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龍可は雨の森の中をあてもなく歩いている。抱いている<クリボン>の感触があることに今更気付いた。普段と変わりがないように感じていたのは、どれだけ龍可が精霊界との繋がりを当たり前のものにしていたかということだった。普通の人間とずれている。それを思い知らされる気持ちになる。
焼けた木々は、かつての汚染された古の森を思い起こさせた。焼け方を見ると、少し前までこの辺りは炎の海だったに違いない。火はまだ燻っていたが、降り始めた雨が森を冷やしていく。
さっき龍可が目を覚ますと、強盗の姿は消えていた。
「おじさん、大丈夫かな。もしかして墜落したまま……あなた、知ってる?」
「あ〜?」
龍可を助けてくれた怪物を見上げると、よく分からないというふうに首を傾げている。辛抱強く繰り返す。
「だから、私と一緒にいた人」
「あうー」
「………」
この怪物は人間に近い姿をしてはいるが、言葉を喋れないようだ。加えて他の精霊たちのように気持ちが通じ合うわけでもない。ただ真っ白の心を持っている。まるで生まれたての赤ん坊みたいだと龍可は思った。
「見た目はちゃんとした大人なんだけど」
「クリクリッ」
「クリボン。あなた達にも、この子の言ってることがわからないの?」
龍可の少し後ろを歩いている<レグルス>は、いまだにこの不思議な怪物に警戒を解かずにいる。険しい顔で、注意深く監視していた。
「龍可、この者は悪魔族です」
「この子、やっぱり精霊なの?」
「……分かりませんが、似たものを感じます。邪悪な意志は今の所特に感じ取れませんが、嫌な予感がします。龍可、悪魔族は人の心の闇を食らう存在です。悪意は無くとも邪悪なものは害をなす。見たところこの者の身体は、自分以外の存在を傷付けるためだけに純粋に進化したもののように見受けます。心を許すには早い。……や、やめろ。たてがみを引っ張るな!」
「あぁあ!」
怪物は何を言われているのかも分からないようで、<レグルス>のたてがみを無邪気に引っ張った。確かに悪意はないのだろう。たまらないといった様子で<レグルス>が吼えると、瞳孔を窄めて髪を逆立てている。威嚇をされてびっくりしたらしいが、すぐに別の悪戯に取り掛かった。今度はこの勇敢な獅子の尻尾を引っ張る。仔猫が猫じゃらしにじゃれついているようだった。
「おい、いい加減にしなければ噛み付くぞ! 龍可、この悪魔は即刻ここで棄ててしまうべきです!」
「そう? 私はいい子だと思う」
龍可はこの精霊たちのやり取りがおかしくて、口に手を当てて笑った。見上げるとベルベットの闇が空を覆って見える。怪物が、龍可を雨に濡らさないように翼を大きく広げているのだった。
「優しい子ね。それに、よく見ると……」
半分が男性で、もう半分が女性の肉体。宝石のような瞳は、双眸が異なる色味に輝いている。異形の風貌をしているのに、顔立ちはとても美しかった。こんなに綺麗な人が傍にいるせいで、自然に頬が染まった。
真っ白の髪は夜空を横切る流れ星のようだ。そこに武骨なヘッドホンが付けられているのは、どこか奇妙に思えた。
「それ、ヘッドホンよね。ふつうの」
プラグの先には小型のプレーヤーが繋がっていて、<KC>のロゴが入っていた。これは海馬コーポレーションの人間が造ったもので、精霊界のものじゃないという意味だ。怪物が困った顔をしてボタンを押しているが、音楽は再生されないようだった。
「壊れちゃったの?」
「ん〜……」
「大切なものみたいだけど」
「あっ」
何度も頷いた。龍可の言葉は、いくらかは伝わっているらしい。
「遊星が帰ってきたら修理してくれるよ。機械のこと得意だから。私も前に、デュエル・ディスクをカスタマイズしてもらったの。だから。……まあ、街中で精霊が実体化しているところを見つかったら、みんな大騒ぎになると思うけど」
「ん……あ、ふ」
怪物は鼻をむずむずさせて、「へっくしょい!」と派手なくしゃみをした。龍亞みたいなくしゃみの仕方だな、と思った。
それにしても精霊も風邪を引くのだろうか。怪物は鼻水まで垂らして、両腕を交差させ、寒そうに震えていた。仕草のひとつひとつが精霊っぽくなくて、まるで人間そのものに見える。
「雨宿りをしましょ」
龍可は提案した。
