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龍可は咄嗟にガッチャの右腕を掴んでいた。龍可と一心同体の龍亞もまた、同じことを考えていたのだと思う。左腕を握っている。二人でヨハンを見上げて、口々に宣言をした。
「この子を連れては行かせない。この子、私と同じ。だから私、この子のママになってあげるって約束した」
「うん。ガッチャはオレの代わりに龍可を助けてくれたんだ。龍可の恩人はオレの恩人だ。相手がパパでも、このまま見過ごせないよ」
ヨハンは溜息を吐いた。手の掛かる子供達だと思ったのかもしれない。そう考えると、無力な子供だった頃を思い出して腹が立った。
「聞き分けてくれ、二人共。こいつは一緒には暮らせないんだよ。そういう身体なんだ。お前達の為なんだ」
「パパが私達の為に―― 今まで何をしてくれたっていうの!?」
龍可は叫んでいた。頭で考えるよりも、まず言葉が勝手に口から飛び出てきた。ずっと胸の奥に溜まっていたものが、限界を超えて吹き出してくる。
龍可は、普段は大人しくて物静かな女の子だと言われている。学校でも家でもそうだった。でも、一旦感情が爆発すると止まらなくなってしまう癖がある。その時の感情表現は、溜め込んだ分、いつも怒りたい時に怒って悔しい時に泣き喚く龍亞よりも苛烈だ。
ずっと一緒に生きてきた龍亞はそのことを良く知っている。今までもこれからも傍にいてくれないヨハンはきっと知らないだろう。
「パパは昔私が倒れた時、お見舞いにも来てくれなかった。ママもそう。ずっと面倒を見てくれたのは家庭教師の先生達だし、私を精霊世界から呼び戻してくれたのは龍亞。寂しい時、いつも一緒にいてくれた龍亞。一緒に戦ったのは仲間たち。パパもママも私達より、ううん、世界より仕事が大事」
ヨハンを挑むように見上げた。その人は眼鏡のガラス越しに、エメラルドの瞳で龍可を見つめ返してきている。何も言わない。龍可はそれを肯定と捉えた。
「……ほら。否定しない。できない。私達には、何もしてくれない親なんて必要ない。パパなんていらない。ママもいらない」
「あ、あう」
龍可とヨハンの間でおろおろしていたガッチャが、どうしてか、急に情けない表情になった。
少し前の遣り取りを思い出す。そう言えばこの不思議な怪物は、龍可と龍亞を、まるで母親が子供を慈しむように愛してくれる。自分の子供だと思っているみたいだと感じたことも、あながち間違っていないのかもしれない。
龍可も小さな頃は、可愛い顔をした女の子の人形を、自分の子供のように大切に胸に抱いていた記憶がある。きっと同じだ。そう思い当たると、この純粋で大きな赤ん坊がまた愛しくなって、体温の低い右手を握ってあげた。
「どうして泣きそうな顔してるの? あなたは何も悪くない」
「あ、あぁ〜……」
「この子を追い掛けてきていた人が言ってた。この子は造られた存在だって。それなら、あとどれくらい可哀想な<ガッチャ>はいるの? どれだけひどいことをされている子がいるの。パパもそんなひどいことを手伝っている人なの……?」
龍可はそこで言葉を切った。その先を続けることが恐ろしくなった。
あることを閃いたのだ。口の中が乾いていて気持ちが悪かったけれど、一度覚えた不安を無かったことにはできそうもない。ゆっくり言葉を繋げた。
「だから、パパへの罰で、パパの子供の私は化物になっちゃったの?」
「……だとしたら、俺が憎いか?」
ヨハンは否定をしなかった。
龍可の目の前の景色が、一瞬大きく傾いたようになった。世界そのものが傾いたんじゃないかと思った。
「る、龍可。大丈夫?」
違う。傾いているのは自分だ。
龍亞が背中を支えてくれて、龍可はそれを知った。
砂の入った袋で思いっきり殴られたような衝撃だった。まばたきをすると止めど無く涙が零れてきて、それが悔しかった。
『私は化物だ』と龍可はまた自分を理解する。実の父親のヨハンは否定をしなかった。自分の中でどれだけ薄い存在でも、父親のヨハンには化物だと思わたくなかったのだと、龍可は自分の心を知った。
渦を巻くように怒りが湧いてくる。あまりにもやり場がないから、龍可は滅多に上げない大声で叫んだ。
