「じゃ、綾時くん、ゆかりちゃんを迎えに行ってくるね。本当に片付けをお願いしちゃってもいいの?」
「任せてよ。鍵は職員室に返しておけば良かったよね」
風花さんは僕と同じ管弦楽部に所属していて、部活がある日はこうして一緒に放課後を過ごせる。素晴らしいことだ。彼女はとても可愛いし、一緒にいるととてもゆったりとした気分になれる。
風花さんを見送って、僕は出しっぱなしのヴァイオリンをケースに仕舞い、部長さんに言われた通りに折畳み式の譜面台をピアノの横に固めて並べ、そして電気を消して音楽室を後にした。
部活が終わる時間になると、もう窓の外は真っ暗になっている。電池が切れ掛けている懐中電灯みたいな照明がグラウンドの一角を青白く照らし、その下を運動部員が大声で号令をかけながら走っている。とても元気だ。寒いのが苦手な僕には理解出来ないくらいに元気だ。
一月十四日木曜日午後六時、僕は学校を出て、その足でポロニアンモールへ向かう。一人だ。
本当はいつもみたいに女の子たちと並んで楽しく帰りたいところだけど、まさか交番で重火器や刀剣を買うところを見られる訳にはいかない。この国には銃刀法って法律があり、理由はどうあれ僕らのやっていることは違法ってことになるらしいのだ。
僕は影時間に現れるシャドウから人間を守る特別課外活動部、通称S.E.E.Sの仲間たち――特にシャドウとの戦闘を担当するタルタロス探索メンバーがスムーズに活動を行えるように、彼らをサポートする役割についている。
風花さんと一緒だ。サポート用のペルソナを使う風花さんが情報を担当し、僕はその他の細々した仕事を受け持っている。つまり部で使う備品を管理したり、皆の体調に気を配ったり、そういう雑用みたいなことをやっている。マネージャーみたいなものだ。
昔はそういう仕事を引き受けてくれていた大人が一人いたそうなんだけど、今はいない。
ペルソナを召喚して、自分の身体の何倍もあるシャドウを相手に勇敢に戦うメンバーたちは、そりゃ格好良かった。できるなら僕もあんなふうに戦闘用のペルソナを喚び出して、女の子たちに格好良いところを見せてあげたいもんだけど、しょうがない。
僕は影時間への適正こそあるけれど、ペルソナを使えないのだ。
だからみんなが怪我なんてしないように、僕は『普通なりに』僕の役割をしっかり果たすこと。それが重要なのだ。
噴水の向かいにある交番に空の楽器のケースを持ち込んで、黒沢さんというお巡りさんに皆から預かってきたメモを渡す。彼が美鶴さんの剣や天田くんの槍をケースに詰めてくれている間、僕らは何でもない世間話をする。
僕は実の所、少し前までお巡りさんというものが苦手だった。なんだか漠然と怖いなと感じていたのだ。
でも話してみると意外とそんなことはない。確かに無口だけど、ぱりっとした制服やちょっとした気遣い、仕事にかける熱意ってものなんかは見ていて気持ちが良かった。格好良かった。
「身体の方はなんともないのか」
「ええ、元気なもんですよ。寮のみんなも元気です。天田くんなんて、こんなに寒いのに半ズボンなんですよ」
僕は頷く。しばらく前の誘拐騒ぎ以来、この人も随分と僕のことを心配してくれるのだ。
僕は何も覚えていない。思い出したくないくらいに怖いことがあったんじゃあないかって、みんなは言う。
僕としてはみんなに心配を掛けるのは随分心苦しいことだったし、記憶がトんじゃうくらい怖い出来事なんて思い出したくもない。きっと忘れてしまうのが一番いいのだ。忘れてしまっていることも忘れてしまうほうがいいのだ。
僕は手帳を開き、いくつか貼り付けてあるメモを確認する。武器の調達は終了。あとは青ひげに寄って、メディカルパウダーを購入して終わりだ。
黒沢さんにお礼を言って、交番を後にする。噴水の周りや建物の壁は、一面中おかしなビラだらけだ。今は街中こんな感じだ。
ニュースは流行りの新興宗教の布教活動の一環だって言う。毎日テレビで報道されているし、週刊誌なんかでも特集が組まれている。
Nyxだかなんだか言う滅びの神様を崇めているそうだ。うちの学校にも沢山信者がいる。僕と仲良くしてくれる女の子たちの中にもはまっちゃってる子が何人かいて、『綾時くんもちょっと興味とか湧かない?』と勧誘されたことは一度や二度じゃない。
