「貧血やな。まあ今日一日ゆっくりしとき。大分疲れも溜まっとるみたいやさかい」
 気が付くと僕は自室のベッドの上にいて、腕に点滴の針を刺されているところだった。ビニールのパックには黒い油性ペンで『栄養剤』と書かれていたが、どう見ても栄養とか滋養とかに関係がありそうな色はしていなかった。真っ青だ。以前順平に見せてもらったパンフレットに載っていた、鮮やかな屋久島の海と空のように真っ青だ。気持ちが良いくらいだ。
「……あれ?」
 僕は何度か瞬きをして、天井を見つめ、それからベッドの前に椅子を引っ張り出してきて座っているジンを見た。
「どっこも苦しいとこないか?」
「平気」
「なんか食いたいもんあるか?」
「肉」
「まあ元気そうやな。サイトいじっとるさかい、具合悪なったりなんかあったらすぐ呼ぶんやで」
「ん」
「薬まだあるか?」
「そこ、抑制剤が棚、一番上。鎮痛剤は一番下」
 僕はわざわざ炭で造ったようになってしまっている部屋の中で、数少ない色がついた家具である、引き出し付きの棚を指差した。ベッドサイドテーブルの上だ。中には僕の生命を左右するいくつかの薬が入っている。
 ジンがベッドの枠にビニールのパックをガムテープで無造作に貼り付けた。その辺りでなんとなく僕の意識はゆるやかに磨がれはじめた。
「貧血?」
「なんや珍しい。お前がへばるなんか、なんやそれ。あの不死身のカオナシが、最近おかしいで」
「僕も思う。ジン、悪い、皇子様に申し訳ありませんって」
「かまへんて、皇子様も鬼やないて。さすがにへばっとるお前コキ使ったりせえへんて」
 僕は痛む頭を押さえて溜息を吐いた。自分の身体なのにままならない。指先の感覚がなく、背骨がじんわりと痺れている。身体が思うような反応を返してくれないと、とても苛々する。
「寝ときて。次起きたらまたいつもどおりやから。ひどい顔やで。お前ちゃんと毎晩寝てるか?」
「さあ……覚えてないけど、旅行……帰ってきてから、そう言えば寝た覚えがない」
「このアホ。お前は極端すぎるっちゅーねん」
 ジンは呆れたようだった。僕の頭を小突いた。だって色々と忙しいんだと僕は言い訳にもならない言い訳をして、不毛だと気付き、「ちょっと休むよ」と言った。
 自覚はあるにはあった。僕はようやくお仕えするべき滅びの皇子様と巡り合えた喜びだかなんだかで、随分とはしゃぎすぎたのだ。最近の僕のコンディションが芳しくないことも理解していたはずなのに、まったく我ながら情けない。これではあのお方の役に立つどころか、逆に迷惑を掛けてしまうことになる。
「ジン、カオナシの具合はどうです? おや、起きたのですか」
 タカヤが僕の部屋に顔を出し、相変わらず何でも無さそうに言った。僕も「うん、起きた」となんでもなく返す。
「タカヤ、皇子様には誰もついてないのか」
「護衛は必要ないでしょう。カオナシ、今の我々はあのお方を護衛するためではなく、不自由を排除するためにいるのですよ」
「そりゃ分かってるけど、でも」
 僕は俯き、「あの方のお傍にいないと」と言う。かりかりしている僕を見て、ジンが変な顔をした。
「お前、そんなしおらしい奴やったか。前ん時はあんなどーでもよさそーやったのに」
 前の時ってのは幾月さんのことを言っているんだろう。僕は首を振る。確かに彼は滅びの皇子を自称していた。僕らもああそうですかという感じだった。世界を滅ぼしてくれるんですか、そりゃありがたい。
 でもあの男は僕よりも絶対弱かった。確かに色々と怖いところはあったけど、彼はペルソナも呼べない。脅威でも何でもなかった。
「俺より弱い奴に俺は従わない。でも、あのお方は違う」
「勝った奴が主人て、お前野犬とか野良猫とかとちゃうねんから……」
「ジン、忘れてはいけません。彼は野生児です。頭の中身はその辺にいるシャドウと大して変わりません」
