巌戸台分寮のキッチンは結構立派なものだった。昔はホテルだったって話を聞いたことがあったから、おそらく学生寮として使われるようになる前は分厚い肉を焼いたり、何時間も掛けてスープを煮込んだり、造形作品みたいなフランス料理を作ったりしていたんだろう。大体のものは揃っていたけど、何の用途に使うかを僕が理解出来る道具は、そのうちの三分の一にもならなかった。
 ガスコンロの前に立って鍋を掻き混ぜていると、真田先輩が共用の冷蔵庫を漁りにきた。彼は僕が料理をしている姿というものがとても珍しいらしく、「何をやってる?」と首を傾げた。
「お前の腰巾着に成り下がっているあの黒いのはどうした」
「ああ、彼なら少し具合が悪いとかで寝てます。何か元気になれるものを作ってあげようと思って」
「キャンキャンとうるさいのの姿が朝から見えんと思ったら、なるほど、そういうことか。まったくあいつは自分の体調管理もできんのか」
 彼は呆れているようだった。肩を竦め、手持ちの白いボトルを僕に放って寄越した。
「これも入れておけ。プロテインだ。何にでも効く。あいつに足りんのは根性だ。プロテインさえ飲ませればすぐに治る」
「わあ、ありがとうございます」
「全部入れろ。構わん」
 真田先輩は僕の横に立ち、僕が確かにボトルの中身を全部鍋に入れてしまうと、「よし」と満足そうな顔になった。彼も口では色々言うけど、黒田くんのことが心配のようだ。そう言えば真田先輩も黒田くんのことが気になっていたんだっけと思い当たり、複雑な気持ちになった。負けないぞ。
「次に使うのは、ええと」
「瞬間接着剤」
「これは食べても大丈夫なのかな」
「うん、きっと。色味的にボンドの方が良かったかな?」
「料理って図工みたいだね」
 僕は楽しくなってきて笑う。僕に料理を教えてくれている風花さんも笑う。彼女は感心したように「すごいね」と言った。
「綾時くんは、本当に黒田くんのことが好きなんだね。いつも彼のことを考えてるみたい」
「うん、そりゃ大好きだよ。とても素敵な人だから」
「真田先輩も、黒田くんのことが好きなんですよね……」
「む、いや、好きと言われたら妙な感じだな。あいつは俺の好敵手だ」
「あれ、そうだったんですか。良かった、僕どうも早とちりする癖があるみたいなんです。先輩は僕のライバルなのかと思ってました。相手があの百戦錬磨の真田先輩なんて、すごく強敵だなあって。でも負けないぞって思ってたんです。なんだ、違うなら良かった。ほっとしました」
「強敵、百戦錬磨、ライバル、……面白そうだ。勝負なら受けて立つぞ。例えそれが何であろうと」
「えっと、これって黒田くんを巡って、綾時くんと真田先輩が争うっていう展開で良いんですよね……?」
「勝負はいいが、話が読めんな。何故俺が黒いのを巡らなきゃならないんだ?」
「先輩、黒田くんと二人っきりで、ええと、……牛丼を食べに行ったり、夕方の堤防でロードワークをしたり、河原で殴りあったりするためには、まず綾時くんを倒さなきゃいけないってことみたいです」
「なるほどな、理解した」
「風花さん、なんだかわかんないけど面白がってるよね」
 なんでか風花さんは僕と真田先輩を喧嘩させたいらしい。彼女は「そんなことないよ」と首を振る。
「ただ黒田くんも、自分のために綾時くんが戦ってくれるとことか見たら、格好良いって思うんじゃないかな……」
「えっ、思うかな? 好きになってくれると思う?」
「うん、そうじゃないかなあ……」
 女の子が言うんだからそうなんだろう。
 僕は想像してみた。僕が彼の為に戦うとする。あの子はすごく心配性だから困った顔をするかもしれない。
 『僕のためにあなたが戦うことはありません』と彼は言うだろう。
 『僕は君のためなら何だってできるよ。料理だって、戦うことだって』と僕は言う。あの子はうっとりした顔で『皇子様……』と僕を呼び(そもそも何だって彼が僕を皇子様と呼ぶのかは分からない。うちの家系に王様や皇帝陛下みたいな人はいなかったはずだけど)、あのかぼそい身体で抱き付いてくる。『一生あなたのそばを離れません』と言う。
 そこですかさず僕がポケットから指輪を取り出し、彼の左手の薬指に嵌める。そして『結婚しよう』と切り出す。彼がはにかみながら頷いてくれる――
