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―― 以下、彼が気に入っている絵本<わるい王様>の全文である。
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あるところにわるい王様がいました。ことあるごとに「首を斬ってしまえ!」と言うので、みんな王様のことがきらいでした。
ある日、空に架かっている虹の橋から、幸福の天使が落っこちてきました。やさしい天使は、困っている人に幸せの羽根をすべて配り歩いてしまって、裸の翼ではうまく飛ぶことができなかったのでした。
やさしい天使はまた、困っている人を探して歩きはじめました。貧しい子供がお腹を空かせて泣いているのを見つけて、なだめていると、そこへわるい王様が通り掛かりました。
王様は今まで見たことがないほど綺麗な天使が一目で好きになりました。
「お前は綺麗だから、おれのものになれ」
わるい王様は、ふんぞりかえってそう言いました。
王様は貧しい子供に充分な食事を与えて、自分の方へ天使の気を惹こうとします。しかし、天使は、哀しそうに首を振りました。
「私にはやらなきゃいけないことがあるんです。急ぐんです」
天使は困っている人を助けるために、また歩きはじめました。
「待て。逃がすものか」
わるい王様は、諦めずに、天使を追い駆けていきました。
王様は天使が自分の方を向いてくれるように、天使が助けようとした人々へ、身に付けている豪華なマントや、金の飾りを配っていきました。そのたびに、天使は王様に、ぺこりと一度だけお辞儀をしました。だけど、また、すぐに他の困っている人々のところへ歩いていってしまうのです。
やがて王様は、もう配るものもなくなって、裸になってしまいました。
天使のかわりにいいことを続けると、みんな王様が好きになりました。王様が裸でも、誰も笑いませんでした。
「王様、王様ばんざい!」
みんなが幸せになると、やっと天使は王様に振り向いてくれました。
「あなたはとてもやさしい王様なんですね」
綺麗な天使にやさしいといわれて、王様はむずかゆいような、胸がしめつけられるような気持ちになって、もじもじしました。
王様は天使に言いました。
「お前がもう裸であわてて走って行くことはない。おれがみんなを助けてやるから、お前の仕事は、このおれが手伝ってやるから、空へ帰ることなんてよして、ずっとここへいてくれ」
天使は頷いて、「では王様が困った時は私が助けましょう」と言いました。
やさしい王様だと、天使が振り向いてくれるから、王様は好きな天使に好きになってもらいたくて、ずっとやさしい王様でいました。もう「首を斬ってしまえ」と言うことは、歳を取って死ぬまでずっとありませんでした。
王様が死んだ時、天使はわあわあ泣きました。みんなもわあわあ泣いて悲しみました。
もう誰も王様をわるい王様だという人はいなかったのです。
(〜おしまい〜)
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「君はこの本が好きなんだね?」
「うん!」
舌っ足らずに、彼が頷いた。
「天使は、ヨハンなんだ」
「アンデルセン博士?」
「そう。わるい王様をいいものにしてくれる。みんなの嫌われ者を好きになってくれる、やさしくてきれいな天使」
定期的に投与されているのは、上司が作った新薬なのだが、学生時代から先輩として面倒を見てくれていたあの聡明な遊城十代の知力が、ここまで低下している。およそ六歳児程の理性しか今の彼には残っていないのだ。そしてその僅かな知能すらも、また奪われようとしていた。
「今日は何をしたい? 何でもいいよ、今日は君を叱る怖い博士は出掛けていていないからね」
「ヨハン? ヨハンは」
途端に、彼は情けない顔をしてぐずり出す。慌てて宥めにかかる。
「もちろん、すぐに帰ってくるけれど」
「ヨハン」
「本当だよ」
博士を盲目的に慕う様子は、まるで親を求める子供そのものだ。あの頃の気高い彼では、すでになかった。博士が今日の終わりまでにはここへ帰るだろうと諭すと、ようやく落ち付いてくれた。幼児らしい突然さで、「絵を描きたい」と言い出す。
「大切な人達の絵。最近いろんな事をすぐに忘れちゃうから」
「うん、そうするといい」