 タカヤが失礼なことを言った。そして二人は何かあったら呼べというようなことを言って、僕の部屋を出て行く。僕は一人残されて、急に部屋がしんとなる。
 チドリは朝早いうちから絵を描きに行った。管理人は友達に呼ばれただとかでいない。時計の針はちょうど昼飯時を示していて、僕が最後に時計を見た時よりも二時間ばかり進んでいた。
 ともかく静かだった。皇子様の昼食を作らなきゃならないと僕は考え、ベッドから起き上がろうとしたが、上手く身体が動かない。
 ひどい悪寒がするくせ、身体の芯が焼けつくように熱い。ああまずい来たと僕は考える。そして急いでベッドサイドテーブルの上の棚に手を伸ばし、一番上の引出しから抑制剤を摘み出して、銀色のシートから取り出して口に入れた。白い錠剤を飲み込むと、すぐに悪寒と熱は収まった。
 まったく僕ときたら不便ばかりだ。最強の能力の代償とは言え、僕の発作はひどい。最近特にひどい。頻繁に起こる。このまま行くと近いうちに薬が切れてしまう。そのくせこの薬ときたら、手に入れるのに多大な労力と金と時間が掛かるのだ。
 何が悪かったのかなと僕は考えてみた。最近頻繁に出し入れしているペルソナが悪いんだろうか。ミックスレイドを使い過ぎたか。ハルマゲドンは確かに身体に負担が掛かる。
 いくつか思い浮かべた中で一番思い当たることといえば、僕の中からもうひとりの僕が消えてしまったことなのだ。今の僕は半分で生きている。僕らは元々同じものだった。半分が消えたら、きっともう半分も長くはないんだろう。そんなふうに思える。
 僕は皇子様のことを思い浮かべた。彼はあの子にあまりにも似ていた。同じものの訳はないが、とても似ていた。
 さっきジンとタカヤに言われたことを思い出す。僕はなんであの方にこんなに深い忠誠と敬愛を抱いているのか?
 滅びの皇子様だからなのか。だが僕はもし滅びの皇子様があの幾月さんだったとしたら、こんなふうにまともに「あの方のお役に立ちたい」なんて考えていなかったはずだ。実際考えていなかった。
 僕よりも圧倒的に強いからなのか。僕よりも強い奴ならたまにいる。例えば例の管理人。僕が不意打ちを掛けてやったって平然としている。いつか泣かせてやると考えはするけど、そこには尊敬も崇拝もない。ただ悪意があるだけだ。
 あの子に似ているからなのか。僕はあの子が消えてしまったことが思った以上に堪えてしまっていて、あの子に似ているあの方に、僕があの子にしてやれなかったことを何でもしてさしあげたいと思っているのか。
 それとも他に何か理由があるのか。
 僕が誰かをこんなふうに宗教的に、盲目的に崇拝することなんて、生まれて初めてだ。僕は僕が分からなくなる。僕が僕以外の他人に、こんなに依存めいた感情を抱く意味が分からない。僕は誰よりも利己的で排他的な人間なのだ。自覚をしているのだ。





 皇子様が僕の部屋にやってきたのは、午後一時を回った頃だった。昼食時に顔を見せない僕を心配して下さったらしいのだ。
 「申し訳ありません」と僕はまず謝った。これはまぎれもなく僕の落ち度だった。きっと腹が減っているに違いないのだ。
 彼は起き上がろうとした僕をやんわりと押し止めて、「気にしないで」と微笑んだ。いつもこうだ。あの異形の姿でないこの方は、僕への怒りや苛立ちと言ったものを見せない。何故なのかは分からない。もしかすると怒りという感情をどこかに落っことしたまま生まれてきたのかもしれない。
 彼は裸に点滴のチューブという奇妙な格好の僕に少し驚いたようだったが、「隣いいかい?」と断わって(彼の申し出を僕がはねつける訳がないのだが)、ベッドに腰を下ろした。薄汚い炭焼き小屋みたいな部屋に、小奇麗で清潔な身なりをしたその人はすごく不釣合いだった。
