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その人は、胎児のような恰好で眠っている。橙色の光に包まれて、銀色の調整装置の中で浮いていた。
折り畳まれ、拘束具で纏められている翼は蝙蝠のようだ。四肢は蜥蜴。甲虫のような角。数多くのぎょろ目。すべてが生来のものでなく、どこかちぐはぐで、合成生物の趣があった。
「異能者というものは、行き着く所まで行ってしまうと、こうなってしまうんですかねぇ」
部下が感心したように言った。レポートを記入する手は止めない。
「どうも他人事じゃないですね。博士」
笑い掛けられる。返事はしなかった。
その人の、下を向いた白髪頭には、黒地に赤いライン入りのヘッドホンが嵌まっている。何十年も前の音楽がリピートされる。激しい音の嵐の中で、その人が僅かに目を開いた。
視線が交わる。虹彩異色症の双眸が眇められた。微笑んだのだと気付くと、全身を氷水に浸けられたような気分になった。
どうしてまだ笑い掛けてくれるんだろう。まるで理解が追い付かない。
「この音量を流し続けていたら、いまに鼓膜が破れてしまいますよ」
「いいんだ。これで救いを求める声は届かない」
助けを必要とする人間を見付ければ、その人は手を差し伸べるだろう。助けようとしてしまうだろう。身体を削ってもそうするだろう。
どんな姿に堕ちても、永遠のヒーローだ。この人は。
「聞こえなければ、これ以上奪われることはない」
その人は、身体を丸めたまま両腕を伸ばした。幼子が親に抱擁を求めるようだ。
それこそが、その人が求めたものなのかもしれないと、今になって思う。
鱗に覆われた手のひらは、透明な障壁に阻まれて届かない。残念そうな顔になり、薄青色の口紅が引かれた唇を障壁に押し付ける。その唇を、見えない境目越しになぞった。こちらも口を寄せる。触れ合うことのないキスをする。かぼそい身体を抱き締めることはできない。
「愛してる」
いつものように虚しく繰り返した。
その人は怪物の姿で、恋を覚えたばかりの少女のように、はにかんで微笑んでいる。
数時間後、その怪物は研究所を連れ出されることになる。
* * * * *
「―― で、あるからして、フィールド魔法とは……今日はこの<森>のカードを例に、授業を進めていきますね」
「はーい!」
新しい教室には、まだ少し緊張に強張った空気が残ってはいた。それでも顔ぶれがいつもと変わらないこともあって、皆が馴染むのも早いように思う。
高等部へ上がって初めての授業だというのに、隣の席から天兵が手のひらを口に当てて龍亞に囁いている。
「昨日の晩、竜を見たんだ。本当さ。ボブも一緒だった」
「ああ、まあな……でもあれ、ただのコスプレした普通の人だろ。実体化したソリッド・ビジョンにしては動きが素人臭かった。アルバイトのイベントスタッフが、イベントに向けてこっそり練習してたんだよ。きっと」
「いや本物だってば。今も街のどこかにいるに違いないんだ。今日の放課後、龍亞も来るよな? 悪い竜をやっつけて勇者になるんだろ」
「なんか、気乗りがしないというか」
「龍亞ってさ、一度大きな魚を逃しちゃうと急にやる気を無くしちゃうタイプだよな。確かにあのプレミアム・ミッションは勿体無かったけど、しょうがなかったんだ。あれは」
「やめとけ天兵。龍亞なんか誘ったって足手纏いになるだけだ」
ボブが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。龍亞は頬杖をついて半目になる。
「いーよ。オレ、行かない。帰る」
拗ねてしまった。
またゲームの話らしい。男子には新学部へ上がった緊張よりも、今夢中になっている遊びの方が優先されるようだ。龍可は特に興味も持てないので、男の子達の話を聞き流していた。教壇に立って魔法カードの講義をしていたマリア先生が、目ざとく私語をする生徒を見付けて注意した。
「龍亞くん! お友達と話をしたいのは分かるけど、休み時間まで我慢してね」
「はぁ〜!? なんでオレだけ!」
