ポートアイランド駅の改札を抜けたところで、ふっと電気が消える。辺りは一瞬真っ暗になり、そして世界が蛍光色に輝き始める。影時間の到来だ。
 この時間は僕にとってすごく心地良いものだったけど、みんなにとってはそうじゃないらしい。シャドウって怪物が現れて、人間の心を食べちゃうそうだ。そして今あるように、ペルソナ使いが能力を悪用する時間帯でもある。影時間に起こった出来事は、『ない』こととして扱われる。ものを盗んでも、人を殺しても、誰に咎められることもないのだ。
「あ、影時間に……」
 風花さんが力なく頭を振る。彼女は手を組んでペルソナを呼び出した。索敵型のペルソナだって言う。本当に見るのは初めてだったから、さすがにちょっとびっくりする。
「ダメです、反応ありません……この街の中にはいないようです。他の場所へ連れて行かれたか、それとも、もう……」
 風花さんは俯き、「黒田くん……」と心配そうに名前を呼ぶ。彼女はひどく心配そうだった。「大丈夫?」と声を掛けてあげていると、「お前は冷静だな」と、順平くんに苛ついたように言われた。
「お前あいつのこと心配じゃねえのかよ。殺されちまってるかもしれないんだぞ」
 ピリピリした様子で突っ掛かられた。僕は「うん」と頷く。
「心配さ、そりゃ。ただ、わかんないんだ。いきなり死ぬとか殺されるとか言われたってわかんないよ」
 僕はちょっと迷ってそう答えたけど、実の所、自分でも本当にそう思っているのか、良く分からない。『本当に僕は良く分からないと思っているのか?』ってこと。僕はそりゃ黒田くんの身を案じている訳だし、彼に何かあったらって考えると目の前が真っ暗になる。
 でもあの人に『なにかある』ところがどうしても想像出来ないのだ。あの子はペルソナ使いじゃない。普通の少年だ。今は犯罪に巻き込まれているかもしれないそうだ。それなのになんで僕は、こんなに根拠もないのに、彼はきっと大丈夫なんて思えるんだろう。





 屹立する棺桶たちの中に、人影がある。女の子だった。月光館の生徒だ。僕は女の子の顔と名前を覚えることについてはちょっと自慢できるくらいだから知っている。
 彼女は大分混乱している様子だった。無理もない、影時間ってものが存在するって知ってる僕だって結構混乱しているんだから。「大丈夫かい?」と声を掛けてあげると、彼女はぱっと顔を上げた。知った顔を見付けてちょっとほっとしたふうだった。
「綾時くん! これ、これなに?」
 「僕にもわからない」と僕は正直に答える。
「でももう大丈夫だよ。もう心配いらない」
 そこで僕を押し退けて、ゆかりさんが「あんた!」ときつい顔をする。知り合いなのかなと考えていると、「あんたでしょ、A組の、あいつの名前復讐代行サイトに書き込みしたっての」と言う。
 僕は驚いた。可愛い女の子が得体の知れないサイトに、誰かを殺してくださいって書き込みをすることが上手く信じられなかったんだと思う。みんな僕にはとても優しくしてくれるのに。
 だから何かの間違いだと思ったんだけど、ゆかりさんに突っつかれた女の子は急に蹲って、泣き出してしまった。影時間は、適性のない人間の感情をとても不安定にするらしい。
「わ、私だけじゃない! 漫画喫茶でネットやってる時に見付けて、仲間内で盛り上がって。とりあえず、死んでもいいって思った奴の名前書いて、それで」
 「黒田でいいじゃんって言って」と彼女が言う。
「黒田なんかいなくなればいいのにってみんなで言ってて。だってあいつ、妖怪のくせに綾時くんに付き纏って、生意気なんだもん。みんなでボコって、二度と綾時くんに近寄るなって何回言っても全然言うこと聞かないから、死んじゃえばいいって何度も思ったけど、まさか本当に復讐代行人がいるなんて思わなかったんだよ!」
 「復讐代行サイトって悪戯じゃなかったんだ」と彼女が言う。泣いている。
 僕は呆然としていた。理解したのだ。あの子がいつも傷だらけだった理由が、彼が良く言う「転んだ」や「階段から落ちた」なんかじゃなかったことや、僕が近付くとちょっと困った顔をしていたのがなんでかってこと。
「……僕のせいなの?」
「今更何言ってんだよ。遅えよ」