「いつも裸で寝ているの?」
「はい。有事の際にすぐに着替えられます。一応パジャマがあるにはあったのですが」
 僕は煤けた天井と大穴が開いた壁とビニールシートと目張り用のガムテープを順繰りに眺めて、「なくても困りませんし」と答えた。あらかた焼けてしまった。今の僕に残された私物と言えば、一張羅の戦闘服を兼ねた私服と、制服、誰かに棄てられていたベージュ色の木製の棚に順平に貰った屋久島の砂、後は実用的なものばかりだ。今に始まったことじゃないが寂しい部屋だった。
「改めてすごいところに住んでいるんだね。初めはさすがにびっくりしたけど、良く見てみるとちょっと味があるっていうか。ハックルベリー・フィンの小屋ってこんな感じなのかな? とてもワイルドで独創的だ。素敵だと思うよ」
「はあ……お褒めに預かり光栄です」
 ちょっと素直には喜べないが、僕はなんとか愛想笑いみたいな顔を作り、礼を言った。滅びの皇子様の美的感覚ってのはさすがに常人とは違っているようで、たまにこうして価値観が食い違うことがある。
 彼には恐ろしく狂暴な女子が可憐に、妖怪だと評判の僕が美しく、そして大勢の人間が押し寄せてそれぞれが好きな花火を楽しみ、また去って行った後のような僕の部屋が、森の木の上の素敵なログハウスのように見えるらしい。
 僕が彼と出会ってから、つい先日その正体を知るまでの間もそんな感じだった。僕はある一時期そいつを金持ちの道楽だと内心小馬鹿にしていたこともあったのだが、とんでもない、馬鹿は僕だ。宣告者の価値観てものは、脆弱な人間どもとは訳が違うのだ。相容れないものなのだ。何たって滅びの皇子様なのだ。
 クラスメイトやS.E.E.Sや兄弟たちに散々妖怪だと罵られている僕の顔も、もしかするとシャドウたちから見れば、意外に悪くないものなのかもしれない。少し自信が生まれた。
「身体の具合はどうだい?」
「もう問題ありません。通常通り、あなたにお仕えできます」
「ううん、そうじゃないんだ。さっき君の、ええと、仲間? の、人に聞いたよ。少し気分を悪くして寝てるって。何度も言うけど、僕のために無理をすることはないんだ」
「しかし、あなたにお仕えすることが僕の喜び。あなたの傍にいることが」
 半分むきになって、「僕にとって一番大切なことなのです」と言う。皇子様は「なんだかその言いかたアイギスさんみたいだね」と笑った。
「どうして君が僕をそんなに大事にしてくれるのかは分からないけど、じゃあひとつ良いかな?」
「はい」
 僕は背筋を伸ばして頷く。命令を待つ。彼は僕の肩にそっと触れ、優しい声で「今日はなるだけベッドの上にいること」と言った。
「僕が君のために何だってするよ。ご飯を作ったり、服を着せてあげたり、いつも君が僕にしてくれてるみたいなことをね。お腹は減っていない? 何か食べたいものはないかい?」
「いや、しかしそんな訳には」
「君は僕の言うことを何でも聞いてくれるんでしょ?」
「は……」
「じゃあ決まりだね。めいっぱい甘えてくれよ。僕は一人っ子だから、誰かの面倒を見るっていうのはあんまり慣れてないけど、頑張るから」
「しかし、皇子様」
 僕は往生際悪く食い下がってみたが、皇子様は僕の言葉をまるで聞いちゃくれないようだった。なんだか僕は以前にもこんなことが何度も何度も、子供の頃からそれこそ本当に何度もあったような気がしてきた。この人の話を全然聞かない強引さ。でも笑顔。うん、知っている。
「楽にしていて。僕といると、君はなんだかすごくピリピリしちゃってる。前みたいに普通にしててよ。綾時って呼んで欲しいな。ね、僕たちは友達でしょ」
「あなたはそんなものよりも、僕にとってずっと大事なお方です。僕はあなたのしもべ。軽々しくお名前を呼ぶことはできません」
 皇子様は少し悲しい顔をされた。「すみません」と僕は謝る。
