それで、なんでか僕は今皇子様と二人で並んで、ベッドに座っている。皇子様はもう泣き止んでいらしたが、かわりに今は頭を抱えている。彼は苦悩に満ちた顔で、「僕って奴は……」と、苦しげに声を絞り出していた。
「皇子様?」
「はじめはカラオケにね、行こうって思ったんだ。ほ、ほんとだよ。まさか君がOKしてくれるなんて思わなくて、ジョークのつもりだったんだ。ちょっとホテルで休憩でもどうだい?なんて。……まあ半分本気だったわけだけど。ねえ、良かったのかい? こんなところに、ついてきちゃって」
 こんなところってのは、ホテルの一室だ。入口に『休憩、宿泊』と表記された看板が掲げられていて、部屋の空きを知らせるランプが点灯していた。従業員はおらず、チェックインや部屋の指定は全て機械で行うことができた。
 部屋は鏡張りで、昼間だってのに窓を厚ぼったいカーテンで締め切られていて薄暗く、淡いピンク色の光が部屋の中を満たしていた。室内中央には、円形のダブルベッドが偉そうに鎮座していた。
 僕も子供じゃないからさすがに知っている。ラブホテルってやつだ。入ったのは初めてじゃない。七月頃に、一度影時間に来ている。あの時はひどい目に遭った。
 S.E.E.Sの様子見に訪れたはいいが、予想外に精神攻撃に遭い、前後不覚に陥ってしまったのだ。僕と僕の仲間達だ。全員がだ。
 気が付いたらベッドの上にいて、僕の腹の上に鞭と蝋燭と荒縄を持ったチドリが乗っかっていて、僕はあの時貞操の危機を感じ、初めて本気で女子に手を上げてしまったのだ。平手打ちをしてしまった。怖くて泣いてしまった。その後何日か彼女とは口をきいてやらなかったと思う。僕は怒っていたのだ。
 タカヤとジンに関しても、多分僕らと同じような感じだったと思う。ジンが泣いてた。
 しかし通常時間中に同性同士でも中に入れるんだってのは知らなかった。男女のカップルじゃなきゃ即座に排除されるとばかり思っていたのに、結構拍子抜けだ。
「僕はあなたが望むならどこへでもお供します」
「ちょっといいのかなとは思うけど、うん、僕も男です。優柔不断な奴だって君には思われたくない」
 皇子様は顔を上げ、手のひらをベッドの上の僕の手の上に重ね、「シャワー、どうしよう?」と言った。
「君、先に浴びるといいよ。僕待ってるから」
「いいえ、主君より先にシャワーを浴びることはできません。失礼になりますから」
「う、うん」
 なんでか皇子様はガチガチのロボットみたいな動作で、ぎこちなく浴室へ消えた。扉が閉まり、シャワーの水音が聞こえ始めてきてから、僕はとりあえず、何をやっているんだろうかと考えてみた。僕が現在置かれている状況や、立場ってものを再確認してみた。
 今日は朝からちょっとした邪魔があったものの、滞りなく任務は進んでいると思う。食事をして、映画を見た。それで今はラブホテルで休憩中だ。
 なんで休憩中にシャワーを浴びる必要があるのか?