 順平くんがまた突っ掛かるみたいに言う。







 急にみんな棺桶になってしまった。街中の人間がすべてだ。街自体も随分変わってしまって、おかしな怪物が追い掛けてくる。悪い夢みたいに。きっと本当に悪い夢を見ているに違いない。
 どろどろのコールタールに追い立てられるようにして、近くの建物の中に逃げ込んだ。『立入禁止』の柵を乗り越えると、怪物はもう追って来なかった。
 入口の扉を閉めると、奇妙な色合いの闇が訪れた。明かりらしいものは何もないのに、仄かにすべてが淡いグリーンに発光している。そこで気が付いたのだが、壁や床や天井から、赤い血が滴り落ちている。彼女は悲鳴を上げたが、声は空洞の闇の中に吸い込まれて行った。奇妙なエコーだけがいつまでも残っていた。
「騒がしいな。あまりうるさいのは好きじゃない」
 ぼそぼそした声が聞こえて、彼女は恐る恐る振り向いた。すごくどこかで聞いたことがある声だった。例えば「いやらしい目でゆかりのこと見てたでしょ」と言った時に、短く「見てない」と返ってくる。「綾時くんに付き纏うのやめてくれない」と言った時に、「べつに付き纏ってない」と返ってくる。
 つい昨日に、復讐代行サイトに名前を書き込んでやった生徒だった。名字は黒田と言う。名前は知らない。『月光館学園高校二年F組の黒田』だ。
「黒田。ごめん、ほんとにあんたを殺して欲しいって思ったわけじゃなくて、復讐代行人なんてのがほんとにいるなんて思わなかったんだよ」
 多分幽霊なんじゃないかなって思ったのだ。そういう役割がすごく似合う奴だった。だから妖怪なんてあだ名が付いている。
 彼は怒ったり恨んだり泣き言を言ったりする気配は無かった。うらめしや、とかそんなのはなし。ただそこにぼうっと佇んでいる。
 もう一度「ごめん」と言うと、彼はもそもそと、「人を恨む時に、自分も恨まれてるかもって考えたことはあるか?」と言った。相変わらず覇気がない声だった。なにもかもどうでもいいや、みたいなふう。
「みんな多かれ少なかれ悪意をどこかに向けて生きている。そんなに怯えることでもない」
 彼は「でも相手が悪かったんだ」と、どうでも良さそうに言った。
「サイトに書いてあっただろ。禁止ワードを書き込んだ場合っての。あらかじめ管理者が決めた特定の言葉を入力した場合、依頼者が削除対象になる。出資者の幾月修司。復讐代行人メンバーの榊貴隆也、白戸陣、吉野千鳥、それから」
 コツコツと、靴の音が空洞の中に響く。影がゆらゆら揺れる。そいつが近付いてくる。
「こ、来ないで」
「黒田栄時。俺だな。つまり、復讐代行人は復讐代行人を殺すことはない。悪意は依頼者に還る」
 多分悪い夢に違いなかった。その少年は見た目良いところなど一つもなく、やみくもに頭が良いという長所があるにはあったが、おおむね生理的嫌悪以外の感情を女子に抱かせることは無かった。いつも猫背で、ぼんやりとそこにいた。何にも考えていないふうだった。
 例えば人を殺したり、誰かの復讐に手を貸してやったりと言ったふうな、そういう度胸がある男には、どう贔屓目に見てやったって見えなかったのだ。
「まさか、あんた、嘘でしょ。あんたが」
 残念ながらその少年が「嘘です」と言ってくれることは無かった。薄明るいグリーンの明かりの中で、彼は邪魔っけそうにうざったい前髪を掻き上げて、冷たい灰色の瞳で彼女を見下した。
「あんた、その顔、嘘」
 信じられないが、その顔は絶対的に整っていた。『妖怪』なんてあだ名を付けられた男はどこにもいなかった。まるで天使みたいに美しい顔立ちをしていたのだ。
「俺たちストレガの名前を書いた奴は殺す。決まりなんだ。おやすみ」
 彼が気だるそうに言った。すっと指を上げた。彼の背後で、闇がむくむくと膨れ上がった。蠢いている。生きているようだ。
 彼は野生動物みたいにぎらぎらした目を燃え上がらせていた。そして、王様みたいに傲慢に「さあ」と言い放った。やはり、そこにはあの凡庸な『黒田』という少年はどこにもいなかった。
「やれ」