「―― パパなんて。パパもママも、大っ嫌い……!! ガッチャ! 来て!!」
ヨハンに背中を向けて駆け出した。顔も見たくなかった。
「お、おい龍可!」
龍亞が戸惑ったような声を上げて、振り向き、ヨハンを恨めしそうに睨んでから追い掛けてくる。
* * * * *
「あうう……」
怪物は途方に暮れた顔をしていた。その大いなる力を宿した存在を思うと、滑稽なことだと思う。リビング・ルームを飛び出した双子と、表情もなく立ち尽くすヨハンを何度も見比べている。
「あう。あうう〜……」
人間そのものの腕をヨハンへ伸ばし、エメラルドの髪を掻き混ぜるようにして頭を撫でる。ヨハンはまた、この怪物の性質に溜息を吐く。
「俺がお前を苦しめているんだぜ」
「ん〜っ」
怪物は爪先立ちになって、ヨハンと額をくっつけた。慰めているつもりなのだ。
「お前は優しい。問題ないさ、俺は」
「んんー」
怪物は『それなら良し』という顔で頷くと、踵を返して、ぶかぶかのパジャマの裾を翻らせてリビングを出て行った。双子の後を追い掛けて行ったのだろう。
「博士……」
「お前達には、迷惑を掛ける」
ヨハンを<博士>と呼ぶのは、かつて双子達の家庭教師を任されていた夫婦だ。彼らには子供が無く、龍亞と龍可を自分達の実子のように思ってくれている様子だった。
しかし情が湧き過ぎた。その為に、今はもう世話役の任を解かれて、ヨハンの部下としての通常業務に戻っている。
龍可の口からかつての事件が語られると、苦い心地がした。あの頃の龍亞と龍可はまだ三歳の幼児だった。それでも忘れてはいない。どれだけの年月を、両親を恨んで過ごしたのかと想像すると、いつも以上に無力な気持ちになった。
「もう十三年も前になるのか、あれは……」
あれから何も変わらない。奪われ続けるあの人も、窓に映る自分の姿も変わらず、世界は今なお絶望に満ちている。
* * * * *
今から十三年前のその時、通称<NEX>と呼ばれる精霊研究機関のラボラトリーにおいて、モニターに映し出されたサンプルの姿に、ヨハンは背中が粟立つような気がした。画面の前で操作パネルを弄っている、過去に妻の助手をやっていた男は、ヨハンがその少女の姿を凝視していることを知りながら、振り向かないままに口を開いた。
「―― ところで、博士の娘さんも随分と立派な異能児のようですね」
空々しい口調は、どこかすっとぼけている時の妻を思わせる。妻の十代は、アカデミア時代からその男の憧れの先輩だった。無意識にだろう、ふとした仕草が十代を真似ているようで、今は無性に腹が立った。
実験体となり得る異能児達の収集データリストには、ヨハンの娘の遊城龍可の名が並んでいる。あらゆる身体データからデュエル戦績、特異な性質などが調べ尽くされ、画像の右隣にテキストとして表示されていた。
「すごいなあ、彼女は。三歳でここまでデュエルに精通している。貴方の血か、母親の血かは分かりませんけど。確かなのは、彼女も母親のように良いサンプルになってくれるだろうという事ですね」
「お前は十代の部下じゃなかったのか?」
声が震えている。あの人の信頼を棄てる事ができる人間が存在するのが信じられない。それがこの男だということもまた、信じられなかった。
「なんであいつを裏切った! あいつはきっと、お前のことが好きだったのに!」
相手は視線を空に向けている。何も無い中空に書いてある台本を読むように、どこか芝居がかった口調で言った。
「愛は人を強くしてくれます」
明るく、天気の良い日の空のような声だ。十代がいつか『無駄に爽やかなところがヨハンみたいだ』と評していたことを思い出す。
「ただ、代償は支払われなければならない。強さと同時に致命的な弱みも生まれるんだということを、僕に教えてくれたのは他ならない十代先輩でした。好きだ、愛だなんて馬鹿馬鹿しいことだとね。僕は十代先輩に感謝しています。この研究で随分偉くなったものですから。貴方にはまだまだ及びませんが、博士」
椅子が軋んで回転した。振り向くと、肘置きに肘をついて顎の下で手を組み、映画でも鑑賞するようにヨハンを眺めている。
「娘さん、デュエル中に突然昏睡状態になったそうですよ。今もまだ目を覚まさないそうです。心配ですよねぇ。でも博士にはどうすることもできませんよね。あの双子の子供達との接触は厳重に禁じられているのだから。ま、会う方法が無いわけではありませんが」