「日頃の行いが悪いんだよ、龍亞は」
ボブが意地の悪い笑い方をした。天兵は知らないふりをしている。龍亞はいつもながら要領が悪い。
確かに、高等部に上がっても、何が変わるというわけでもない。いつも通りだ。結局本校への留学の話に返事はしないままだった。やっぱり龍可には、龍亞を離れて知らない場所で一年間を過ごすなんて考えられなかった。
妹思いの龍亞は、龍可の安定剤のようなものだった。龍亞がいれば他に誰がいなくても我慢できる。両親がいなくても寂しくはない。反対に、沢山の仲間がいても、龍亞がいなければ龍可は駄目だった。
ぼんやりと考え事をしながら窓の外を眺めていたら、変なものが見えた。校舎の周りには木が植わり、芝生が敷き詰められている。授業中だから、外に人の姿は見えない。その代わりに、蝙蝠のような翼を背中に生やした奇妙な生き物が、当たり前のような顔をして横切っていった。探し物をしている様子で、首を左右に巡らせている。
龍可は、咄嗟に手を上げていた。
「マリア先生! 私、具合が悪いので医務室へ行ってきます!」
マリアは困惑顔になった。
「え、ええ。そう。元気そうに見えるけど、真面目な龍可ちゃんだものね。いいわ。龍亞くん、付き添ってあげて」
「う、うん」
龍亞も戸惑いながら頷く。教室を出た途端、龍可は駆け出した。龍亞も、訳が分からないという顔をしてついてくる。
「ど、どうしたんだよ龍可?」
「あの子」
「え?」
「コースケさんの所で匿われてる精霊。来てるの、今、ここに」
「えええ?」
龍亞が目を剥いた。玄関から飛び出すと、見覚えのある白髪頭が渡り廊下へ歩いていく所だった。
「あなた!」
龍可が呼ぶと、その怪物は大きく肩を跳ねさせた。振り向く。龍可と龍亞の姿を見付けると、みるみる瞳を潤ませて飛び付いてきた。
「あー!」
相変わらず口が利けないようで、赤ん坊のような、意味を成さない声を上げている。龍可は眉を下げて、溜息をつくしかなかった。
「もう」
「みんなが見た素人臭い竜って、お前だったのかー」
龍亞が腕組みをして、納得顔で頷いている。
校舎の前は人目に付きやすいから、怪物の腕を引っ張って、昼間は人気のない部室棟へ連れていく。
「ダメよ、ここへ来たら。みんなに見つかったら大騒ぎになっちゃう」
「あ〜?」
「今はダメ。帰りなさい。この世界では身体を持った精霊と人間は、一緒にいられないんだから」
相手に聞き取りやすいように、ゆっくりと言い聞かせた。わざと冷たい仕草で背中を向けると、置いて行かれると思ったらしい怪物は、また泣き出しそうな顔をしている。
「ほんとにしょうがない子なんだから……」
そう言い掛けて、龍可は驚いて口を押さえた。怪物は懸命な表情をして、手を開いたり閉じたりしている。まず、鱗が光の粒になって剥がれ落ちた。翼が縮んで見えなくなる。額のぎょろ眼が閉じると、頬のマーカーのような刺青と一緒に消えた。ほんの一時で醜い怪物は、鋭い爪も尖った牙もない、無害でいて、とても綺麗な人間へ変化してしまった。
「あ、あー。あ〜?」
その人が情けなく眉を顰めて、『これでもまだダメかな?』という顔をした。
「ダメじゃないけど……」
龍可は混乱していたが、言葉を選んで指摘する。
「でもこれはこれで、街の中を歩けないよね」
その人が身につけているのは、水着のような、伸縮性のある薄い布地だけだ。
「確かに。レースクィーンのお姉さんよりすごいことになってるよ」
龍亞も呆れた顔で頷いた。
部室棟に来たのは幸いだった。部のロッカーの中から男子制服を拝借して着せてやると、その人はもう、どこからどう見ても怪物には見えなくなっていた。完全に人間そのものだ。
竜を探しているという龍可達のクラスメイトに出会っても、アカデミア高等部の先輩だと説明をすれば、誰も疑わないだろう。
「うん、かっこいいかっこいい」
龍可が誉めてあげると、その人は素直に喜んで抱き付いてきた。猫のように喉でも鳴らしそうな感じだ。
「……着せるのは、女子の制服のほうがいいんじゃない?」