 その女の子の悲鳴が聞こえた方角には、天文台があった。ギリシャ彫刻みたいに何本も柱が並んでいて、天文台と言うよりは塔とか灯台とか言った名前のほうがしっくり当て嵌まりそうだった。何階建てってことになるかは分からないけれど、結構な高さもあったから。
 そもそもなんで学校の敷地内に天文台なんだろう。つい先日知り合いになった人間に、おかしな建物を追い掛け続けている生徒がいるのだけれど、彼が言うにはこの天文台は随分昔から閉鎖されていて、使う人間を見たことがないそうだ。原則立入禁止。それっておかしな話だ。天文台ってのは誰かが星を観測するために存在しているんだから、使う人間がいなきゃ天文台が天文台である意味がない。目的のために使われなきゃ、それはただの綺麗な建物なんじゃないかと思うのだ。細長いのが取り柄の、何にも使われない塔。
 ともかく、駆け付けた時には周り中ぐねぐねしたシャドウだらけだった。聞いた話では、彼らはいつもはこの街でも一番高いタルタロスって建物の中に引っ込んでるそうなんだけど、散歩でもしていたんだろうか。そう言えばこの間も僕が影時間の街を歩いていると、気さくに寄ってきたのだ。やあこんばんは、いい夜ですね、実を言うとあなたに会えるのをずっと楽しみにしていたんですよ、ってふうに。
 みんなは悪く言うけれど、僕にはそれらが悪いものだとはどうしても思えない。みんなが妖怪だって呼ぶ黒田くんを妖怪だと思えないみたいに。僕の価値観ってものはどうやら世間からずれているらしいぞと僕は考える。多分そうなのだ。
 考え事をしているところに、ゴキブリでも出た時みたいな悲鳴が塔の中から聞こえてきたものだから、僕らは『立入禁止』の張り紙にかまわずにフェンスを乗り越えて敷地内へ侵入した。まず僕と順平君と真田先輩、それから天田くんが先、女の子たちは後。捲れるからとか下から見えちゃうからって理由らしい。残念だ。
 コロマルが悲しそうに鳴きながら、高いフェンスをガリガリ引っ掻いている。彼の肉球は上手く網を掴めないのだ。
「先輩、どうしますコロマル……」
「悪いがそこで待っていろ。さっき保護した女子を守っておいてくれ。美鶴とシンジがじきに合流するはずだ。望月、お前もここにいろ。ペルソナを呼べんお前は足手まといになる」
「はい、って言えれば良いんですけど、無理です。邪魔にはなりません。あの子は僕が守る」
 そこでまた順平君が「生きてりゃな」と絡んでくる。本当にさっきからピリピリしている。「もう、なんなの」と僕が言うと、ぷいっと顔を背けて「別に」と言う。
 「なんなの、感じ悪い」とゆかりさんが言うと、「感じ悪いのはそっちだろ」とつんけんした声が返ってくる。
 ほんとに分かりやすい人だなあというのが僕の感想だった。彼なりに黒田くんのことが心配でたまらないらしい。
 日頃から思っていたけど、彼は良くも悪くも正直な人なのだ。嬉しい時は大はしゃぎでとてもご機嫌になるし、苛々していると本当にピリピリしている。気まずくて近寄れないくらい。感情がそのまま出ちゃうんだろうなと僕は考えた。でも僕も多分人のこと言えない。
 天文台の中へ入ると、入口のそばに女の子が倒れていた。彼女と一緒に、僕らが探していた人の姿がある。
 黒田くんだった。どう見ても生きてるふうに見えた。彼は行儀悪くぺたんと女の子のすぐそばに座り込み、彼女の顔を覗き込んでいた。
「黒田くん!」
 僕は彼に駈け寄り、しゃがんで彼の両肩に手を置いて、「どこも怪我はない?」と訊いた。彼は不思議そうに首を傾げ、「怪我?」と反芻した。
 僕に続いて、順平君が本当にほっとした様子で黒田くんの頭に手を置いて、「いやホント良かった」と言う。
「お前、無事だったのな。そっちの子は?」
「ああ……死んだ」
「えっ?」
「心が食われた。何も考えられない。何もできない。死んでるのと同じだけど、死ぬより惨め。死んだほうがまし」
 彼はぼおっとした声で、いつものようにボソボソ言う。ちょっと内容がおかしい。順平君も同じように思ったらしくて、「おま、ホントに大丈夫か?」と黒田くんの背中を叩いている。
「うん、でもわかる、わけわかんなくなっちゃってんだよな。オレも初めのうちそうだったから。ともかく立てるか? 帰ろうぜ、うちの寮なら安全だからよ」