「……っていうの、かなり、いいんじゃない?」
 僕は自分の空想に何度か頷いてみた。風花さんも微笑みながら「うん、すごくロマンチックで素敵だと思う」と同意してくれる。彼女はとても優しい人だ。僕を応援してくれる。
「ありがとう風花さん、僕やれる気がしてきたよ。ボクシング部の真田先輩と戦うってところがちょっと無謀過ぎる気もするけど、頑張ってみるよ。君には感謝してる。料理を教えてくれたり、その他も色々ね。今度お礼にどうだい、どこか夜景の綺麗なレストランで食事でも……」
「う、ううん。私はいいよ。ええと、黒田くんと行ってあげるといいと思う……お礼なんて、いいよ。ただ二人で撮った写真とかが欲しいかな」
「君は本当に優しい人だね。感動するよ」
 僕は本当に感動した。そう言えば彼女は黒田くんにもすごく優しかったのだ。自分のことよりも学友の幸せを想ってくれる、なんて素敵な女性なんだろう。
「あとは、仕上げに……えっ、そんなもの入れちゃうのかい?」
「うん」
「ええっ、そんなものも入れちゃうのかい?」
「うん」
 料理があらかた完成に近付いた辺りで、玄関の方から「ただいま」と声がした。昼食を食べに出ていたゆかりさんが帰ってきた。順平君はまだ戻らない。朝から幸せそうな顔をして出掛けて行ったから、多分チドリさんとデートなんじゃあないかなと思う。羨ましい限りだ。僕も黒田くんとデートしたい。来週の日曜日にでも誘ったらOKをくれるだろうか。
「ねえ、なんか異臭がするんだけど、何やってんの?」
 ゆかりさんはキッチンを覗きにきて、顔を顰めて「げ」と言った。
「やあ、おかえり」
「おかえり、ゆかりちゃん」
「帰ったか。おい望月、こいつも餞別だ。あいつにくれてやれ。豚足だ」
「わあ、ありがとうございます。すごくワイルドなトッピング。あれ、ゆかりさん、どうしたの? 顔色が悪いよ。風邪かい?」
 ゆかりさんは、見て分かるくらいに顔に血の気がない。青ざめて、足元もフラフラだ。もしかすると彼女も具合が悪いのかもしれない。
「最近ちょっと寒くなってきたからね。ちょうど黒田くんも体調を崩してて、ごはんを作ってあげてたんだけど、あ、君も食べる? なんだか沢山できちゃって」
「これは何の悪魔の晩餐?」
「うん?」
 僕は黒田くんが寝込んでいること、彼を元気付けようと昼食を作っていることをゆかりさんに簡単に説明した。彼女はすごく驚いた顔になって、ほとんど食って掛かるみたいな剣幕で、「あの子にこれ食べさせる気!?」と叫んだ。
「ちょっと冗談でしょ、あんたもしかしてあの子のことすごく嫌いなんじゃないの? こないだ友達じゃないって言われたのまだ根に持ってたの?」
「えっ? そんな訳ないよ。僕は誰よりも彼のことを大事に思っているよ」
「わかんないの? こんなもんお腹に入れたら死んじゃうでしょ!」
 彼女は鍋の蓋を開け、ふわっと広がった薄紫色の湯気にまた顔を青ざめさせて、「これはないでしょ」と言った。
「なにこれ? スライム?」
「風花さんに料理を教えてもらってね、おかゆを作ってみたんだ。お腹に優しいから具合が良くない時に良いんだって」
「絶好調でも一撃殺の間違いでしょ。あんた、味見しなさいよ。そんな言うなら味見しなさいよ。自分で食べてみなさいよ。風花もよ。こんなのあの子に食べさせようなんて、そんなの絶対私が許さないからね」
「でも食べさしを出すのは失礼になるんじゃないかな」
「いいから、ほら!」
 ゆかりさんが小皿におかゆをスプーンで取って、僕に勢い良く突き出した。
 そこまで言われちゃしょうがない。味にはちょっと自信があるのだ。なんたって風花さん直伝だ。いつもふわふわ微笑んでいて、良いお嫁さんになりそうな彼女が手伝ってくれた料理がまずい訳がない。
 一口食べる。ほら美味しいよと言おうとしたんだけど、口の中に異様な感触が広がって、全身に脂汗が浮かんできた。手が震える。
 手から滑り落ちたスプーンが、床にぶつかって乾いた悲鳴みたいな音を立てた。







「できれば今度からはもう少し行儀良く入ってきてくれないか」
 僕はベッドの上から注文をつけた。アイギスは「はい、了解です」と言ってくれたが、疑わしいもんだった。有事だとか緊急事態だとかいう理由付けをされたら、もう僕にはどうしようもない。