クレヨンと紙を用意すると、機嫌を直して、紙面一杯に珍妙な絵を描き始める。それにまたやりきれない心地になったが、いや、彼は元々絵心が壊滅的に無かったのだということを思い出した。昔の彼を現実以上に綺麗なものへと昇華してしまっているのか。しかしあの頃の彼は、本当に誰よりも美しかったのだ。正直、勝手をやってこの人を泣かせてばかりいる博士には勿体のない人だった。
「るあ、るか。ヨハン。るびー、はねくりぼー。ユベルは、描いてあげない」
「おや……ユベルと喧嘩でもしたのかい」
「……さっき、ヨハンの絵を、やぶかれたから」
ユベルというのは、彼のもうひとつの人格だ。彼に宿る精霊の意志だという者もいる。彼とは正反対に博士をあからさまに憎んでいて、それは反動のようなものではないかと推測する。
彼の仕草は幼く、いたましい。しかしながら、その大人びた風貌と白痴のアンバランスが、危うい魅力を生んでいる。今も昔も、どこもかしこもちぐはぐな人だというのは、何も変わってはいない。
彼が落書きを続けながら何とはなしに鼻歌で唄っているのは、あまりにも皮肉が過ぎて戦慄してしまう曲だった。確か、怪獣映画の作曲家が作った舞踏曲のひとつなのだと、薬漬けにされる以前の聡明だった彼に教えてもらったことがある。なるほど確かに怪獣でも出現しそうな雰囲気で、これがバレエ音楽の部類に入るのだと聴かされた時には、いつもの悪ふざけに違いないと思ったものだ。
いつのまにか胸にぬいぐるみを抱いていると思ったら、実体化した本物の精霊だった。一定の間隔で撫でている。懐かしいリズムだ。本当に幼い頃、親にそうしてもらった記憶があるような気がした。
落書きを終了し、彼は実体を持ったラッキーカードを抱き締めて顔を埋めていた。
「でもわるい王様はさ、好きになってもらいたいからいいことをする。ばかだ」
「そんなことはないよ。確かに無償の愛は素晴らしい。でも一方通行で投げっぱなしの愛情よりも、好きな人と好きな人が求めあうほうが、人間は幸せになれるんだ。たとえば僕なら……」
その続きを言葉にするのがどれだけ虚しいことなのか、もう分かっていた。
時計に目をやって、せめてあの博士が戻ってくる前に済ませておいてやろうと、注射針の準備をする。
「薬の時間だ。わかるね?」
「ガッチャ!」
針が震えている。やはりどうしても慣れない。
今日、博士はこうなることが分かっていたのに、彼を見捨てた。
どうしても赦せなかった。しかし―― 。
「後悔したことは? こんなひどい目に遭わされても博士が好きなのかい。天使なんかじゃない、あの人こそが悪魔だ」
彼は不思議そうにまばたきをした。理解していなかった。一体どうして、あれだけ心と肉体を引き裂かれておきながら、あの男を無心に愛することができるんだろう。分からない。
「オレ、生まれてから今までで、今一番しあわせなんだ。本当……」
精霊を抱き締めて彼が笑った。本当に幸せそうで、本当に安らかだった。
博士は、こんなにも純粋なこの人の笑顔を見たらどう思うのだろう。この遊城十代という気高い人の魂を、ここまで穢してしまったあの男でも、後ろめたさのひとつでも感じるのだろうか。
「ヨハンがいる。本当に、しあわせ」
彼は笑った。
それが、数分後には擦り切れた知能をすら手放すことになるその人の、理性を保った最後の笑顔になった。
狂うことに必要な時間はほんの一瞬だ。
* * * * *
<それ>のために、後部座席はわざわざ専用にしつらえてある。
シングルローターのヘリの側面には社のロゴが誇らしげに記されている。多数の民間人が居住するシティ上空を飛ぶからにはと、建前上は輸送用ヘリを模してはいるが、重火器類は戦争をやれる位には一揃い詰め込まれ、最新式の火器管制装置が搭載されている。
任務内容は要人の護送だった。ただその<要人>は、どう贔屓目に見ても人間には見えなかった。生物にすら見えなかった。銀色のジュラルミン・ケースだ。メインローターの騒音の中にあっても、その箱の中から、かすかに音が零れてくる。
『俺の愛をあげる。何から何まで全部与えよう、俺の愛をあげよう。お前にはそいつが必要なんだ――』
相方をやっている初老の操縦士が、旧き良き時代の有名なロックだと教えてくれた。ただ、途切れ途切れに響く音の切れ端が、何故今ここにあるのかは、彼にもわからないようだった。「あの箱の中で小人か何かがラジオでも聴いてるんなら、そいつはもう随分耳がいかれちまってるんだろう」と冗談を言う。
「本当に音漏れがひどいな。でも懐かしい歌だ。<胸いっぱいの愛を>だよ。若い頃はよく聴いてた」
ハミングを始める。気楽なものだ。
「あのケースには一体何が入っているんだ?」
