった」
「考えたんだ。あれって僕たぶん、綾時が僕のこと好きだって言ってくれるのを、そんなの嘘だって言っちゃったんだよな」
「そうだね」
「そりゃ怒るよな。嘘吐きだって言われたら」
「別にそこに怒ってた訳じゃあないよ」
「……僕がいなくても、たぶん綾時はいつか他の人を好きになって、幸せになるってとこ?」
「うん」
「でもほんとのことだと思うんだ。僕、ダメな奴だから、いつか絶対綾時に棄てられ……痛っ」
 僕は栄時の頭を叩いて、「そんなこと言わないの」と窘める。栄時は「うん」と申し訳無さそうに頷く。
「綾時は、僕が自分をダメって言うと怒る」
「君のことが好きだからね。許さない」
「僕がいない未来の話をしたから?」
「うん」
「そこで綾時が幸せに生きてるって話をしたから?」
「うん」
「離れ離れになっても、綾時はきっと平気だって言ったから?」
「そうだよ。君のいない未来なんていらない。滅びればいい」
「綾時?」
 栄時が不思議そうに目をぱちぱちしている。僕は彼の額に唇を付け、「ずっと一緒だからね」と言う。
「死は誰にだって平等に訪れる。僕にも、君にもね。今君は死を怖いと感じているだろう?」
「うん……」
「そして、僕の死をもっと怖いって感じてくれてるだろう?」
「……うん。綾時が、いなくなったら僕、生きてたって」
「大丈夫だよ。君の最期の一瞬まで、僕はここにいる。君を看取るまで僕は消えやしないよ。怖いものなんて、もうなんにもないんだから」
 僕は栄時の背中を撫でる。彼の身体から、力が抜けていく。
 良かった。安心してくれてる。
「綾時、実はちょっと意地が悪いだろ」
「うん? どうしてだい?」
「僕に難しいことばっかり考えさせる」
「君がここにいる証だ。大いに悩みなさい。君は今生きてるんだから」
 栄時が頷く。僕は、微笑む。







 ふと気付いたら、僕はベッドの上で栄時を抱き締めてた。仲直りしなきゃ、僕は君を嫌ってなんかないよとどうしても伝えなきゃって思ってたところにいきなりだったから、ちょっと混乱した。
 もう栄時は泣いてはいなかった。目は赤かったけど、穏やかな顔つきで、「ああやっぱり僕お前のこと好きだよ」ってしみじみ言っている。
「えっ、え、あのっ、ぼ、僕も……僕も君のこと、愛してるっ」
「ん、お前がいてくれたら、僕はもうなんにも怖くないんだ。だからあんまり意地悪すんなよな。もうほったらかしとか、ほんとやめてくれ。綾時が来てくれなかったら、僕はすごく寂しかったんだ」
 息が止まりそうになった。そんな可愛い顔でなんてことを言うの。
 僕は頭に血が上ってしまった。どうしようもない。
「え、栄時、そんな顔っ、されたら僕……!」
 我慢出来なかった。僕は栄時をベッドに押し倒して夢中で唇を貪った。栄時も僕の背中に腕を回して、口を薄く開いて、僕の唇を舐めてくれる。応えてくれる。
「りょお、じっ……さわっ、て。ぼくを、もっと、」
「えーじ……か、かわいいよっ……!」





「邪魔するぞ!」





 ばん!と病室のドアが開いた。
「海牛で牛丼を食ってきたんだが、そろそろどうだ。仲直りはできたか、黒田に望月!」
 真田先輩だ。彼は僕と、組み伏せられている栄時を見て首を傾げて、「なんだ?」とか言っている。僕と栄時は、声を揃えて言った。
『プロレスごっこです』
「楽しそうじゃないか! 俺も混ぜろ!」
「うん、いいと思いますよ。僕ちょっと一度先輩のこと月光湾とかに沈めておいた方がいいのかなっていう気分なんです、今すごく」
「ふっ、宣戦布告か。受けて立とうじゃないか、望月。俺は強いぞ、負けん!」
「真田さん、食った後いきなり走り出すの止めてくださいよ……って何やってんのこれ?」
「ほっとけ。俺知らない。あ、そうだ。真田先輩は聞いてないみたいだけど、順平も、ありがとう。綾時と仲直りできて良かった」
「……なんか……お前、いきなり丸くなっちゃって……ううっ、ナニされちゃったんだ、脳改造か? ロボトミーか? 可愛くない宇宙人エージさんはどこ行っちゃったんだ」
「順平くん、ひどいこと言わないで! 栄時ははじめからすごくすごく可愛いのっ!」
「エージ……いつかきっといいこともあっから、なっ? 元気出せ、なっ?」






 ともかくそんなこんなで僕らは仲直りをした。
 もうあんまり時間は無かったけど、栄時はすごく幸せそうに僕の隣にいてくれる。そのことが救いだ。
 このまま彼が、もうなんにも怖い思いをしなくて済みますように。





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