 救われるのは、アイギスが吹き飛ばした扉の修繕をやってくれることだった。後始末をきちんとこなしてくれるのだ。本当に良かった。隙間風ってのは結構堪えるもんなのだ。屋根があるだけ上等だが、できれば扉くらいは閉められたらいい。
 アンドロイドなのかロボットなのか人造人間なのかは知らないが、アイギスは右手をアーミーナイフみたいに変えて、金槌でぼろの扉に釘を打ち付けている。できれば新品の扉に替えてくれたらもっとありがたいのだが、そこまでのサービスはないらしい。彼女がするべきことは、僕の部屋を彼女が踏み込んでくる以前の状態に戻すことなのだ。
「その手、便利だな」
「お褒めいただき光栄です」
 僕も十年ほど前に逃げ出さずにまだラボにいたら、こんなふうになってたのかなと考えてみた。手がアーミーナイフで、何でもできる。釘を打ったり、瓶の栓を抜いたり、鍵を抉じ開けたりできるのだ。身体中いたるところが鋼鉄でできている。それはとても素敵なことだと思う。格好が良い。僕は今の僕で充分満足だ。
「それ、あいつらに改造してもらったのか?」
「あいつらとは誰ですか?」
「桐条のラボの奴ら」
「改造、バージョンアップは定期的に行われています。メンテナンスの度に行われています。ただ、私が凍結後十年は全く手入れをされない状態でいました」
「君はゼロから組み上げられたロボット?」
「はい」
「そりゃいいな。羨ましいよ」
 僕は正直な気持ちで感想を述べた。ロボットならペルソナを暴走させたり、抑制剤を摂取して寿命を縮めたり、誰かに命令されてああいやだなと感じたりすることはないのだ。それを考えて、ふと興味を覚えて、彼女に訊いてみた。
「君は命令されて嫌だなとは感じないのか?」
「意味がわかりません。命令は絶対です」
「ふうん、やっぱりな」
「ですが、嫌だなと感じることはあります」
「ロボットの君が?」
「望月綾時とあなたが会話をしている時、それがお互いに好意的なものであればあるほど、嫌な気持ちになります」
「ふうん。なんで?」
「わかりません」
「変なことを言うんだな。君はまるで僕と皇子様に嫉妬しているみたいだ」
「嫉妬とは何ですか?」
「今の君がやってるみたいなこと。なあ、確認するけど、僕が仲良くしてるから、君は皇子様を嫌っているという訳じゃないよな」
「あなたと仲が険悪でも、私は望月綾時をダメだと判断します。それは絶対です。ざまあみろとは思いますが」
「そりゃ良かった。ざまあみろはどうだか知らないけど」
 僕は肩を竦め、寝返りを打ち、枕を抱いた。皇子様のご命令なのだ。そうやってベッドの上でゴロゴロしながらアイギスの扉の修繕を眺めていると、覚えのある足音が聞こえてきた。
 まさかなという感じだった。その相手ってのが、余程のことがない限り僕の部屋なんか訪ねてくるわけがないって人間だったのだ。聞き間違いかと思ったが、間違ってなんかいなかった。岳羽ゆかりだ。僕を殴ったり蹴ったり苛めたり通報したりする彼女だ。
「アイギス、あんた何をやってんの」
「見ての通り、扉の修繕です。先程綾時さんが黒田さんに性的暴行を加えようとしておりました。迅速な救助の為、ピッキングを行っている時間的余裕がありませんでしたので、破壊しました。そして黒田さんに怒られました」
「鍵なんか掛けてないから普通に入ってくればいいんだ」
「性的暴行……」
「はい。黒田さんの服を脱がし、身体に触り、無理矢理生殖行為に及ぼうとしておりました」
「あいつサイテー……ちょ、カオナシくん、キミちゃんと抵抗しなよ! しかもなんでまだ裸なの、仮にも女の子のアイギスの前で」
「別に服は脱がされた訳じゃない。ただパジャマとかなくて」
 何故僕が弁解をしなきゃならない。裸でいるだけで怒られるのなら、タカヤなんかはどうなるんだってんだ。
 ともかく招いてもいないのに客が多過ぎる。もうおとなしく寝てるって訳にはいかなさそうだった。
「服、着るからちょっと出てて」
「あ、うん」
「私は気にしません。ロボットですから」
「ちょ、アイギス。いいからあんたも出るの」