「余計な詮索はなしだ。それがうちの会社で長く生き抜くってことだ。意味は分かってるだろう」
そう言われては、もう何も言う事はなかった。まったく気が滅入りそうになる。テレビを付けると、やはり気の滅入りそうになるニュースが流れてきた。
『午後三時、シティのガラム銀行が強盗に襲われました。この銀行強盗の男の身元は不明ですが、武装しており、逃げ遅れた市民を人質に取って、今も立て篭もっている様子です』
「ろくなことをしない奴はどこにでもいるんだなぁ」
宙に浮かんだビジョンの中では、情報が目まぐるしく錯綜していた。ニュースキャスターの女性の元へ、データ化された資料が運び込まれてくる。
『速報が入りました。先程ガラム銀行を襲った銀行強盗の男は、現金およそ一億円を奪ったまま現在車で逃走中の模様です。男は人質の少女を連れている為、セキュリティも迂闊に手は出せない様子です。少女はトップス在住の遊城龍可ちゃん(15)。現場近くの市民の皆さんは、危険ですので外出をしないよう、セキュリティから指示が出ています――』
「十五の女の子か。まだ子供じゃないか。人間のやることじゃないな、可哀想に……」
ニュースを伝えるビジョンにノイズが入った。回線が切れて、画面にモノクロの砂嵐が吹き荒れる。同時に機体が大きく揺れた。
いつのまにかメインローターの回転音が消え去っていた。操縦席から身を乗り出すと、頭上で完全に停止している姿が目に飛び込んできた。
「サイクリックは!」
「操作不能! エンジンにも異常なし!」
サイクリックコントロールスティックは、まるでセメントで固定されたかのように動かない。機体がオートローテーションに移ることはなく、ただ墜落していく他に道はない。
恐ろしい速度で迫り来る地面を絶望的に眺めていると、このヘリに乗り込む際に、件のジュラルミン・ケースを持ち込んだ男が嘯いた言葉がふと浮かんだ。
『この中には、世界を終わらせる怪獣が眠っているんだ』、と。
* * * * *
なんでだろう。龍可は考えた。
お気に入りの赤い靴のつま先から三メートル先では、背広姿の男性が頭を抱えていた。頭の上には革製のビジネスバッグを乗っけている。
自分の呼吸が、ひどく浅くなっているのを感じる。時間が停まったようだ。顔の横には黒光りする金属の筒があって、視線で伝うと、順に脂の染みたシャツ、くしゃくしゃのネクタイ、中年のおじさんの不精髭となる。
おじさんの顔は上半分がサングラスで隠されているが、左頬の頬骨の上にマーカーが刻まれていた。これは何らかの犯罪を犯して収容所に送られて、再教育プログラムを受けた者の証だった。学校でも習ったし、習わなくたって子供でも知っている。
「聞こえなかったならもう一度言うぜ。このお嬢ちゃんの命が惜しければ」
耳の下に冷たい鉄の感触が突き付けられて、思わず喉から小さな悲鳴が零れた。おじさんが、狂暴に叫んだ。
「ありったけ金を出せって言ってんだよ!」
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。龍可は、ほんの少し前のことを思い返してみた。
龍亞と天兵は、最近二人で揃って挙動不審だ。この二人で企んでいることと言ったら、いつものように大したことでもないとは思えたけれど、隠し事をされているのは面白くなかった。
「そういうの、よくないと思うのよね」
肩の周りを飛び回っているクリボンに同意を求めると、よくわからないというふうに瞬きをしている。
待ち合わせは午後三時に駅の改札前で良かったはずだ。今日はこれからショッピング・モールへ出掛けて、来月高等部へ上がってから使う学用品を一揃いしつらえようと、龍亞と約束をしていた。
買い物くらいは家にいたままでも問題なく済むことは済む。だけど、最近の龍亞は用事を見付けては龍可を外へ連れ出そうとする。
龍亞なりに龍可のことを考えてくれているのは分かっている。でも、どうせまた遅刻をするのだろう。
今日は朝からまた天兵と出掛けていていない。ゲームの話だと聞いた気がするけれど、詳しくは教えてくれなかった。女の子には秘密なんだという。子供っぽい、と思う。
目の前に、ゴムのタイヤが擦れる音を立てて車が一台乗り付けた。表面は擦り傷だらけだ。後部座席に三脚やレフ板が無造作に詰め込まれているのが見えて、知り合いの女性記者の顔を思い浮かべた。テレビ局の取材に使うものなのかもしれないと想像する。
運転席のドアが開いて出てきたのは、痩せていて背の高い男の人だった。中年のおじさんだ。神経質そうに周りを見回して、ふと龍可と目が合ったと思ったら、意を決したように頷いて大股で近付いてくる。