 普通のカップルならこれから性行為に及ぶのかもしれないし、それなら好きなだけシャワーを浴びればいい。でも僕と皇子様は男同士だったし、デートとは言え本当に恋人や夫婦って訳じゃない。そうなれって命令も無かったし、あきらかに身分が違い過ぎた。
 その上僕の身体は普通の人間とはちょっと違う。彼がいくら若々しい性欲を持て余していたとしても、僕みたいな筋肉ダルマで解消しようとは思わないだろう。華奢で繊細な皇子様の手には余る。
 しばらく考えてみたが、上手い答えは思い浮かばなかった。しいて挙げるとすれば、皇子様がとてもシャワーを浴びるのが好きな、清潔好きな人種なんじゃないかってことだ。
 彼は帰国子女だから、以前住んでいた国ではそういう習慣があったのかもしれない。そこでは一日に最低三回はシャワーを浴びて身体を清めるのだ。それは生活習慣なのかもしれないし、宗教上の理由があるのかもしれない。
 僕も皇子様にお仕えするようになってからは、薄汚い身体で彼に近付くことはできないから、きちんと毎日シャワーを浴びるようになった。寮の共用浴場で、ちゃんと自主的に湯船にも浸かるようになった。
 もうあの忌々しい管理人に「百数えるまでちゃんと浸かりなさい」とか「お前洗い方適当過ぎてすげー汚い」とか言わせない。「洗ってやるから目ェ閉じてなさい」と言われて、無理矢理シャンプーハットも被せられない。「暴れない」と殴られない。子供みたいにされるのは懲り懲りだ。まったく僕を舐めないでいただきたい。
 ともかく、そんなで最近の僕は結構綺麗好きなのだ。でもまだ足りないのかもしれない。昔みたいに屋根のついた真っ当な家を持っていなかった時分から比べるとすごい進化なんだけどなと僕は考えた。
 あの頃は遺棄された倉庫に篭りきりで、影時間に銭湯へ出掛けることすら怖かったから、雨水で身体を洗って、何日も何週間も着たきりだった。今だから言えるが、ああいうのを浮浪児って言うんだと思う。昔はあれが当たり前だったのだ。
 ベッドに座ったまま皇子様を待っているのも何だったので、僕はいくらか部屋を物色することにした。まず部屋に備え付けてある冷蔵庫を開けてみると、上段には南船橋人工水とマッスルドリンコが入っていた。
 下段には『夏場のお供に』と書かれたカードと一緒に、陶製のボウルの中にプラスチックのボトルが入っていた。今は十一月だ。こいつは少なくとも夏前からこの冷蔵庫の中で出番を待っていたらしい。最低でも三ヶ月は経っている。その間誰にも必要とされなかったことを考えると、少し不憫になった。同情した。
 こいつは『夏場のお供』という役割を果たせなかったのだ。任務失敗だ。ラベルには『食べられるローション』と表記されていた。メープルシロップ味らしい。
 僕は、甘い物が好きだ。
「……何やってんの?」
「皇子様が浴室から出てきたのは、僕が簡単に部屋のチェックを済ませ終わった頃だった。彼はどうしてか緊張しきったような強張った顔だったが、僕を見付けるとぽかんと口を開け、不思議そうにされた。
「ああ、皇子様。お疲れ様です」
 僕はベッドの横に座り、置いてあったラックの中から、『大人の玩具』というラベルが貼られたアルミのパックを引っ張り出し、包装を破いていたところだった。大人が使うって言うくらいなんだから、子供には解けないくらい難解なレベルの知恵の輪やブロックパズルのようなものが入っているのかと期待したのだが、中から出てきたのはただの棒だった。スイッチを入れるとブルブル震える。訂正しなければならない。ただのマッサージ器だった。
 大人になったら、ただのマッサージ器のようなものが、玩具、つまり遊び道具になってしまうのだ。歳を取って身体中にガタがきて、肩こりなんかはもう友達みたいなものになっているのかもしれない。
 だから彼ら大人の間では、手軽に肩こりを癒せるマッサージ器が大ブームを起こしているのだ。きっと年配のサラリーマンなんかが、色違いで揃えてコレクションしているに違いない。
 たまに会社に持って行って上司に見つかり、「玩具を持って来るんじゃない」と怒られて没収され、泣いてしまうのかもしれない。もしくは意地悪な同僚に、「お前いいもん持ってんじゃん」と無理矢理取り上げられてしまうのだ。悲惨だ。
 彼らはなけなしの小遣いで買ったそれぞれのマッサージ器をとても愛していて、子供の超合金ロボットやヒーロー変身セットを幼稚だと笑うのだ。冗談じゃない。そんなもの全然楽しくないと僕は言ってやりたい。マッサージ器にはシューティング・ゲームで敵機を撃破した時の爽快感や、バトルシーンに燃えながらもヒーローの悲哀に共感したり、そういう熱い使いかたは期待できない。ただ無感動にブルブル震えるだけだ。そして肩こりを癒すだけだ。