 岳羽がアイギスを引き摺って部屋を出て行く。扉が締まる。僕はもう穏やかな午後を送ることを諦めて、壁に掛けてある戦闘服を着込んだ。金具を留め、ベルトにナイフと召喚器を差して、「いいよ」とドアの外に声を掛けた。
「何か用? 二人共だ」
「私はあなたを守る為に、常にあなたの傍にいます」
「いや、私は……えーと、ほら、綾時くんがお昼ご飯作るって言ってたんでしょ? 彼ちょっと後始末で忙しいから、かわりにお粥作って持ってきたの」
 岳羽が裏の寮から運んできたらしいトレイを僕の机の上に置く。僕としては耳を疑いたい言葉だった。あの岳羽が。僕を苛める理不尽な岳羽が。
「皇子様のご命令か?」
「違うよ。なんで私が綾時くんに命令されなきゃなんないの」
「なら何故? 君は俺を嫌っているんだろう。生理的嫌悪を感じているんだろう。また殴ったり蹴ったり、僕を皇子様の親衛隊に突き出したり、ともかくひどいことをするつもりだろう。そのはずだ」
「いや……うん、その、まさかあの黒田……くんが、キミだとか思わなくて、っていうか、思えるわけないんだけど、未だに。色々誤解しててごめんね」
 あの岳羽に謝られた。僕は夢を見ているのかなと思ったが、まあ夢だって何だってどうでもいい。夢なら後でああうんそうかとベッドの中で頷けばいい。僕は過去も未来も排除して生きているのだ。
 トレイの上には桜の花の模様入りの小さな雑炊鍋が乗っていた。蓋を開けたらカエルが飛び出してくると言った嫌がらせもない。美味しそうな匂いがする。卵粥だった。
「これを皇子様が、僕のために……」
「え? いやいやいや、それはえーと……まあいいや、もう」
 僕はすごく感動した。さすが皇子様だ。何をやっても完璧だ。岳羽がすごく何か言いたそうな様子でいたけど、感激している僕を見て、居心地悪そうに黙り込んだ。
「そう言えばキミのその……ピチピチの服って、趣味?」
「無趣味。別に俺が選んだ訳じゃない」
「あ、そう。綾時くんとは、……変なことになってないよね?」
「僕はあのお方に忠誠を誓っている。変とか言うな」
「……はあ。まあいいや、そろそろ戻るね。アイギス? あんたもよ。いつまでもここにいたらカオナシ君困っちゃうでしょ」
「特にそう言った指摘を受けたことはありません。私は黒田さんを守る為、ここに待機します」
「いいからもう帰るよ」
 岳羽がアイギスを引き摺って帰っていく。ロボットの彼女は随分重量があるだろうに、お構いなしだ。さすが僕をぶっ飛ばしただけはある。やっぱり女子って怖い。





 僕の役割は皇子様の障害をすべて取り除くことだ。だから常にあの方のお傍にいなきゃならない。でも彼が住んでる建物っていうのが、巌戸台分寮、つまり僕ら復讐代行人とあきらかに敵対するS.E.E.Sの本拠地なのだ。
 僕もこれで結構大変なのだ。主君のために毎日敵の本拠地に侵入しなきゃならない。ロールプレイング・ゲームで言うなら、セーブする為に毎回ラストダンジョンに潜らなきゃならないようなものなのだ。
「皇子様……皇子様、いらっしゃいますか? 鍋と食器をお返ししにきたんですけど……」
 入口の扉を開けてそっとラウンジを覗くと、ソファに寝そべっている人影が見えた。それよりもまずひどい臭いがする。例えようがないものだった。
 ともかく僕は玄関を開け放ち、トレイをカウンターの上に置いて、口を押さえて姿勢を低くし、ラウンジに忍び込んだ。目がちかちかするが、神経に作用する毒ガスの類ではないようだった。
 室内をまず見回し、ソファに倒れ込むようにして寝ている人物が僕の探していた人間だと思い当たった時、僕の頭からさあっと血が引いて行った。
「皇子様、皇子様っ!? どうしたんです、一体なにが。まさか僕がいない間に何者かの襲撃が?」
 僕は彼の頭を抱え、失礼だとは知りながら頬を叩いた。息をしていた。そのことに僕はすごく安堵したが、ちょっと考えてみたらそれは当たり前のことだった。宣告者は不死身だ。
「あれ、黒田くん……」
「気が付かれたんですね……良かった。僕がいながら、申し訳ありません。やはりあなたのお傍を離れるんじゃなかった」
 僕はすごく後悔した。こんなに後悔したことって、生まれて初めてなんじゃないかってくらいした。やっぱり僕はずっと彼についているべきだったのだ。