「以前は知らぬこととはいえ、僕はあなたにすごく失礼なことをしていました。あなたに与えられるなら、どんな罰でもお受けします」
「あ、いや、違うんだ。そういうんじゃなくって、うーん……まあいいや。とにかく楽にしてよ。何も君を取って食おう……とか……」
 皇子様は僕を安心させるように微笑みかけて、そのまま深い思考の渦のなかに潜っていくように、言葉を途切れさせた。皇子様の喉がこくっと動いた。沈黙が落ちた。そういうことなんだろう。僕は理解し、頷いた。
「僕はあなたになら食べられてもいいです」
「え、あっ、いや、でも、君は自分の身体をもっと大切にするべきだよ。体調を崩してるんだろう? それにこの間も君、全然好きじゃなかった僕に、その……許してくれて、あの時は結局順平君に邪魔されちゃったわけだけど」
 皇子様は真っ赤になって、「ともかくまだその時じゃないよ」と言った。
「その、僕はまず君の心が欲しくって」
「僕の全てはすでに皇子様のものですから」
「いや、そうじゃなくって。皇子様とかじゃなくてね、僕はひとりの人間として僕のことを好きになってもらいたいっていうか、ああもう、わかんないけど。僕はまだ本当の君のことを知らな過ぎるし、君にも僕をもっと知って欲しくて、うん、僕らはもっとお互いのことを深く知るべきだと思うんだ。言葉なんかじゃ表せないくらい深くもっと、たとえば肌で触れ合って……あれ?」
 皇子様は頭痛でも起こしたみたいにこめかみを押さえて、「ごめんね、違うんだ」とすまなさそうに言い、溜息を吐いた。
「頭痛ですか? もしかして、お風邪でも」
「あ、ううん。そんなじゃなくって、僕難しいこと考えたらたまに頭が痛くなって」
 彼の唇は『て』と発音したかたちのまま固まってしまった。顔が真っ赤で、大分体温が高くなっている。僕は胸に彼の頭を抱いたまま、「大丈夫ですか?」と訊いてみた。
「皇子様……お可哀相に、あなたの痛みを僕がかわりに感じられたら良いのに」
 僕は整髪料で綺麗に整えられている髪を乱さないように気を付けながら、彼の頭を撫でた。彼が今痛みを感じていると考えると、すごくいたたまれない気持ちになった。
「え、ちょ……あの、えっと、泣い……てる? ど、ど、どうしたの!?」
 皇子様はとても驚いた顔をされている。でも、そりゃそうだろう。皇子様が痛いと言っているのに、辛い気持ちにならないしもべがいるわけがない。僕は彼の忠臣なのだ。
「な、泣かないで。えっと? 僕のために泣いてくれているの? 僕は平気だよ、うん、なんともないよ」
 彼は僕の頬を拭い、困り果てた顔で「泣かないで」と言った。少し迷う素振りを見せて、僕の額にキスをした。外国の映画で両親が子供をあやすようなやつだ。
 そして僕を優しく抱き締めて、喉と鎖骨の上に同じようにキスをした。背中を擦って、「さ、触るだけだから。変なことしないから、まだ」と言う。僕は頷く。
「はい。来るべき日にあなたに食べられて死ねるなら、僕はおそらくこの世界中の誰よりも幸せな人間だったということになるんでしょう」
「し、死ぬ?」
 彼は唖然として反芻した。そこで僕の部屋の炭板みたいな扉が吹き飛ばされ、武装した女子が踏み込んできた。アイギスだ。鍵は掛かっていないんだから、できればドアノブを回してお行儀良く入ってきて欲しかった。でももう壊されちゃったものは仕方がない。
「黒田さん、ご無事ですか」
 彼女は硬い声で僕を呼び、触れ合っている僕と皇子様を見て更に顔つきを硬化させた。真冬の北極の氷みたいに冷たいものだった。口の端を引き絞り、十本の指を僕らに向けた。
「望月綾時、今すぐその人から離れなさい。あなたはダメです。まず間違いなく基本的にダメなのに、今は加えて邪心が感じ取れます」