『なんだかやだなあ』という感じがした。
すると、いきなり肩を掴まれた。引き摺られる。驚いて悲鳴を上げようとしたら、黒い塊を突き付けられた。
拳銃だ。ドラマで何度も見たことがある。おじさんはそのまま、駅の出口に直結している銀行へ無遠慮に入って行って、天井へ向かって、今龍可に向けたばかりの拳銃の引鉄を引いた。
大きな音を立てて照明が割れる。傍にいた龍可には、火薬の臭いがするのが分かった。花火よりも油っぽい臭いだ。ATM機の前に立っていたおばさんが悲鳴を上げてしゃがみ込む。
「手を上げろ!」
おじさんが叫んだ。
<強盗>。<本物の>。
今一つ現実感が湧かないまま、恐怖だけはきちんと龍可の元へやってきた。いつもの反射で、やはり叫んでしまう。
「助けて、龍亞!」
その本物の銀行強盗のおじさんに、人質として車に一緒に押し込められたのが、今から二十分程前だった。シティを連れ去られてから、もう何週間も経つように思えた。それでもハンドルの隣で点滅している旧式の液晶時計は、体感時間には関わりなく、正確に時を刻み続けている。
声が出ない。怖い目に遭ってもいつも平気だったのは、兄の龍亞がいたからだ。そのことを今更自覚すると、恨めしい気持ちになった。
「なんで助けてくれないのよ……」
泣き言を言うと、おじさんに睨まれた。思わず黙り込む。
龍可は今、知らない景色の中にいる。ダイダロスブリッジを抜けたのは覚えている。こんなに遠くまで来たのは初めてではなかったろうか。
それから何とか楽観的に思い浮かべたのは、銀行強盗の成功率が絶望的に低いという事実だった。
もうすぐセキュリティが追ってくるだろう。牛尾が助けてくれる。期待の通り、セキュリティのパトカーが自慢のデュエルチェイサーズを従えて向かってくる光景が、バックミラーに映って見えた。
きっと助けてくれる。そう安堵したのも束の間のことだった。
先陣を切って疾走する一台の上で、見慣れたセキュリティの制服姿が、太い水道管のようなものを構えた。龍亞が前にビデオゲームの中で使っていたのを見たことがある。携帯用対戦車ロケット発射器。一介の捜査官がバズーカ型ロケットランチャーを所持している理由に、龍可は思い当たらなかった。
ともかくその捜査官、特徴的な顎鬚を生やした中年の男の人が、躊躇いなく撃ち込んできた。殺傷能力の大小はあるものの、目の前で発砲をされるのは今日二度目になる。おじさん不信になりそうだと、龍可は思った。
銀行強盗のおじさんが慌ててハンドルを切った。車はくるくるとスピンして、一度大きく跳ね、龍可は舌を噛んだ。流れていく景色の後ろで爆発が起こった。
考えてみれば、こちらの車には気の利いたライディング・デュエルの機能なんてついてはいない。デュエルチェイサーズの強制デュエル権限も無意味だ。
だからと言って、これはあんまりだ。
「ひどい!」
龍可は叫んだ。
「ああ、ひどい」
強盗のおじさんも同意した。
「いきなり撃つなんて、ひどい。人質がいるのに」
どこか他人事のように非難したのは、今自分の身に起こっていることが本物だと、上手く感じられなかったからだ。牛尾の口癖のような『停まれ』や『無駄な抵抗は止めろ』や、『故郷の母ちゃんが泣いているぞ』等など、犯人との交渉を一切無視して砲撃を行った<市民の味方>よりは、今はまだこの銀行強盗のおじさんの方がいくらか常識人に見えた。
常識を持った人間はそもそも強盗に手を染めないということは、分かっている。
おじさんが脂汗を顔中に浮かべながら、ハンドル横のパネルに触る。臨時ニュースの映像が宙に映し出された。ニュースキャスターの女の人が、聞き取りやすい早口でまくし立てている。
『先程ガラム銀行を襲った銀行強盗の男は、現金およそ一億円を奪ったまま現在車で逃走中の模様です。男は人質の少女を連れている為、セキュリティも迂闊に手は出せない様子です。少女はトップス在住の遊城龍可ちゃん(15)。現場近くの市民の皆さんは、危険ですので外出をしないよう、セキュリティから指示が出ています――』
「セキュリティは手を出せないって言ってるのに」
「簡単だ。相手はセキュリティじゃないのさ。さすが、鼠の駆除に手は抜きません、ってか」
おじさんは胸ポケットから潰れた煙草の箱を出して、中から素早く一本を引き出して口に咥えた。よく分からないことを言う。
バックミラーの中で、白いホイールのグループが急速に引いていく。うちの一人が空を指差したように見えた。
「……どうした?」
