タルタロスの天辺で、僕らは四人で手を繋いで輪になり、じっと空を見上げていた。影時間は到来していた。でもいつもの影時間とそう変わりはなかった。馬鹿にねっとりしていて、冷えきっている空気は、いつも通りだった。なにも変わらない。
「あれ。なんも来おへんで? どうしようタカヤ」
「まあ焦らず待ちましょう、ジン。貴方は昔から少しせっかちなところがありますね」
「どういうことよカオナシ。説明しろ」
「俺に言うなよ。大丈夫だって、多分。だって今日帰ってくるって、先月末に皇子様が言ってたもん。あの方のことだから、ええと……寝過ごしたり、もしかするとちょっと具合が悪くなって、今日は欠席されるのかもしれないな」
「そんな学生生活とまったく変わらん滅びは、緊張感のうていややなあ」
 ジンが情けない顔で言う。僕も微妙な心地になる。
 あの方は人間ではないのだ。自我のようなものを得たのはつい最近のこととは言っても、あの方は生命が始まった瞬間、気が遠くなるくらいの昔から存在してきた死そのものなのだ。時間の計り方が僕らとは違うのかもしれないし、そのはてしない時間感覚でいう『ちょっと寝過ごした』が、どの程度のものなのかが分からない。もしかしたら僕らにとっての一万年や十万年に当たるのかもしれない。
 そりゃ困る。皇子様が「やあ遅れてごめんよ」とやって来られた頃には、僕はすでに化石になっている。もしかしたら誰かの手によって(そいつが人類である保証はない)発掘され、それらしいタイトルを付けられて、博物館に展示されているかもしれない。想像するとなんだかいたたまれなくなった。その場合、たぶん僕と皇子様の双方がいたたまれない結果になるのだ。僕の予想はきっと間違っていない。
「あれだよほら、あの方を今日ここにお呼びするぞっていう僕らの気合いとかが足りないんだ。意志の力ってもんがだ。お前らもっとやる気出せよ。世界の未来は僕らの頑張りに掛かってるんだぜ」
「えええ……今を楽しんで十何年か生きてきたけど、最期に来て頑張り言われるとは思わなんだなあ……」
「ちょうめんどくさい。カオナシ、お前がなんとかしろ。そのためのアンテナでしょ」
「おお宇宙から来たる終わりの意志よ。Nyx様、Nyx様、お越し下さい。ところでカオナシ、私が思うに、何かこう供物のようなものが足りないんではないかと思うんですが」
「あ」
 今日ですべてが終わりなんだと、厳粛な気持ちでここまでやってきたのはいいが、僕らは手ぶらだった。きっと浮かれていたのだろう。僕ははっとした。
「そうだ……よな? もしかしたらチーズケーキとかクリームソーダとかお供えしてたら、匂いに釣られてフラフラ起きてきて下さってたのかもしれないのに。何もないとかガッカリされちゃったかな」
「カオナシ、今から行って買ってこい」
「ええ、だってそんな、俺今から街に出てる間に皇子様がここに降りて来られたらどうすんだよ」
「お前が使いっ走りの最中に志半ばで力尽きた無能なパシリだって笑いながら滅びてやる」
「俺はパシリじゃなくて忠臣なんだよ!」
「まあまあ。最期なのですから二人共今宵くらいはもっと心を安らかに保つべきです。心配はいりませんよ。Nyx様のことですからカオナシが何か面白い芸のひとつでもすれば、きっと許して下さるに違いない」
「え……俺なんも持ち芸とかないんだが……」
「やっぱり無能」
「チドリうるさい」
「もー、どうすんねやあ」
 僕らがピリピリし始めていると、下層のアダマからエレスに向かってやってくる沢山の足音が聞こえた。正体は簡単に知れた。僕らのほかにタルタロスに足を踏み入れることができる者なんてのは、彼らくらいしかいないのだ。S.E.E.S。僕らの敵。