特許級の良い思い付きだというふうに手を広げる。
「お子さんと奥さん、どちらか片方を諦めればいいんです。簡単なことだ」
「……そんなことはできない。三人共が俺の大切な家族だ」
ヨハンは、ガラス越しに見える変わり果てた妻の姿へ目をやった。子供部屋のような室内に隔離をされている。常時監視を行えるように、壁の一面は強化ガラス製だ。ただ十代にとっては、ヨハンの姿をいつでも見付けることができる部屋の性質は、監視という目的とは裏腹に安心できるものであるようだった。何故今になってもヨハンの姿を求め続けてくれるのだろう。良く分からない。
十代はこちらの話には興味が無いのか、または意味が分からないのか、今は画用紙に向かって夢中でクレヨンを走らせている。
「るーあ、るか……ヨハン、ユベル……」
幼児の心で、何度も愛する者達の名前を繰り返しながら絵を描いている。家族の絵だ。壊滅的にひどい絵だ。
大人びていて、時折老人のようにも見えたあの眼差しはもう無いが、幼いばかりの無邪気な双眸は、やはり優しいままだった。その人の本質なのだろう。
薬物がどこまでも十代を蝕み、浸蝕していく。知性は坂を転がり落ちるように衰えていく。ヨハンは知っていた。そのなけなしの心すら、この<世界の終わり>を無機物として取り扱いたい研究者達にとっては邪魔者でしかないのだ。
『I2社側の強い意向により』、何とか彼らの暴走を押し留めてはいるが、今もヨハンが見ていなければ、『本人の合意の上』に十代がどんな目に遭わせられるか分かったものではない。
まずは完全に心を砕かれ、従順な人形に変えられてしまうだろう。そうなればもう終わりだ。いつか家族四人でまた幸せに暮らせる日が来るかもしれないという希望は消える。
龍可。
今も目を覚まさないという双子の片割れの少女を思い浮かべる。<世界の終わり>が産み出した異端者として処分されようとしていた子供達は、今は監視対象としてただ『生かされている』状態だ。
傍にいてやれない。この場所を離れれば十代がどんな目に遭うか、良く理解をしていた。
しかし、親のいない子供がどれだけ寂しいものか、不安を抱いているものかという事もまた、ヨハンは自身を省みて誰よりも分かっていた。
せめて一目だけでも、死に纏わり付かれている娘に会いたいという想いを捨てきることができなかった。無事を確認するだけでも構わない。
コートを羽織り、フードを目深に被って施設を出た。シティタクシーをつかまえて、龍可が運び込まれたと報道されていた病院まで辿り付き、非常口から忍び込んだ。正直に玄関から訪ねても時間外だという理由で追い払われると思えたし、双子達への接触は最低限のものだと決められていた。幸い、夜勤の看護師の姿もない。
病室には目を覚まさない龍可と、龍可の手を握ったまま泣き疲れて眠っている龍亞の姿があった。
まだ三歳の龍亞は、幼いばかりなのに、既に自分が守るべきものが何なのかということをはっきりと理解している。備品の毛布を小さな兄の背中に掛けてやりながら、自分が情けなくてしょうがなかった。
「……龍可」
呼び掛けても返事はない。昏睡状態の少女の小さな手を握ると、生きているものとはまるで信じられない程に冷たかった。
「パパ」
ふと呼ばれて、驚いて振り向くが、そこには頬を湿らせたままの龍亞が寝息を立てている。寝言だ、と気付く。
「パパ、ママ……。龍可をまもれなくて、ごめんなさい」
まだ夢の中にあって、それが自分のひどい落ち度でもあるように、龍亞が呟いた。言葉が出てこない。
「……違うんだ。俺が守らなきゃならないのに――」
ただ、幼い息子の背中を抱き締めてやることしかできなかった。
「博士。時間です」
声を掛けられて、唇を噛んだ。部下の二人が心配そうな顔でヨハンを見下ろしてきていた。きっとひどい顔をしていたろうと思う。
「子供達は任せて下さい。博士は奥さんの傍に」
「……頼む」
そう言い置いてヨハンは立ち上がった。幼い双子の救いにさえなれない身が、あまりに無力だった。
ラボへ戻った頃には既に日付が変わっていた。静かで、廊下の照明は点灯したままだった。まだ誰かが仕事をしているのかもしれないし、夜行性の十代が起きていて、絵の続きを描いているのかもしれない。
