目を開いてもしばらくものが見えなかった。視界は真っ暗でぼやけていた。頭の後ろと両手に温かい感触があった。それはとても心地が良いものだったけど、脚と肩が寒かった。
 まず一番はじめに見えたのは、あの子の顔だった。綺麗な灰色の目だった。薄い唇だった。僕は彼の膝枕に頭を乗っけて眠っていた。手を大事そうに握られていた。すごく気持ちが良かった。
 彼は穏やかに微笑んでいて、僕はすごく意外なものを見たという気持ちになった。あの子が笑っている顔を見るのはこれが初めてだった。
 一瞬ぽおっとなって、それからそんな場合じゃないってことに思い当たって、慌てて起き上がった。見惚れている場合じゃなかった。
――君! 大丈夫、怪我はない?」
 彼の両肩を掴んだところで、僕はその惨状にまた目の前が暗くなった。ひどいものだった。シャツは沢山の血を吸って、元の地の色を見付けることのほうが困難そうだった。そして乾いてパキパキと固くなっていた。ハサミを入れたように、角張った穴がいくつも空いていた。そしてそこから覗く皮膚は、大体が赤黒く変色していた。血はもう止まっていたけれど、痛々しい傷痕が残ってしまっていた。
「僕……君に、とんでもないこと……ごめん、傷、こんなに、せっかく……君は綺麗なのに、」
 僕は彼の傷に触れて泣いた。僕がやったのだ。おぼろげだけど覚えている。感情を上手く扱うことができなくなって、僕は当たり散らすみたいに暴れ回ったのだ。上手く怒りを抑えることができなかった。僕は彼が僕を友人じゃないと突き放したことや、僕のほかの人間をとても大事そうに扱っている姿を見て、どうしてなのとなじったり、やめてよと腕を掴んだりする代わりに、彼の身体を刃物で串刺しにしたのだ。衝動的にあの子を殺し掛けてしまったのだ。
 そもそも僕はなんであんなに怒っていたのか自分でも分からない。あの子はあの子の意志で行動する、それは当たり前のことなんだから、僕が怒るようなことじゃなかったはずだ。
 なんで僕が刃物なんか持っていたのかってことも分からない。ただ頭の中が真っ赤だった。血で染まったみたいになっていた。興奮して、怒って、すごく攻撃的になっていた。頭が冷えると怖くなってきた。僕自身に何が起こったのかってことを考えるのが怖かった。
 僕は彼を抱き、心臓が動いていることを肌で感じ取って知り、それこそ死んじゃいそうなくらい安心した。生きていた。
「でも、良かった……ほんとに、生きててくれて良かった。君を殺してしまったら、僕」
「これを」
「え?」
 さっき僕を敵だって呼んで、友達なんかじゃないと冷たく吐き捨てた黒田くんが、優しく微笑んでいた。見間違いでも僕の幻覚でもないと思う。彼は今までブランケットがわりにしてくれていた月光館学園の制服の上着を僕の肩に掛け、僕の腕を取って、子供をパジャマに着替えさせるお母さんみたいに優しく着せてくれた。
「影時間の風はお身体を冷やします」
「え、あ、え?」
 その上着って言ったら、黒田くんのものなのだ。身体を冷やしちゃ大変なのは彼のほうなのに、繊細そうだし、すぐに風邪を引いてしまいそうだ――そう考えてから、ふと僕は自分が裸だってことに思い当たり、無性に恥ずかしくなってしまった。
 だって好きな子の前で全裸とかありえない。彼が男の子で本当に良かった。もし黒田くんが女の子だったとしたら、今頃「露出狂」「変態」と罵られて、完全に見限られてしまっていたかもしれない。
 ともかくそんななので、申し訳ない話なんだけど、僕は黒田くんの上着をありがたく借りることにした。
「う、うん。ありがと……えっと、どうしたの? そんな、膝なんかついて」
「数々の非礼をお許し下さい」
「は?」
「ずっとお探ししておりました。この十年間、あの日からずっとお待ちしておりました。あなただったのですね」
「え? え? えええ?」
 話が読めない。黒田くんはまるで時代劇に出て来るお殿様に忠実なお侍さんみたいに僕にかしずいている。
 彼は顔を上げ、感激したような、うっとりした潤んだ目で僕を上目遣いに見ていた。頬は喜びに赤く染まっていた。まるで離れ離れになっていた恋人に百年ぶりに会えたような顔だった。