「うん、僕もそう思う。自覚はあるんだ。君が来てくれて今は良かったと思うよ、本当だ。僕は我慢がきかないダメな奴だ」
 皇子様は両手を上げ、アイギスと僕の両方に「ごめんよ」と謝った。彼が謝ることなどなにもないにも関わらずだ。
「あなたが謝ることなどありません、皇子様。あなたはいつでも正しいです。あなたが間違っていると言う者は、僕がこの命に替えても抹消いたします」
「黒田さん、正気に戻って下さい。彼はあなたにとってダメなのです。アイギスはあなたの為をこそ思っています」
「俺の為を思うなら、この方を苛めるのはやめてあげてくれ。大層な理由でもなければ、俺は女子に攻撃はしない。お優しい皇子様も本意ではないだろうしな。だがあまりに目に余るようなら許さない」
「目を覚ましてください。そこの締まりのない垂れ目を良く見て下さい。間違いなくあなたへの下心がはみ出るほど感じ取れます」
「うん……ごめんよとしか言えないや……」
「あなたが謝ることなど何もありません、皇子様」
「その人から離れなさい、望月綾時」
 堂々巡りでどうしようもない中で、まず皇子様が立ち上がり、「うん、僕はそろそろ行くよ。彼にお昼ご飯作ってあげなきゃ」と言う。彼はこんな僕のことを気に掛けて下さる。そのことを思うと、僕は頭の中にぱあっと花が咲いたみたいな気持ちになった。
「自炊とか全然したことないけど、頑張ってみるよ」
 皇子様が微笑む。でも僕はそのお言葉に、満開の花が萎み、無慈悲な冬が訪れたような気持ちになった。
「全然って……い、いけません。万一手なんか切ったらどうします。僕のためなどに、あなたが労力を使って下さることなんかないんです。僕はあなたに不自由を掛けないためにいるんですから。自炊などこの先あなたがする必要ありません。僕がお仕えしている限り、そんなことはさせません」
「僕は君の為に何かできるってことがすごく嬉しいんだ。お願いだ、やらせて欲しい」
「しかし、」
「大丈夫だよ。寮の女の子に教えてもらうよ」
 皇子様は相変わらず僕の言葉など聞いて下さらない。「おとなしく寝てること、いいね」と言い置いて、部屋から出て行く。部屋の中には僕とアイギスが二人きりで残された。僕は溜息を吐いた。アイギスも同じく溜息でもつきそうな顔をしている。
――君はどうしてそんなに皇子様を目の仇にするんだ。そのくせなんで僕には良くしてくれる? 逆だろ、普通」
「あなたは何故望月綾時などに従うのですか。いけません。彼はダメです。あなたに悪い影響しか及ぼしません」
「悪影響? 冗談だろう。あの方は俺をこんなに満たされた気持ちにしてくれる。素晴らしいお方だ。俺の主君だ。彼に無礼を働くのは止して欲しいものだな」
「どうして分かって下さらないのですか」
「わからずやは君だろう」
「いいえ、あなたです。アイギスはあなたのためを思って進言しているのです」
「絶対君だ。皇子様は俺にはもったいない位にお優しい言葉を下さる。さっきだって、彼のお傍にいるって役割を果たせなかった俺を怒らなかったんだぞ。今も昼食まで作って下さるって、慈愛に満ち溢れた方なんだ」
「ともかく、あなたが何と言おうと彼はダメなんです。絶対にダメ」
「ダメじゃない。皇子様の悪口言うな、わからずや」
「わからずやはあなたです。近寄ってはダメです!」
 ほとんど口喧嘩みたいになってきた。あんまりにアイギスがわからずやだから、僕のほうも頭に血が上ってしまって、気が付くとかなり熱くなってしまっていた。いつもクールなのが取り柄のこの僕がだ。
「ともかく、皇子様は――
 彼の素晴らしさをひとつひとつ説明してやろうとしたところで、ふと気付いた。僕は彼のことを知らなさ過ぎる。まあ忠誠心ってものは彼の過去や経歴などにはまったく左右されないのだが、問題はこうやって他人に彼の素晴らしさを説いてやろうとした時に、うまく説明ができないことだった。これでは相手の心を動かしようがない。