隔離部屋の扉を開ける。ガラスに仕切られたスペースの中央に設置されたテーブルの上に、画用紙が一纏めにされていた。ヨハンを描いた絵は二枚あったが、どちらも破られている。
ベッドの上に、その人の姿はあった。
真鍮製のベッド枠には点滴装置が取り付けられている。プラスチックのバッグから、チューブを伝って薬液がゆっくりと落ちていく。
その薬品の名に思い当たると、血の気が引いていくのが分かった。駆け寄ろうとして、脚がもつれた。その人の細い腕に潜り込んでいる注射針を、引き千切るようにして抜き去る。しかし、バッグは既に空に近い。遅かったのだ。
「十代!?」
肩を抱いて顔を覗き込み、その白痴の表情に、背筋が凍り付き、痺れたような心地になった。十代がヨハンを認識して口を開く。
「……あぁ……あああー……」
隙間風が吹き抜けていくような、意味のない声だった。そこにはもう、何かを伝えようとする意志は感じ取れなかった。子供ですら、もう無かった。またいつもの悪い夢を見ているんだと思った。
「大分扱いやすくなったでしょう?」
背後から声を掛けられ、ヨハンは弾かれるようにして振り返った。
「何をした!? 十代に、俺の妻に何をしたんだ!!」 叫んで、食って掛かる。
「ご存知の通り、上からのお達しで。契約違反により、規定通り実験台への干渉をさせていただくとの事です。文句は言えませんよね?」
「………!!」
言える訳がない。十代を離れればこうなる事は分かっていたはずだ。
ただ、眠り続ける龍可と、独りぼっちで最愛の妹の目覚めを待ち続ける龍亞を放ってはおけなかった。一目だけでも顔を見たかった。
しかし、それで何ができただろう。子供達の心の支えになってやれるわけでもない。本当にただ見ていただけだ。何もしていない。十代はもう喋らない。
「せめて貴方がいないうちに、事を済ませておきました。感情に任せて行動されて、貴重な実験体を台無しにされても困りますから」
十代の唇の端から零れた涎が、顎を伝って落ちていった。瞳からは完全に光が消え、意味を成さないうめき声ばかりが漏れる。
ヨハンに出会わなければ、この人がここまで損なわれてしまう事は無かったはずだ。ヨハンを選ばなければ、今もまだどこかでまっすぐに走り続けていたはずだ。
二人が巡り合ったせいで、この人はきっと脚を切られてしまった。自由は奪い去られ、動くことすらできない。
震える手で、見慣れた白髪頭を撫でる。ふと昔の事を思い出した。それは今でも毎晩夢に見る程の、鮮烈な記憶だ。
人の世界にあって、人の想像を遥かに越えた生き物がいた。闇の力を統べる王として生まれ、特異な経緯で人を棄てた。魂の中に魂を取り込むという矛盾を当然とした。精霊世界に生きる存在を、人間世界へ招く扉のようでもあった。宇宙を包み込む大いなる闇は、人を棄ててもなお人であろうとする滑稽な生き物に傅いていた。
その人は、あまりに無害だった。
自身を削って人々に、精霊達に分け与えることを惜しまない。だから、寄ってたかって奪われても、満ち足りたように微笑んでいる。そんな人だった。
子供の頃に読んだ絵本に登場する天使のような人だった。
「オレ、皆と一緒にいたかった。でも、それももう赦されないみたいだ」
ある時、その人は言った。力が、存在が、世界の許容を超えて膨張し続けている。遊城十代という怪物の存在は、強い磁場を生んで次元に干渉を始めた。精霊と人間との共存を望む意志とは裏腹に、闇の力は着実に増していく。世界の形さえ変えようとしている。
「あの時みたいだな。ダークネスが出現した、あの時」
十代はそう言って、力なく笑った。彼は諦め掛けていた。ヨハンは諦めずに食い下がった。
「それならまた二人で戦おう。あの時みたいに俺達ならきっとやれるさ。皆も助けてくれる。お前のことが大好きな皆なら、きっと力になってくれる」
「そんなことじゃ解決にならないって、もう分かってるんだろ。ほんとは。ヨハン、オレが人間にも精霊にも望まれない存在だって」
十代の言葉に絶望は無かった。そのかわりに、希望もなかった。ただ事実を語っているだけだ。ヨハンも目に見えるものを信じないわけにはいかない。今の自分には、精霊や人間達の縋るような目が向けられている。そのことに気付いてもいた。