「泣かないで……ごめんね、僕、君の為に頑張ったんだ。君に喜んでもらえたらどんなに嬉しいだろうって、でもこのザマで、僕はもう少しでとんでもなくひどいことを君にしちゃうところだったんだ」
 彼は僕の頬を撫で、弱々しく頭を振った。「最後にお願いがあるんだ」と言った。
「僕はもうダメだ。最後に、キスしてくれないかい。君から、口に」
「皇子様ぁっ……最後なんて、そんなことありえません。あなたは不死身の宣告者なんですから……!」
 僕は彼の身体を抱き締めた。「好きだよ」と彼が静かに、ゆっくりと囁く。僕も頷き、「はい、僕もこの世界中で誰よりもあなたをお慕い申上げております」と言う。
 そして皇子様が望まれるままに唇にキスをしようとしたところで、後ろ頭にすごく硬くて重い物を投げ付けられ、ぶっ飛ばされた。テーブルに叩き付けられ、衝撃でしばらく動けなかったが、ちらっと床を見ると、重そうな鉄製のフライパンが転がっている。どうやらこいつが僕の頭とガチで勝負をしてくれたらしい。頭の硬さにはちょっと自信がある僕だから良かったものの、普通の人間だったら死んでいる。
「痛いじゃないか」
 犯人は言う間でも無く、やっぱり岳羽だった。やはりさっきの「ごめんね」は僕の白昼夢か幻聴だったのかもしれない。彼女は世界の敵でも見るような目つきで僕と皇子様を睨んでいた。
「ちょっと、もういい加減にしなさいよ、あんた。カオナシくん、無事だった?」
「うう……せっかく、黒田くんからチューしてもらえるチャンスだったのに」
 皇子様がとても悲しそうに言う。そしてまた気分を悪くしたのか、口を押さえて立ち上がった。足がおぼつかないまま歩いていく。フラフラとカウンターの横を通り過ぎていく。
「あ、皇子様、お供します」
「きちゃダメ、こないで……僕、さすがに君にはちょっと、見られたくない……」
「そ、そんな」
 拒絶されてしまった。僕は座り込み、うなだれた。「僕はお役に立てませんか」とまた泣きが入っていると、岳羽が「今はほっといてやりなよ」と言う。彼女は不憫そうに僕を見ていた。
 僕は僕に生理的嫌悪を感じているらしい彼女にまで哀れまれてしまうくらい惨めなんだと考えると、すごくいたたまれない気持ちになった。僕を見るな。
「風花も、大丈夫?」
「胃が……ひっくりかえりそう……私、もう諦めたほうがいいのかなあ……」
「うん、まあ、最近はレトルトとか、いろいろ便利なものもあるしね……」
「片付け……できなくてごめんね……」
「大丈夫、こういう時のためにアイギスがいるんだから」
 話が読めないが、ともかく皇子様を放っておく訳にはいかない。命令に背くのはかなり気が引けたが、彼を追って一階の男子トイレを覗いた。
 皇子様は洗面台に身体を預け、ぐったりしていた。蛇口を開けっぱなしで、水が勢い良くざあざあ流れ続けていく。どう見ても無事には見えなかった。
「皇子様、」
「きちゃだめって……言ったのに」
「申し訳ありません、ですがあなたを放っておくことはできません」
 僕は彼を抱き、背中を撫でて、「症状は言えますか?」と訊いてみた。彼はぼそぼそと「きもちわるい」と答えてくれた。
「この異臭と先程の彼女たちの言動、あなたの症状から察するところ、皇子様は山岸風花の手料理を食べたんじゃないですか?」
「あれ……すごいや君、なんで」
「僕は平気ですが、彼女が作った料理を食べた人間が同じような症状を発症しているのを確認したことがありますので」
「そ、そうなんだ……」
 彼は真っ青な顔で頷き、焦点の合わない目で僕を見て、「ごめんなさいママ」と呟き(意識が混濁しているらしい)、そのままずるずるとくずおれた。
「皇子様!」
 僕は慌てて彼の身体を支えた、が、今度は呼び掛けても彼の意識が戻る様子は無かった。そして僕は僕の心の中に仕舞ってある、恩赦を与えてやったっていい人間の名前を書き込んである『無害な奴リスト』の中から、山岸風花の名前を抹消したのだった。やっぱりS.E.E.Sにろくな人間がいる訳はなかったのだ。




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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