二年F組の教室に顔を出すなり、真田明彦は僕の皇子様に人差し指を突き付けた。無礼にも程がある。彼は相変わらず熱闘・闘魂・根性を剥き出しにしているギラギラした目つきで、鋭く皇子様を睨んだ。そして「望月綾時、貴様に決闘を申し込む!」と大声で言い放った。まったく僕に喧嘩を売っているとしか思えない。
「真田先輩、まだ寝惚けてるんですか? 朝が弱いんですか? 差し出がましいかもしれませんが、俺がもう二度と恥ずかしい寝言も言えないように、月光湾の底へ重りをつけて沈めてさしあげましょうか?」
「お前は黙っていろ黒いの。俺は望月と話をしている」
「あの、僕、ボクシングとかやったことないんですけど……」
皇子様が困ったふうに、「まあまあ」とでも言うふうに両手を上げた。確かに僕は皇子様がボクシングやプロレスと言った野蛮なスポーツを嗜んでいるところなんて、まったく想像することができなかった。彼はそういう男臭かったり汗臭かったりする競技は似合わないのだ。優雅なフェンシングや射撃なんかが良く似合う。僕やこの暑苦しい真田とは大違いだ。彼は高貴なのだ。
「ボクシングの経験がないお前にボクシングで勝負を挑むほど、俺は卑怯な男じゃない。勝負は一対一の総合格闘技戦だ。何でもアリだ。俺が勝ったら、貴様の腰巾着の黒いのを貰おう」
「ええっ! それはいやです、えーと、かわりに僕の大事なもの……ま、マフラーを! マフラーをあげますから!」
「そんなものはいらん! 俺は黒いのが欲しい!」
僕はどうやら皇子様のなかでは、彼のトレードマークのマフラーと同等か、もしくはそれ以上に大事なものとして位置付けをされているらしい。僕はどうやら思う以上に彼に認められているようなのだ。そのことですごくいい気持ちになったが、同時に玩具屋の前で駄々を捏ねて泣く子供みたいなことを叫ぶ真田に腹が立った。僕が欲しいとか、皇子様のマフラーが気に食わなかったりだとか、何様のつもりだ。僕は僕の意志で皇子様にお仕えしているのだ。ちょっと子分が欲しいくらいの気持ちでちょっかいを出してきたんだとしたら、許すことはできない。
「なんか、欲しがられてんぞ」
順平がパックのオレンジジュースにストローを刺して、口をつけ、ストローを口に入れたまま僕を見て喋った。彼はいつもみたいに僕を心底憐れむような目で見ていて、ちょっと気に食わないが、まあ誰かが同じ状況にあったとしたら、僕も同じようにしただろう。
「ロードワーク仲間が欲しいんでしょ、先輩は」
「黒田さんを物のように扱うのは感心できません」
岳羽ゆかりがいつもの醒めた顔つきで皇子様と真田を見ている。彼女は最近は以前みたいになんでもかんでも僕のせいだって言い出すことがなくなった。ただ皇子様にすごく冷たいところはいただけない。
アイギスは思わず僕が『うんその通りだよな』と頷きたくなってしまうようなことを言ってくれる。これで彼女が僕の皇子様を目の仇にしていなきゃもっといいのになと思う。
皇子様は見て分かるくらいに渋い顔をされていて、すごく困っているようだった。そして大分長い沈黙の後で、苦しげに頷かれた。
「うう……わかりました、僕も男です。戦いましょう。あの子をかけて、僕は負けない」
「良く言った! では今日の放課後、ボクシング部の部室に来い。逃げたら負けだ。お前が来なかった場合、黒いのは俺のものだ。貴様もいいな、黒いの!」
「いいわきゃないでしょう。馬鹿ですかあなたは」
僕は言外にふざけんなと言ってやったつもりだったが、脳味噌が筋肉でできているらしい真田には通じなかったらしい。言いたいことだけ言って、上着を担いで颯爽と背中を向け、去っていく。
「皇子様、よろしいのですか。あんな筋肉馬鹿に好きに言わせておいて。ご命令下されば、早急に事故に見せ掛けて暗殺いたします。僕そういうの得意なんです」
僕はすごく腹が立っていた。ピリピリしていた。でも皇子様は穏やかに、いつものようにちょっと困った顔で「うん……でも僕も男だから」と言っている。相変わらず彼は怒らない。
