「俺を覚えていますか?」と黒田くんが巨大な二体のペルソナを肩に張り付かせて言った。彼がそうやって絶対的な力を誇示しながら喋ると、大抵のことは脅迫に聞こえるような気がした。
誰に向けられた言葉なのかは知れなかったけど、「ああ」と頷いたのは、意外にも美鶴さんだった。何か事情があるのか、荒垣さんがすっと目を逸らしている。
「桐条美鶴。桐条グループご当主の一人娘。俺の両親を殺したペルソナ使い。ようやくお話できましたね」
「君は、あの時の子供か?」
「ええ。覚えてて下さったんですね。光栄です」
黒田くんが目を閉じて頷く。丁寧な言葉遣いだったけれど、そこには相手を尊重しているって響きは全然なかった。それよりも僕は驚いて美鶴さんを見た。両親を殺したペルソナ使い。みんなも信じられないって顔で彼女を見つめていた。
「美鶴さん、どういうことです?」
「ああ、話すよ。昔、お父様に連れられてタルタロスの探索に出た時の話だ。その日は妙な気配がしていた。シャドウたちの動きもよそよそしかった。何か大事なものを守ろうとしているような、そんな感じがあった。階段を上った。だが階層の移動時に、空間が歪んで、我々は離れ離れになってしまった。私とお父様は、はぐれた探索隊を探して回った。その時に、出会ったんだ。彼と」
美鶴さんは静かに黒田くんに目をやった。彼はなんにも言わなかった。黙ってじっと美鶴さんを見ていた。親を殺したなんて言うくせ、彼は恨みや怒りや憎しみと言った感情を全く表情に浮かべていなかった。いつもそうだ。黒田くんは怒らないし、笑わない。声に感情が篭ることはたまにある。でも顔は変わらない。そもそも、普段は彼の顔そのものが前髪に隠れて見えないのだ。美鶴さんは目を伏せ、話を続けた。
「小さな子供だった。驚くべきことに、その子供はシャドウの群れの中にいて、シャドウの攻撃を受けずにいた。そこには、完全な調和があった。子供は確かに、シャドウの群れの一員だった。中心だった。思えば、おそらく群れの中にいた、ニ体の巨大なシャドウ。あの時、私が倒したシャドウ。あれが君の両親だったんだな」
「シャドウの子供?」
「おま……人間だろ? どっからどう見たってシャドウに見えねーよ」
みんな目を丸くしている。あのどろどろのぐちゃぐちゃのコールタールから綺麗な黒田くんが生まれたって聞いたら、そりゃそんな反応もするだろう。
僕はなんでか皆みたいに上手く驚くことができなかった。なんだろう、すごく懐かしい気持ちになる。僕は何かを忘れている。忘れていることも今まで忘れていたってことを思い出して、一瞬すごく具合が悪くなる。
でも美鶴さんがくたびれたように頭を振り、「君にはすまないとは思っている」と言ったから、僕は今何がそんなに具合が悪かったんだろうってことを忘れてしまった。
「……仕方がなかった。私はシャドウを倒し、影時間を消滅させるためにいる。お父様を守る為に、私はそうするしかなかった」
「ええ、そうですよね。しょうがなかった。なにも僕はあなたを責めたいわけじゃない。ただ、あなたがたペルソナ使いを生み出したこの世界に復讐を」
彼が自分のことを「僕」と言う。黒田くんの声に僅かに感情が篭った。その声は少しばかり苦しげに聞こえた。
「父も母も僕にとても優しくしてくれました。こんな、醜い人間のかたちをしている僕を大事にしてくれました。彼らを愛していたんです。でも殺された。だから復讐する。人間はこういう考え方をするんですよね」
「黒田くん」
僕は彼に何も言えない。皆もそうだと思う。言うべきことが見つからない。僕らは彼の絶望を彼と一緒に体験することはできない。だから彼の気持ちを理解することはできない。
でも僕は分かるような気がする。いや、分かってあげたい。彼のことなら何でも知りたいと思う。彼が僕の敵でも味方でも、ひとつも変わらない気持ちってのは確かにあるのだ。
「さあ、この子は強いよ。半端な能力じゃ傷ひとつつけられないだろうね。少しは私を楽しませてくれたまえ。見るがいい、すべてのシャドウを食らい尽くした最強のシャドウを。滅びた後の世界で、皇のつがいになるべき美しき皇后の姿を――」
退屈そうに、ただ少しの興味も交えて僕らを観察していた男性が、まるで自分が描いた絵画を売り込むみたいな口調で言う。僕はすごく嫌な気分になった。こんな嫌な気持ちになったのは初めてってくらいだった。