* * * * *
鉄橋は真ん中の辺りでいびつに折れて、危なっかしく垂れ下がっていた。剥き出しになった鉄骨が、炎に焼かれて黒ずんでいる。唐突にぶつ切りになった道路から下を眺めると、眩暈がしそうな位の高みにいるのだと理解できた。
「龍可!」
龍亞はパトカーから飛び降りて、橋の際から身を乗り出した。はるか下方には焼けた森が見える。そこで、ここまで龍亞を一緒に連れてきてくれた牛尾に、首の後ろを掴まれて持ち上げられた。近くにいた捜査員に預けられてしまう。
「離してくれよ! 龍可が!」
「お前に何かあってみろ。龍可ちゃんはどう思う。おい、状況は」
「はい。人質の少女を乗せた乗用車は、墜落した輸送ヘリと一緒に」
そこで言葉を切って、牛尾の部下の捜査員が龍亞と橋の下へ目をやった。牛尾も頷いて、続きは手で制する。龍亞の前では聞かせられないと思ったのだと思う。
「もう一つ、詳細不明な点がありまして、ここから二百メートル程前の地点に、ロケット弾の被弾跡があるんです。専門家にデータを送った所、8.8センチのものだと判明しています」
「はぁ? 何だそりゃ。戦車でも狩るつもりか?」
龍可が龍亞と待合せをしていた駅前の銀行に強盗が入ったという。強盗は人質として龍可を連れて逃げた。でも、運悪く墜落してきたヘリコプターと衝突して、壊れた橋と一緒にもつれ合うようにして森へと落っこちて行ったという。嘘みたいな不運だった。
「いや、龍亞、龍可ちゃんは無事だ。うん。あの子はシグナーだからな。このくらいのこたぁ屁でもねぇ」
「……オレのせいだ」
「あん? なんでそうなる」
牛尾が片眉を上げる。龍亞は上半身をばねのように跳ね上げた。
「オレが龍可を買い物になんか連れ出そうとしたからだ。買い物なんて、家でできたんだ。オレが約束を破ったからだ。龍可が強盗に攫われて怖い思いをしている時に、傍で守ってもやれなくて、オレ、こんなんじゃ兄貴失格だ!」
情けなくて泣けた。
だけど今泣いていいのは龍亞じゃない。泣いていいのは、龍亞を離れた所で一人で怖い目に遭っている龍可だけだ。歯を食いしばって袖で目を擦る。泣かない。
「龍可ー! 龍可、聞こえてるよな!」
龍亞は、はてしない森へ向かって叫んだ。雨が霧のようになって、白くくすぶっている。光の射さない森は、遠目には黒ずんだ沼地のように見えた。
「今すぐ助けてやるからな!」
龍亞には龍可が生きていることが、ちゃんと分かっていた。双子だから何でも分かるのだ。
龍亞のベルトに連なっている牙の形をしたストラップが、微かに発光している。蛍の光のような淡い輝きだ。ポケットに入ったままの小型携帯ゲーム機が勝手に起動して、仮想マップに白い光点を表示した。そのことに、龍亞は気付いていない。
* * * * *
岩の壁伝いに進むと横穴が開いている。周りは蔦に囲まれていた。注意していなければ見過ごしてしまっただろう。雨宿りにはうってつけだったが、誰かの気配を感じると思ったら、先程まで少しの間一緒をした人だった。
強盗のおじさんだ。
生きていたらしい。彼も龍可と同じように怪物に助けられたのだろうと思う。
「どうしよう」
龍可は、まずしもべの<レグルス>を見た。それから大人のひとの姿をした怪物の顔を見上げた。
おじさんは身体を窮屈そうに折り畳んで眠っている。九月に入ったばかりで、シティはまだ夏とそう気温は変わらなかったが、日の射さない森の奥はまるで秋の終わりのように冷え込んだ。
「クリリッ」
<クリボン>が枯れ木を集めて山を作った。<サニー・ピクシー>が、おじさんのポケットからライターを拝借する。
「やめてくれ……返してくれ、俺の宝物を……」
声にびっくりして、思わず<サニー・ピクシー>が抱えているライターを差し出した。安っぽい百円ライターだ。あまり大事にされているふうでもない。
不思議に思っていると、やっぱり、おじさんはまだ眠っているようだった。寝言だ。ほっとする。
雨で湿った木に火を移すのはすごく骨が折れたが、ようやく灯ると、辺りはほのかに暖かくなった。
人の気配を感じたせいだと思う。おじさんが目を開けた。
眠そうに瞼をしょぼしょぼしていたと思ったら、勢い良く後ろへ飛び退いた。龍可は傍に集まっている精霊達へそっと視線をやった。無理もないと思う。普通の人はびっくりするし、怖がってしまうこともある。