「宣告者デス皇子様。この身体も力も、僕の全てを、あなた様に捧げます。どうかお傍に置いてください。あなた様に降り掛かる障害も災厄も、我ら一同全て破壊し尽くし御身をお守り致します」
「え……」
 僕は困惑していた。でも僕よりも、僕らを遠巻きにして怖々と言った感じで観察していた僕の仲間たちの方が、随分混乱しているみたいだった。彼らは「えええええ」と悲鳴を上げ、黒田くんの仲間らしい三人の人間は、黒田くんと同じような晴々とした顔で「お祝いせなアカンなあ」「ですねえ」「甘い物食べたい」と言い合っていた。そして影時間の風がゆるやかに解けていく。







 朝の柔らかな光が窓から射し込んできて、彼の美しい顔を照らしている。カーテンは開けられて端で一纏めにされていて、窓も開いていた。秋の朝の寂しげなまでに透明な空気が僕の部屋に降り積もり、停滞していた。
「おはようございます、皇子様」
 彼は朝の陽だまりよりも柔らかく微笑んでいた。そりゃ綺麗だった。昨夜彼が僕をランボーナイフで突き刺したり、僕が彼を大きなパン切り包丁で突き刺したりした悪夢のような出来事が、遠い夢の世界で起こった事件みたいだった。
「…………はれ?」
「朝食の支度ができております。登校準備は全て済ませておきました。差し出がましいかとは思いましたが、本日二時間目の数学の宿題がお済みになっておられませんでしたので、憚りながらこのカオナシ、代行させていただきました」
「……あ、うん?」
「本日の朝食はクロワッサンとベーコンにスクランブルエッグ、フルーツのジャムとサラダです。オレンジジュースに、食後のコーヒーもご用意しております。何かご要望があれば、なんなりとお申し付け下さい。このカオナシ、命を掛けて、すべてあなた様の望むとおりに」
「……あれ?」
 何でかホテルのボーイさんが運んできそうなぴかぴかした銀色のワゴンが、僕のベッドの横に当たり前みたいな顔をして佇んでいる。その横に彼も特に不自然なんてないという顔で、ニコニコ微笑んで座っている。床に正座していた。そのとびきり素敵な笑顔を見ていると、間違っているのは僕の方なんだという気分になってくる。きっと『一体何が起こっているんだろう?』なんて考えている僕のほうがおかしいのだ。そうに違いない。いや、でもやっぱりおかしい。
「……おはよう、黒田くん」
「はっ。おはようございます」
「これは何事だい?」
「あなたにお仕えすることが僕の至上の喜びですから――僕の、皇子様」
 黒田くんは少し首を傾げて、またとびきり可愛い笑顔を僕に向けてくれた。そりゃもう、僕が感じている些細な疑問なんて綺麗に吹き飛んでしまうくらいにチャーミングだった。
「綺麗だね。君は笑っている方がずっと素敵だよ」
 僕は黒田くんのほっそりした手を握って素直にそう言ってみたんだけれど、やはりどんな言葉も彼を称えるための文句としてはチープにしか聞こえなかった。彼はうっすら頬を染めてはにかんだ。
「僕には勿体無いお言葉です……」
 そこでほとんど扉が吹き飛びそうな乱暴さで開き、完全にバトル・モードのアイギスさんが、犯人が立て篭もる建物に突入する特殊部隊員みたいな勢いで僕の部屋へ踏み込んできた。
「望月綾時!」
「ちょっと、何をやってんのー!」
 部屋にやってきたのはアイギスさんだけじゃ無かった。ゆかりさんも一緒だ。朝から美人の黒田くんと可愛い女の子たちの顔を見れて随分と僕は幸せ者だ。これで銃器と弓矢を向けられていなければもっと良いんだけど、ともかく僕は幸せ者だ。
「手なんて握り合っちゃって、男同士でしょ! く、黒田! じゃなくって、黒田くん? えーともう、カオナシくん! あなたはここの寮生じゃないでしょ!」
「タカヤ、ジン、監督不行届きだ。皇子様の静謐な朝の一時を誰にも邪魔させるなって言ったのに」
「そんなこと言うたかて、そいつら顔が怖いんやもん」
「ちゃんと身体張れ。泣き言は瀕死になるまで聞かない」
「タカヤあ、あいつあんなこと言うてんで。鬼や鬼」
「鬼だそうですよカオナシ」
「うるさい」