「真田先輩が綾時くんと決闘だって。なんか、誰かを賭けて戦うらしいよ」
「黒田くんじゃない? あの、妖怪じゃないほうの黒田くん。そう言えばあの子、今日来てないね。風邪かな? 決闘ってちょっと熱いよね。見に行っちゃおうか」
「望月が真田先輩にかなうわけないじゃねーか。あの人ボクシングチャンプなんだぜ。絶対三秒以内で沈められるに百円」
「綾時くん、大丈夫かなあ……折角綺麗な顔してるのに、痣とかできたらヤだなあ」
「なあ、真田先輩と望月の決闘のインパクトのせいでちょっとスルーされがちだけどさ、あの、黒田……妖怪のほうな、あいつあの真田先輩にすごいこと言ってなかったか? 馬鹿ですかとか月光湾に重り付けて沈めるとかなんとか」
クラスメイトたちがざわざわと雑談している。相変わらず僕を空気のように扱う。だがそれで本望だ。僕は皇子様の影となり、常にお傍に付き従い、彼を不自由からお守りするのが役目なのだ。
「なーんか、真田サンも無茶言うし。リョージが決闘とかちょう似合わね」
「俺もお前と珍しく同意見だ順平。皇子様が手を汚す必要なんかまったくない。まったく無礼な男だ。あれだけ痛め付けてもまだ自分の立場ってものが理解出来てないらしいな。日干しにして湾岸倉庫の壁に塗り込めてやろうか」
「……お前、今日妖怪バージョンでも言動コエーよ。ん、どしたのその前髪。皇子様のお顔が見えねんじゃねえの?」
「皇子様のご命令だ。彼以外の人間には、できるだけ顔を見せるなということだ。その為防護マスクを被って登校したんだが、校門で風紀委員長に怒られて果たせずとても残念」
「リョージ……」
「うん、僕以外の男に、できるだけ彼の顔を見せたくないなあって……これって独占欲って言うのかなあ」
皇子様が僕の肩を抱いて、「僕以外の人のものになんてならないで」と言う。当然だ。僕は頷き、「ありえません、カオナシはあなた様に生涯お仕えします」と言う。皇子様は「うん」と頷き、安心されたようだった。
すぐそばから机が軋む音と、殺意の入り混じった視線を感じる。またアイギスが机をひしゃげさせていた。彼女の机はぼろぼろだ。そしてクラスの女子連中がまた僕にあからさまな悪意を向けているのを、肌で感じる。空気が澱んでいる。
でも負ける訳にはいかない。僕はこれでも主人のためなら世界中とだって戦えるくらいの意気込みは持っているつもりなのだ。
「なんかね、荒垣サンが最近バイト忙しくて構ってくれねーから、一緒に特訓できる仲間が欲しいらしいんスよ」
順平がいつものように大きな手振りを加えながら、ベンチに腕を組んで座っている生徒会長にことの起こりといったものを説明した。こっそり耳をそばだてていた僕も、それでああなるほどと納得することができた。真田は寂しかったのかもしれない。だからと言って皇子様にちょっかいをかけても良いって理由になりはしないが、僕は彼に少し同情した。彼は友達がいないのだ、可哀相に。
「明彦にも困ったものだな。望月に怪我などさせなければいいが」
「でも綾時くん、その……こないだすごかったじゃないですか。アレ、何なんですか?」
生徒会長の隣に座って、ペットボトルの紅茶を飲んでいた岳羽が、ちらっと皇子様を盗み見て、うさんくさそうに小声になって言った。
「いや、調べようとしたんだが邪魔されてな」
「誰に?」
「主のことをコソコソ嗅ぎ回られるのが嫌なんだそうだ」
「……ああ、なるほど」
「あいつら地味に相思相愛だよな」
生徒会長と順平と岳羽が揃って同じタイミングで溜息を吐いた。仲が良いことだ。彼らが腰掛けているベンチの横にはアイギスが立っていて、僕が目をやると額に手を当てて敬礼した。
「おい黒いの!」
「なんですか」
かなり機嫌を損ねた声で呼び付けられ、振り向くと、やはり真田はとてもご機嫌斜めのようだった。練習場のリングの外の皇子様と、リングに上がっている僕を交互にじろっと睨み、僕のことを指差した。
「お前が何故リングに上がっている! 俺は望月に決闘を申し込んだんだ。男と男の勝負に手を出すな!」