おじさんは龍可に背中を向けて、焚火へ目をやった。火が小さくなっている。湿った木を焚き付けにしていたから、しょうがないのかもしれない。
するとおじさんは溜息をついて、信じられないことを始めた。黒いリュックに詰め込んでいた、盗んだ札束を、手のひらに一掴み取って火にくべた。乾いた紙は良く燃えるから、焚火が息を吹き返す。
「貧乏な頃は、これが夢だったんだ。果てしなく下らなくてどうでもいいことに金を使ってみたかったのさ」
「……おじさん、精霊を見ても驚かないのね」
「何十年も生きてると、もっとびっくりするものを見てきた。お嬢ちゃんは俺を怖がらないのか」
「おじさんよりもっと怖い人を見てきたから」
龍可は少しずつ気分が静まってくるのを感じていた。おじさんは悪い人には違いないが、今は龍可を傷付けるつもりはないと分かる。落ち付いて顔を見ると、思ったよりも普通のおじさんだった。だらしない恰好をしていて、伸びっぱなしの髪の毛には白髪が混じっている。
「おじさんもこの子に助けてもらったの?」
怪物を見上げると、分かっているのかいないのか、上機嫌で「ガッチャ!」と鳴いた。
おじさんは急に驚いたような顔になって、怪物の肩を乱暴に掴んだ。
「あ、あう」
「お前……どうしてお前が!」
怪物は困ったような仕草で、「あう〜?」と首を傾げた。
どうしてなのかは分からないけれど、おじさんは心がどこかに飛んで行ってしまったような顔になった。目の焦点がぼやけている。
「……わから、ないのか。何も」
龍可は「そうよ」と頷いた。
「この子、何も分からないの。赤ちゃんと同じ。だから乱暴はやめて、おじさん」
「あ、ああ。いや……」
おじさんは唇を噛み締めて、龍可にまた背中を向けて頭を抱えた。何が何だか分からない。
しばらく経って、おじさんはうめき声を上げ始める。
それが嗚咽だと気付くのに大分掛かった。
「―― うっ、う、ううう……うううう……!」
哀しいと言うよりも、悔しくてたまらないという感じの泣き方だった。
「あ、あの……」
こんなに歳を取った大人の男の人が泣いているところを、龍可は初めて見た。どうして泣いているのかも分からず、声を掛けてもいいものかと悩んでいると、ふと枯れ葉に埋れるようにして、真新しいネクタイピンが落ちていることに気が付いた。
金色の鍍金製で、あまり趣味は良くない。裏に名前が彫ってある。
「<コースケ・K>……?」
「……! 返せっ!」
目を腫らしたおじさんが振り向いて、龍可からピンを取り上げた。
「それ、おじさんの名前?」
おじさんは答えない。その通りなんだろう。
コースケという名前のおじさんは、汚れたシャツで目を擦って、足音を立てずに狭い横穴の出口に張り付いた。何か異変を感じたようだ。外の様子を覗っている。
耳を澄ますと、遠くから呼び声が聞こえてきた。
「おーい、龍可ちゃーん……」
「龍可……龍可ーっ……」
耳に馴染んだ声も聞こえる。牛尾と龍亞のものだ。間違いない。沢山の人の気配も一緒だ。
龍可は心の底から安心した。その隣でコースケが舌打ちをする。
「追ってきやがったか……くそっ、お前も来い!」
「あぁっ!?」
コースケが、焚火の前で気持ち良さそうにうとうとしていた怪物の腕を強引に掴んで引っ張った。
「ああっ、ああー!」
怪物は龍可の方へ腕を伸ばして、絶対に離れない、というふうに首を振った。玩具屋さんの前で足を踏ん張る子供みたいだ。綺麗な顔をした大人っぽい人がそういう仕草をするのは、本当に変な感じだった。でも、コースケは容赦がなかった。
「うるせぇ! 自分のナリをよく見てみろ。お前だって俺と同じだ」
「あ……あー」
「まともじゃない。諦めろ」
コースケが吐き棄てた。リュックを肩に掛け、怪物を引き摺るようにして横穴を飛び出して、森の奥へと駆けていく。
「ま、待って! その子を離して!」
焚火の上に砂を掛けて消してから、龍可も後を追う。横穴を出たところで今日三度目の銃声が聞こえた。
コースケが誰かを撃ったのか。怪物は無事だろうか。ああ、やっぱり私はおじさん不信になりそうだと龍可は考えた。
日は落ちて、森の中は白い霧に包まれている。雨は止んだばかりだ。雨の森のいい匂いの中に、ほのかに火薬の臭いが混じっている。
追い掛けた先で、コースケが倒れていた。ぼろぼろのジーンズが黒っぽく染まっている。足を撃たれたようだ。