 「リョージ、お前そっちの女子背負ってくれ」と言われて、僕は頷く。どうやら順平君の機嫌は回復したようだった。一安心だ。
 「ちょっと、大丈夫だったの?」とゆかりさんが後からやってくる。僕らはちょっとまごついた後で、彼女に頷いてみせる。「黒田くんは」と僕は言う。
「ああ、うん、黒田はピンピンしてる。ちっと混乱してるみてーだけど生きてる。こっちの女子の方はちっとヤバい。黒田の方も今晩は無事だったけどよ、まだ狙われてんだから、明日からも気ィ付けて見といてやんねーと。なあお前、うちの寮来いよ。ガス爆発とかなんかでさ、部屋ボロボロだったろ? うちに来てりゃあいつらに手出しはさせねー」
 順平君が、ぼんやりしている黒田くんを元気付けようと色々喋り掛けてあげている。僕も何か言ってあげたいんだけど、なんとなくまごついてしまって、言うべきことが言えない。もう大丈夫だよとか、君は僕が守るから心配ないよ、ってふうなこと。
 彼は僕のせいでいじめに遭っていたって言う。こういう時は何を言えば良いのかなって考えていたところで、いきなりすごい音がした。
 驚いて見ると、真田先輩がどうやらドアを殴り付けたらしいのだ。すごく強く、壊れそうなくらいに。彼は「やられた!」と忌々しげにうめいている。
「開かん。閉じ込められた」
「え、閉じ込めって、マジっスか」
「誘き寄せられたってところだろうな。おそらく、奴らはわざとその男を生かしておいたんだ。ろくでもないことを企んでいるんだろう」
 僕らは黒田くんを見る。「大丈夫ですか?」とアイギスさんが心配そうに言う。
「おい、黒田だったな。お前今朝理事長に会うとメモを残していたな。あれはどういうことだ。何の用件で呼び出された」
「真田サン、そんな尋問みてーにあんまキツく訊かないでやって下さいよ。こいつただでさえ幸薄いのに、泣いちゃったらどうするんスか」
 順平くんが、子供を相手にしているみたいな優しい声で、「ん、なにがあった?」と訊く。
「幾月……えーと、理事長先生いるじゃん。何の用事で呼ばれたん? こういう呼び出しって、良くあったのか?」
 急にざあっとラジオのノイズみたいな音が鳴り始めて、空中に巨大なモニターが現れた。
でもどうやら、そいつはテレビとかビデオとか言った類のようなものじゃないらしい。風花さんがさっき見せてくれた、ペルソナ通信みたいな物のようだ。だって影時間にはほとんどの機械が止まっちゃうんだから。
『うん、その件に関しては僕が答えるよ』という声が鳴り響いて、モニターに中年の痩せた男の人の姿が映し出された。
 その人が現れるなり、順平くんが怒りを剥き出しにして、「てめえ! 良くも今までオレら騙くらかしてくれたな!」と凄んだ。でも男性は、わざとらしく怯んだふりなんかしちゃって、『おー怖』なんて言っている。これは完全に馬鹿にしている。
『その子と僕って、とても仲良しなんだよね。実は僕、その子の足長おじさんみたいなものでさ。いくつか条件を飲んでもらうかわりに、月光館学園の学費全額免除と衣食住の保証をしたんだ。僕は約束は守る男だからね。特に可愛い子との約束は』
「……可愛いか、これ?」
「さあ……」
「うん、とても可愛いと思う」
 僕は頷く。
『まず一つ目は、今後は全教科満点の学年トップを取り続けること。二つ目は書類の整理なんかを手伝ってくれると嬉しいなってこと。僕も大概多忙だからね。仕事もしなきゃならないし、素敵な駄洒落も考えなきゃならない。そしてやるべきことはきちんと果たさなければならない。最後に三つ目、それは来るべき滅びの皇子が誕生する瞬間に、母なる存在に捧げるための生贄になってもらうこと』
 初めて見る顔だったけど、この人が理事長先生らしい。あからさまに学者さんという雰囲気で、とても気さくな話し方をしている。でも言っていることはあまり気さくとは言い難かった。ダメな大人って感じがする。
 みんなうさんくさそうな顔になって、「生贄?」と反芻する。『うん生贄』と理事長先生が頷く。
『つまり僕のために死んでくれってことだね』
 『さあおいで』と彼が言う。『約束の時間だ』と。
「相変わらずのイカレっぷりだぜ。こんなのと普通に会話してたオレらってすごいよな」