 黒田くんが顔を顰めて、それから僕の方へ向き直り、心底申し訳なさそうなしょげた顔で「申し訳ありません」と言った。謝られてしまった。
「いや、君は何も悪くないよ。そんな顔をしないで」
「じゃないでしょ。突っ込まなきゃならないところには突っ込まなきゃダメだから。まずひとつ、なんであんたたちが普通にうちの寮にいるの。ふたつめ、昨日のアレはなんなの? 綾時くんがなんで変身しちゃったの? 三つ目、その寒々しい『皇子様』ってのは何なの?」
「お嫌いな食材はありませんでしたか?」
「僕は君が用意してくれたものなら何でも大好きさ。とても美味しいよ」
「光栄です、あ……皇子様、お顔にケチャップが」
「ちょっと、人の話を聞きなさ……」
 ゆかりさんが怒ったような声を上げ掛け、そこで口篭もった。彼女は僕の頬に付いたトマトケチャップを、黒田くんが舌で舐め取ってくれる光景を見て、青い顔になり、「ぎゃあああ」とお化けでも見たような悲鳴を上げた。
「ちょ、なにこれっ……いやっ、朝からなんてもの生で見せてくれてんの、マジキモイっつの! トラウマになったらどうしてくれんの!?」
「望月、綾時……あなたはやはり存在してはいけないもの。処分します」
 アイギスさんが僕を蜂の巣にするべく指のマシンガンを撃ちまくる。それは僕に届く前に、黒田くんが振り向きもしないままブロックする。彼はやっぱり桁外れに強い人なんだってことを、僕は何でもない朝のひとときに思い知ることになる。





 そして僕らは登校する。僕らは学生で、早朝に学校の各々が割り振られたクラスに顔を出し、同い年の人間と一緒になって勉強する。それが仕事だ。僕たちはそうだし、黒田くんたちもそうだった。でもやっぱり昨日殺し合いをしたばかりのチームが両方揃って仲良く登校というのは妙な感じだった。
 僕の仲間たちは僕から三歩分ばかり離れたところを歩き、ライバルチームメンバーのはずの黒田くんは僕の傍を歩く。まるで二人で寄り添って歩いてゆく新婚夫婦みたいにぴたっとくっついて歩く。
「皇子様、マフラーが曲っております。お直しいたします」
「う、うん。ごめんね」
 黒田くんがお母さんみたいな几帳面さで僕のマフラーを直してくれた。「ありがとう」とお礼を言うと、またすごくチャーミングな顔で微笑んでくれた。その顔はやっぱりとても綺麗で、些細なことなんか気にならなくなってきちゃうくらいだった。彼の笑顔を見てしまった数人の人間が、「うわあ……」と呆けたみたいな声を出して一瞬立ち止まった。余程びっくりしたってふうだった。無理もない。僕もとてもびっくりしているのだ。
「お、おい。どうしたの? どうしちゃったの?」
 まずこの理不尽で不自然な状況にメスを入れようと頑張ってくれたのは順平くんだった。彼は本当に頼りになる。
「お前、敵じゃねえの? リョージにそんな盲導犬みたいにひっついてさ、どうしちゃったの。昨晩はあんなに激しかったじゃねえかよ」
 風花さんが噴出した。顔を向けると、彼女は顔を両手で覆って「予想外の展開」と呟いている。ゆかりさんが「ちょっと変な言いかたやめてよ」と順平君を窘めた。順平君も「ああ、うん」ともごもごと言葉を濁しながら頷いた。
「このお方をお守りすることが僕の使命。僕の一番の大切はあなたをお守りすることです、皇子様」
「真似しないで下さい」
 アイギスさんが控えめに黒田くんを窘めた。彼女は朝から結構むくれちゃっている。大好きな黒田くんが、大嫌いな僕に構うことがとても気に入らないらしい。
「なぁお前、いつもの前髪はどうしたの? あのモッサリは?」
「あの方のお顔が見えなくて邪魔だった」
「うん、まあ、結果的にすげーイメチェンになってるとは思うけどよ。つーか別人になってると思うけどよ。あ、そだ、明るい時間に出歩いて平気なんか? お前ってシャドウじゃねぇの?」
「まさか。あのオッサンが勝手に言ってるだけだよ。俺のどこがシャドウに見える」
 黒田くんはこともなげに言う。「馬鹿みたい」と呆れたように肩を竦めた。「お前顔出すと性格変わらね?」と順平くんがくたびれた顔でぼやいた。