「あ、あー……あ〜……」
怪物が困りきった様子で眉を下げて取り縋っている。
「シッ!」
コースケが、歯の間から犬を追い払うような音を立てた。
「とっとと、どっか消えちまえ!」
怪物に向かって腕を払う。コースケはまだ泣き足りないように口の端を下へ曲げていた。
「せっかくなんだ。お前もう、このまま逃げちまっていい。いいんだ」
「あ〜」
分かっているのかいないのか、怪物は何度も首を振っている。
「う、動くな!」
リロードがされる。コースケと怪物の三メートル程後ろに、支給品の拳銃を両手で構えた男の人が立っている。セキュリティの制服姿だ。本物の捜査官なのかどうかは、龍可には判断がつかなかった。
今度は本物だろうか? また偽物なのだろうか?
「あぁー」
怪物がぐるりと首を巡らせた。互い違い色の瞳は、脅える気配もない。無邪気に見開かれている。制服を着た男の人が、喉の奥から短い悲鳴を零した。
「動くなって言ってるだろ、化物野郎!」
引鉄が引かれた。一発目は、コースケの頭上の木の幹にめり込む。怪物はびっくりしたようで、猫みたいに白髪を逆立てた。二発目、怪物のおおよそ一メートル右の草むらを抉る。怪物の瞳孔が引き締まって、目に涙が滲む。大きな音を立てる銃が怖かったのだろう。
「おいやめろ!」
コースケが叫んだ。霧の向こうからも制止の声が飛んでくる。
「やめろ馬鹿野郎! 殺されるぞ! 撃つな!」
三発目が発射された。どうしてこうも簡単に、誰かを的にして鉄砲を撃つことができる人間が存在するのか。龍可には信じられない。銀製の弾丸は高速で回転をしながら、脅えている怪物の額に正確に打ち込まれた。
「きゃああっ!」
龍可は悲鳴を上げて、両手で目を覆った。重い袋が倒れるような音がした。
恐る恐る指の間から覗くと、目を擦ってしゃくりあげている怪物の姿が映った。生きている。安心するが、今度は別の所から悲鳴が上がった。
「うわぁ!」
振り向くと、今怪物を撃った男の人が地面に仰向けに倒れている。ヘルメットに傷はないのに、内側から真っ赤に染まっていた。ぴくりとも動かなくなっている。
木立の間から、またセキュリティの制服を着た男の人が現れた。私物だと思える安全靴で枯草を踏み締めている。ヘルメットの下に特徴的な顎鬚が見えた。昼間にコースケと龍可が乗った車を撃った人だと直感する。
コースケは相手が『セキュリティじゃない』と言った。どういうことだろう。セキュリティに擬装して得をすることがあるとは思えない。それだけで詐称罪で捕まってしまう。
彼らはいつのまにか円を描くように、龍可とコースケと怪物を取り囲んでいる。
「馬鹿が。人の忠告を聞かないからこうなる」
龍可はそれが現実だと信じることができなかった。
人の忠告を聞かないからこうなる。撃つな。殺されるぞ―― 。
「嘘……死んじゃったの……?」
口を押さえて尻餅をついた。吐き気が込み上げてくる。怪物へ目をやると、相変わらず分かっているのか分かっていないのか判別できない顔でいた。
現れた男の人は、ポケットから煙草を一本取り出して口に含んだ。火を近付けて、それが雨でしけってしまって使いものにならないと悟ると、忌々しいというふうに地面に叩き付けて踏み躙った。
「よう、化物。迷子の迷子の仔猫ちゃんを、お巡りさんがお家に連れ戻しに来てやったぜ」
そう言って軽く手を上げた。それを聞いて、コースケの表情が険しくなる。
「こいつは、お前たちが作ったのか」
「なんだって?」
「これが、<世界の終わり>かって、聞いてんだ」
「ああ、その通りさ。お偉いさんの最高傑作だ。後にも先にも、もうこれ以上のものは造れないってよ。時価でも教えてやろうか? すげぇんだよ。俺達が見たこともない程の量の札束に替わるんだ、こいつは」
コースケが、撃たれた足を腕で引寄せる。怪物の肩を掴んで、ふらつきながら立ち上がった。
「おい……おい、化物」
「あー?」
「これでも腕には自信がある。俺が足止めをする。お前は逃げろ」
コースケが大真面目にそう言うと、相手は心の底からおかしそうに笑った。すごく嫌な笑い方だ。
制服姿の輪の中から、戸惑ったような声が漏れた。
「な、なんだよ。隊長、こいつ、ただの賞金首だって、話に聞いていたのと違うじゃないですか――」
「う、うわぁあああっ!!」