「く、黒田くーん……」
皇子様はとても心配そうな顔をして、眉を下げていた。僕は彼を安心させるために微笑み掛け、「大丈夫です、あなたが心配なさることなど何もありません」と言っておいた。本当に彼が気を揉むことなんてなにもありはしないのだ。
「このお方には指一本触れさせない。どうしても勝負をしたければ、まず皇子様をお守りする僕ら四天王を倒すことだな」
「四天王だそうですよ」
「ひい、ふう、みい……あ、ホンマや。四人おるわ」
「カオナシがなんか上手いこと言ったみたいな顔をしてるのがむかつく」
ベンチに皇子様を挟んで座り、彼を護衛している僕の仲間たちが、いまひとつやる気のなさそうなことを言っている。お前らそんなでどうするんだと僕は言ってやりたかった。そんなグダグダで皇子様をお守りできると思ってんのかと。でもまず僕は目の前の敵に集中することにした。真田はどうしたのか、少し困惑しているようだった。
「む……貴様と勝負をするために望月を倒さなければならんのだが、望月を倒すためには貴様と決着を着けねばならんというのか? なんだこれは? クラインの壷か?」
「あまり難しいことを考えないほうがいいです、先輩。知恵熱が出ますよ」
「む、そうだな」
冗談で言ってやったってのに、真田は馬鹿正直に頷いた。こいつは本物だ。
彼はパンツ一丁というタカヤも驚きの卑猥な格好で、両手に柔らかそうな皮製のボクシング・グローブを嵌めていた。制服のままポケットに両手を突っ込んでいる僕とは、やる気もスタイルも大違いだ。熱気というものが嫌と言うほど感じられた。
「黒田、無茶しやがって……あいつ瞬殺されるぞ。絶対五秒持たないって」
外野からそんな声も聞こえてくる。今言ったの誰だと、僕はそっとリングの外を見た。残念ながら分からなかった。何故か観客が多過ぎるのだ。「引っ込め妖怪、望月君を出せ」という声も聞こえる。女子のものだ。
皇子様は本当に人気者だ。あの恐ろしい女子共まで手懐けている。今更だが僕は彼が恐ろしくなり、そして同時に誇らしくもなった。さすがは僕の皇子様だ。
余所見をしている間に、かあん、と乾いたゴングの音が鳴った。真田がすぐに反応し、俊敏な動作で向かってくる。
「うおおおおっ! 食らえ、俺の熱い拳を!」
僕は殴り掛かってきた彼の拳を、上半身を逸らせて避け、すっと右足を突き出した。真田の足を引っ掛けてやると、彼は面白いくらい派手に頭から転倒した。
「あ、卑怯! 卑怯だがすげえ!」
生徒会長と岳羽が、また似たような動作で頭を押さえて溜息を吐いている。順平は歓声を上げた後で、隣り合っているベンチに座っている僕の仲間たちに、そう言えばって感じで質問をしていた。
「な、いっつもあいつハルマ……あのオッソロシイミックスレイドとか言う技で先輩ボッコにしてたけどよ、ガチで殴り合ったらどうなんだ?」
「カオナシにポケットティッシュ一個」
「カオナシに割れた茶碗」
「カオナシに私のブロマイドを賭けましょう。サイン入りです」
「お前ら……もっといいモン賭けてやれよ……仲間なんだろ……」
ほんとにそうだ。
「黒田ー! 今の内に逃げろ! 殺されんぞ! お前のカエルみてーな顔が、どこが目か鼻か口かもわかんないオタマジャクシみてーに整形されちゃうぞ!」
確か僕のクラスメイトだったと記憶している顔の男子生徒が、僕を心配してのことだろう、叫んだ。その割に内容がすごくひどい。あんまりだと言ってやろうと顔を向けたところに、男子生徒の顔面に皇子様が投げられたパイプ椅子が直撃した。
「失礼なこと言わないでっ! 僕の黒田くんは絶世の美人なんだよ!」
さすが滅びの皇子様、薬物投与も強化手術もされていないのに、ギガス並の腕力だ。素晴らしい。
体勢を立て直した真田が僕の顔面を狙って、正確に拳を突き出す。顔を打った仕返しとでも考えているのかもしれない。でも僕としても、当たるとそれなりに痛い拳をわざわざ食らいたくはない。
