彼がようやっと目を開いたので、僕はほっとして「気が付かれましたか」と声を掛けた。
「具合はどうですか?」
「まあ……自業自得という感じだね」
 彼は苦笑いをして、「ついててくれたんだね、ありがとう」と言う。
「当たり前です。僕はいつでもあなたの傍に」
 僕は彼の手を握った。僕よりも冷たい手だった。
「そのまま手、握っててくれるかな。君が僕の手を触っていてくれると、随分楽になるんだ」
「はい、僕で良ければ」
「退屈じゃない?」
「まさか。僕はあなたに必要とされると、すごく満たされるんです」
「そう」
 皇子様はちょっと困ったみたいな顔で微笑んで、僕の手をぎゅっと握った。
「君はどうしてそんなに僕を慕ってくれるのかな。なんだか夢みたいだよ。君は僕の中の何をそんなふうに丁寧に扱ってくれるのかな。わからないことだらけだ。僕はたまにすごく君のことがわからなくなる」
「やはり素性の知れない僕をお傍に置くのは不安ですか?」
「あ、いや、そういう訳じゃないんだ。でも君のことをもっと良く知りたいとは思う。そうだね、今じゃなくていいけど、話してもいいって思った時に聞かせて欲しいな。元敵……っていうのかな? の、僕に話すのはちょっと気が乗らないかもしれないし、その時はいいよ。でも僕はみんなが言う復讐代行人っていうのがどんなものかも知らないし、そのことで君が悪く言われるのは嫌なんだ」
「聞かれて都合の悪い話じゃないです。ただ僕の話なんか聞いたって多分面白くないですよ。それにあなたは信じないかもしれない」
 僕が歩いてきた人生ってのは、とても不明瞭でまとまりがなく、ぼやけている。もしかすると僕が一番わかっていないのかもしれない。ラボのドクターがた、例えば幾月さんなんかだと、きっと僕のデータを細かいところまで詳しく紙に残しているだろうから、僕よりも僕のことについて詳しいかもしれない。
 ともかく、皇子様は絵本を読んで欲しいとせがむ子供みたいな顔をしていた。その顔はやっぱりとてもあの子に似ていた。僕は頷き、「いいんですか?」と訊く。彼は「うん」と頷く。
「どこから話せば良いのか分からないんですけど、僕が生まれたのはとても大きな月が見える場所でした。僕が目を開けた日はちょうど満月で、生まれて初めて見たのが、高い塔の上から見えるあの丸い月だったんです。確か、データ上では2000年の9月10日だったと思います。影時間が初めて発生した日ですね。桐条のラボが出したものだから、僕の記憶よりも随分正確なものだと思いますよ」
「2000年って今から十年程前じゃない。君は僕らと同い年に見えるけど」
「はい、僕は生まれた時既に七歳の子供と同じようなものでした。僕には人間の赤ん坊だった経験がありません」
 皇子様はなにか言いたそうな顔をしていた。なんとなく分かった。僕は頷き、「僕は人間です、あなたが仰るんだから」と言う。
「あの日、僕は何故だか分からないんだけど、二つに分かれて生まれました。僕ともう一人の僕です。僕らは良く似ていたけど、いろんなところが微妙に違っていました。例えば、あの子はすごい猫っ毛だった。目は綺麗な青色でしたし、目の下に泣きぼくろがあって、こんなことを言うとすごく失礼になるかもしれないけど、あなたにすごく良く似ていました」
「僕に?」
「ええ。マイペースで、人の話を全然聞いてくれなくて、僕よりも随分感情表現の仕方が豊かで、……ああ、また失礼なことを言っているな。すみません」
「いいよ」
 皇子様はおかしそうにちょっと笑っていた。僕は頷き、話を続けた。
「僕らは同じものだよねって二人でいつも言い合っていたんです。でも段々違うところが目に付いてきた。例えば僕は成長するのにあの子はずっと子供のまま。僕はみんなに見えるのに、あの子は僕にしか見えない。でもまあ上手くやってたんです。それがある日急にいなくなった」
「どうして?」
「ふられちゃったんですよ。たぶん。もうさよならだって言われちゃって。探しまわったんだけど見つからなくて、もうきっと二度と会えないんだろうなって、そんな気がするんです。僕はあの子に何かやったかなって考えたんだけど、いまだにわからないんです」
 僕は溜息を吐いた。さっきから変な話をしているものだ。
「すみません。つまらない話をしました」
「とても興味深いよ。なにせ君のことなんだから。そう、君はすごく強いペルソナ使いじゃないか。君はいつからペルソナ使いをやっているの? その様子じゃ、一年とか二年って感じじゃなさそうだけど」
「生まれてしばらくして、僕は家……あなたがたが言うタルタロスですね。から、誘拐されたんです。以前生徒会長『様』とお話していたようにね。拘束先の研究所で身体を作り変えられ――平たく言えば改造されたんですね。僕は人工的に覚醒させられたペルソナ使いです」
