(以下、性的表現を含みます。18歳未満の方の閲覧を禁じます。)
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朝になって目を覚ました時の虚脱感は、そりゃあすごいものだった。
僕は上半身を起こして、身体に掛かっていたシーツをのろのろと引っぺがした。嫌な予感がした。
そして僕の嫌な予感というものは大体が正確に的中するのだ。いい予感はあまり当たったためしがない。理不尽だ。
ともかく僕の嫌な予感というものは、いつもの通り当たっていた。シーツはどろっとした感じに濡れていた。僕は泣きそうな心地で、両手で顔を押さえた。むしょうに気恥ずかしくなり、シーツを抱えてバスルームに駆け込んだ。
そんな朝の僕のやるせない目覚めなんか知ったこっちゃなく、今日も影時間がやってくる。時計の針が天辺の「十二」を指し、馴染んだ粘り気のある世界が広がる。
そして僕の主が何食わぬ顔をしてベッドの上で寝ている僕の腹の上にふと現れ、「やあ」とにこやかに微笑む。
僕は朝から決意しておいた通りに、勇気を振り絞って「あんまりです」と言った。僕は彼の忠実な下僕だったが、僕にだって最低限譲れないところはある。いや、もしかすると少し前までなら諦めて泣き寝入りをしていたかもしれない。今は違う。どうしてなのかは分からない。
そして今朝の脱力感と、今日一日まるで何も手につかずふて寝を決め込んでいたことなんかを切々と皇子様に語って聞かせた訳だ。でも返事はいつものとおり、悪びれた様子などまったくない顔で、「へえそう、そりゃ大変だったね」と気の毒そうなものだった。まるで僕が運悪くバケツをひっくり返して水浸しになったとか、野良犬に追い回されたとか、そんなちょっと運が悪かった日の出来事を聞いているみたいだった。
「真っ赤になっちゃって、可愛いね。でも君だってそう悪くはなかったろう?」
彼に悪意はなかった。そりゃ清々しいくらいだった。僕はこっそり溜息を吐き、多分僕が理解出来るような答えが返ってくることはないんだろうなと見当をつけながら、「なんでこんなことするんですか?」と聞いてみた。
「君が好きだからさ」
やはり良く分からない答えだった。僕が様々なことを諦め掛けた気持ちでいると、皇子様は寂しそうに笑って、軽く頭を振り、僕の頬を撫でた。
「君は潔癖症って訳じゃないだろうに、僕の言うことをどうして分かってくれないかな」
「きっと僕は貴方よりも頭が悪いんですよ」
「まさか、何言ってるの。君の頭の良さは僕が一番良く知ってるよ。ちょっと抜けてるっていうか、うん、まあ使い方を間違ったりしなけりゃ、君はやっぱり天才なんだ。そう拗ねないでよ」
皇子様は微笑んで、僕の頭を撫でる。子供相手に接するようにされる。僕はそのせいで、昔のことを思い出していた。以前は僕の方が撫でる大人の側だったのだ。
「怒ってる?」
「……いいえ、僕が貴方に怒るなんて」
僕はぶすっとしていたと思う。でも僕が主人相手に怒ることなんてありえない。だから首を振ると、皇子様は残念そうな顔で「そう」と頷かれた。
もしかして彼は僕に怒って欲しいのかなと考えたが、そんな無茶を言われても困る。僕から彼への忠誠を取り上げてしまったら、もうほぼ何も残らないのだ。貌も名前も何もない。ただがらんどうな空洞があるだけだ。
だけど彼の残念そうな顔も一瞬のことで、また昨日のように僕を組み敷き、「逃げないよね?」と言う。
「逃げませんけど……昨日みたいなのはできれば勘弁して欲しいんですけど」
「大丈夫だよ。今日はもっと気持ち良いことをしたげる」
嫌な予感がしたが、僕は黙って彼が望むことを受け入れるしかない。「はあ」と頷く。
皇子様はまずシーツを引っぺがし、僕の肩を抱いて、唇を合わせた。キスだ。それもただ触れるだけじゃなくて、唇を舐められ、口の中まで舌を突っ込まれるというものだ。
背中がぞわぞわしてぐっと拳を握り込むと、ゆっくりと腕を擦られた。大丈夫だよと言われているんだろうが、僕としては全然大丈夫じゃない。
「あ、の」
ようよう解放され、大きく息を吸って呼吸を整えてから、僕は彼に何度目かの「なんでこんなことをするんですか」を切り出そうとした。でも皇子様は相変わらずにこやかな顔のまま、「なんでこんなこと、とかはもういいよ」と言われた。僕は黙るしかない。
「どうして分かってくれないかな。僕はこんなに君が好きで、君を気持ち良くしてあげようと頑張ってる。君も気持ち良かった。ねえ、昨日だよ。こういう時ってさ、今更野暮だよって言うんだったかな」