錯乱した制服の一人が怪物へ拳銃を向けた。<隊長>と呼ばれたさっきのおじさんが、「ばーか」と呟いた。
怪物の瞳が燃え上がる。龍可は禍々しい悪意を敏感に感じ取って、怪物の腕に飛び付いて叫んだ。
「―― やめてっ! 殺しちゃダメ!!」
怪物が息を呑む。いきなり、龍可を胸の中へ抱き込んだ。
銃声が聞こえて、龍可の頭の横で血が吹き出した。鉄の匂いがする。
精霊は撃たれて血を流さないんだと龍可は思っていた。血を流すのは人間だ。人間の世界の生物だ。
「あなた……!!」
怪物は痛みを感じた様子もなく、被弾した肩から血を流しながら微笑んでいた。
「あ……っあー。あぁあ……あー?」
首を傾げている。まるで龍可の言い付けを守ることができて、『偉い?』と尋ねているようだった。無邪気な仕草だ。訳の分からない感情で、胸がいっぱいになった。
この子には何の悪意もない。ただ分からないだけだ。知らないだけだ。
「この、化物ぉっ!!」
辺りを囲んでいた制服が、その怪物が絶対的な存在ではないことを悟って、恐慌に陥ったまま襲い掛かってきた。拳銃のグリップが、警棒が、裸の拳が、あきらかな殺意を伴って怪物に振り下ろされていく。
「やめろ!」
コースケが鋭く叫んだ。腕を伸ばした。やっぱりこの強盗のおじさんの方が、ぎらついた眼差しをした制服の男の人達よりはまともに見えた。
それでもコースケにも、撃たれて動かない脚ではどうすることもできないようだった。警棒で薙ぎ払われて、手のひらから零れた拳銃を、<隊長>がつまらなさそうに踏み付ける。
怪物はもう<仕返し>をしなかった。龍可を抱いて守りながら、すべてを受け入れたように、されるがままになっている。
『殺しちゃダメ』と龍可は怪物に命じた。怪物は人知を超えた力を持っていて、手で触れずに人を殺すことができた。それがどうしてか、龍可の言い付けをかたくなに守ってくれる。
怪物はたとえ自分が殺されても龍可の言う通りにするだろう。絶対に人を殺さないだろう。何故怪物が龍可の願いを叶えてくれるのかは分からないが、間違いなくそうするだろう。
怪物は殺さない。殺さないから、殺される。龍可の言葉は、この暴徒と化した男の人たちの命を助けて、龍可を慕ってくれる怪物を殺すという意味を持っていた。それが<選択>だ。分岐点はどんな些細な場所にも存在していて、誰かの命を左右することになる。
そんな選択は自分にはできないと龍可は思った。それでも、知らずに選んでしまっていたのだった。
「や、やめてっ……やめてぇっ! この子を傷付けないで!!」
怪物はまだにこにこと微笑んでいた。
この怪物は、無邪気で何も知らない赤ん坊だ。まっさらなのに理由も分からず殺されようとしている。
「この子は、何もわからないのに!!」
そんな救いのないことを、あの龍可のヒーローなら絶対に―― 絶対に許すはずがない。
「助けて、龍亞あぁー!!」
龍可は兄を、普段はお調子者のくせに、いざとなると誰よりも格好良い、龍可だけのヒーローを呼んだ。
ピンチの時はいつでも助けてくれる。信じている。龍亞は悪い人を絶対に許さない。
夜の闇の中からデュエル・ボードが飛び出してきて、銀色のボードの腹が、水面を跳ねる魚みたいに煌いた。
「……龍可ーッ!!」
―― やっぱり龍亞は、また来てくれた。
周りを取り囲んでいた制服姿の一人の顔面に着地する。輪が崩れる。
「お前ら、オレの妹に何してんだ!」
龍亞が怒鳴った。ふと倒れている男に目をやって、怪訝に眉を顰める。<隊長>が口を開いた。
「死んでるよ、そいつ」
意地の悪そうな口調だ。龍亞が目を剥く。
「し、死んでるって」
「そこの化物が殺したのさ。なぁ」
龍亞は怪物の方へ向いて、悪の手先を睨み付けるような目をした。
「龍可から離れろ、化物! お前はオレが倒す!」
「ち、違うの龍亞! この子は……!」
この子は確かに人を殺したけれど、悪い子じゃない。そう説明をして、はたして龍亞が納得するだろうか。
心配になって怪物を見上げると、傷だらけの翼を震わせている。宝石のような瞳から大粒の涙を零し始める。大人びた顔を歪めて、上を向いて大声を上げて泣き出した。
「……っぐ、ひ、うぐっ……うっ、っうぁ、ああ、あああ〜ん!!」
龍亞に化物と呼ばれたことが哀しくて仕方がないという感じだった。誰にひどい事をされても笑っていたのに、一体急にどうしたんだろう?