 確かに美しい素顔を見せてくれている今の彼は王様みたいにカリスマオーラを放っていたけれど、性格がどうとかって言うよりは、見た目の問題なんだろうなと僕は思う。言動はそう変わらない。ただ僕から見て、すごい美人が気だるそうに喋ってると、有無を言わせない色気ってものがあるように思えた。
「皇子様が俺をシャドウだって言うのなら、俺はシャドウだ。でも、」
「……君はヒトだよ」
「はい、皇子様。すべて貴方の仰る通り、僕は人間です。そういう訳だ。二度と俺をシャドウとか言うな」
「でも、シャドウが親で、桐条先輩に殺されたって」
「あ、ああ」
 昨晩から随分居心地悪そうにしている美鶴さんが頷いて、黒田くんの様子をちらちら伺っている。彼女はシャドウとは言え黒田くんの両親を殺してしまったことに負い目を感じているらしいのだ。何度か話を切り出そうとしているみたいだったけど、上手く行かないようだった。結構シャイな人なのかもしれない。
「確かにうちの両親殺された恨みは今でも忘れてませんけど、――今の僕には皇子様がいらっしゃいます。亡き父母の分も、僕がしっかりお守りいたします」
「守るなんて、そんなことを言わないで。君は君の身体を大事にするべきだよ。僕は君がただ隣にいてさえくれれば、他になにもいらないよ」
「そのお優しい言葉だけで、僕は満たされてしまいます」
 また綺麗に僕に微笑む。そしてくるっと順平くんたちに顔を向け、不機嫌そうに忠告する。
「自然覚醒ペルソナ使いは嫌いだ。話し掛けるな」
「お前、リョージとオレらへの態度が違い過ぎるぞ……つか桐条先輩、大丈夫なんスか、その、……ケーサツとか」
 最後の方は黒田くんたちに聞こえないように小声だった。まずい話なのかもしれない。僕は耳をそばだてた。黒田くんが捕まって牢屋に入れられているところなんて想像したくない。彼は僕が守ってみせる。いっそのこと二人で逃げちゃってもいい。僕はこれで結構甲斐性ってものがあるのだ。
 でもその件に関しては、さすがの美鶴さんも困り果てているらしかった。腕を組んで溜息を吐いている。
「彼らは都市伝説のようなものだからな。警察がまともに取り合ってはくれないだろうし――
「トイレの花子さんとか、口裂け女とかメリーさんとかみたいなモンなんスね……」
「ちょ、順平、やめてよそういう話すんの」
 ゆかりさんが心底嫌そうに文句を言った。彼女はお化けがとても苦手なのだ。
「それに我がグループで身柄を拘束しようにも、彼らの実力から言ってまず監禁は無理だ。また例のミックスレイドとやらを食らわされてはたまらない。保留ということになるだろうな。幸い今は暴れ出す様子も見えない。望月の命令は何だって聞くそうだ」
「それねえ、なんでなんスかねえ……」
 本当にそれは僕も不思議だ。いや、僕が一番不思議がっていると思う。僕はまた黒田くんに何度目かの「ねえ、どうして君は僕にこんなに親切にしてくれるのかな?」という質問をした。返ってくる答えはやっぱり同じだった。
「あなたが僕の主人だからですよ。僕はあなたにお仕えできて、あなたがご主人様で本当に良かったって思うんです」
「なあゆかりッチ、もう黒田の奴にメイド服貸してやれよ。きっと似合うって」
「馬鹿なこと言わないでよ……」
 順平君とゆかりさんが投げやりにぼやいている。美鶴さんは相変わらず複雑そうな顔つきだし、アイギスさんは不満を隠しきれていない。逆に風花さんは「女装美少年萌え……」ととてもご機嫌だ。真田先輩は、さっきから黙り込んでいるかと思えば「そこで奴が上から……これまでのパターンでは……」とぶつぶつ呟いている。どうやらイメージトレーニングの真っ最中らしい。大変そうだ。
 みんな様子が変で、僕もきっと変だ。黒田くんをはじめとして、隣のクラスの三つ編みのかわいこちゃんや下級生に上級生の先輩に『皇子様』と呼ばれて傅かれながら登校中。うん、我ながらすごく普通じゃない。現実味がない。





<< トップページへ戻る >>

管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