 思った通り、見知った顔ぶれが現れた。僕はちょっと感心して、彼らに声を掛けてやった。
「ふん、良くここまで来れたな。早速だが、お前ら今から急いでこの塔を降りてチーズケーキ買ってこい。クリームソーダもつけてな。五分で戻ってこい」
「カオナシ、それやとしょっぱいもんがないやんか。ペタワックにフライドポテトもつけてもらっといた方がええで」
「この中に何か面白い持ち芸を装備している方はいらっしゃいますか」
「……そういうの、多分、順平が得意」
――いやいやいや、チドリちゃん? オレっちそりゃ自慢できる持ち芸はね、一杯持ってマスけどね? ここですることじゃないから。つーか、また明日とかに、見せてあげるから、今はちょっとゴメンね? ……いやお前ら何やってんの? お手々繋いでUFOでも呼んでるんですか? どうでもいいから汚い手でチドリに触んじゃねえよ、そこの妖怪くんとヅラ。今すぐ離せ。いくら姉弟でも、オレ心狭い奴なんでムカツクんだわ」
 順平が口を出した。僕とジンは顔を顰めて、「心外だ」と声を揃えた。本当に心外だ。まるで僕らがそうしたくてしょうがないってくらいに望んで、チドリと手を繋いでいるみたいな言い草だったのだ。
「だってチドリ、タカヤと手ェ繋ぐん嫌や言うねんもん」
「反抗期なんだぜ。ほんとは俺だって意地悪チドリなんかと手なんか繋ぎたくないんだぜ。せっかく皇子様に『君はおつむの使い方はともかく心の綺麗ないい子だよ』って誉めていただいたのに、性格悪いのが感染ったらどうするんだ」
「私だって嫌だ。離せ。私までお前らみたいな馬鹿だと順平に思われたらどうするの」
 チドリが勢い良く僕とジンの手を振り払い、僕らはばらばらになる。まあしょうがない。S.E.E.Sがたはどう見積もってみても僕らや皇子様に友好的とは言えない態度だった。完全に武装していたし、殺気だっている。これから一悶着ありそうな空気だった。彼らはまだ諦めていないのだ。
 僕はなんだか、彼らが可哀想になってきた。
「まだ『もしかしたら明日が来るかも』とか考えてるのか? そんな訳無いだろ。みんな平等に滅びていくんだ。俺達は俺達を苦しめた世界が苦しんで死んでくのを、いい気味だってここから見ててやる。でも結局俺達も滅ぶんだ。そういうもんなんだ。確かにお前らは特別だよ。俺達も特別だ。でもその特別ってのは、俺達が『選ばれた』からこそなんだ。本当に始まりから特別だったのは、この宇宙でただひとりきりだ。あの方に世界の終わりを一緒に見届ける権利を与えていただいたんだから、ありがたく受け取っておけよ。文句を言い出すようなら今すぐ殺すぞ」
「今夜はよく喋るじゃないか?」
 真田が言う。彼は何度目かの「今日こそ決着を着けてやる」を言う。僕は溜息を吐いた。彼の言う『決着』はもう着いてしまっているのだ。ただ負けず嫌いの彼が認めたがらないだけだ。
「おい黒田、リョージに話があんだよ。会わせろ」
「無理」
「無理じゃねえよ。こないだも急に変なことばっか言い出して、お前らあいつになんかしたんだろ? じゃなきゃあのリョージが、あいつが、」
「馬鹿を言うな。そんな無礼な真似、俺があのお方にすると思うかよ」
「……でもよ、そうでもねーと、それじゃあいつが、まるで……」
 順平が辛そうに顔を歪める。彼は僕の皇子様が、『人間の望月綾時』だったという幻想を、まだ捨てきれずにいるらしい。彼は皇子様の友達だったのだ。
 でもなんで友達なら喜んでやらないのだろう? 僕はあのファルロスが世界の滅びを呼ぶ宣告者デス様で、僕が命を捧げるべき主人だと知った時は、心底安堵したというのに。
 いや、違ったろうか? 僕は『ファルロスが皇子様で良かった』ではなくて、『皇子様がファルロスで良かった』と安心したろうか?
