「マジですか?」という僕の問い掛けには、当たり前のように「マジです」と返ってきた。まるで問題にする僕の方がおかしいんですというふうだった。
彼らは思い思いに好きな場所に陣取ってくつろいでいる。
そりゃそうだ、ここは僕らの家なのだ。きっと困惑している僕のほうがおかしいに違いない。
チドリは大きなパラソルの下のベンチに、白い水着姿でうつ伏せに寝そべっている。彼女はいつものスケッチブックの代わりに、薄っぺらい液晶モニタとペンタブレットを持っていた。
タカヤは趣味の悪い金色の浮き輪袋と一緒に、ふわふわとプールの真中に浮いていた。ジンは迷彩柄のパーカーを羽織って、水際で足首だけ水に浸け、棒付きのパイナップルを食っていた。
タカヤの半裸は今に始まったことじゃないが、これは一体どうしちゃったって言うんだろう。まるで服を着ている僕のほうがおかしいみたいだ。
「よおカオナシ。どないしたんや、そないな抜けた顔しよって。らしくないで」
「ああ、うん」
僕は頷き、頬を抓ってみた。痛みはなかった。これは夢なのか、それとももう僕の神経が完全にいかれてしまっているのか、上手く判断をつけることができなかった。
アジトに帰って来たら室内にプールがあった。毛足の長い絨毯や僕の背丈ほどある置時計やカマキリの卵みたいなシャンデリアや、その他ありとあらゆる僕達には縁のないはずの物が一式揃っちゃっていたのだ。
「いや……ちょっと、びっくりしちゃってさ。なんだこれ?」
「アカンて、お前そんな顔しとったら。何でもない顔してるんや。貧乏人やと思われるやろ」
「ああ、うん」
僕は頷く。ちょっと見ない間に、僕らのアジトは移転していた。急だった。
相変わらずかさ張るような荷物なんてろくに持っていないから、引越しはきっとすごくやりやすかったのだろう。なにせ僕がいなくたって何の問題も無かったのだ。
ただなんでか以前僕が順平に貰った子瓶入りの砂が、チドリの衣装ケースに当然のような顔をして仕舞い込まれていたが、そんなことよりもずうっと気になることがあって、僕は彼らに訊いてみた。
「何があった?」
「Nyxを崇める同志たちの厚意ですよ。最近では私が格好良いポーズを取って街頭に立っているだけで、硬貨や札束を捧げる信者があとをたちません」
「いやっ……そりゃまあ、タカヤが教祖なんやけど……せやなくて、これ、わしが頑張って広報活動してるから……」
「ジン、自己主張はちゃんとしといた方がいいぞ。お前が甘やかすからそいつつけあがっちゃうんだ」
「カオナシ、お土産」
「あるかそんなもの。あ、昨日学校の帰りに順平がくれた飴くらいなら、ポケットに」
「順平の? でかした。お前のランクをのっぺらぼうからぬりかべに昇格してやる」
「昇格かそれ。どっちにしろ妖怪なんじゃん……ていうか、お前そんな順平好きなのか? ヒゲがいいのか? それとも帽子か?」
「べつに。お前には関係ない」
「ないけど」
僕は溜息を吐き、チドリの隣の空いたベンチに腰を下ろした。
ちょっとした用事が済んだ後で僕が呼び付けられたのは、市内のホテルだった。ホテルと言っても例の惨事ばかり起こる恐ろしいラブホテルや、安っぽいカプセルホテルじゃない。割合名前の知られた高級ホテルだ。
その最上階だ。プライベートプールやジャグジー付きのスイートだ。ここが今や僕らの家(らしい)のである。
僕はいつのまにか金持ちになっていた。
それも並じゃない。雨水を啜る必要もないし、食べ物を盗んでくる必要もない。屋根がある。雨漏りがしない。窓ガラスは割れていないし、空調も快適だ。夜は黴臭さのないベッドで眠りにつく。普通じゃない。まるで皇子様や巌戸台分寮生みたいな生活だった。
厳密にはそこには『普通じゃない』なりの何がしかの差があるのかもしれないが、僕は僕の日常から掛け離れた生活をすべて一括りにして『普通じゃない』に選り分けてしまうことにした。考えてもしょうがないし、大体考える必要もないのだ。
僕にとっては、生活というものはそう大事な部類には入らない。もう残された時間は僅かだ。そんなものにかかずらっている暇はない。
街を歩くと皆僕らに眩しいものでも見るみたいな目を向ける。「教祖様」と言う。お布施をくれる。食べ物をくれる。
以前のように、職務質問されることはない。ろくに話もしないうちに警察署に連れて行かれることもない。
なんとなくむず痒いが、顔を合わせるなり誰かに殴られたり蹴られたりするよりは随分ましだった。誰も僕を苛めない。
そうやって日々は現実味なく過ぎていく。滅びへと近付いていく。
でもそう上手いことばかりはいかない。困ったこともいくつかある。
まず一つ目、日本刀を持った男に命を狙われる。
「やあこんばんはトキ君」
僕にそうやって気負いなく話し掛けてくるのは、嫌でも見慣れた顔だ。僕が巌戸台寮で過ごしていた頃に、何度も迷惑を掛けられた管理人だった。名前は『黒田栄人』と言う。『上杉秀彦』は偽名だ。
「こんばんは、ハッちゃん」
僕は行儀良く挨拶をする。少し前に僕は彼が誰で、僕とどういう繋がりを持った人間だったのかということを、ようやく思い出すことができていた。
今まで忘れていたのが不思議だが、記憶の欠落なんて大概がそんなものなのだ。
なんでこんなことまで忘れてしまっていたんだろう?