隣でおじさんが訝った。龍可は叫んでいた。
「上!」
はたして、その時上空から落っこちてきたものは、巨大な怪鳥のようにも見えた。
突如として墜落してきたヘリの側面には、<KC>とアルファベットのロゴが入っていた。
果てしない重量を持ったこの金属の塊は、銀行から奪い取った札束と強盗と龍可を乗せた車を真上から直撃する。身体が浮いた感じがして、何も音が聞こえなくなり、目の前が真っ白になった。
景色が一回転した。真っ白が、真っ黒へ。
一面の黒に包まれていた。薄いカーテンのように頼りないふうでいて、どこまでも強靭な黒だった。その中にあって、身体中を焼く熱さに息をすることも忘れていたと思う。
しばらくの間気を失っていた。瞼を閉じて、開けると、龍可は全然知らない場所にいた。
空は灰色だ。今にも雨が降り出しそうだった。焦げた木々と一緒に視界に映ったのは良く知った精霊の顔で、心配そうに目を眇めて覗き込んできている。
「クリボン」
『クリクリッ』
名前を呼ぶと、安心した様子で空へ跳ねた。
「生きてるの、私は……」
焼けて黒くなった土の上へ仰向けに倒れていたせいで、背中と後ろ頭が土で汚れてしまっていた。気になるところはそれだけで、怪我も火傷も見当たらなかった。どこも痛くない。
龍可に寄り添うようにして、銀色のジュラルミン・ケースが立て置かれている。誰がいつの間にこんなものを持ってきたのだろうか。少なくとも龍可は覚えがなかった。ただ、不思議な感じがした。何者かに呼ばれるようにしてケースに触れると、複雑そうなロックはあっけなく外れた。
封印が解かれると、蓋は手で触れなくても開いていく。待ち構えていたように、<箱>の中から、まるで夜そのもののような美しい黒が吹き出した。ベルベットのカーテンのようでいて、突き通せない盾のような闇が、広がっては纏まり、やがて翼の形を造っていく。
夜色の翼の主が、小さく折り畳まれていた関節を広げて、伸びをするように背中を反らした。
蜥蜴のような皮膚に覆われた四肢や、身体中にいくつも生えた鋭い角や、蝙蝠に似た扁平の翼は、二目と見られない程醜い姿ではあった。ちぐはぐな色の双眸が不気味に輝いている。
それでも龍可は、その怪物の大きな翼が、乗用車とヘリの衝突によって起きた爆発炎上から自分を守ってくれたものだと分かった。顔を上げると、頭のはるか上に壊れた橋が見える。ぞっとするような高さから落っこちてきた龍可が、何故傷の一つもない状態で生きているのか。それも分かっている。
鱗に覆われた怪物の腕に触ると、爬虫類のそれらしく冷たかった。
「ありがとう。あなたが助けてくれたのね」
龍可が、少し気後れをして引き攣った顔で笑い掛けると、どこか冷たくて大人びた印象があったその怪物は、思いがけない反応を返してくれた。
小さな子供を思わせる、本当に嬉しそうな満面の笑顔になって、良く慣れた飼い犬のように龍可に飛び付いてきたのだ。
「……あ〜っ!!」
「きゃああっ!?」
―― それが遊城龍可と、この世界を敵に回した名無しの竜との、初めての出会いになった。
* * * * *
デュエル・アカデミア・ネオ童実野校の教室で、液晶パネルの地図と睨めっこをしていた龍亞は、背中を勢い良く座席に預けた。もう六度目だ。うんざりもする。
「見つからないなぁ」
アカデミア自体は休校でも、教室は自習をする生徒のために解放されている。休日にまで勉強をする為にここへやってくる熱心な生徒はごく僅かだ。大方は龍亞のように、設えられた設備を有効利用する為にやってくる。
龍亞が睨み合っているのは、ネオ童実野シティの全体地図だ。スタイラスで赤く×印が付いている。全部で六ヶ所。すべて徒労に終わった跡だった。
地図の他にもう一つ開かれているタブは、今流行の体感ゲーム、<デビルバスターVer.0.9
アカデミア・エディション>の画面だ。このゲームの販売元は、デュエル・モンスターズにも関わりが深い海馬コーポレーションとなっている。
作りこそはオンライン・ゲームのようだが、異なっているのは、ゲームのフィールドが現実世界そのものとなっていることだった。たとえばシティの居住権を持っている龍亞なら、行動可能なフィールドはこのシティ全域となる。ゲーム・マスターである<ドクターD>の指令を受けて街中を探索し、襲い来るモンスターを倒したり、お宝をゲットしたりするわけだ。
プレイヤーは子供から老人まで年齢層が幅広い。非力な一般市民が、大したトラブルもなくこの<宝捜しゲーム>にのめり込めるのは、ひとえにシティの治安の良さのおかげだった。龍可はこの街に平和をもたらした正義の味方の事を良く知っているし、とても誇りに思っている。憧れている。その龍亞のお手本とも言うべき現役ヒーローも、今は<デビルバスターVer.0.9
