窓から控えめな光が射し込んできている。
僕の部屋は、大分薄めた白いペンキでさっと一塗りしたみたいに、穏やかに照らし出されている。光の筋のなかに無数の小さな埃が舞っているのが見える。
僕はまだ夜明け前よりもうすぼんやりした頭で、今日が始まったのだということを知った。そして目覚まし時計を探そうとした。あの心臓に悪い電子音がまだ聞こえないんだから、まだあといくらかは寝ていられるはずだと見当を付けた。
僕は油断していたのだ。甘かった。
僕が寝そべったまま、ベッドサイドテーブルの上に寂しげに佇んでいる目覚まし時計を、手探りでなんとか見付けた時には、そいつは液晶画面に『8:55』という数字を表示していた。血も涙も慈悲の心もなく表示していた。
僕は驚いて飛びあがり、しかしまだ半分以上寝惚けていたせいで、僕自身が何に驚いていたのかってことが良く分からなかった。十数秒が過ぎてから、じわじわと、ああこれはまずいぞと思い当たったのだ。
僕は学校に遅刻していた。
完全に出遅れていた。もう一時間目の授業が始まっているはずだ。
大急ぎでパジャマを脱ごうとして、そこで僕は、僕が着ているのがパジャマではなく、とてもかっちりとしたスーツだってことに気が付いた。上下もネクタイも真っ黒だ。喪服みたいだ。まるで今から誰かの葬式にでも出掛けていきそうな格好だ。
僕はこんな服を持っていたっけ?
まったくおかしなことだ。僕はたとえば余程疲れていたか何かして、覚えのないスーツを着て、パジャマに着替える余裕もないままベッドに潜り込んでしまったのだろうか。そんな無茶苦茶なことってない。僕は昨晩一体何をやっていたろう?
うまく思い出せない。
何をやっていたんだったかな?
とにかくなんとか身支度を済ませた。そのあたりで、僕がいつも首に巻いているマフラーが部屋の中に見当たらないことに気が付いた。でも残念ながら、探している時間は無さそうだった。
部屋を出ると、廊下はとても静かだった。まあ当たり前か。みんなはもう学校で美人の鳥海先生に出席を取られて、楽しく授業を受けているところだ。間違いはない。
まったく誰かひとりくらいは僕を起こしてくれたって良いものなのにと、僕は恨みがましく考えた。特に順平君だ。僕の心友の彼だ。これはあとで彼に一言二言文句を言ったって良いはずだ。
でも驚いたことに、寮の中にいたのは僕だけじゃなかった。
僕だけじゃないという言いかたは、ちょっとおかしいかもしれない。みんなだ。僕以外のみんな。僕と同じ寮に住んでいるみんなが一階のラウンジに集まっていた。何かの集会でもやっているみたいに顔を揃えていた。
彼らは僕に気付くと、幽霊でも見たような顔つきになった。
「お、おまっ?」
まず順平君だ。目と口と鼻の穴を大きく広げて僕を見ている。そして指の先で摘むようにして持っていた焼きたてのジャムトーストを、深緑色のカーペットの上にぼそっと落っことした。長い年月を経たせいで薄汚れて大分傷んでいるカーペットの表面に、べったりと苺のジャムが付着してしまっていた。
「望月なのか」
美鶴さんが読みかけの新聞を折り畳んで、背の低いテーブルの上に置いて立ち上がり、腕を組んだ。食事を取りながら新聞を読むという動作は、ともすればくたびれた中年のサラリーマン男性みたいになりがちだけれど、彼女みたいな非の打ち所のない美人がそうしていると、ぱりっとした清潔さと、大人の女性の色気というものが感じられた。
美鶴さんに紅茶を煎れていたゆかりさんも、ぽかんと口を開けて僕を見ている。おんなじ仕草でも、順平くんとは大きく違っている。ちょっと幼さが感じられる。彼女はたまにこういうところがあるからいい。
僕は皆に「やあ、おはよう」と挨拶をして、とりあえず遅刻や廊下でバケツの心配は無さそうだぞと考えた。ほっとした。
もしも運悪く遅刻や廊下でバケツだとしても、少なくともここにいる全員は連帯責任って奴なのだ。多分そういうものなのだ。順平君や真田先輩はともかく、可愛い女の子と一緒なら、廊下でバケツも悪くない。
記帳台奥の壁に目をやると、カレンダーはいつのまにか真新しい紙面を晒している。まだ日付に斜線が入っていなかったから、今日捲られたばかりなのだ。おそらく几帳面な風花さんかゆかりさんあたりが捲ってくれたんだろう。意外に面倒見がいい荒垣先輩かもしれない。まだ小さいのに気がきく天田君かもしれない。順平くんや真田先輩では決してない。
テレビの画面には、『一月一日』と赤い字で表示されていた。お正月って奴なのだ。
僕は自分がどれだけ馬鹿なことをやらかしているのかってことに気付き、ちょっと恥ずかしくなった。
日曜日に学校どころの話じゃない。今日は冬休みの真っ只中で、年の一番はじめの一月一日なのだ。街全体が緩やかにまどろんでいるような日なのだ。
僕は赤くなり、照れ隠しに鼻の頭を掻きながら、「えーと……あけましておめでとう?」と言ってみた。多分初めてやる挨拶だったと思うから、あまり自信が無かった。
残念ながら返事は返って来ず、何か間違っていたのかと不安になってきた頃に、僕はいきなりわっと押し寄せてきたみんなに腕を取られ、肩を掴まれ、頬をつまんで引っ張り伸ばされ、せっかく綺麗に撫で付けた髪をぐしゃぐしゃにされた。わけがわからない。