思い出した後は不思議な気持ちになるが、記憶なんて確実なものじゃない。曖昧で不定形だ。だから忘れていたのは、僕に何らかの落ち度があったせいではない。
還ってきた記憶のなかでは、その男は僕の叔父ということになっていた。昔からゲームのセーブデータを消されたり、祭りに連れて行ってもらったはいいが、彼が射的に夢中になる余りほったらかしにされて、挙句はぐれて、見付けてもらうまで賽銭箱の前で泣いていたり、お年玉を貰って喜んで袋を開けたら中に子供銀行の紙幣が入っていたりと、とにかくろくな記憶がない。散々だ。
僕はこんな大人にはならないでおこうという、見本だか反面教師だかのような人間だった。なにせ感動の再会シーンでマシンガンとペルソナ攻撃を食らったのだ。
「最近は随分売れっ子だね。街じゅうファンでいっぱいじゃんお前。多分俺の友達よりは確実に売れてるよ」
「僕も良くわかんないけど、なんかそうみたい」
「正直俺、お前が何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど。宗教って嫌いなんだ、良くわかんないから」
「多分頭が悪いから」
「ああそう。まあお前よりはすげえいいけど」
「いや、僕のほうが」
「いや。まあそれはいいんだ。なあ、こないだ言ってたろ。嘘吐いたら大変なことになるってさ。いつからそんな悪い子になっちゃったんだろうな。叔父さんは悲しいよ。とりあえず万引きとか駄目だろ」
「若気のいたりってやつだよ。オジサンにはわからないんだ。これでも結構ガッツがいるんだ。勇気がさ」
「何人殺した?」
「三桁は行ってると思う」
僕が笑顔で答えると、叔父さんは「そう」と頷いた。
「こないだ『俺はやってない』って言ってたのに、嘘吐きは泥棒の始まりだよトキくん。あれ? 人殺しが泥棒の始まり? あきらかに前科のほうが重いよトキ君。叔父さん頭が困ってきた。どうしよう」
ふざけたことを無表情で言う男だが、彼はいつでも特にふざけたくて変なことを言っている訳じゃない。基本的に真面目な男なのだ。僕も悪ふざけは大好きだが、大体は真面目だ。
「こういうのは、ちゃんと数えたほうがいいのかな、ハッちゃん。つまり、数とかだよ」
「いや、あまり細かいことは気にしないでいいと思う。つまり、ここで打ち止めなんだよ、トキ君。お前はもう誰も殺せないんだよ」
「なんで」
「死ぬんだ」
叔父さんが、大分間合いは開いていたはずだけど、一瞬で僕の懐まで踏み込んで、日本刀を振る。僕の脇腹から胸にかけてを、盛大に抉る。血が吹き出る。完全に致命傷だ。多分僕が強化されてなきゃ即座に死んでいる。
不本意ながら、彼は僕よりも大分強いのだ。年期が入っている。まあもしも僕が彼と同じだけの年月を重ねたとしたら、きっとまるで勝負にならないくらいに僕の方が強いだろうけど、念の為。
僕は斬られながら、ペルソナを呼ぶ。ジャアクフロストだ。僕を空気みたいに変えてくれる。
僕は敵からトラフーリすることに掛けては、他の追随を許さないのだ。
「僕ほっといてももうすぐ死ぬから、そんなに頑張らなくてもいいって。ハッちゃん的に前科つくのもなんかアレだろ」
「いや、むかつくからお前はこの手で是非殺したい。大丈夫、お兄さん賢いから警察ばれない。前科つかない」
「なんでカタコト? 残念だけど僕は僕なりに死に方の理想とかがあるんだよ。じゃあ今晩はこの辺で。せっかくここまで楽しんでこれたんだから、もうちょっとだけ遊びたい。大丈夫、もう人殺しはしません」
「あのねトキ君、嘘吐いたら背が伸びなくなるんだよ」
「それは困る」
僕は首を振る。でも本当だ。僕はもう人を殺さないし、僕のために力を振るわない。
だって今は「人殺しなんてしたら嫌いになるよ」と、ものすごく怖い脅しを掛けられているのだ。だめだ。
僕は生きるより死ぬより、世界が続いていくことよりも、主に嫌われてしまうことが一番怖い。
そして僕は今夜も無事逃げおおせる。傷は朝になったら塞がっている。
僕はもうただの人間だったから、大方兄弟が塞いでくれたのだろうと思う。人間なのだ。
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