「ヨハンは人と精霊、どちらの世界も守る架け橋になる。宝玉獣達に出会った時からずっと追い求めてきた夢だろ。お前の夢を叶える存在になれたことがオレはたまらなく嬉しいんだ。こんなになっちまったけど、それでもまだオレは人を愛せるんだぜ。お前が教えてくれた。ありがとう」
強大な力を持ちながら、十代は決して誰も傷つけない存在だった。精霊であり、人間であり、ヨハンの夢そのものの人だったのだ。
精霊を救い、人間を救い、その架け橋になるために、その人を世界から隔離しようというのか。肉体を封じ、力を利用し、意思を破壊しようというのか。
「……俺の夢は、最愛の人間を利用して英雄になることだったのか?」
最後にヨハンは十代に尋ねた。
やるせなくなった。救われるべき世界などどこにもない。助けたかったのはたったひとつのはずだ。
十代は困った顔で頬を緩めた。全てを受け入れてしまった者の微笑みを浮かべている。
「犠牲じゃないさ。こんなオレの命で一番大切なものを救える。安いもんだろ?」
その人はいつものように軽やかに足を踏み出す。赤い靴が踊った。
「龍亞と龍可を。……守ってやってくれよな」
「待ってくれ」
「ごめんな」
「待ってくれ、十代!」
その人の背中を、子供の頃からずっと追い駆け続けていた。成長し、大人になって、やっと追い付いたと思っていた。それは幻想だったのか。
やがて痩せた背中は暗闇の中で小さくなって、光の粒となって消えた。
今でも毎晩その時の夢を見る。
空っぽの十代を抱いているヨハンに向けられたその男の言葉は、どこか恨めしげだった。
「貴方は英雄だ。今の貴方の地位はその礎がなければ無かった。僕の方が博士に聞きたいくらいですよ。『何故先輩を利用した。あの人は貴方の妻ではなかったのか』とね」
声は咎めるようにも聞こえた。十代を裏切った男に責められる理由は無いが、結局の所はヨハンも同罪なのだ。何も変わらない。十代は犠牲なんかじゃないと笑った。しかし、何もかもを奪い去られて空っぽになってしまった十代は、犠牲以外の何だというのだ。
「何故だ?」
答えなど、どこからも返って来ないことは知っていた。それでも言わずにはいられなかった。
「何故誰も十代を助けてはくれないんだ? こいつはヒーローなのに……!」
まるで怪物は倒されるのが当たり前だというふうに、誰も十代を省みない。かつて世界を何度も救った正義のヒーローを覚えている人間は、一体どこにいるのだろう。
「どれだけ十代に救われたと思っているんだ。十代がいなければ世界はもう終わっていた。その事を隣で戦っていた俺は誰よりも良く知っている。憧れのヒーロー遊城十代を誇りに思っている。どうして何も悪くない十代がこんな目に遭わなきゃならない……!?」
「博士、アンデルセン博士はもう少し賢い人間かと思っていました。あの聡明な十代先輩に選ばれたんですからね。博士、象が蟻の頭を撫でてやったらどうなります? 化物はどれだけ親切でも、悪意なんて無くても、誰かの害になってしまうんですよ」
「違う! 十代は、」
「それが悪魔なんです」
男の言葉は、忠告にも、勝ち誇っているようにも聞こえた。怒りで頭の中が沸騰しそうになった。
「出てってくれ!」
十代を抱き締めると、また空洞のような声で「あぁあ」と鳴いた。
「出てけよ。もう誰もこいつに触らないでくれ……!」
「―― 可哀想な人だ。何も知らずに……」
痛々しい傷痕を見るような目と憐れみの篭った声は、十代に向けられたものか、それともヨハンに向けられたものなのかは判別がつかなかった。もうどちらでも良かった。十代からは全てが奪われてしまっていた。
「俺のせいだよ。ごめんな……」
十代は理解していない。ただ手を伸ばして、確めるようにヨハンの頬に触った。華奢な体躯を抱き締めてやると、また隙間風のような声で鳴いた。
「あぁ」
「うん。怖かったな、もう大丈夫だから。もうこれ以上は何も奪われない。もう……残ってない。何も……」
言葉を無くした十代は、どこか無邪気にも見える仕草でヨハンの髪を梳いている。慰められているような気がした。
* * * * *
ヨハンにとって、そこはもう<家>という感じがしなかった。訪れるのは一年に数回程度だ。ホテルと変わらない。