 「ともかくすごくてすごいんだ」と僕は言った。アイギスは「理論的かつ私が納得しえる詳細な情報をお願いします」と正論を言った。そりゃ分かってる。でも僕は何も知らないから、うまくものが言えない。
「だから、すごいんだったら。お前なんか、皇子様がその気になればすぐにやっつけられてしまうんだからな」
「彼は私がマフラーを引っ張ると、条件反射的に「ごめんよ」と謝罪し、「僕が悪かったよ」と敗北と自分の非を認めます」
「それはあの方が本気じゃないからだ。フェミニストだからだ。君が女子だからで、あの方は僕よりずっと強いんだからな。強くて、優しくて、高貴なお方なんだ」
「綾時さんよりも強くて優しくて高貴なお方は無数に存在します。何も彼である必要はありません。例として私の統計では、綾時さんの推定一万倍、美鶴さんのほうが強くて優しくて高貴です」
「桐条美鶴? いや、まあ、貫禄という点では、確かに。でも僕あいつ特にダメだし」
「よって、あなたが強くて優しくて高貴な人間を崇拝する性質があるとしたら、あなたは綾時さんの一万倍美鶴さんに好意を感じるべきです。矛盾しています。あなたが綾時さんに好意を感じる理由付けと動機は不正確で、私には理解出来ません。理解出来るようにご説明お願いします」
「そんなの、僕だってわかるかよ。ただ、決まってるんだ」
「誰が決めたのですか?」
「う……うるさいな、なんで僕が敵の君に説明してやんなきゃならないんだ。ともかく皇子様はご立派な方なんだ。侮辱すると許さないからな」
「推測しますと、あなたも綾時さんを崇拝する理由を確実に理解していないように見受けられます」
「う……」
 僕は口篭もった。アイギスの突っ込みが正確過ぎて、頭がクラクラしてきた。僕は確かに上手く説明できないが、でも間違っていない。僕は正しい。
 なんで彼女は理解しないんだと悔しくなってきた。あのお方は人類みんなに崇拝されるべき人なのだ。
「……わかんないけど、でもすごいんだからな。あの方のお傍にいてお仕えしてたらいい気持ちになって、喜ばせて差上げたいと思って、みんなが何と言おうと僕は正しいんだ。勘違いなんかじゃない。彼は僕らの皇子様なんだから、悪口言ったら絶対許さないんだからな」
 公園で意地悪をされている子供みたいな気分になってきた。泣きそうだ。でも僕は強いから泣かず、「次皇子様の悪口言ったら君のこと嫌いになるからな。絶交だ」と言ってやった。
 これは僕の兄弟達とは違って、どうやらアイギスにはいくらか効果があったようだった。彼女は渋いような納得がいかないようなすごく難しい顔をして、「わかりました」と頷いた。
「ほんとに、僕がいないとこでも皇子様いじめたりしたら絶対許さないからな」
「……わかっています。私はあなたを苛めたい訳ではありません。あなたに嫌われるという事態は可能な限り避けたいのです」
 「言い過ぎました。ごめんなさい、だから泣かないで」と彼女が僕の手を握って言う。いつもいつも僕は漠然として生きてきたから、こうやってむきになると、上手く感情が操作できなくなる。舵がすぐに僕の手を離れてしまうのだ。
 僕はアイギスに触られた時、すごく妙な気分になった。すごく昔、こんなふうにとても冷たくて硬い手が僕の手を握ったことがある。女性の声で「ごめんなさい、泣かないで」を聞いたことがあったような気がする。
 確か僕よりも随分大きな手で、オイルと火薬の匂い。
 いつか映画か夢ででも見たことがあったのかもしれない。





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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