エクストラ・エディション>において、D・ホイーラー専用のミッションを引き受けて旅立ってしまった。
D・ホイーラーのライセンス所得者のみ購入が許される<エクストラ・エディション>は、やはりかなり行動エリアが広がるようで、龍亞は彼が羨ましくて仕方が無かった。ただ、あの人が動くのはいつも義憤に駆られてのことだったから、今回も何か事件が起こったのかもしれないと心配をしていたら、どうやら考え過ぎだったらしい。
「あの人が公式にフィギュア化することは、まずない」
どうしても欲しい、と目が言っていた。旅立つ前のその人は、珍しく物欲に支配されていた。
「なにそれ」と聞けば、<幻の決闘王>のフィギュアがミッションクリア時の特典なんだという。何でもその<先輩>は世界大会で優勝して決闘王の称号を手に入れた癖に、尊敬する初代決闘王が不参加だったことを理由にして、その場で称号を返還してしまったそうだ。実力は最強クラスで、その人いわく<兄貴の中の兄貴>とのことだった。
「自分の力だけを頼りにプロの世界で戦い抜いた。あの人は誰よりも誇り高い決闘者だ」
珍しく子供っぽいところを見てしまった気がする。
しかし龍亞の<アカデミア・エディション>にも良い所がある。アカデミアを設立した海馬コーポレーションの計らいで、アカデミア各校にはそれぞれ限定ミッションが存在している。利用可能者が在学中の生徒に限られているために、一般ユーザーの垂涎の的になっていた。
今龍亞が<ドクターD>から引き受けているのは、ネオ童実野校限定ミッションだ。一般ユーザーの成り済ましを防ぐために、このミッションに関しては、IDを登録した機械でしかプレイをする事はできない。
「でもちょっと面倒だよね」
「そりゃあ、海馬コーポレーションの歴史は乗っ取り乗っ取られだからな。変な所で徹底しているのも無理ないよ」
天兵が、分かるような分からないようなことを教えてくれた。
「なぁ天兵。この依頼って、本当にクリアできんのかな。バグじゃないの?」
「<ドクターD>のファイルに挟んであった情報だから、隠しシナリオだけど信用はできるはずだよ。<竜の財宝>。昔、世界を支配していた竜が、世界よりも大事にしていた宝を二つに割って、このシティの一番高いところに隠したんだって」
天兵は要領がいいから、龍亞よりも多くのミッションを引き受けることができる。パネルを覗き込むと、選ばれた者だけが閲覧を許される<<ドクターD>のファイル>が表示されていて、依頼の項目には最高難易度を示す十個の星が輝いていた。さすがはネットゲーム廃人と呼ばれているだけのことはある。
この中毒者のお零れに預かるような形なのはさておいて、龍亞の貯蓄DPは、あと千程度で<コクーン・シリーズ>のぬいぐるみと交換できる予定だった。龍可は可愛いものが好きだったから、高等部へ上がるお祝いにプレゼントしたいと思っていた。来るべきサプライズのために、今はまだ内緒だ。
この<デビルバスター>の人気は、魅力的な依頼内容のためでもあった。ありふれた街の中を歩いていると、突如として日常と非日常が切り替わる。ゲームをプレイしている最中は実際にモンスターに触れるし、テキストは現実となる。実際に起こった事件や、存在する伝説を元にしてミッションが作成されているのも、ゲームのリアリティに一役買っている。
「世界よりもすごい宝物か〜。どんななんだろ。宝石? とかかな?」
腕を大きく回して、「こーんなでっかいの!」と笑う。天兵も興味深々だ。
「うん、竜って言うからには光モノのイメージ。もしかしたらデュエルが強くなる魔法の石かもよ。竜の伝説って言えばシグナーだけど、龍可ちゃんは何も感じてないの?」
「うん。龍可は何かあったらオレに絶対言うからな」
「でも龍亞は今龍可ちゃんに隠し事してるんだよね。それってなんか不公平だよ」
弱いところを突かれて、龍亞はいつもと同じ言い訳をした。
「な、なんだよ。これはあいつの為を思ってのことだからいいの」
「そう言いながら後ろめたそうだよ。龍亞は相変わらず分かりやすい」
こういう時、幼馴染の天兵はとても鋭い。龍可に言わせれば、『テンちゃんが特別なんじゃなくて、龍亞が単純過ぎるの』ということだが、心を読まれているみたいな気持ちになって冷汗が出た。
「もうすぐ留学しちゃうんだよね」
「ん? ああ」