しかし、十数年の歳月をここで過ごした龍亞と龍可にはそうではないのだろう。たとえがらんどうで、出迎えてくれる人もいない空虚な空間でも、二人にとってこの場所は確かに帰るべき場所ではあるのだろう。愛着を感じているのかどうかは別だ。
二人は今日は戻って来るだろうか。戻って来るかもしれないし、友人の家に泊まるのかもしれない。今更夜間外出を咎める気にもなれなかった。行き先の見当は付いている。自宅にいるよりは余程安全だろう。
今は使われることも無くなった部屋に、一台のグランドピアノが置いてある。久し振りに触れてみると、やはりきちんと定期調律が入っている。埃も積もっていない。ピアノに限らず、部屋全体が清潔で整っている。散らばったカードや、脱ぎっぱなしのジャージも想像がつかない。
この家の物は皆そうだ。誰かが知らないうちに調整をしている。住人達ですら調整の対象に入っている。
そんな窮屈な暮らしにもとうに慣れていたが、やはり昔過ごしていた古びたアパートメントの方が性に合っていた。自分の手が届く分だけの物を持っていた。少なくとも今よりは分相応という言葉を知っていた。
硬い椅子に腰掛け、鍵盤を叩いてみた。楽器に触れるのは何年ぶりだろう。最後の思い出の中では、十代はまだまともだった。
何年も昔に、ヨハンは鍵盤に指を置いたまま、壁にもたれて座り込んでいる十代に向かって言った。
「悲しい時に楽しい曲を弾くと、楽しい曲なのに悲しく聴こえて余計に辛くなる気がするんだ。悲しい時は悲しい曲を弾いて、思いきり悲しんで、明日からは笑っていよう。俺はそう思う」
弾いたのは<ムーンライト・ソナタ>だった。その曲が好きだったのは、いつか王子様が迎えに来てくれると本気で信じている夢見がちな少女のように、自分が<月>を待っていたせいだろうと思う。
<月>が貧乏な画家への慰めに様々な話を語り聴かせてくれるという旧い童話があった。幼い頃のヨハンにとって、語り部と自分は同一人物で、かつては夜空に<月>が浮かぶのを毎晩楽しみに待っていた。そしてあまりにも無口な天体に失望をしていた。
成長して知ったのだ。<月>は愛する人の化身だった。
「月光は死んだ太陽の光だけど、あの白い光が闇を照らすから、俺は大好きな夜を見ることができる」
普段にない程静かな十代を怪訝に思って振り向くと、不思議な色の瞳と目が合った。いつもは穏やかな鳶色の目に、今は僅かに金が混じりこんでいるようにも見えた。月の色だ。
「見惚れてた」
「何に?」
「お前に。オレもいいか?」
背凭れのない猫足のピアノ椅子を半分譲ってやると、ヨハンの隣に着いた十代が白い鍵盤に触れる。
「ピアノなんてどうしたんだよ?」
「ピアノは昔習ってた」
「知ってる。嫌いだったろ。女の子みたいで嫌だって、レッスンの前に駄々捏ねたりして」
「うるさいな。子供の頃の話だろ」
眉を顰めている。ヨハンから引き継いで、曲の途中でぶつ切れになっていた<ムーンライト・ソナタ>を弾き始めた。まるでヨハン自身が弾いているかのように、音の紡ぎ方や癖まで良く似ている。そのせいでヨハンの中に、自分はいつかどこかでこの遊城十代と一つの魂だったことがあるのかもしれないという幻想が訪れた。そんな空想を、ヨハンは幼い時から抱いて生きてきていた。
「ヨハンみたいに綺麗になれたらいいのに」
十代が指を止めて、突然そんなことを言い出した。ひとときの後、再び音楽が流れ始める。
「……らしくねぇ。忘れてくれ」
ふと夜空を向いた白い横顔が、やはりあの<一番親しい友達である月>のようだと思った。
―― また昔のことを思い出していた。
記憶の中で十代はあの頃の姿のまま笑っている。この世界で今もなお優しくあるのは思い出だけだ。それだけは何者にも奪われることのない楽園だった。
ヨハンの指は止まっている。鍵盤の上に水滴が零れた。泣いていることを理解したくはなかった。
泣いていいのは十代だ。ヨハンのせいで損なわれてしまった十代だけだ。歯を食いしばり、白衣の袖で目を擦った。
子供達は帰らない。今夜は戻る気配がない。がらんどうの家は静かだった。
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