龍亞は荷物棚に頬杖をついて、面白くなさそうな顔でいる。龍亞は龍可が格好良い男の人と話をしていると、いつもそういう顔になる。嫉妬深いヒーローなんて聞いたこともないが、本人に言うとまた拗ねてしまうだろう。言わない。
「確かに、赤のほうが似合うかも。でもこれはこれでいいと思う」
「あー!」
「この精霊? えーと、龍可を追い掛けてきちゃったのかな」
身を隠すと言っていたコースケが連れて行ったはずだが、先程見掛けた時の誰かを探しているような姿から見ても、きっと龍可達を追い掛けて来たのだろうと考える。
「そうみたい」
「やっぱり。お前、どうして龍可にばっか懐くんだよ」
龍亞も興味を抱いたようで、その人を見上げた。
その人は首を傾げて、今度は龍亞に抱き付いた。『あなたのことも大好きですよ』という表現なのかもしれないが、龍亞の質問の意図とは大分ずれている。
「いや、別に羨ましいとかそんなんじゃないけど。龍可? とりあえず家に連れて帰ろうよ。パパとママはどうせまた帰ってこないよ。メールでもまたしばらく戻れないって言ってたし」
「龍亞は」
「ん?」
龍可は少し考え込んでから、口を開いた。
「龍亞は、ママが帰ってくると思う?」
「なに言ってんだ? 龍可。帰ってくるよ、ママの家でもあるんだし。ま、今までいなくて困ったことはないけどね」
「……でもね、ママ、どんな顔をしてたっけ。龍亞は覚えてる?」
「いないものは思い出せないよ」
「変よね。覚えてないのに、当たり前で、そのことが変だとも思えない」
「だから、いないんだからしょうがないって。龍可にはオレがいるじゃないか!」
「……うん、そうよね。ごめん」
龍可は無理に笑った。変な話をして龍亞に心配をさせてしまったようで、気分が重くなった。
龍亞は気にした様子もなく、その人を物珍しそうにあちこちから眺めて、「変身できるなんてかっこいい!」と叫んでいる。
「ね、こいつ、飼おうよ!」
また突拍子もないことを言い出した。
「飼うって、精霊を?」
「だって行くとこないんでしょ? ここへ来たってことは、コースケさんの所より、オレ達と一緒にいたいんだよ」
「それはいいけど、飼うって、犬や猫じゃないんだから」
「ねぇ、お前が来たら家が賑やかになるよ。そうと決まれば名前付けてやんなきゃ!」
龍亞が興奮した様子で拳を振り翳した。その人も真似をして、握り拳を突き上げる。
「ガッチャ!」
「ガッチャ?」
「鳴き声、なんでしょ。たぶん」
龍亞は良いことを聞いたというふうに、その人の両肩を叩いた。
「よし、今日からお前は<ガッチャ>だ!」
「はあ。でも、ま、怪物なんて名前よりは、随分カッコいいんじゃない?」
得意そうな龍亞とその人を見比べて、龍可は肩を竦めてみせた。見た目よりもずっと子供みたいな二人を見ていると、自然に唇が緩む。三人で暮らすのは、悪くないかもしれない。
その人が、右手の人差し指と中指を揃えて突き付けるという奇妙な仕草を見せて、また「ガッチャ!」と鳴く。喜んでいるみたいだ。
「うん、ガッチャ」
龍可も笑って頷いてやった。手を差し伸べる。
「帰りましょ。その姿なら、きっと一緒に暮らせるから」
まるで人間そのものの細くて長い指を掴むと、龍可の視界が歪んだ。世界が切り換わる。
時間が停まったようになる。停止した空間の中で、断片的な映像がいくつも繋がって、それだけが動いていた。スロー再生をしているような、間延びした音が聞こえる。
『助けて』
『助けてくれぇ……!』
『助けて……』
『助けて下さいっ』
『助けて! 助けて!!』
無数の声が目一杯喚き散らしている。うるさくて頭が割れてしまいそうだ。龍可は両耳を塞いで蹲った。
「龍可? どうした、龍可」
龍亞の声が聞こえた。そこで、いつもの視界に切り換わる。
「……なに、今の」
龍可はまだ呆然としていた。
無数の助けを呼ぶ声が聞こえた。龍可は生まれつき特別な体質だ。時折不思議な存在や強い思念と精神感応をしてしまうことは、子供の頃から良くあった。