 順平くんが呆れたふうに言う。僕は「この変なおじさん誰?」と彼に訊く。
「知り合い?」
「知り合いっつーか、ちょっと前までオレらを騙して利用してたラスボスっつーか、うん、そんな感じ」
「君も知ってる人? 黒田くん。仲良しなの?」
「いや、そんなことない。かなり苦手。でも飯食わしてくれてる時だけ好き」
『君を見ていると、昔飼ってたペットの猫を思い出すよ……餌をやる時だけ甘えてくるんだ。普段はとてもつれない癖にね。まあ僕は君のそういうところにメロメロな訳なんだけどツンデレハァハァ』
「……ねえ、変なことされてない?」
「ちょっと、こういう時は黒沢さんに相談した方がいいよ。いくらキミが妖怪でも、嫌なものは嫌って言っていいんだから」
 珍しくゆかりさんが黒田くんを慰めている。どうやら彼女の中で、黒田くんよりも理事長先生の方が、生理的嫌悪ってやつを感じる割合が大きいらしいのだ。
『そろそろ儀式を始めようと思うんだ。君らはアミューズの後のサラダってところだね。そう時間もないから、できるだけ早くここまで来てくれるといいな』
 『上にいるよ』と彼が言う。
『この塔の上だ。良くタルタロスが見える。君達の知り合いか他人かは知らないが、数人女の子たちがいるよ。復讐代行依頼って面白い人殺し遊びをした子たちだ。人質ってやつかな。君達は正義の味方だから、僕のところまで来ざるを得ないだろうね』
 『待ってるよ』と言い置いて、モニターは消えた。音声も映像も途切れて、また淡いグリーンの微妙な闇が還ってきた。





 「困ったね」と僕は言ってみた。でも自分で言うのもなんだけど、あまり困っているってふうには聞こえなかった。実の所は僕自身がいろんなことを上手く理解出来ていないのだ。自分でもよく分からないことで困ることはできない。
 「そう」と頷いてくれたのは黒田くんだけだった。大変だなと同情でもするみたいだった。
 普通の人間が影時間を体験すると、大体は泣いたり叫んだりするそうなのだ。さっき僕たちが保護した女の子みたいに。
 黒田くんは落ち付いていた。言動はちょっとおかしかったけど、驚いたり怯えたりはなし。すごく自然でいつもどおりだった。ポケットから引っ張り出した板チョコレートをかじっていた。さっき僕があげたものだ。
 天文台の中は吹き抜けになっていて、壁伝いに螺旋階段が一階からどことも知れない上のほうまで続いていた。天辺まで続いているのかもしれないし、途中で途切れているのかもしれない。上の方は墨汁で黒く塗り潰されたような闇に覆われていて、良く分からない。何も見えないってことはきっと途中で階段は途切れてしまっているんだと僕は考えた。夜空に浮かぶあの巨大な月が見えないんだから、つまりそういうことなんだろう。
 見れば見る程変な建物だった。星を見るための装置の類がひとつもないのだ。いよいよ天文台って話が怪しくなってくる。これじゃただの長いモニュメントだ。
 僕らは階段の中ほどで、息を切らして座り込んでいた。上ってきた距離は大したことは無かったはずだけど、皆確実に疲労していた。闇の中を神経を張り詰めて上り続けるってのは、随分と堪える仕事らしいのだ。
 「大丈夫かい? 疲れているみたいだけど」と聞いてあげると、「お前みたいな呑気な奴知らねえよ……」と、感心しているのか呆れているのか判別しにくい答えが返ってきた。
「綾時くんって、細いのに意外にタフだよね」
「そんなものなのかな。黒田くんはどうだい」
「うまい」
 水を向けると彼は口をもぐもぐ動かしながら頷いた。
「甘いものが好きなんだね」
「食えればなんでも好き」
「ここにも動じねえ奴がいるし。お前ら二人揃って影時間ライフを満喫し過ぎだろ。もうちっと気合い入れろっつの。こんな気色悪いトコ、オレならできれば早々に離脱してー」
 黒田くんは相変わらず無心にものを食べている。チョコレートを早々に胃袋の中に入れてしまった後、汚れた手を舐めて綺麗にして、皆がちょっとずつあげたキャンディやタブレットなんかを、まるで角砂糖みたいにガリガリ噛み砕いている。相当お腹が減っていたようだ。訊くと昨日の夜から何も食べていないそうだ。「朝飯を食わずに出掛けたのが致命的だった」と彼は言う。