「僕は子供でいいです。大人になんかなりたくない。マッサージ器なんかに夢と希望を託して、大人達は一体どこへ行こうと言うんでしょうか」
「うん……僕は君が一体どこへ行きたいのかということの方が気になるけどね……。ほんとに、何やってるの。ああ、そんないっぱい開けちゃって、ローションも開けちゃったのかい? あ、これすごくいい匂い……あれ、中身は?」
「美味しかったです」
「飲んじゃったの!? しかも全部!」
「は……食べられると表記が……」
 皇子様の反応を見ていると、なんだか居心地が悪くなってきた。僕はなんだかすごく間違ったことを仕出かしたような気がしてきた。好奇心に負けて部屋を散らかしてしまったが、やはりベッドの上でおとなしくしているべきだったのだ。
「申し訳ありません……こういう所はあまり馴染まないもので、つい」
「ううん、いいよ。僕も興味があるから。へえ……これが、大人の玩具って……」
 皇子様はなんでかマッサージ器と僕を交互に見つめて、顔を真っ赤にして俯き、頭を抱えられた。「うわあ、すごすぎる」と言っている。何が『すごすぎる』のかは僕には良く分からなかったが、彼が言うんだから確かに『すごすぎる』んだろう。僕のマッサージ器への認識が、少し良いほうへ変わった。
「ね、ねえ……」
「はい、何ですか」
「これ……使ってみても良いかな?」
 彼はどうやらマッサージ器に興味を覚えたようだ。皇子様は大人なんだなと僕はこっそり考え、「はい、どうぞ」と頷いた。
「あの、それじゃ、ベッドへ行こうか」
「はい」
 皇子様に手を引かれて立ち上がり、またベッドの縁に二人で座り直した。湯上りの皇子様は、とても良い匂いがした。いつも几帳面に後ろに撫で付けられている髪が額の上に落ちていて、僕はそういう時の彼を見た時にいつも感じるような、例の既視感を覚えた。
 彼はすごく僕の友達に似ていた。これで猫みたいな吊り目なら完璧だってくらいに似ていた。でも皇子様はすごく優しげで穏やかな目をしておられる。あのこまっしゃくれたクソガキとは違うのだ。
 あの子の名誉の為に挙げておくが、僕は彼を確かに愛している。でも彼は僕の半分なのだ。可愛げなんかがあるわけがない。まあ僕よりは随分可愛かったけど。
 皇子様はまた僕の手に触り、「君はいいの?」と言われた。
「は?」
「シャワー。僕はどっちかというと、君のそのままの匂いを感じたいんだけど……」
「は、あなたが仰るならその通りに」
 彼は「そう」と頷き、手早く僕の上着を脱がせ、ネクタイを解いた。そしてシャツのボタンを丁寧に外していく。彼の指は震えていて、並じゃない緊張が僕に直接伝わってきた。
「ごっ、ごめんね、僕もう、あんまりスマートじゃないよね……」
「皇子様?」
「怖がらないで」
 僕は裸にされ、ベッドに仰向けに寝転ばされた。僕を追うように皇子様がベッドに手をつくと、微かにスプリングが擦れる音がした。
「き、緊張しないでね」
「はあ」
 僕は頷く。どう見ても僕よりも皇子様の方が随分緊張していたし、硬くなっていた。見ていられないくらいにガチガチになっている。さすがに僕は手を差し伸べ、皇子様の頬に触り、「大丈夫ですか?」と訊いた。
「あなたが緊張なんてすることはないんです。カオナシがついております。ご安心下さい」
「え……っと、この反応、もしかして君、すごく手馴れてないかい?」
「? 仰っている意味が良く分かりませんが、僕はオールラウンダーです。必要であればアタッカーにもサポーターにもなれます。僕は元々あなたの為に、完璧であるように育てられました。あなたの望みが何であれ、きっとお役に立てるでしょう」
「う、うん? なんか、噛み合ってなくない……」
 皇子様はハート型の大きな枕の横に置かれたバスケットの中から、先程僕が冷蔵庫の中で見付けたものと同じかたちのプラスチックボトルを摘み出した。ラベルも同じだ、『食べられるローション』と書かれていた。ただし今度はバニラ味だ。
 彼はボトルのキャップを開け、中身を手のひらに受けた。甘いバニラの香りが室内に広がった。皇子様の手のひらに収まりきらなかったとろっとした液体が、僕の胸と腹に広がっていく。
「わ」
「あ、冷たかったかい」
「あの、皇子様?」
「うん?」
「何を? ……何というか、もったいなくは……ないでしょうか」
「えっ」
「いや、その、僕があなたに意見できる立場にはないとは理解しております。ですが、これは食品なわけですし……」