「おおお、黒田がバックステップで避けてるぞ! 顔も見えねーのにすげえなあいつ」
「女子にさ……リンチに遭ってるうちに、覚えちゃったんだよ、攻撃の上手い避け方をさ……」
コーナーに追い詰められ、僕がもう逃げられないことを悟ったんだろう、真田が渾身の一撃を放つ。女子の黄色い声援が大きくなる。僕はキャンバスを蹴り上げ、真田の頭に逆さまに手をついて、身体を捻り、彼の背後に降り立った。
「……え? なんだあいつ? バッタか? いや、やっぱりカエルだったのか?」
「ああ、なるほどな。やっぱり両生類だったんだ。そうじゃないかって思ってたんだよ」
「いや、なにみんな納得してんの? おかしいだろ。あれ人間の動きじゃねえだろ。超常生物だ。警察に連絡しろ」
「貴様、何故攻撃してこない! 遊んでいるつもりか!」
真田はかなり腹を立てているらしい。僕は呆れ、肩を竦めた。
「身のほどを思い知るんですね。あなたは僕には届かない。僕にすら届かないくせに、あのお方に勝負を挑む精神が理解出来ません。愚かですね」
「おい、黒田ってあんな奴だったっけ?」
「いや……なんていうかこう、電柱に肩ぶつけてヒッすみませんとか言ってそうな奴だろ? 黒田って」
「貴様が何のつもりだろうと、今日こそ俺は、負けん!」
グローブに包まれた腕が、僕の首から下がっていたネックストラップを器用に引っ掛け、引寄せた。ちょっと予想外だった。やはり、貴重品は誰かに預けておくべきだったのだ。
そして彼は僕の額に頭を思いっきりぶつけた。ようするに頭突きと言うやつだった。ボクシング選手ってものは頭突き攻撃をするものなんだろうかと一瞬僕は訝ったが、「あの真田先輩が反則攻撃……」と唖然としたような後輩の声が聞こえたので、納得がいった。普通はしないのだ。
僕はかなりの石頭だってことを自覚しているが、真田は更にその上を行くようだった。痛いったらない。やはり、彼の脳味噌は全て筋肉でできているに違いない。彼は頭突き専門のスタイルに切り換えたほうが良いんじゃあないかなと余計な提案をしてやりたくなったが、目の前がちかちかしてしょうがなかった。真田もきっと戦闘中に敵の忠告なんて聞きやしないに違いない。
そして一瞬後、重たいストレートの右が僕の顔面に突き刺さった。そこで何故か僕ではなく、皇子様が悲鳴を上げた。
「うわあああー! 真田先輩、何てことするんですか! あの子の綺麗な顔に、顔にっ……く、黒田くーん!」
一瞬ふわっと身体が浮いたが、僕は朝起きたジンが眼鏡を探しているみたいな当てずっぽうさで膝を折り曲げ、地面を探し出し、片脚で踏み締めた。勢いがついて後ろに持っていかれる身体は、もう片方の脚で支えた。
「甘い」
踏み止まり、僕もまっすぐに拳を返す。やられたら三倍返しだというのは、僕のチーム内では標語のようになっている。
僕に記念すべき第一撃目を叩き込んでくれた真田は、直後に殴られ、ぐらっと重心を傾けた。でも倒れない。また僕を殴る。ルール無用だと最初に言っていた通りに、ほとんどただの取っ組み合いの喧嘩みたいになってきた。
「俺が貴様のような奴に、ひょろひょろのちびに、貧弱なオカマに負けるはずがない!」
真田が吼える。僕は、こめかみのあたりでぷちんと何かが弾けた音を聞いたような気がした。
「あちゃー……地雷踏んでもうたあいつ」
「これはこれは」
「本当のことでしょ」
誰がひょろひょろだ。誰がちびだ。誰が貧弱でオカマだ。僕はどこからどう見たって男のなかの漢だ。誰にも文句は言わせないくらいに。
「ふざけんな! 俺はひょろひょろなんかじゃない。そりゃお前だろ、なんだそのガリガリ! アバラ浮いてんじゃん!」
「日々摂取し続けている俺のプロテインを舐めるな! もやしめ!」
「そっちこそ薬物投与された強化サンプルを舐めんな! 脆弱な人間が!」
「なんか黒田の台詞、今とんでもない爆弾抱えてなかったか?」
外野が唖然としている。真田は僕と同じくそんなものは知らん顔だ。僕の胸倉を掴んで引っ張り上げた。