 でも順番に意味なんかないだろう。どうでもいい。僕は今の状況にすごく幸福を感じているのだ。生まれて初めてと言って良いくらい、生きていると感じているのだ。
「お前らも喜べよ順平。俺はあのお方に殺されることだけが楽しみで、今日まで生きてきたんだ」
「ソレ、おかしいだろ。お前だって、生きてるからあいつのこと考えられてんだろ。殺されるために生きてるとか、そんなじゃねーだろ。明日もあいつに会いたいとか思わねーのかよ」
「滅びればひとつになれる。そしたらずっと一緒だ。そこばっかりは、人類どもと一緒ってのが気に食わないがな」
「……頭おかしいぜ、黒田。前から思ってたんだけど、やっぱイカレてんよ」
「良く言われる」
 僕は頷く。普通の人間から見れば、僕はおかしいと感じられるのかもしれない。でもそれはそれで構わないし、特に気になることでもない。
 僕は僕の主のためにここに生きている。もしも僕の主に「君頭おかしいよ。どうにかなんない?」と言われたなら、僕は随分へこんで、自分というものを一から見つめ直したかもしれない。
 でも彼は「僕と君は同じ」と言った。彼は「君が好きだよ」と言った。なら、僕はおかしくなんかない。僕をおかしいと言う奴らのほうがおかしいのだ。
「これ以上騒ぐようなら、あの方のお気を損ねる前に、俺はお前らを消しておく。どうする。やるのか? 俺は構わないよ」
 聞くまでもないようだった。S.E.E.Sの殺気は消えないし、相変わらずぴりぴりしている。僕は頷き、カードを繰る。そしてペルソナを喚ぶ。





 僕は無数のペルソナを召喚する。それは僕にしかできないことで、僕だけの特性だった。僕は定まった自我というものを持たないから、無数の役割を演じることができるのだというのが理由のひとつだったが、それに関しては良く分からない。
 僕に関して色々と研究をし、様々な診断を下してくれていた幾月さんには、ご苦労様ですねとしか言えない。でも僕は僕でしかない。今は特に強く感じている。僕はきちんと楽しんだり嬉しいと感じたりすることができるのだ。
「ドロー、デッキオープン。ペルソナカードをミックスレイドする。ターゲットを敵ペルソナ使いに指定。発動」
「お、最初からトバして平気なんか?」
 身体の調子が良い。僕はふわふわした心地でいる。まるで何か楽しい夢でも見ているような感じだった。強い力を持った僕には、この世界にまともな敵なんかいなかった。S.E.E.S連中は、僕にまともにペルソナの力を届かせることすらできない。
 僕は戦闘を行い、相手を圧倒的な力で捻じ伏せた時に、強く自分の存在というものを感じる。昔からそうだった。僕の中に存在する力の根源というふうに、僕の心を認識していたのだ。それは機械的なものだった。僕と僕の心というものは、目覚し時計と電池のような関係だったのだ。
 でも僕が僕の主と一緒にいる時に感じていたのは、それとはちょっと違った感じがした。自分の身体ってのをはっきりと意識することができた。頭、手のひら、指の先、あの方にお仕えする僕が、あの方に仕えるために持っているアイテムだ。
 思えばそれが僕の自我だったのかもしれない。戦うために僕の身体が僕の心を電池として使うんじゃなく、僕の自我が、心が身体を動かすのだ。
 少しでも僕の主に満足をしてもらえるよう、僕は生まれてきてからそれまでに一度も使ったことが無いくらいに頭を使ったものだ。フル回転だ。上手くいかないことも多かったが、僕は僕の目的が達成され、あの方に喜んでいただけると、身体の中でぽっと蝋燭の火が灯ったような気持ちになった。
 それは僕の命の残量を示すための蝋燭じゃない。もっと別のものだ。別のなにかだ。でも僕がそういうふうに感じるものを、他に見付けることはできなかったから、良く分からない。比べる対象がないのだ。
「敵ペルソナ使いの完全沈黙を確認。ただし、生命反応は有り。カオナシ、お前が殺さないの珍しい」
「火加減に気を遣ったんだ。これ以上人を殺したら嫌いになるって注意された。それに僕の役割じゃない」
 僕はナイフを腰のベルトに差し、空を見上げた。負けず嫌いの真田がまた何か言おうとしたのか、身体を起こして口を開き、そして僕の視線の先にあるものを見て、目を見開いた。とても驚いたようだった。
「いらっしゃったようだよ」
 僕はエレスの床に膝をついて頭を垂れた。僕の仲間たちも同じようにする。
 そして、空から神が降りてくる。