「ど、どうしたの、みんな?」
「お前、今までどこで何やってたんだっての! 一月も行方不明だったんだぜ? 今月……じゃね、もう先月だ。十二月の頭くらいからいなくなって、どこ探しても見つからねーし、すごいオオゴトになってたんだって。警察なんかも出てきて」
「あいつらとずっと一緒だったの?」
「えっ? 一月? あいつら?」
僕は混乱して、「何のことだか分からないよ」と正直に言った。本当にまるで何も覚えがない。僕の今朝の目覚めは非の打ち所がないくらいに普通だったし、僕の仲間たちが口を揃えて言うような事件にもまったく覚えがない。
彼らが言うには、僕は十二月のはじめ頃、ばらばらに破壊し尽くされたアイギスさんがムーンライトブリッジで発見されたのを境に、ふっといなくなってしまったそうだ。
もしかしたらこの国には、お正月には皆揃って誰かを騙し付ける、エイプリル・フールに似た慣習があるのかもしれない。
だってあのアイギスさんをスクラップにしてしまえるような人間の心当たりが、僕には全くない。どう考えても無理だ。世界中探し回ったっているわけない。彼女は戦車なのだ。彼女を壊すつもりなら、戦闘機でも引っ張って来なきゃならないだろう。
「それで、アイギスさんは無事なのかい?」
「ああ。修理は順調に進んでいる。冬休みが終わる前には復帰できると思う」
「アイちゃんなあ、良かったよな。またガッコ始まる前に戻って来れてよ」
順平くんが溜息混じりに言う。でもアイギスさんが、無事とは言いがたいけれどまた戻ってくると聞いて、ほっとしているようだった。僕もほっとした。
「しかしあの黒いのは許せん。この借りは必ず返させてもらうぞ」
「それ、ほんとにあの子の仕業なんでしょうか? 彼、アイギスのことは結構嫌いじゃないみたいな感じだったじゃないですか。余程のことがない限り手を出さないんじゃないかっていう……あんな、手加減もなんにもなくぐちゃぐちゃにしちゃうなんて、彼らしくないと思います」
「ちょっと考えられないんですけど」とゆかりさんが言う。真田先輩がむっとした顔をして、「何を言う、あいつ以外にあそこまでアイギスをぶち壊せる奴がいるか」と返す。
「ねえ、綾時くんはなにも見なかったの?」
「え?」
「そうだぞ、望月。お前はあいつらに誘拐されていたんだ。あの黒いのがそばにいたはずだ」
僕は首を傾げた。まるで話が読めない。これは僕の正直な気持ちだ。
「誘拐なんて知りませんよ。黒いのって、シャドウのことですか?」
「は? あんた、何言ってんの。あんたがうざいくらいアプローチしてたカオナシ君よ。彼今どこにいるの?」
「カオナシ君? 僕、見たことあったかな?」
僕はしばらく記憶の中から『カオナシ君』を探してみたけれど、思い当たる顔は無かった。僕は確かに沢山の女の子にアプローチを掛けていた。両手の指じゃ足りないくらいだ。でもちゃんとその全員の顔を覚えている。一人も漏らさずだ。僕は女の子の顔を覚えるのがすごく得意なのだ。
でもその中には、そんな不憫な名前の子はいなかったはずだ。
「綾時くん、黒田くんだよ?」と風花さんが教えてくれた。
「ほら、少し影のある、綾時くんにちょっと似てる、いつも前髪で顔が隠れてる、あの――」
どうやら男の子のことらしい。
僕にとっては、男子の名前ほど覚えにくいものはない。その場では頭の中に入れていたけれど、きっと後になって沢山覚えた可愛い女の子の顔と名前に埋れてしまったってところだろう。
「ごめん、誰だったかな? 上手く思い出せないんだ」
僕からアプローチを掛けていたそうだけど、覚えがない。僕は友達になりたかったんだろうか?
それにしちゃすごく相手に失礼な話だ。三学期が始まったら早速謝っておこう。
「友達になろうよ」と僕から誘っておきながら名前も顔も忘れてしまうなんて、うっかりじゃ済まされない。
◆
『家がお金持ちなばかりに悪い奴らに目を付けられて事件に巻き込まれた可哀相なお坊ちゃん』というのが、三学期に入ってからの僕のおおむねの評価らしかった。
女の子たちには随分心配を掛けてしまったし、僕自身覚えのない情報に随分混乱させられたものだった。
加えて何より僕は十二月の半ばにあった期末試験を受けていないのだ。それに関しては、学校側から特例として再試を受けさせてもらえることになったのだけれど、まったく散々な結果だった。自分のおつむを呪いたくなるくらいだ。
大変だったのは試験だけじゃない。僕は一月分の遅れを取り戻さなきゃならなかった。勉強や、その他にもいろんなことに関してだ。僕は転入早々自分でも知らないうちに一月の空白を過ごしていた。ぽっかり開いた穴のようなものが、いつのまにか僕の中にあった。
そいつをなんとか埋めようと、僕はやっきになっていた。毎日はとても忙しなく過ぎていき、目が回りそうだった。
上手くやれているのかどうか自信がなくて、「今年の四月にちゃんと三年生に進級できるのかなあ」と順平くんに相談したら、「安心しろ、二人で仲良く留年したら怖くねえ」と冗談じゃない返事をくれた。順平くんの場合は冗談にすら聞こえないから困る。
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