「ず、ずるいよ。そこで泣いたらオレが悪者みたいじゃんか!」
龍亞は納得できないという顔だ。<隊長>が、腕を組んで楽しそうに口の端を歪めていた。
「いいぞ、ガキ共。もっと罵ってやれ。そいつはそれが嬉しくて仕方ないってよ」
また気に触る笑い方をした。
「いじめられて嬉しいやつなんているもんか!」
龍亞が叫んだ。少しだけ実感が篭っていた。<隊長>が泣いている怪物を指差して、「そいつは悪魔族だ」と言う。
「絶望するごとに心の闇が増幅される悪魔族だ。闇に比重が傾く程に力が強くなる。それをこの化物は、お前達みたいな子供を守るために力を使おうとした。イイコトでもすれば、皆に好かれて優しくしてもらえるとでも考えたのかねぇ。醜いトカゲの癖に、おこがましい奴だ」
怪物はまだしゃくりあげている。哀しそうに龍亞と龍可を見ていた。
この怪物は優しくすれば龍可に好きになってもらえると考えたのだろうか。誰かに優しくしてもらいたかったのだろうか。赤ん坊のようでいて、守ってくれる親もいないこの怪物が、どこか自分と重なって見えた。
<隊長>が肩を竦めた。「救いようがない」とぼやく。
「ま、所詮はケダモノの浅知恵さ。化物は化物だ。闇に染まって人類を憎んだ方が、それこそ皆のためになる滑稽な生物さ。おいもっと罵れ。それが一番の絶望になる。そいつが<成長>すれば、更に金になるんだよ」
龍可はもう確信していた。龍亞も同じ気持ちでいるはずだ。
「……泣いてる。可哀想だよ。助けてあげなきゃ」
龍亞がはっきりした口調で言う。龍可の思った通りだ。やっぱり双子で、龍亞と龍可は一心同体だった。
「はぁ? 助けるぅ?」
<隊長>は、心の底から龍亞と龍可を馬鹿にした顔をした。ただ、龍可と龍亞に頷いてくれる大人が、この場にたったひとりだけいた。
「そうだ。泣いてる奴は助けてやらなきゃならない」
コースケだ。強盗のおじさんだ。
「それが、正義の味方ってもんだ!」
<悪い人>のはずの彼がそう断じた。胸にペンダントのように吊られているカードを、まだぐずっている怪物の額に、お札のように貼り付ける。
「現実世界に実体化しろ! フィールド魔法、<スカイスクレイパー>!!」
怪物の両目が星のように輝いた。カードが金色に輝き、突如として地中から高層ビルの群れが出現する。本物のコンクリートでできた、本物の摩天楼だ。<隊長>が忌々しいふうに叫んだ。
「生意気な真似しやがって。絶対に見失うんじゃねぇぞ! 奴にどれだけの価値があると思ってる!」
乱立する建造物の真上には、雨雲を吹き飛ばして、いつのまにか大きな月が現れていた。
「大丈夫。あなたは私が守ってあげる」
龍可は、何が正しいのか、何が悪い事なのか、まだ何もわかっていない、純粋過ぎる怪物の手を握った。
「親に愛されたことのない子供の気持ち、寂しさ、私よく知ってるの。だから――」
鱗に覆われた手はごつごつとして硬いが、龍可と同じ心臓の鼓動が聞こえた。生きている。傷だらけだが、「ガッチャ!」と笑った。この、誰よりも醜い姿と、誰よりもまっさらな心を持った怪物の頬を両手でそっと包んでやる。
「私があなたのママになってあげる」
龍可は怪物に約束をした。
それはいくつも破けた跡があって、薄汚れたカードだった。でもテープで丁寧に貼り合わされているその魔法カードは、とても大切にされているのが分かる。コースケの宝物なのだろう。