「うう」
皇子様の手が腰に伸ばされる。僕の身体を撫でる。僕は何を言ってもやり込められるような気持ちになる。僕が間違ったことばかり言っているような気分になる。
「ともかく問題は、僕には一日の狭間の僅かな時間しかない。言い訳をしたり君に謝ったりすることも沢山ある訳だけど、今は許してよ。君に触らせて。君が欲しいんだ。僕の望みはこれだけだよ。そして叶えられるのは君しかいない。いい?」
「……はい」
僕は頷く。なんだか僕が求められているとか、僕にしかできないとか言われると、僕は胸のあたりがうずうずとしてくる。これは癖のようなもので、僕自身が求められると、むず痒いようなふわふわした気分になる。まあ悪いものじゃない。『僕に求められているもの』の中身には随分問題があるように思えるが、他ならない主人の頼みって奴なんだから、僕は喜ばなきゃならないんだろう、たぶん。
そう考えると何だってできるような気がする。
「君は単純だなあ」
「は? えっ」
「顔に全部出てるよ。まったくクールでポーカーフェイスのカオナシが、あまり可愛い顔をしないで欲しいな」
「あ、すみません」
僕はそんなに変な顔をしていたかなと思い、苦い心地でいると、皇子様はにやっと口の端を歪めて、まるで腹を抱えて大笑いしたいのをなんとか堪えているって顔になった。
そしてまた僕にキスをして、「いやごめんよ」と言う。でも顔つきはあまり『ごめんよ』って感じじゃない。
「僕は今随分不自由しているし、君も戸惑っているだろうけどね、でも本当にとてもとても幸せだと思うんだ」
「……良く分かりません。でも貴方が嬉しいなら良かった」
「うん」
皇子様はくすぐったそうな顔をして、「変な話だね」と言った。
「僕ってものが無くなっても、僕は君の中に残ってるほんのちょっとの心の欠片だけで、こんなに嬉しいって感じることができるんだね」
「…………」
「ありがとうカオナシ。じゃないや、栄時。君といた時間は、僕の心が無くなっても、湖の底できらきら輝き続ける宝石みたいなものだったよ。大好きだ」
「綾時様?」
僕はなんだか彼のものの言い方に不安を覚えた。どろどろして気持ち悪いコールタールみたいな、澱んだ感覚だった。僕の周りから急に空気が無くなってしまったみたいな感覚だった。
「そんな不安そうな顔をしないでよ。心配なんて何もない。もうじき終わりが来る。僕らはひとつになるんだ」
僕は頷く。そして腕を伸ばし、皇子様の頭をぎゅっと抱き締める。「どうしたんだい、甘えたりなんかして?」とおかしそうに耳もとで囁く声を聞く。
僕は心配なんか何もしていない。ただちょっとした不安を感じただけだ。この皇子様、望月綾時様が、十二月三十一日の終わりに訪れた影時間にあったように、ふっと消えていなくなってしまうんじゃないかということを、考えてしまったのだ。
ただでさえ彼はこの世界との接点がほとんどない。そんなふうに遺言みたいなことを――もっとも彼はもうこの上なく誰よりも『死んで』いるんだから、今更遺言なんてのもおかしい話なのだが――言わないでいただきたい。僕は不安になる。とてもとても不安でたまらなくなる。
「失うのが怖いんだね」
僕は頷く。僕は最強のペルソナ使いで、誰にも負けない。一人を苦痛に思ったことはないし、今更失って困るものなんて持っていない。でもそれでも、僕は僕の主を失うことが怖くて怖くてたまらない。「頼みますから、もう僕を置いてどっか行くのとか止めて下さい。僕何でもしますから」と僕は言う。
「恥ずかしいのも平気?」
「平気です、全然」
僕は皇子様の頬を両手で包んで、唇にキスをした。
「どうってことないです」
「そりゃ良かったよ」
皇子様は僕を安心させるように笑い掛けて、身体を屈め、僕の胸を舐める。腹を舐める。死ぬ程恥ずかしいが、こんなことはどうということでもないのだ。
脚を抱え上げられて、僕と同じように硬くなった性器が、なかへ入ってくる。突き立てられる。息が詰まるが、もう痛みなんて僕には縁のないものなのだ。
セックスなんてのは初めてのはずが、僕は奇妙な懐かしさを感じていた。皇子様が僕の腹の中にいるってことがだ。
半分に分かれていたものが、ようやく自分の中に帰ってきたと知る。そこでようやく僕は、なんで皇子様が僕と交わることを望んでいたのかということを理解する。
僕らは元々一つだったのだ。片方が世界で一番偉くなろうが、もう片方がその下僕になろうが、そこばっかりはやはり何も変わらない。
「わかる? 僕ら、またひとつに戻ってる。君と繋がってるんだよ」