「へえ、格好良いね! ビームとか出る?」
「頑張れば出ます。――あそこには僕と同じような境遇の人間の子供が何人もいました。初めは百人近くいたんですけど、今はもう僕ら四人しか残ってません。たぶん。僕らは同じグループにいたんですよ。それで、担当が例の幾月さんでした。今は何をしているんだか知りませんけど」
「復讐代行ってのは?」
「言い出したのはうちの兄です。彼は何ていうか、個人の為にペルソナを使うことがあまり好きじゃないみたいなんです。例えばシャドウを傷付けたり、金庫を壊して強盗したりそういうの。もっと大きなことに使うべきだって言うんです。僕としては力の使い道なんてどうでもいいことなんですけどね。僕らがやってるのは、みんなが心の底に隠している望みを叶えてあげるって素敵な仕事ですよ。誰もが多かれ少なかれ悪意を持って生きています。でも口には出さないし、出せない。おおっぴらに叫び出したら仲間外れか精神病院送りでしょうね。誰も口に出せない望みを叶えてやる。兄弟の道楽とは言え、僕はこの仕事にそれなりに誇りを持っていますし、僕の家に押し入って、大した意味もなく僕の家族たちを引っ叩いたりしているよりは、すごく格好良いことだと思います。必殺仕事人みたいじゃないですか。ですからあなたのお仲間のS.E.E.Sとは相容れないんです。申し訳ない話ですけど、あなたに命令されても多分無理です。価値観ってものが同じ人間ってのはまずいないでしょうけど、僕らはかするところがひとつもないんだから、仲良くしようと思っても無理でしょうね」
「でもみんなは君と仲良くしたがっていると思うんだけど」
「……はあ、そうですか」
 そうですかとしか言えない。皇子様は微笑み、「どうもありがとう」と言う。
「どういたしまして。あまり面白いものでもなかったでしょう」
「とんでもない。好きな子を知ることができるのは、すごく幸福なことだよ」
「好きな子……ですか」
「うん」
 良く分からないけど、僕は皇子様に好意を示されるととても満たされた気持ちになる。「身に余る光栄」と言う。
「きっとまた会えるよ」
「え?」
「君の友達さ。君のことを嫌いになる友達はいないよ。僕は少し嫉妬してしまうだろうけど、君が嬉しいのなら僕も嬉しくなっちゃうと思うんだ」
「そうでしょうか……そうだといいんですけど」
「さ、ベッド詰めるからおいでよ。君は僕のそばにいるって言うし、僕も君と離れたくない。君はあんまり具合が良くない。ね、一緒に寝よう」
「は? いや、しかし」
「いや、変なことはしないよ、うん」
「その、失礼ってことに」
「ならないよ。僕が望んでいるんだから」
 僕は彼の傍にいられるなら床の上ででも眠るつもりだったけど、皇子様は「おいでよ」と聞かない。また聞いてくれない。僕は諦め、「はあ、ではお邪魔します」と断わり、彼のベッドに潜り込んだ。ベッドの中は彼の体温で温まっていた。心地が良いぬくもりだった。
「その服、苦しくない?」
「このまま眠るのは少し苦しいかもしれません」
「金具とベルトだけでも外すといいよ」
 僕は頷く。「君はじっとしてて」と命じられ、皇子様が僕の身体の上に乗りかかるような格好で、僕のベルトの金具を外していく。指の動きがぎこちない。あまり器用ではないのかもしれない。
 彼はなんだか僕に親切にすることが好きらしい。分からない。僕は皇子様にならティッシュやカメラや電池みたいに使い捨てられたって全然構わないのに、彼は僕に優しくする。こういうのに僕は慣れていないのだ。だからどうすればいいのか分からなくなる。
 ベルトを外し終わった皇子様の指が、僕の首筋に掛かる。ジッパーをゆっくり下げていく。そこで僕は遠く上の方から慌しい足音が聞こえてきたことを知る。聞き間違いじゃなきゃ、こっちに向かってくる。
 全くなんなんだと僕は文句を言ってやりたい気分だった。皇子様の穏やかなお昼寝を邪魔しようというのか。あいつらもう一回シメといた方がいいのかもしれない。だが岳羽ゆかりやアイギスが相手の場合、逆に僕がシメられるという状況に陥る恐れがある。その可能性はとても高い。
 きっとまた扉が吹き飛んで、怖い顔をした女子とかが踏み込んできて僕を殴るのだ。僕は予想した。そしてその通りになった。





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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