天兵が急にしんみりした顔になった。龍亞は何の話だか理解して、首を振る。
妹の龍可は成績優秀だ。毎年の恒例行事だが、ネオ童実野校にも本校との交換留学生の話が持ち上がっていて、ハイトマン教頭が「是非」と龍可を推している。
龍可は返事を先延ばしにしていたが、龍亞には分かっている。龍可が龍亞を離れて、南海の孤島にあるという本校へ留学してしまうことは絶対にない。
「しないよ龍可は。なんだかんだで全然オレ離れできてないもん」
「龍亞は全然分かってないなあ」
「なにが? 言っとくけど、オレに龍可のわかんないことなんかないの。なんでも分かっちゃうんだ。一心同体の双子だから」
「じゃあ龍亞は龍可ちゃんが、高等部の先輩に告白されたのも知ってるのかな」
「告白う?」
つい変な声を上げてしまった。最近ではそういう話題が女子の特権ではなくなってきて、同じクラスの男子なんかにも、『あの娘、ちょっといいよな』などと言い出す輩が現れ始めた。しかし龍亞には、いくつになっても現実味がない。女の子よりも格好良いヒーローだ。天兵は、何も知らずにうっとりと続ける。
「そう。龍可ちゃんはみんなのアイドルだからね。頭が良くて優しくて、おしとやかで、理想の女の子だ」
「ピンとこないなあ。で、それ、どうなったの?」
「ごめんなさい」
「?」
「一言」
「……あはは。ふ、ふられちゃったんだ、先輩」
笑いを堪えていると、天兵は「他人事みたいに言うなぁ」と呆れていた。
「やっぱりね。龍可が誰かをオレよりも好きになるなんてありえないし!」
すっきりした気分だった。龍可が龍亞よりも他の男子を好きになることはあり得ないし、龍亞が龍可よりも他の女子を好きになることもありえない。一心同体。きっと一生このままだ。
「龍亞っていつも無駄に自信家だけど、龍可ちゃんのことになると、いつもに輪をかけてひどいよね。オレは親友として二人の将来が心配だよ」
「なんで? 喧嘩なんかしないって。オレと龍可、いつでも仲良しだぜ」
「そういう心配じゃないんだけどなあ」
のらりくらりと核心を突かない天兵を、「なんだよ」と問い詰めようとしていたら、龍亞のパネルから電子音が鳴った。
画面には新規ミッションの到着を知らせる、<ハネクリボー>がメールを携えているアイコンが表示されていた。依頼受付項目に一件増えている。<ドクターD>からの新しい指令だ。難易度は<不明>となっていた。
「うわっ。<金のハネクリボー>じゃないか! プレミアム・ミッションだよ、これ」
天兵が驚いた顔になって、興奮気味に言った。言われた通り、珍しい金色のハネクリボーだ。スタイラスで触れると、ミッションの詳細を示したテキストが表示された。天兵が横から読み上げる。
「『PM:15:20、ミッション発生場所:シティ郊外。悪の組織の手によって、封印されし<終わりの竜>が解き放たれてしまった。選ばれしデビルバスター龍亞よ、今こそ力と勇気で邪悪な竜を捕まえて、シティの皆を守れ!』―― おおっ、報酬すごいよこれ! 達成報酬が一千万DP!」
龍亞は思わず自分の席から身を乗り出していた。
「一千万! デビバスのオリジナルD・ホイールと交換出来るよ!」
「ライセンス持ってないだろ、龍亞は」
「そのうち絶対取るからいいの。ところで天兵。プレミアム・ミッションって、なに?」
「プレミアムミッションは、登録IDが合致したプレイヤーだけに届く懸賞みたいな指令さ」
天兵は自席のパネルを諦めきれない面持ちで眺めていたが、自分には新しいメールが届かないことを知ると、渋々納得した様子だった。
「こればっかりは運だからな。龍亞、オレも見に行っていい? 交流掲示板にレポート書きたいんだ」
「もちろん! 他には……」
龍亞は周りを見回した。休日の教室には、龍亞と天兵の二人しかいない。昼までは十人近くいたのだが、そのほとんどはボブと一緒に季節限定のミッションへ出ていった。またないがしろにされた怒りが蘇ってくる。
「……『龍亞は弱いから数合わせにしかいらない』って。人数が足りてる時は、あいつらオレをのけ者にして。絶対に見返してやる!」
「軽くいじめだよね、あれ」
天兵が不憫そうに龍亞を見た。彼はどちらかと言うと、クラスメイトや友人よりもネットで知り合った仲間とプレイするスタイルだ。
龍亞は腕をグルグル回して叫んだ。
「よーし、テンション上がってきた! 探しに行こうよ。悪い竜をやっつけて勇者になるんだ。ヒーロー最高!」
「龍亞ってほんと調子いいなあ。龍可ちゃんに連絡しなくていいの? 約束してたんじゃなかったっけ」