僕としては正直なところ、微妙な感じだった。『滅びを心待ちにしているんです』なんて言うNyx教徒たちは、皆揃って目に光がない。生きてるのか死んでいるのかも分からない、影人間と同じ目をしている。あの絶望しきったみたいな灰色の目を。
僕は生きている人間の目が好きだ。僕の仲間たち、ゆかりさんや風花さんや美鶴さん、順平くんたち。僕の仲間たち。
彼らの生きる事を渇望し、先に続く道を真っ直ぐに見つめる目がすごく好きだった。
彼らはきっと今日もあの塔に潜っていくんだろう。恐ろしいシャドウを倒し、上を目指すのだ。
僕にできることと言えば、ただアイテムを調達したり、なんとかみんなを励ましたりすることくらいだけど、それでもここが僕の居場所なんだと感じている。僕は彼らの目指すものを見てみたいと思うのだ。
ポケットの中の携帯が鳴る。パネルを見ると、順平くんからだ。
僕は通話ボタンを押して携帯を耳に当て、「もしもし?」と応える。
「なに? 今買い出し中。ポートアイランド駅へ向かっているよ。アイテムの追加かい? 今ならすぐに戻れるよ」
『お前、パシリが板についてきちゃって……いや、じゃあ今から帰って来んだな? ピザでも頼まねえって皆で言っててさ、お前もうメシ食った?』
「まだ。僕もいいかい?」
『ゆかりッチ、リョージも一緒だって。てか、オゴリだって、リョージの』
「ええ? 僕は皆のためにこんなに頑張って働いてるのにー、女の子たちならともかく、なんで僕が順平くんに美味しいものを食べさせてあげなきゃならないんだい」
僕は笑って電話を切り、ポートアイランド駅へ続く細い路地へ入っていった。
それが悪かったのだ。
「ニュースで見たことあるぜ、その顔」
ニット帽の男が、顎を擦りながらにやにやしている。
「お前んちってすげぇ金持ちなんだって?」
つぎはぎだらけのジーンズの男が言う。
駅そばの路地は不良の溜まり場みたいになっていて、いつのまにか何人かの目つきの悪い連中に取り囲まれている。「そうでもないよ」と僕は答える。
僕は空気が読めないことにかけちゃ王様みたいなもんだって良く順平くんに言われるけれど、これでも危機を察知する能力には自信を持っている。
少し先の未来も予測することができる。例えばこれから僕は財布の中身を根こそぎ奪われてしまうのだ。カツアゲというやつだ。何発か殴られるかもしれないし、運が悪ければまた誘拐をされてしまうかもしれない。
「ほんとに大したことないんだよ。だからもう帰っても良いかな?」
僕は愛想笑いみたいな顔を作り、多分無駄だろうなとは悟りながら、駄目もとで言ってみた。
「ふざけてんの? てか、舐めてんの?」
結果はやっぱり駄目みたいだった。思ったとおりだ。
空気は更に悪くなり、僕は変なことを言わなければ良かったと反省をした。本当に、僕は余計なことを言い過ぎるのだ。いつもそうだ。
「ヘラヘラ笑ってんじゃ、」
◆
――目を開けると、ここしばらくで見慣れた天井が見えた。
僕は目を擦りながら身体を起こし、ベッドから這い出した。まだ鳴り出す前だった目覚ましのスイッチを切って、時刻を確認した。午前五時を少し回ったところだった。
外はまだ暗く、日の出までにはまだ時間がありそうだった。でも、眠気は微妙に僕の身体から離れて行ってしまっていた。ただ、ひどく喉が乾いていた。
スリッパを足の先に引っ掛けて部屋の電気を点け、水を飲もうと洗面台の蛇口を捻り、ふっと鏡を見たところで、僕はぎょっとしてしまった。
僕の顔は血だらけだったのだ。寝ている間に鼻血でも出したのかもしれない。
慌てて顔を洗おうとして、自分の手のひらを見て、僕はまた驚くことになる。僕の手も血だらけだった。
自分の身体に異常があるんじゃあないかと気を付けてみたけれど、どこも痛いところは無かったし、元気なものだ、多分。
ただ血まみれなだけだ。それももう固まって茶色くなり、ぱりぱりになっている。乾いた血だ。僕の血じゃあない。
「――ええ? なにこれ?」
僕は昨晩のことを思い出そうと必死になった。何があったっけ?