「へえ〜っ、<スカイスクレイパー>! かぁっこいい〜! おじさんもヒーローが好きなの!?」
龍亞は相手が銀行強盗でも、ヒーロー使いだと知った途端にあっさりと心を許してしまったようだった。調子がいいとは思ったが、この純真で単純な性格が、龍亞のいい所でもあるのは確かだった。
「……まぁな。俺の、たった一人の友達との絆でね。おそらく一方的なものだが……。馬鹿みたいだろ」
コースケは皮肉そうに言って、力なく笑った。龍亞が「そんなことないよ!」と力強く言いきる。
そんな龍亞を、コースケはとても懐かしいものへ向けるような目で見ていた。
心配をしてくれているだろう牛尾には、早く無事を知らせたいが、このコースケは銀行強盗だ。それでも、あの<隊長>よりは随分ましな人間に見えた。
「コースケさん、これからどうするの?」
「しばらく姿を隠すさ。昔からそういうのは得意なんだ」
「お金は? 盗んだまま? 正義の味方は銀行強盗なんてしないと思うけど」
「どうしても欲しいものがあってね」
少し責めるような口調になってしまうのは、ヒーローに憧れる龍亞の前で、自称元ヒーロー志望者の人間が格好悪い所を見せて欲しくないからだった。
「お金が必要なら、私が貸してあげようか?」
「いや、そんな綺麗な金じゃ買えないものだ」
コースケは頭を振って、「俺はろくでもない男だ」と言った。
「自分で分かってるだけましだと思うけど」
「フン、口の達者なお嬢ちゃんだ。……さてお別れだ。おい、挨拶をしろ」
コースケが怪物の首の後ろを引っ張った。怪物は頭を振って、龍可から離れようとしない。
「お前が本物のセキュリティと鉢合せしたらどうなる。このお嬢ちゃんお坊ちゃんは一躍時の人だ。意味は分かるな? あんまり世話を掛けるんじゃねぇよ」
怪物は、かたくなにわかっていないという顔でいる。これは、わからないふりだ。
シティへ戻すのは危険だとコースケは言う。この怪物は誰かに追われていて、身を隠す必要があるのは分かっている。それでも龍可はこの怪物と約束をした。
「またすぐに会える。大丈夫」
「あー……」
怪物はまたぐずりだしている。大人びた顔つきなのにひどい泣虫だった。
* * * * *
男は、大切にしているロケット・ペンダントへ<スカイスクレイパー>のカードを大事に仕舞い込んだ。蓋を開ける。中には友達の写真が入っている。
友達だと思っているのは、男の勝手な思い込みなのかもしれなかった。ただ、男は確実にその友達に運命を変えられた。まだ十代の学生に考え方も姿勢も叩き直された。友達は、空にいつも輝いている太陽のような人間だった。
ロケットの中には古ぼけた写真が飾られている。一目で双子と知れる程に良く似た少年と少女が真ん中に立って、余所行きの服でこちらを見つめてきている。緊張している様子はない。今しがた見送ったばかりの双子が、写真の中から同じ笑顔を見せていた。
「……なんて運命だ」
ぼやく。双子の子供達を囲んで、二人の大人が並んでいた。
異形の特徴は無いものの、そして髪と瞳の色こそ違うが、子供達と引き離されてまたしゃくりあげている怪物の姿も、写真には収められている。
これはかつて男がジャーナリストをやっていた頃に撮影してやった写真だった。
―― なぁ、オッサン。
―― オッサン言うなっ! 俺は国崎……い、いけねっ、本名言っちまったっ……!