「何故これだけの力を持っていながら下らんことに使う」
「うるさい、自然覚醒者が偉そうな口を叩くな。俺はお前らなんか大嫌いだ」
睨み合い、彼の腕を掴み返し、固めようとしたところで思いっきり蹴り飛ばされた。「また反則技……」という声がリングの外から聞こえた。
素早く身体を起こし、マットを蹴り、僕はただ真っ直ぐに敵に向かって行った。大真面目に殴り合いをやらかすなんてすごく久し振りの経験だった。ぎゅっと握り拳を固め、全力で突き出す。それだけだ、簡単なことだ。
でもそうやって僕が突き出した腕は真田に届くことはなかった。真田の腕も僕には届かない。でもちゃんとものを殴る感触はあった。人間を殴る時の、あの重くて硬い骨の感触が。
「――あ」
そして気付く。僕が真田と二人がかりでぶっ飛ばしたのは、僕が敬愛するべき他ならない皇子様その人だったのだ。彼がリングに上がって、僕らの間に割り込んできたのだ。
僕は一瞬何が起こったのか分からなかった。理解が現実に追い付くにつれて、頭の中と目の前が真っ赤に染まっていった。僕の兄弟たちが、「やっちゃいよった……」と溜息を吐く姿が見えた。
「お、皇子様っ!?」
「望月?」
僕は取り乱し、すぐにマットの上に伸びている皇子様に取り縋り、抱き起こした。さぞ怒っているだろうと想像し、僕は真っ青になったが、例によって彼は困ったように微笑んでいた。やっぱりこの人は、怒りというものをどこかに落っことしたまま生まれて来られたのだ。間違いない。
「も、やめようよ、喧嘩なんて……君にはそんな顔は似合わない。どうか笑って」
皇子様が僕の頬に手を伸ばし、優しげに撫でた。そこには気遣いと労わりがあり、怒りなんてまるで存在しなくて、そのせいで僕の目に涙が溢れてきた。僕は彼に優しくしてもらえるような人間じゃない。とんだ無能だ。自分が情けなかった。
「すみません……申し訳ありません、僕が、僕があなたにこんな、僕は……僕は、っ」
「え、アレ、黒田泣いちゃってる……?」
僕は皇子様を抱き締め、「なんてことを」とぼそぼそ呟いた。本当に『なんてことを』だった。信じられない。僕のたったひとりの、神にも等しい主人に向かって、僕は何ということをしてしまったのか。
「かくなる上は腹を……腹を切ってお詫びを……!」
僕はリングの上にあぐらで座り込み、勢い良くシャツをはだけた。ボタンがいくつか飛び散ったが、もう今更知ったことではない。
「家庭科室から包丁パクってきたさかい」
「介錯は任せろ」
「さらばですカオナシ。あなたの忠誠心はとても立派なものでした」
こういう時ばかりは僕の兄弟たちはすごく気が効く。ジンが横から僕に出刃包丁を差し出してくれて、僕の背後ではチドリが業務用の斧を振り被っている。タカヤが僕の正面に僕と同じ格好で座って、「心配はいりません、貴方亡き後も我々が皇子様の為にお仕えします」と言う。僕は頷き、「後は任せた。ありがとう、楽しかったよ」と言う。
「うわー!!」
殴られてぐったりしていた皇子様が、血相を変えて起き上がり、僕が包丁を持つ右手をぎゅっと抱き締められた。「危ないですよ」と僕は彼に注意をしたが、彼は全然聞いていないようだった。
「ちょっ、やめっ、やめてえ! 死なないで! そんなのだめだ、生きてればまたいいこともあるよ!」
「あなたへの僕の無礼、万死に値するものです」
「その通りです。皇子様殴るのはあかんです」
「どうか彼の散り様を見届けてやって下さい」
「どうでもいい」
僕も、僕の兄弟たちも頷く。
「なんつーか、すげえシンクロ率。なんであいつら四人揃って、今時切腹であんなにノリノリになれんだ」
「知らないって。こっちに訊かないで」
「絶対、ダメだよ!」
でも皇子様はダメだと言う。
「僕は君がいなくなったら生きてはいけないんだ! 君が死ぬって言うなら、僕も一緒に……!」
僕は息を呑み、必死な顔で僕の自害ショウを止めようとして下さっている皇子様を見た。彼はとても眩しいもののように見えた。