 日頃食うにも困る生活を送っていると、些細なことが気になってしまう。うんざりする。皇子様と僕らは違うのだ。彼は飽食と浪費を赦されている人種なのだ。僕らが餓死しても彼は死なないし、彼が消費する食べ物がなくなることはない。
 皇子様はなんでか目を丸くして僕を見ていた。やはり持つものに持たざるものの気持ちを理解することはできないのだ。僕が彼のことを理解出来ないのと同じように。主従関係ってのはそういうものなのだ。僕は悟った。
「……君、もしかしてローションの使い方を知らないの?」
「? これはジュースではないですか」
 僕が答えると、彼はますます驚いた顔つきになった。そして子供に接するような、柔らかく、根気強さを感じさせる顔で、「違うよ」と言った。
「これはつまりその、君の身体を濡らす……ものなんだ。えと、中に入るのに……その」
 皇子様は話の途中から真っ赤になられた。声も尻窄みに小さくなっていき、やがて消えてしまった。
「どうされました? 皇子様?」
「あ、あのね、だからジュースじゃなくて、食べ物でも飲み物でもないんだ」
「では僕がさっき飲んだのは、まずかったのですか? 何か副作用などが……まさか」
「まあ、食べられるって書いてあるし、大丈夫だとは思うけど、ともかく口に入れるんじゃなくてね、こういう使い方をするもんなの」
 そして僕の身体を撫でる。僕の身体はぬるぬるの液体まみれになっていたから、皇子様の指がつるつる滑った。あんまりくすぐったいから、僕は笑ってしまった。
「皇子様、ちょ、くすぐったいです」
 脇とか胸とか臍の周りとか、皇子様は僕の弱いところばかりを擽られるものだから、腹筋が痙攣して、僕は息も絶え絶えになった。死にそうだった。でも彼にお仕えする者としてのプライドを持っている僕は、「止めて下さい」という言葉を口にしない。まったく我ながら従者の鏡だ。
「くすぐったいって……なんか君、あれ……」
「……っはは、そこ、ほんと、弱いんですけどっ」
 僕は手足をばたつかせ、枕を抱き締めて、なんとか呼吸を整えようとした。僕は擽られるのにすごく弱いのだ。たまにこうやって兄弟にも苛められる。息ができなくなって、「やめろ」が「やめて」に変わるくらい苦手だ。
 そうしていると皇子様は今度は上半身を屈めて、僕の胸から腹へ順繰りに何度もキスをした。僕は慌てて「何をなさるんですか」と声を上げた。
「皇子様、そんな、とこに……ダメです、」
 僕は真っ赤になって、「とんでもないことです」と言った。
「腹にキスなんかしたら子供ができてしまいますから」
「…………は?」
 彼はまたぽかんとした顔になった。今までで一番あっけに取られた顔になった。
 僕はかなり分不相応な仕事までしているぞと考えながら、皇子様に男女の性行為のレクチャーをして差上げた。つまり、腹にキスをすると受胎するということをだ。昔幾月さんが言っていた。
 しかし僕は男で、皇子様も男で、子供がデキるとかデキないとかの問題じゃない。それで僕は少し混乱してしまったが、ともかくこれ以上皇子様がご乱心されないように、僕は彼に忠臣として「あなたは皇子様なんですから、こんな変なことをしてはダメです」と進言した。かなり勇気が要ったが、皇子様は懐が深いお方なのだ。僕の言葉を聞き入れて下さったようで、「うん……」と呆けた顔で頷き、僕から身体を離し、背中を向けてベッドに座り込んだ。
「あの、黒田くん……つかぬことをお聞きしますが」
「はい、何でしょうか」
「ひとりエッチ……とか、したことありますよね?」
「それは何ですか?」
「おちんちん触ったらね、腫れちゃったりしちゃったことなんかは」
「いえ、特に損傷したことは……兄弟に金的攻撃を食らった時などはさすがに死を覚悟しましたが」
「……ううん、いいんだ。君って、女子の裸を見ても反応しない不能だって噂があったけど、本当にそうなのかい?」
「いえ、僕は現在通常状態です。いつでも戦闘を行えます」
「うん……」
 皇子様は見て分かるくらいにがっくり項垂れられた。彼の背中が、いつもよりも随分小さく見えた。何か彼を失望させるようなことを仕出かしてしまったかと僕は気が気じゃなくなったが、彼は「ううん、違うんだ」と弱々しく微笑まれた。
「僕は自分がいやになるよ……」
 皇子様はすごくしょげられていて、僕に手を差し伸べて抱き起こし、抱き締めて、心底申し訳なさそうな顔で「ごめんね」と謝られた。
「何故、あなたが僕に謝られることなんて何にもないんです」
「何ていうか、ほんともう、ごめんなさい。僕はケダモノだ。君を汚してごめんよ。いや、君は僕がどんな目で見ようと、変わらず綺麗だった訳なんだけど」
「あなたが汚れろと言うのなら、僕はどこまででも堕ちましょう。万引きでもピンポンダッシュでもゴミ処理でも、何でもやります」