―― うん、国崎さん。
少年は無邪気に笑う。のびやかに腕を伸ばす。赤い制服が翻る。睨み付けても、怖い目に遭ったこともない純粋な子供には、怖いものなんて何もないのだろう。仔犬と同じだ。
―― 国崎さんもヒーロー好きなの? オレも。正義の味方になりたいんだ。
世界に、自分に、正義など今更どこにあるのか。
そんなものが存在しないと証明してくれたのは、他ならない、この可哀想な正義の味方ではなかったか。
男は―― かつて正義の味方を志し、しかし叶わなかった国崎康介は、札束を眺めて皮肉にそう考えた。
「フリーの正義の味方の辛さってやつかねぇ」
何もかもが皮肉だ。悪者を追う金欲しさに強盗をする正義の味方なんて、あまりにも矛盾がひどすぎる。自分でも頭がいかれているとしか思えない。
ジャーナリストをくびになったきっかけを思い出した。
この怪物の赤ん坊のような性質。同じ症状を何度も見たことがある。ある違法薬物の中毒者の末路は、まさにこんな感じだった。金さえあれば買えない情報はない。
―― ヒーローは、どんな逆境にあっても、必ず勝つ。強きをくじき、弱きを助けるんだ。
国崎の思い出の中の少年ならそう言うだろう。おまけに力こぶでも作ったかもしれない。
「その通りだ」
怪物に変わり果ててしまった友人に頷いてみせた。
「見てろよ。この俺の正義の追及ってやつをよ……お、おい?」
振り返るとあの怪物の姿が消えていた。慌てて辺りを探すが、返事はない。
「おい! どこいった!」
* * * * *
怪物がとぼとぼと歩いているのは、森が切り開かれ、別荘が建ち並ぶ保養地だった。
「あー。あ〜? るあー? るかー?」
誰かを探している様子で、忙しなく左右に首を巡らせている。
「なにあれ」
「コスプレイヤーかよ。ルール守れよな……」
すれ違うのは身なりの良い人間ばかりだ。避暑のために家族でやってきて、十月の新年度を迎える前にシティへ戻るのが、彼らの毎年のサイクルになっているのだろう。
「コウモリ博士だ!」
「投石用意っ!」
小等部生と思える歳頃の子供が、蝙蝠のような恰好をした怪物に石をぶつけた。
「あ、あう」
怪物は慌てて逃げ出した。子供は面白がってしばらく追い掛けてきたが、森へ入るとそれ以上踏み込んではこなかった。
川のほとりを歩いていると、水溜まりには怪物の醜い姿が映る。傷だらけで薄汚れていた。森に棲む動物や精霊は、この禍々しい闇の気配を恐れて、姿を現すものはなかった。
今は誰も怪物を愛してくれる者はいない。孤独だ。
「よはん……よはん……うぐ……うっ、うっ……ぶえっ、うぐっ……」
怪物はしゃくりあげながら、懐かしい気配のする方角へ向かった。
* * * * *
扉の横に嵌め込まれたプレートにはこう記されている。<NEX-KCデビルバスター開発室>。
今日も公式サイトのブログ更新に勤しんでいた<ドクターD>は、掛かってきた外線電話に愛想良く応じた。
「―― はい! <NEX-KCデビルバスター開発室>です! あ、ソラマメさんじゃないですか。え、逃がしちゃったんですか? 荒っぽい真似までしたのに? あはは、ダメな人だなぁエンドウさんは! 小賢しいくせに無能なんて救いようがない。アレにどれだけ部の予算が掛かってると思ってるんです? 生死は問いませんから、さっさと回収して下さいエダマメさん。それじゃ!」
受話器を置く。室内には喜劇<コウモリ>の序曲が控えめに鳴っていた。<デビルバスター>のデバッグ作業を行っていた少年が、何とはなしに呟く。
「蝙蝠の仮装のまま森で酔いつぶれた酔っ払いが、朝になって家に帰ろうとしたら近所の子供に見つかって、石を投げられて<コウモリ博士>って変なあだ名を付けられる話ですよね、たしか」
「それは動機の部分です。<コウモリ博士>の復讐のほうですよ、本編は」
少年のベルトのストラップには、イルカのヒレの形に磨かれた黒い骨のようなものが連なっている。<ドルフィーナのヒレ>と<ドクターD>は呼んでいる。手先が器用な彼本人が削り出して身に付けているのは、<モーグの爪>という名前だった。
少年は昼過ぎのアカデミアでの出来事を思い出して、エメラルド色の髪を撫でてみた。
「さっきパパって呼ばれちゃいました。そんなに似てるかな……」
「ええ、そっくりですよ。可哀想に」
<ドクターD>の口振りは、本気で同情していた。しかし、少年は少し嬉しいような気持ちになった。
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