だけど今の声と映像は、これまで感じたことのないものだ。誰かの語り掛ける声じゃない。伝えたい言葉もない。聞こえてくるのは悲鳴ばかりで、地獄のようだった。
「また具合悪くなっちゃったのか」
龍亞は心配そうにしている。どう説明をしていいのか分からずに困っていると、部室のドアが乱暴に開く音がした。革靴の底が廊下を叩く音も続く。足音が遠ざかっていく。
ガッチャが、誰かに呼ばれたように、急に駆け出していったのだ。
「……ガッチャ?」
「どうしたの、急に」
龍可と龍亞も慌てて追い駆けていく。
* * * * *
「危ない! 離れなさい!」
パトカーを背に、セキュリティ機動隊の隊員が拡声器越しに叫んだ。警告にも関わらず、デュエル・アカデミアの男子制服を着たその人は無頓着に歩いていく。向かう先には、動物園から逃げ出し、この児童公園に逃げ込んだ体長三メートルにも及ぶクロサイが、興奮した面持ちをして、前肢で地面を引っ掻いている。
「ワシントン! 戻れ!」
クロサイの飼育員の男が、餌の入ったバケツを掲げて叫んでいた。クロサイの名前は<ワシントン>と言うらしいが、敬愛すべき飼育員にも餌にも見向きもしない。
「あー」
その人が不思議そうに首を傾げて、指を咥えて顔を上げた。視線の先には、背の高い木に登って悲鳴を上げている会社員の姿がある。
「助けて!」
背広姿で、革の鞄を口に咥えて震えていた。脅えていて、かなり気が立っている<ワシントン>が、木の幹に突進する。会社員がまた悲鳴を上げた。
「あー。あ〜?」
『何をそんなに怒っているんだ』というような仕草で、その人が<ワシントン>の尻を叩いた。
「ああー」
それは、『乱暴はやめなさい』というような意味合いだったのかもしれない。集まっていた野次馬のひとりが「ターザンだろうか」と呟く。しかしその人はジャングルの王者などではないから、やはり意思の疎通は成り立ってはいないようだ。
<ワシントン>が、矛先をこの生意気な闖入者へ向ける。太い前肢で地面を蹴り、土を巻き上げながら突撃した。
「ああ〜っ、何ということでしょう! 罪もないデュエル・アカデミア男子学生が、今まさに体重一トンの巨体に押し潰されようとしています! 我々市民は、危険な猛獣を展示するに相応しい責任感を持つべき動物園の、このようなずさんな管理を許しても良いのでしょうか! ちょっと、逃さず撮ってよ! スクープよ!」
ローカル局のリポーターが叫んだ。野次馬から悲鳴が上がる。その人はふと腕を突き出して、突進してきた<ワシントン>の立派な角に触った。
「あーっ」
気の抜けた声が唇から漏れる。
その人の細腕に放り投げられる形で、<ワシントン>は宙を舞っていた。落下の衝撃に、びっくりしたように瞬きをしている。尻餅をつく。
我に返ると、<ワシントン>は勝者に従う意思を見せた。その人の元で両肢を揃えて何度も頭を下げている。もう暴れることはないだろう。
「兄ちゃんスゲー! 侍だー!」
「アイキドーだ! 日本人の誇りはまだ死んでなかったんだーっ!」
野次馬が手を叩いて口笛を吹いた。木の上の会社員は地面へ降り、機動隊員は敬礼をした。飼育員も心の底から安心した表情だ。
「ありがとうございました。君は命の恩人だ。ぜひ、我が社からお礼がしたいのですが!」
「立派な学生だ。我々セキュリティから表彰状を出しましょう。君、名前は」
「本当に迷惑を掛けました。でも、君のおかげでワシントンが射殺されずに済んだよ。ありがとう」
「あー」
その人は賞賛の嵐の中にあって、また誰かに呼ばれたように、顔を上げて駆け出した。
「ま、待って下さい! 是非うちの娘の未来の婿に!」
「待ちたまえ! 君、将来セキュリティとして一緒にシティを守らないか!」
「ありがとうございました! このご恩はワシントン共々忘れません!」
その人は風のように駆けていく。
「待って! ガッチャ!」
「待てー!」
龍可と龍亞は、その馬鹿に足の速い人を追い駆けていく。
転がったボールを拾おうと道路へ飛び出した少女の元へ、大型トラックが走りこんでくる。母親が悲鳴を上げた。
「 アイミちゃん! 誰か、娘を助けて!」