「は……っう」
僕は頷く。『はい』と返事をしたつもりが、まともに声にならない。
「可愛いね」
「んっ……皇子様ぁ」
ぐっと腹の中で動かれて、僕は悲鳴を上げた、と思ったのだが、喉から零れてきたのは変に押し殺したうめき声のようなものだった。皇子様は名前を呼ばれなかったのが気に食わなかったらしいのだ。
「名前を呼んで」
「う、っ、りょ、綾時様っ」
「うん、そう。辛いかい?」
僕は首を振り、「貴方とまた一人になることができて嬉しいです」と言おうとしたのだが、まともな声が出たかどうかは怪しい。
皇子様が僕を抱いたまま腰を動かすと、息ができないくらいの衝撃が、頭の天辺までやってきた。
「あぁっ!」
「気持ち良い、でしょ。君も、僕がいなきゃ生きられないんだ。僕と繋がっていないと」
皇子様が熱っぽい声で、僕の耳もとで囁く。それは僕にというよりも、彼が彼自身に言い聞かせているふうに聞こえた。僕が彼で、彼が僕だということをだ。僕らが信じ込んでいた錯覚をだ。
「錯覚なんかじゃない、僕らは間違ってない。ねえ、君も、一緒に――」
「う、あ……!」
腹の中がかっと熱くなる。熱くてどろどろしていて、溶けてバターにでもなりそうな心地だ。
「あついです」と僕が言うと、「うん僕も」と返ってくる。
「気持ち良かった?」
僕は頷く。彼は分かっていてそういうことを聞くのだ。収まらない呼吸と身体の熱とべたべたする汗と体液を持て余しながら、ぼんやりと天井と僕の身体の上の皇子様を見上げた。気だるく、麻酔にでも掛かったような心地だった。僕は何もかもを持て余している。そしてふと気付いて目を閉じる。
「僕って生きてたんですね」
「今更おかしなことを言うね。でもそうだね、生物が最も生を間近に感じるのは、死を傍に感じ、死と触れ合った時なんだ。君がそういう感じ方をするのも無理はないよ。気分はどう?」
「悪くないと思います。でもなんだか変な感じです。貴方とひとつになって、初めて生きてるって悪くないと思うなんて、変な話ですね」
「そうだね」
僕はまだ繋がったままの皇子様の背中を、両腕で力いっぱい抱き締めた。僕は理解したのだ。そしてむしょうに悲しくなったのだ。
「貴方が可哀想です」
「どうしてそういうふうに感じるのかな?」
皇子様は僕の髪に触りながら、穏やかな声で言った。そこには諦めと僅かな憧れがあり、また僕はいたたまれない気持ちになった。
彼はずっと僕を含めて生命というものを愛していた。でも彼の愛情が報われることはないのだ。彼は絶対的な死であり、絶対的に独りぼっちであることを宿命付けられていた。そこから逃れることはできないのだ。
僕がいますと僕は言いたかった。絶対的な運命なんかよりも、強く僕は貴方をお慕い申し上げておりますと。だから一人ではないんですと。この先貴方を一人にすることはないんですと。
「君が僕を憐れんでくれたってだけで、今はすごく晴れやかな気分だよ」
皇子様が言う。彼は僕の額に、鼻の先に、頬に、唇にキスをして、愛しげに僕の腹を撫で、「僕も希望を持ってみたかったもんだね」と言った。
「愛してるよ栄時。たとえ何もかもが無くなってしまっても、君と過ごした日々は僕にとってのかけがえのない大切な宝石なんだ。これからもずっとずっと永遠に」
◆◇◆
目が覚めた時、僕は泣いていた。頬に冷たく乾いた感触があった。涎まで出ていた。まるで夜通し泣きじゃくったみたいな、ひどい状態だった。
枕は僕の涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。可哀想なくらいにひどい状態だった。
僕はまどろみが頭から去ると、ぐちゃぐちゃの身体からぐちゃぐちゃのシーツを引っぺがし、大声を上げてしばらく泣いた。
泣くのに飽きると、ベッドの傍にあるテレビに手を伸ばし、スイッチを入れた。朝のニュースは一月三十一日の到来を告げていた。
ここ一月ほど僕の頭に掛かっていた、コールタールのような澱みは、朝起きた時には綺麗に消えていた。僕は半分をどこかに無くしてしまったまま目を覚ましたのだ。僕は一人だった。
テレビを点けっぱなしたまま、熱いシャワーを浴びた。身体中噛み痕だらけだったが、服を着てしまえば誰も気付かない。僕にも見えない。
そして服を着込み、武器とペルソナカードの点検を済ませ、朝飯を食いに部屋を出た。特に腹は減っていなかったが、人生最後の朝食なのだ。食わなきゃもったいない。
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