「ああ、もういいから。もういいんだ。ほんとに、いいんだ。ごめんよ」
 皇子様は僕を強く抱き、「君は僕が守る」と言われた。僕としてはそんなことを言われると困ってしまう。僕は彼を守り、不自由な思いをさせないためにいるからだ。
 何か言わなければならない。例えばあなたが僕をかえりみる必要などないんですとか、僕は結構頑丈なので、使用にあたってそう気を遣われる必要はないんですとかいうことだ。
 でも皇子様に抱き締められていると、奇妙な懐かしさと温かさと心地良さが僕の身体の芯にまで染み込んで、力が抜けていく。なんだか子供の頃を思い出してしまった。僕と僕の友達がずっとくっついていた頃のことだ。
 ふわふわとした気持ちになって、僕は目を閉じた――のだが、ロックされている扉が何度かノックされ、邪魔をされた。僕の陶酔は中途半端なかたちで途切れた。
 それだけじゃ飽き足らずに、外から鍵穴を弄くる音がした。数秒で鍵が嵌まるかちりという音がして、金具を軋ませながらゆっくり扉が開いた。ホラー映画の一シーンのようだった。
 そしてやっぱりゆっくりと部屋に踏み込んできたアイギスも、幽霊みたいだった。表情はなく、生きてるって感触がしない。そう言えば彼女はロボットだったのだ。生きてなくて当然だ。
 アイギスは「失礼します」も「お邪魔しますよ」もなく、部屋に入ってきた。鍵なんか持っているわけがないから、またお得意のピッキングだろう。ベッドへまっすぐやってきて、まず僕の頬を平手で張った。彼女の手は金属製で、かなりの攻撃力があると見たが、手加減をされていたようで、普通の人間、例えば岳羽をはじめとする学校の女子たちに殴られた時と、痛みはそう変わりなかった。つまり、痛いには痛いが、一発が致命傷にはならない程度だ。
 彼女は僕を叩いたことに関して何か言われようとした皇子様を一睨みで黙らせ、僕の肩を強く掴んで、「何故ご自分の身体を大切になさらないのですか」と言った。その声には感情が篭っていなかったが、冷たいぶんだけ彼女の怒りってものを僕に悟らせた。妙なものだ。
「やっと見付けました。しかし……時は既に、遅かったのですね。アイギスは、あなたを守れなかった。あなたの身体は、望月綾時に穢されてしまった」
「あの、まだ何もしてないよ……その、これには色々訳があってね、」
「あなたに発言を求めてはいません。しかし、こうなっては仕方がありません。望月綾時、あなたにはこの人を穢した責任を取って貰わなくてはなりません」
「それってアイギスさん、もしかして、僕と彼の仲を認めてくれるってことかい?」
 皇子様が、ぱっと顔を明るくされた。彼は花すら飛ばしていたが、アイギスは相変わらず冷たい顔つきでいた。
「何寝言を言ってるんですか。死んでください。あなたがいなくなれば、時間が彼の心的外傷を癒してくれるでしょう。最悪の事態を想定して、もしもこの人があなたの子を身篭ってしまったとしても、アイギスはずっと傍で一生お支えいたします。黒田さん、ご安心下さい」
「ええっ!?」
 皇子様はカエルを投げ付けられた小さな女の子みたいな格好で僕に飛び付き、涙目になった。アイギスは言っていることが無茶苦茶だ。無茶苦茶だが、話し合いだとか相互理解だかをする気は全然無いらしい。彼女は僕から皇子様を引っぺがし、僕の手を取って引き摺るように浴室へ押し込んだ。
「黒田さん、さあ、シャワーを浴びて下さい。一刻も早く身体を清めて下さい」
「え? いや、俺は皇子様のお傍を離れる訳にはいかない。ましてや、君と二人っきりになんてできる訳がない。君の言っていることは、さっきからおかしなことばかりだ。僕が身篭る訳ないだろ。僕は男だし、皇子様に無礼なことを言うと赦さないぞ」
――いいから、アイギスの指示通りになさってください」
 そして無情にも表から鍵を掛けられる。間を空けず、外から「ぎゃあ」という悲鳴が聞こえた。
「皇子様!」
 僕は青くなって浴室のドアを内側から叩いたが、ドア越しに「望月綾時の命が惜しければ言うとおりになさってください」と声が聞こえ、渋々シャワーのコックを捻った。なんで女子はこうも理不尽なんだ。
 外から「死ぬ」とか「痛気持ちイイ」という悲鳴が聞こえてくる。僕は「皇子様、申し訳ありません」と、涙ながらに自分の無力を嘆きながら、シャワーを浴びることしかできない。なんて無様なんだ、この最強が。






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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