まだ幼い少女の小さな身体が、あわや車体の下へ無惨に呑み込まれようとしたその時、デュエル・アカデミアの男子制服が、少女とトラックの間に飛び込んできた。
ブレーキが鳴り響くが、車の勢いは削がれない。衝突の瞬間、信じられないことが起きる。トラックの向かいから、まるで全く同じ勢いを持っていて、目には見えない幻のトラックが突っ込んできたように、いびつに車体がひしゃげる。大型トラックはスピンして、ガードレールに突っ込んだ。
「あー?」
その人が、少女の頭を撫でて微笑む。『大丈夫?』と言うように。少女も顔を上げて微笑んだ。
「ありがとう!」
少女の母親が、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。何とお礼を言っていいか……。あの、実は、うちの主人が半年前に亡くなってしまって、片親だけで娘も寂しがっているんです。だから貴方さえ良ければ、今度うちに夕飯を食べに来ませんか? 貴方の好きな手料理、何でも作ってお待ちしていますから」
母親は上気した頬で、その人の右手をそっと手のひらで包み込んだ。しかし、その人はまた忙しなく首を巡らして、何かに導かれるように駆けて行ってしまう。
「あ、お待ちになって! 人妻は……未亡人はお嫌いですか!」
「お兄ちゃん! アイミ、大きくなったらお嫁さんになってあげるから迎えにきてね。絶対よ!」
龍可と龍亞は、その人への未練を拭いきれないらしい母子の隣を走り抜けた。
「ま、待ってガッチャ!」
「なんか、変な流れになってるなぁ〜」
シティとサテライトが繋がって、もう長くなるが、貧しい暮らしに変わりはない者もいる。少年もその一人で、浮浪児と呼ばれて街の住民やセキュリティに厄介者扱いをされていた。
夢を抱くという事も、なんとなくおこがましいように思っているような子供だった。それでもカードを愛する心は人一倍持っているつもりでいる。
その日雇いの窓拭きの仕事についていた少年は、足を滑らせてゴンドラから落ち、ワイヤーで宙吊りになっていた。ポケットにいつも大事に仕舞っていたデッキは、高度百メートルの吹き曝しの窓枠に落っこちて散らばっている。風が強く、今にも街中へ飛ばされてしまいそうだった。
「た、助けて!」
身よりのない貧乏人など、誰もが見捨てるものだと思っていた。声すらも届かないと思っていた。
しかし、少年のような人間でも助けてくれる人はいた。デュエル・アカデミアの男子制服を着たその人は、どこからやってきたのか高度百メートルにあって、窓枠に蹲るようにして少年の腕を掴んでくれている。
引き上げられてもあまりの高さに目が眩んだ。しかし少年は宝物のデッキのことを思い出し、悲壮な顔つきになる。
「オレのデッキ!」
叫んだ。しかしこの不安定で危険な足場では、バランスを崩せば命を失う。少年には友人がいなかったから、誰とデュエルできる訳でもない。宝は、命と引き換えにする程のものでもないのかもしれない。そう思っていた矢先だった。
その人が、秋の半ばになっても穴の開いた半袖のシャツを着ている少年の肩に、校章が入った青い上着を掛けてくれた。
憧れのデュエル・アカデミアの制服を預かる。少年は、『夢を見ることを諦めるな』と言われた気がした。その人は少年を置いて、窓枠を伝ってまっすぐに歩いていく。
「あ、危ないッス!」
少年は叫んだが、その人は恐怖なんてどこにもないというふうに笑っていた。舞い散ったカードを拾い集めると、戻って少年にデッキを差し出した。
「んー」
「あ、あなたは。あなたには怖いものがないんですか」
少年は呆気に取られていた。その人は、良く分からないというふうに首を傾げた。
そこに強い風が吹いて、バランスを崩したその人は、窓枠から足を踏み外して真っ逆さまに墜落していく。
「あー?」
「あー!」
少年は悲鳴を上げた。高層ビルから見下ろすと、地上はミニチュアのようだ。こんな高みから落っこちて生きていられる人間がいるはずはない。
あの人は、誰も省みない自分が宝物にしているデッキのために、誇り高き命を散らしたのだ―― 。