 巨大で、無慈悲で、全ての人間が求めてやまない、世界の終わりをもたらす死の化身だ。大きな翼を二度羽ばたかせ、ゆっくりと王居に降臨する。その姿は、神の名に相応しく、とても美しかった。
「お帰りなさいませ、僕らの主。この日をお待ちしておりました」
『やあカオナシ。一月ぶり。いや、君にしてみればさっきぶりになるのかな。まったく、僕の未練なんかに振り回されることは無かったってのに、相変わらず君は馬鹿だね』
 皇子様は――いや、今や皇となった僕の主が、呆れたように言った。口調は僕が知っている彼と変わらなかったが、声は空虚で、感情というものが全く感じられなかった。彼の心というものが感じられなかった。
「……リョージ? なんだよ、それ」
 順平がふらふらしながらようよう立ちあがり、変な顔をして言った。彼の仲間たちもあっけに取られている。彼らは僕と同じように、滅びの皇のように完全に美しい存在を、これまでに見たことがないに違いない。
「羽根なんか生やしちゃってよ、そりゃ何のコスプレだよ。背とか伸び過ぎじゃね?」
――なんか、なんかそれじゃまるで、シャドウみたいじゃない。りょ、綾時くんだよね?」
『やあみんな。久し振り。会えて嬉しいよ。君達はもう僕の顔なんて見たくなかったかもしれないけど。……いや、そうでもないか。君達も人間だ。死に憧れる、ただの――
「望月綾時!」
 アイギスが叫び、飛び出していく。彼女はシャドウを倒すために造られた機械だ。彼女は『シャドウの完全殲滅』という彼女のプログラムに従うことしかできない。僕が『滅びの皇子様を命を掛けてお守りする』ために存在しているのと同じように。
 僕は焦燥と安堵を同時に覚える。もし僕と彼女に下された命令が逆だったとしたら、そりゃろくでもないことになったはずだ。僕は絶対的な皇に歯向かう憐れな人形だった。
 僕は彼女に憐れみを覚える。でも僕は自分の役割をきちんと果たす。アイギスの銃撃が皇に届く前に、ルシファーをくっ付け、身体を張ってブロックする。誰も悪意を持って僕に触れることはできないのだ。弾丸は蒸発する。アイギスは悲しそうに僕を見る。
「そこを退いて下さい」
「できないって知ってるだろう。可哀想にな。君も俺と同じように命令されてたなら、今すごく満ち足りた気持ちでいたのに。運が悪かったんだよ、アイギス」
「私は幸運です。運が悪かったのはあなたの方です。あの時わたしが巻き込まなければ、あなたは今ただの人間として、普通の人生を歩んでいたはずなんです。わたしはずっとあなたに謝りたかった。あなたを守って、あなたの為に生きたかった。わたしの全てをあなたの為に使いたかったんです」
「じゃあ俺のために、今は何もせずに滅びを見届けてくれ」
「それはできません。わたしはまだ諦めない。あなたを守る。わたしはあなたが滅びるのを、黙って見ていることなどできない。わたしはあなたのために、わたしの全てを使って望月綾時を倒し、あなたを、滅びを止めてみせます」
 僕は溜息を吐き、「もういい」と言い、話し合いを諦めた。元々僕の話なんかに耳を傾けてくれる人間なんてそういないのだ。
 しかし、僕はアイギスに羨望を感じている。もしも十年前と同じように彼女がただの機械だったなら、これから心が死んでも大したダメージを受けずに動き回れていたかもしれない。その点では勿体無かった。もし僕もロボットだったなら、これからも主のために壊れるまで動けたかもしれないのだ。
『悪いけどアイギス、僕は望月綾時なんかじゃない。その名は仮初さ。今はニュクスと同化して、ニュクスそのものと変わりはないんだ。かたちを持った死そのものだ。しかし実に勿体無いよ。人類がアイギス、S.E.E.Sの仲間達、みんな君達みたいな考え方をする人間だったなら、世界は滅びなかったのに。ここにいる僕のカオナシたちみたいな駄目人間が多過ぎるんだ。残念だよ』
「……リョージ、ちょっと会わねえ間にかなり黒田に辛辣になってね?」
「あ、そうなんだぜ順平。最近ものすごく虐めっ子なんだ。楽しかった昔を思い出すとちょっと寂しくなって涙出るくらいにな。でも俺はこの方の忠実な下僕なんだから、虐められても泣いたり負けたりしないんだぜ」
『カオナシ、僕は喋って良いって言ってないよ。君は黙ってて』
「……は、すみません」
「ちょっと、何様のつもり? カオナシくん、君やっぱりこっち来ときなよ。偉そうな綾時くんってちょっと目に余るっていうか」