僕は誰かが彼を自分が作り上げた工芸品みたいに言うのが、どうしても我慢ならなかったのだ。
「孕む器、アルカナ零番擬態ヒト型シャドウ『フール』。さあ、君の力を見せてやりたまえ!」
「さよならだ」とあの子の唇が動いた気がした。真っ白の、なにもかも全てを塗り潰してしまうような光の奔流が僕らを呑み込む。天文台を、影時間の夜空を。一拍だけ轟音の欠片が聞こえて、後は無音だった。きっと耳が馬鹿になったのだ。
「ミックスレイド『ハルマゲドン』、発動!」
でもあの子の極圏の透き通った青い氷みたいな凛とした声だけは、不思議とはっきりと、とても良く聞こえたのだ。
もみくちゃにされて、一瞬影時間の大きな月が見えた。その後ぷつっと意識が途切れて、気が付くと崩れた瓦礫の中で僕は寝ていた。周りには壁があった。踊り場と階段もあった。どうやら床を突き破って、下の階層まで落下したらしいのだ。
僕は瓦礫の山の上に佇んでいる彼を見た。我侭で気難しい王様みたいだった。そして独りぼっちだった。
「黒田くん……」
呼び掛けると彼は意外そうに首を傾げた。
「まだ生きてたのお前。戦力外なんだと思ってたら、お前が一番頑丈みたいだな」
黒田くんは危なっかしい足取りで瓦礫の山を降りて、倒れている僕の傍に立った。彼はやっぱり綺麗だった。美しい顔もしなやかな身体も、そしてその孤独な暴君みたいな圧倒的な力も。「それでもいいんだ」と僕は言った。
「人殺しでもいい、シャドウだって、犯罪者だって構わないんだ。君が、好きだ」
「バカみたい」
黒田くんは目を眇めた。心底僕を軽蔑している顔だった。
「俺に勝てたら、お前を信じてやってもいいけど。どうせ、無理なんだろ」
「……君は、傷付けらんないよ……」
僕は微笑んだ。身体中が痛んだけど、特に気になることでもなかった。
「綺麗な……人だから」
「……本物のバカかお前?」
「愛しているよ」
彼は沈痛な表情でこめかみを押さえ、「僕はお前みたいなタイプが一番嫌いなんだ」と言った。
「何不自由なく生きてきて、恐怖も知らない。いつ死ぬかも考えたことがない。そのくせ他人と繋がりたがる。他人を知ろうとする。踏み込んでくる。最悪だ」
「カオナシくん、ダメダメ、熱くなっちゃ」
さっきの男性の声がする。土煙で姿は見えない。「君はいつもクールでいなきゃ」と言っている。「はい」と黒田くんがどうでも良さそうに頷く。
そして太いナイフを振り被り、僕の胸に突き立てる。
「お前、僕を知りたいんだろ? なら思い知るといい。呑気なお前のことだから、明日目が覚めないなんて、どうせ考えたこともなかったろ。死んだほうがましだって痛みもだ。安心しろ、時間はたっぷりある」
黒田くんの声がいつもよりも優しい。僕はそのことを喜ばなきゃならなかったんだろうけど、生憎と痛みがひどすぎて、唇がわななく。悲鳴を上げたかったんだと思う。でも声は出ない。まるで僕の喉から音が失われてしまったみたいに。
「思い知れペルソナ使い」
目の前が真っ赤になる。そして暗転する。真っ暗だ。
僕の目には何も映らなくなって、五体の感覚が消える。ただ痛みだけだ。それもじきに消える。寒さと僕が薄れていく感覚だけが存在する。
「もちづき……」
黒田くんの嘲笑うような囁きが聞こえる。僕の目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、彼の声だけは不思議といつもクリアだった。耳に馴染んだ懐かしい声。僕は昔、確かにどこかで、おんなじものを僕の全てを掛けて愛していた。それは確かなのに、なんにも思い出せなかった。
「てめえ、黒田、この人殺し野郎! そいつな、お前のことほんとに、ほんとにほんとに好きだったんだぞ!」
男の声。誰のものだったか思い出せない。
「ほら見てみろよ。やっぱお前もダメなんじゃないか」
落胆した声、そして溜息。
僕は何か言おうとしたんだと思う。ダメじゃないよ? 僕は違うよ? いや、僕ってのは誰だったろう?
ともかく何か言わなきゃならない。僕は目を見開いた。そして大きく口を開けてありったけの声で叫んだ。それは僕の喉から出たものとは思えない、とても空虚でおぞましい咆哮だった。
目を開いた時に見た彼は、いつもの何倍もすごく悲しそうな顔をしていた。
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