それを理解した途端、少年は慟哭した。
「アニキ……! あんたはアニキだ。この上着、アニキのぬくもりがまだ残ってる。アニキ、安らかに……! オレ、いつかきっとアニキの弟分に相応しい決闘者になってみせますから!」
―― 少年は何も知らない。
その人は、気持ちが良さそうに風の中を木の葉のように舞っていたが、やがてパラシュートを広げるようにして、背中から一対の闇色の翼を広げた。滑空して地上に降りる。また駆け出す。
それをビルの空中回廊で眺めていた龍亞は、腕組みをして頷いた。
「いい話じゃない?」
「そ、そうね」
龍可も、何とも言えずに頷いた。
雑居ビルの屋上で、一人の女性が思い詰めた顔をして下方を見つめている。腹部が膨らんでいて、妊娠していることは一目で知れた。やがて決意をして、女性は手摺りの上から身を投げる。
ふと腕が伸びる。中階の踊り場の窓から、細身の青年が手を差し伸べ、空中で女性を抱き止めた。二人で踊り場に転がり込むと、命を救われた女性は、しかし声を裏返らせてその人をなじった。
「どうして助けたの!? 死のうと思っていたのに!」
「あ、あう」
その人は何故怒られているのか分からない様子で、「あう〜?」と首を傾げた。女性が、観念した様子で項垂れる。
「……分かっているんですね。飛び降りた瞬間に、誰か助けてって、死にたくないって、この子と生きたいって思ったこと」
「あー」
絶対に分かっていない表情で、その人は頷いた。女性は気付かずに続ける。
「この子の父親は降ろせって言うんです。でもどうしてもできなくて……いっそ一緒に死んでしまおうと思ったんです。でも、あなたみたいな人がいるなんて……」
女性がどこか清々しい表情で、その人の手を強く握った。信頼と恋慕を孕んだ声で続ける。
「私はもう迷いません。この子と共に生きていきます。ただその時に、愛しい人が傍にいてくれれば、どんなに心強いか。お願いです。どうかお腹の子の父親になってくれませんか?」
「あー?」
龍可は、ようやく追い付いたその人の身に降りかかっているとんでもない場面に、思わず非難の叫びを上げていた。
「ちょっと、ガッチャ!?」
「魔性の男だね、うん」
龍亞が分かったような顔をして頷いている。ガッチャは女性の恋する視線に気付きもせずに、開いた窓から身を躍らせた。窓の下には急な流れの川があり、昨日の雨で増水し、狂暴な姿を見せていた。水飛沫が上がる。女性が窓から身を乗り出して、半狂乱になって叫んだ。
「あなたー!!」
「『あなた』って何よ!? あの子は私の家族なんだから!」
思わずそう叫んでから、泣き崩れる女性を置いて、龍可は龍亞と一緒にビルの裏手に回った。
「ガッチャ! どこ? 無事なの!?」
はたして濁流の中に消えたはずのガッチャは、ぐしょ濡れの姿で橋の上にいた。胸には脅えきった老犬を抱いている。川の中で溺れていたところを助けたらしい。
「チャッピー! 良かった! 本当に何とお礼を言っていいか。ありがとうございます!」
向かい合っているのは、飼主と見える大学生位の男の人だった。誠実そうな顔立ちで、ガッチャから老チャッピーを受けて抱き締め、涙ぐんでいる。
「見ず知らずなのに、うちのチャッピーの為にそんなになってまで……あの、ボク、家が近いんです。せめてシャワーを浴びて行って下さい。服の替えも用意できますし、あ、じ、実家ですから! 変な下心なんかないですから。……あの、でも、お礼に食事でもどうですか? こ、こんな事を言うと不躾に聞こえてしまうかもしれないですが、あなたはボクの理想の女性だ。できればボクとつ、つ―― 付き合って下さい!」
「あー?」
龍可は頭を抱えた。
「……もう知らない」
「そう言えば、半分女の子だったんだよね。……なんていうか、すっごいね」
龍亞が感心したふうに言った。龍可は、悪魔族、と<レグルス>が不信の顔で吐き棄てた理由が、なんとなく理解できる気がした。
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