学校の帰りにポロニアンモールに買い出しに行き、順平くんから電話を受けた。その後、そうだ、ポートアイランド駅の近くで不良たちに取り囲まれて、彼らの一人が僕に掴みかかってきた。
そこまでだ。
僕はきつく腕を掴まれた痛みを覚えていないし、何であれから何にもなかったふうに自室のベッドで眠っていたのかが分からない。
またこの間のように、いつのまにか月日が過ぎているって浦島太郎現象が起こっているんじゃないかって心配になって、携帯を覗いてみた。パネルには一月十五日金曜日、午前五時二十五分と表示されていた。今日は『昨日』の『明日』だ。おかしなところはない。
「なにこれ?」
僕はもう一度呟いた。当たり前だけれど、誰も僕に応えてはくれなかった。
日々何かがおかしいなとは感じていた。僕はなるだけ何でもないことだと思い込もうとしていたけれど、やっぱり自覚ってものはあった。
記憶は欠落している。僕は何も覚えていない。
でもその間に、確かに僕には何かがあったのだ。誰も冗談で一月もふいっと姿をくらましたりはしないし、身体中を血まみれにもしない。
僕は仲間に相談しようと思った。何度も思ったのだ。面倒見の良い順平くんや、頼りになる先輩がたに僕の話を聞いてもらおうと思った。
でも街に溢れる影人間やNyx教徒たちに手を焼いている先輩たちは、そのうち溶けてバターになっちゃうんじゃあないかってくらいに忙しかったし、それに僕は怖かったんだと思う。
もしも僕が、そう、例えば記憶がトんじゃってる間に、自分でその状況を作り出していたとしたら――つまり楽器のケースの中の剣や槍を人間に向かって振り下ろしてしまっていたらってことだ。僕は人殺しってことになる。まずこの場所にはいられなくなる。
言うべきだとは思うのだ。でも僕はなんとなく言うべきタイミングを逃してしまっていて、結局今日まで言うに言えないまま来てしまった。
◆
「……久し振り」
寮への道を歩いていたら、女の子に話し掛けられた。僕は「ああうん」と頷く。
「久し振り。かな?」
「これ、そろそろ切れてきてるだろうから、渡すようにって」
「え? あ、うん」
小さな紙袋を押し付けられて、僕はまた頷いた。そして顔を上げて、彼女を観察した。知らない子だった。
髪が長くて、涼しげな目をしている。クールビューティーっていうのは、こういう子のことを言うんだろう。
僕は彼女のことを知らないけれど、彼女は僕のことを知っているようだった。それも良く知っているようだった。人を近づけない空気を纏っていたけれど、仕草なんかは結構気安かった。
「えーと、なにこれ?」
「見ればわかるでしょ」
「うん、まあそうなんだけど」
僕は頷き、「開けていいかな?」と一言断わりを入れてから、紙袋の中身を確認した。中には、銀色のシートに入った白い錠剤が入っていた。薬だ。
「えっと、誰かに渡すもの? 僕は健康なのが取り柄だから」
「お前が飲む以外に何の使い道があるって言うの」
彼女は『何を馬鹿なことを』って顔をして、すっと僕の横を通り過ぎていく。僕は慌てて振り返り、彼女を呼び止めた。このまま名前も知らずに別れてしまうには、彼女は美人過ぎたのだ。
「あ、ねえ、待ってよ! 今時間ある? 良ければ一緒に食事でもどうだい? 夜景の綺麗な三ツ星レストランを知っているんだ。薬のお礼をさせてよ。可愛い君と一緒に時間を過ごせたら、僕はとっても嬉し――」
「キモイ」
一言で切り捨てられた。『キモイ』って、それは、アイギスさんの「あなたは駄目であります」よりもきつい。ひどい。救いがなさすぎる。
彼女は面倒そうに振り向いて、馬鹿な子供でも見るような顔つきで、「いつまで遊んでいるつもりなの」と言う。
「変な冗談言ってないで、さっさと帰ってこい。お前、順平に変なことしたら、思い付く限り一番苦しい方法で殺してやるからな」
「ええっ?!」
いきなりあんまりなことを言われてしまった。僕が驚いて固まっている間に、彼女は結局名前も教えてくれないまま、さっさと歩き去ってしまった。
「じゅ、順平くーん!」
巌戸台分寮の扉を勢い良く開け、ソファに身体を沈めて漫画雑誌を読んでいた順平くんに、勢い良く膝を繰り出した。
僕の膝は彼の耳の付け根あたりに綺麗にめり込んだ。
「じゅっ、順平くん、僕生まれて今まで、こんなショックを受けたのって初めてだ。キモイって、僕が気持ち悪いって、それもすっごく可愛い女の子に言われて、えっなにこれ? なんなのこれ? し、信じらんないよっ! 嘘だって言ってよ!」
「落ち付けリョージ。そして一発殴らせろ」
順平くんに起き上がる勢いをつけて、額を肘で突かれた。
「まったくなんでオレっちがこんな目に……」
「自業自得だよ。それは僕の台詞だよ、まったくもう」
僕は溜息を吐いた。順平くんも、くたびれきった顔で溜息を吐いている。
「ご愁傷様?」
「なんです……」
僕は頷く。そして項垂れたままとぼとぼと部屋へ戻る。
あんなに可愛い女の子だったのに、僕は一体何を仕出かしたんだろう。いや、何もしていなかったはずだ。会って一言二言言葉を交しただけだし、まずいことは言っていなかったはずだ。
僕はもう一度溜息を吐き、女の子が残した紙袋の中の薬を見遣った。こんなのもらったってどうしようもないんだけどな、と考えた。
そしてシートから白い錠剤を摘み出して、口のなかに入れた。
一つじゃあ足りず、二つ、三つと、貪る。ガリガリと噛み砕く。子供が薬を文句を言わずに飲みそうな味だ。甘くて、ラムネみたいな味がする。
そして僕は安心して溜息を吐いた。これでもうしばらくは、
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