「お前、それにしても厄介なオッサンに目ェ付けられちゃったもんだなぁ。あいつちょっとさ、ホントにおかしいんだよ。宗教入っちゃってるっていうか、電波受信しちゃってるっていうか、こないだもオレらのことアイギス操って皆殺しにしようとしてさ。なんとかアイギスが正気に返ったと思ったらトンズラしちまって、今回もなに企んでんだか」
 黒田くんが「うん」と頷いたけど、あまり話をまともに聞いている様子は無かった。彼はマスカット味のチューイングガムに夢中なのだ。もぐもぐ口を動かし、カエルのお腹みたいな風船を膨らませている。
「何か聞いたりしねえの?」
「なにを?」
「たとえば、これは一体何事だとか、なんでみんな棺桶になっちまってんだとか、あの黒くてどろどろしたモンはなにかとか」
「みんな棺桶になってくれてたら、少なくとももう女子に殴られたり蹴られたりはしなくて済むな」
 黒田くんはこともなげに言う。僕は責められている気分になって、「ごめんね」と謝った。
「やっとわかったよ。君、僕のせいでひどい目に遭っていたんだね。僕が疎ましい?」
「考えたことない。お前がいてもいなくても、みんな俺を殴ったり蹴ったりする」
 彼は頷いて、「今更」と言う。すごく悲しいことを言う。僕は「そう」と頷いて、「僕は君にひどいことはしないよ」と先に言っておいた。「君を好きだからね」と。好きな人にあらぬ誤解をされちゃとても悲しいからだ。
 「ああまたやってる」とゆかりさんが目を眇めて溜息を吐いた。「ほっとけもう」と順平君が言う。
「望月の時も思ったが、黒田、お前も初めてにしては動じなさすぎだな。以前にももしや影時間を体験したことがあるんじゃないのか」
「えっ、ほんとに? ねえ、君ももしかしたらペルソナ使いかもしれないのかい? じゃあこれから一緒に暮らせるかもなんだね。嬉しいな」
 「まだそうと決まったわけじゃない」と真田先輩が、浮かれる僕を窘めた。黒田くんは「さあ」とどうでも良さそうに首を傾げている。気だるそうな仕草だった。
「悪いが、今は別行動ができない。戦力を割く余裕がないんでな。上まで一緒に来てもらうことになる。あの男やストレガに狙われているお前にとってかなり危険な話だが、構わないな」
 「いいですよ」と黒田くんがぼそぼそと頷く。
「元からそのつもりだったし」
「なかなかに肝が据わっているじゃないか。人は見掛けによらんな」
 真田先輩がにやっと笑う。彼はどうやら黒田くんのことが気に入ったらしい。
「岳羽、何か余分な武器は余っていなかったか。こいつに渡してやってくれ」
「え……いいんですか? 彼、普通の子なんでしょ。武器持ってたって、シャドウとは戦えませんけど」
「構わん。気持ちの問題だ。ああナイフが余っているな。お前、刃物を取り扱ったことはあるか」
「必要ありません」
 黒田くんが首を振り、「それは俺に必要なものではありません」と言い直した。
「素手で充分です」
「面白い奴じゃないか」
 真田先輩はますます黒田くんを気に入ったみたいだった。
「シャドウ相手に素手で戦いを挑む気か」
 「いえ」と彼は首を振り、「俺の敵はシャドウではありません」と言う。
「もっとおぞましいものです。醜くて見苦しくて脆弱な生き物ですよ」
「は? なにそれ? 自分自身ってこと?」
 ゆかりさんは相変わらずひどいことを言う。僕らが何かフォローをする前に、黒田くんは手を擦り合わせてクッキーの粉をはらい、「ごちそうさまでした」と言った。
「すごく腹が減っていたんです。感謝します。腹が減ったまま人生を終えるってのも嫌なもんですから。じゃあ」
「て、おま」
「君達も急いだほうがいい。時間は無限じゃない」
 彼はくるっと綺麗にターンして、僕らに背中を向け、二段飛ばしで階段を駆け上り出した。小柄な猫背の背中はすぐに闇の中に消えた。





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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