「……僕の主君は、なんて臣下想いの、温情に溢れたお方なんだろう」
「感動しました」
「涙で前が見えへんです」
「……首、斬っちゃダメなの」
「しかし……このままカエル面とかオタマジャクシ面とかバッタとか、なんかすごいこと言われてる僕なんかがあなたのお隣にいたら、あなたのご威光を損ねてしまいます……」
リングを取り巻いている外野が皆うんうんと頷いている。「いや、むしろ引き立て役として重宝してんじゃね?」という声も聞こえた。
「何を言うんだい。君は美人だよ」
なのに皇子様はまた僕の頬に触れ、微笑まれる。
「望月くん、正気に返って! それ絶対宇宙人だよ。地球を征服しに来たんだよ」
「お願い、目を覚まして! 私望月×黒田だけは見たくないの!」
女子の罵声が聞こえる。本当にその通りだ。僕はこの美しい皇子様のお隣に並ぶにしては、ちょっと不恰好に過ぎるのだ。
「素顔を見せて、僕のプリンセス。君は誰よりも美しい」
なのに皇子様ときたら、醜い僕に花のように微笑み掛けられるのだ。細い指で僕の髪を梳き、目をじっと合わせられる。僕は彼の美しい顔立ちと、まるで晴れ渡った冬の空のような、透き通ったブルーの瞳をまともに見られず、目を伏せた。僕の神だ。彼にじっと見つめられるのは、僕が生まれ歩んできた道全てを見透かされているようで、すごく恥ずかしかった。
「ゾッとした。背中鳥肌立った」
「リョージのやつ、結構順応早いな……皇子様とか呼ばれんの慣れちまいやがった。プリンセスときたか」
特別課外活動部のメンバーは、どうやらもう慣れたらしい。はじめのうちに良くあった「なにやってんだお前ら」を特別言い立てることは無かった。微妙に僕と皇子様から目を逸らしている。
「く……黒田……?」
「よ、妖怪が……妖怪が美少年に変身したわ」
「あの黒田くんと、あの妖怪黒田って、え、……マジで?」
外野がざわざわと騒がしい。また僕が皇子様にくっついているものだから、面白くない女子連中に罵声を浴びせられてペットボトルや生卵を投げ入れられるのかという不安を感じたが、幸いなことに何事もなかった。
僕は恐る恐る皇子様の手をそっと取り、頬を押し当てた。「この命貴方様のために」と、僕は改めて彼に忠誠を誓う。
「僕はあなたのものです。慈愛溢れる、優しい僕の皇子様」
順平が相変わらず僕らから目を逸らしながら、「うん、ま、いいんじゃね?」とぼやいている。真田はさっきまでの剥き出しの敵対心をもう見せず、「ふ、お前は大した奴だよ望月。黒いの、幸せにな」とか良く分からないことを言っている。当たり前だ。僕は皇子様にお仕えすることができて、最近いつでも幸せなのだ。彼が変なちょっかいを掛けて来なきゃもっと幸せだった。
生徒会長は「明彦、大人になったな……」とか感慨深そうに真田の保護者みたいなことを言っている。保護者なら彼の暴走を止めてみせろと言いたいが、僕にはもう関係のないことだ。どうでもいい。
「素晴らしい。あの野生児カオナシにここまでの忠誠心を抱かせるとは、さすがは我らの皇子様です」
「あ、あかん、また涙出てきてもた。皇子様、カッケーです……」
「従順なカオナシとかちょう気持ち悪い」
僕の兄弟たちも、皇子様の懐の深さに深い感銘を受けているようだ。やはり彼は素晴らしい。でもチドリは後でシメる。
「望月×黒田って、そう悪くないんじゃない?」
「うん、だから私前から言ってたじゃん」
女子連中も今は目くじらを立てることなく、静かだ。僕の崇高なまでの忠誠心を認めてくれたんだろうか。そうならいいなと思う。
「いや、違うでしょ……和やかに大団円のムードとか、絶対間違ってる。だってこれ、男同士じゃない。なんで誰も突っ込まないの」
「同意であります。私の中で、綾時さんへの攻撃衝動が今だかつてないレベルに到達しつつあります」
ただ、岳羽とアイギスは相変わらず冷たい。お前ら一体なにが気に入らない。
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