 何様って、皇様に決まっている。僕はひどいことを言う岳羽ゆかりに言い返してやりたかったが、喋るなと命令されたので何も言えない。だから、ただきつく睨むことしかできない。
『さて、そろそろ時間だね。今まで楽しかったよ。君達に会えて嬉しかった。忘れないよ。大丈夫、そう苦しみや痛みはないよ。一瞬のことだ。目を瞑っておいで』
 皇はそう言い放ち、見惚れるくらい優雅に、長大な剣を振った。裂けた口の端が吊り上がり、随分と機嫌が良さそうだった。
『その前に、カオナシ、おいで』
 名前を呼ばれた瞬間、僕が反応するよりも速く、皇の剣が繰り出されていた。それは僕の胸を貫いた。
『君だけは、楽には死なせない。安心して。沢山生きてるってことを感じるんだ。痛みは君の時間を引き延ばしてくれる。君が丈夫な性質をしていて良かった。ずっと僕を待っていてくれたのに、あっさり終わってしまったら可哀想だからね』
「望月綾時!」
 アイギスの怒声が聞こえる。怒っているというよりも、悲鳴みたいだった。彼らは僕を突き刺している皇に非難の目を向けている。まったく無礼な話だ。
 僕の仲間達は、揃って『あーあ』という顔をしている。あれは昔から良くある、僕をデコイに使って逃げ去る時の目だ。刺されて痛い思いをするのが自分でなくて良かったと考えているのかもしれない。
 まったく忠誠心が足りない奴らだ。僕を見習えばいい。僕は主に与えられるものなら、それが苦痛だろうが何だろうが、喜んで受け取るだろう。
 僕は僕の血で汚れてしまった剣を握り、ようよう微笑み、頷いた。
「身に余る……光栄。嬉しく思います。あなたに与えられるなら、僕は、」
『君ならきっと喜んでくれるって思ってたよ。良かった』
 剣が引き抜かれ、僕は振り飛ばされた。床の上を何度か転がった後で、誰かが僕の身体を拾ってくれたようだった。アイギスかもしれないし、違うかもしれない。
 意識が遠のきはじめ、ああ駄目だと僕は考えた。失血のせいで気絶しかかっているのだ。せっかく痛みを与えていただいたというのに、昏倒なんかしちゃ勿体無い。
「リョージよ、今のお前ホントおかしいって。アタマの中、最悪にイカレてるこいつよりぶっ壊れちまってんぜ」
 誰かが僕の傍でささやく。黙れよと僕は考える。目を覚まさなければならない。最悪寝たまま世界が滅ぶことになろうと、とりあえず順平を、S.E.E.S連中を一発ずつ殴ってから死にたい。僕の主への無礼は許せない。
 どうにか目を開いた。
 空に浮かぶ巨大な月が見えた。
 僕はエレスに寝転がったまま、強い既視感を覚えていた。



『いつか君をあの月へ連れて行ってあげる』



 あの方はタルタロスの頂上で僕にそう言った。『僕』が『僕ら』になった瞬間だった。僕は忘れない。何年経っても、まるで今しがた聞いたみたいに良く覚えている。
 あれはどういう意味だったろう? 死の星へ僕の死骸を抱えたまま帰るって、そういう意味だったのだろうか。それとも別に意味でもあるのだろうか。あの方の言うことは、僕には難しくて良く分からない時がある。
 まるで空に浮かんでいることが不思議で仕方がないくらいに、月は大きく膨らみ、星々を邪魔っけそうに押し退けて佇んでいた。まるでこのまま落ちてきそうだ。
 あれ、と僕はふと違和感を覚えた。月ってのは、まばたきをするもんだったろうか?
 そう考えているうちにも、月の表面が瞼が裏返るように剥がれ、ぎょろっとした目玉が現れる。
 目玉は死に掛けている僕を見付け、食い入るようにじいっと見つめている。こっちが気恥ずかしくなってくるくらいだ。おいよせよと僕は言おうとした。しかし口を動かしてみたが、声が出ない。
 いよいよ死ぬかなと思ったところで、ふと僕は気付く。何も聞こえない。世界から音が消えてしまったのだ。
 しばらくすると、今度は泣き声が聞こえてきた。
 何だろうと訝り、僕は目を上げて、やっぱりなんだか変だぞと思ったのだ。
 僕の仲間たちや敵がどこにもいない。エレスは空っぽの空間になっていた。
 僕の主は、僕の目の前にいた。それにしたって何だかおかしかった。主はあの美しい羽根も漆黒のドレスも無貌の仮面もなく、ただの小さな子供の姿で、膝を抱えて丸くなっている。
 僕は良く知っている。その子供の名前はファルロスと言う。





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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