「……ああ! そう言えば今日高等部で使うもの色々買い物するって約束してたんだった!」
約束と聞いて、今まですっかり忘れていた龍可との待ち合わせのことを思い出した。しかも今回の買い物に龍可を誘ったのは龍亞だ。龍可の怒った顔が目に浮かぶようだった。
慌てて携帯電話で連絡を入れるが、なかなか繋がらない。時刻を見ると、すでに待ち合わせの時間よりも四十分も遅れていた。出てもくれない程怒っているのだろうか。恐ろしい。
ただ、着信履歴に龍可の名前がないのは妙だった。龍可は龍亞の遅刻癖を良く知っていて、待ち合わせ時間のきっかり三分後に、『龍亞、ちゃんと覚えてる?』と文句のメールをくれるのがルールみたいになっている。
「龍可ちゃんは龍亞をアニキに持って、本当に苦労させられてるよね」
「……よし、まず竜をやっつける前に、龍可に謝りに行くぞ天兵! 『いちたくしょーれん』だっ!」
「『一蓮托生』だろ。まあオレもだらしない龍亞に付き合ってたし、その通りかもしれない」
天兵が諦めたようにぼやいた。荷物を抱えて急いで飛び出す。教室の電気を消すことは忘れない。
皆は<デビルバスター>が普通の体感ゲームだと思っているけれど、本当は違う。
<ドクターD>も本当にいる。託されたストラップを意識する。
龍亞のベルトには、<デビルバスター>のIDが刻印されたストラップがくっついている。皆のものには、チェーンの先に、菱形の目玉を模ったチャームがくっ付いていた。人間なら誰にでも存在する<心の闇>を吸い取ってくれるお守りだという。龍亞のIDストラップは、皆とは少しデザインが違う。目玉のかわりに、牙の形に磨かれた黒い骨の欠片のようなものがぶら下がっている。
<ドクターD>はそれを<パンテールの牙>と呼んでいた。<竜の角>から削り出されたもので、不思議な力を持っているらしい。正体はよくわからないが、身に付けていると何となく安心できた。
これは特別なものだ。選ばれた者の証だ。
オレもとうとうヒーローに選ばれたんだなあ、と龍亞は考えた。本物のヒーロー達の背中を追い続けて幾数年。感慨深いことだった。
本当のヒーローというのは、一番大切な人には自分の正体を秘密にしなければならない。ヒーローは影ながらヒロインを助けて、いつか訪れるエンディングはこうだ。
『―― まあ、いつも私を助けてくれるデビルバスター様の正体が龍亞だったなんて』
龍可がうっとりした表情で、龍可の胸に頬を寄せる。
『すてき』
『いやぁ、それ程でもあるけど!』
龍亞は得意になって笑う。ハッピー・エンディング。ヒーローには相応しい結末だ。
「何ニヤニヤしてんの、龍亞。気持ち悪いぞ」
天兵の冷たい指摘にふと我に返って、「き、気持ち悪いって何だよ!?」と声を裏返らせて反論した。いつも心を読まれているから、恥ずかしくて顔が熱くなる。
よそ見をしながら走っていたせいだ。階段を降りたところで、龍亞は廊下にいた生徒に衝突した。視界が上下に回る。何度か回転したあとで、職員室の壁にぶつかって止まった。あまりにも派手な転び方をしたせいで、相手は上級生だと思われたが、怒ることも忘れた様子で口を開けている。
「いたたた……ごめん、パパ!」
天兵がびっくりした顔でいる。龍亞自身も、そう言ってしまってから驚いた。やってしまった、と思う。
「ご、ごめんごめん。間違えちゃった」
笑って誤魔化すと、相手も笑った。
「怪我はない? そう、よかった。気を付けるんだよ。じゃあ」
弟にするように龍亞の頭を撫でて、行ってしまう。気の弱そうな人だと思った。
去り際、彼の男子制服のベルトに吊られているストラップが見えた。<目玉>じゃない。龍亞と同じものだ。
「あのストラップ」
「うん。あの人も<デビルバスター>やってるんだね。まあ休みの日に学校に来てる生徒なんて、大体そうだと思うけどさ」
龍亞のストラップは、特別なストラップだ。だったら同じものを持ったあの上級生も<選ばれし者>ということだろうか?
「どこかで見た顔だと思ったら、高等部の学年首席だよ。龍亞と同じで」
天兵が言う。龍亞は驚いて、親友に食い付いた。
「オレ、学園首席レベル!?」
「学年首席な。そうじゃなくて、珍しい名字なのに被ってたんだ。それで覚えてた」
しげしげと龍亞を見つめてくる。生まれた時から一緒にあったものだから、珍しいと言われてもあまり実感が湧かない。
「本当珍しいよな。<遊城>っていう名字」
天兵が繰り返した。
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